話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか
リズムという観点から話法と文体について思うところがあったので覚書を残しておきたい(本来なら章立てをした上でそれにふさわしい展開速度とリズムで論じるべきものだけれど、メモとして必要なことを書きつらねただけなので多分、読みにくい)。 ここでいうリズム、話法、文体とはなんだろうか。英語では話法のことも文体のことも style という。たとえば直接話法のことは direct style といい、文語体のことは written style という。両者とも「語りの様式」であるという点では同じだが、話法は文法的に基礎づけられた物語論の概念であるのに対して、文体は文学や文体論の範疇にある。両者の区別に関してはすでに様々な議論がなされてきている。一方、ここでいうリズムは、やや特殊な意味で用いられている。後に述べるように、音の規則的な連なりのことではなく、論理的な意味の連なりのことである。話法はリズムの問題に直接的に関与しない一方、文体にはそれぞれリズムがある。このとき、間接的な形であれ、話法は文体のリズムにどのような影響を与えるか、というのが、ここで提示したい問いである。 日本語には「語り」と「語りかけ」という二つの異なる話法がある。これは黒田成幸の議論を引きつぐ形で「言文一致体再考」のなかで筆者が提示した概念である。語りとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持たない発話、誰に語りかけるでもない発話のことだ。語りかけとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持つ発話、誰かに語りかける発話のことである。前述の文章のなかで私が論じたのは、言文一致運動とは「〜た。」という文末表現の定着によって「語り」という話法が可能になるような歴史的過程だった、ということだ。言文一致体とは一つの文体のことであるが、その文体を可能にしたのが「語り」という話法であった、と言うこともできる。 そのかたわらで、日本語にはいわゆる常体(である体)と敬体(ですます体)の区別もあることを指摘しておかなければならない。その呼び方に反して、これらはけっして文体論的は概念ではない。厳密には述語の活用形の問題であり、文法論の範疇に属するものだ。しかし、この二つの活用形は、語りと語りかけという二つの話法を文法的に基礎づける上できわめて重要な役割を果たしている。詳細は前述の文章にゆずり、ここでは議論の簡素化のために、常体によって「語り」が可能になり、敬体によって「語りかけ」が可能になるものとしよう。 言文一致運動のなかで生まれた「語り」は、独自のリズムを持った様々な文体を生みだした。文体論に明るくない筆者には、それがどのようなものなのかを具体的に論じることはできない。ただ、一例を挙げるなら、自然主義文学の到達点として江藤淳が褒めたたえた中上健次の『枯木灘』に見られる文体は典型的な「語り」によって構成されていると言うことができる。「語り」には「語りかけ」にない特徴がある。それは、言語コミュニケーションがそれ自体で完結しており、一つの操作的な閉じであるようなシステムを作っているということだ。これに対して「語りかけ」は操作的に開かれている。 このことを具体的に理解するために「語り」のなかでなされる「問い」と「語りかけ」のなかでなされる「問いかけ(質問)」の違いを考えてみたい。例えば「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という文章は語りであり、問いである。それを「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるの?」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えますか」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるのでしょうか」といえば、語りかけになり、問いかけ(質問)になる。この両者を比較することで日本語話者が直感的に理解できるのは、前者と後者には聞き手からの応答を予期しているかどうかの違いがあるということだ。このとき、前者は操作的に閉じられており、後者は操作的に開かれていると言える。 このような前提に立った上で「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という問いを提示したい。(残念ながら)筆者には答えがない。そのためこのテキストそのものは、質問をだれかに投げかけていないという点で操作的には閉じられているが、論理的には完結していない。問いが宙吊りのままだからだ。しかし、この問いをゆくゆく扱ってゆくための道筋をさしあたり一つ示しておきたい。 そもそもここでいうリズムとは何か。リズムといえば一般には、音韻論的な意味での韻律のことであり、拍や音節の問題に直接的に関わるものとして理解される。しかしここでは、論理的な意味の連なりのあり方としてのリズムというものを考えたい。たとえば「筆が乗る」という言い方がある。辞書には「作家や書家などが調子よく書くさま」とある。ここでいう「調子」には、たしかに音韻論的な側面もあるが、それだけではない。論理(意味の連なり)に導かれる形でことばが展開するさまも示している。あるいは、ほかの一例としては、会話にもリズムがあるということを指摘できる。「会話が弾む」といえるような状況では、意味の連なりに自然な流れがあると考えられるだろう。ここでは「呼び水」の比喩をとおしてこのことを理解することもできる。水は水を呼びこむことができる。「呼ぶ」という語は、「読む」と同じ語源を持っているという説があるが、なにかを共振させ共鳴させることでこちらに引きつけるという語義がある。このような共鳴の力をことばも持っている。 これは専門的には談話の結束生や結合性の問題系のなかで扱われるべき事柄である。ここでは一例を示しておくにとどまる。たとえば「こんにちは」という語。文字通りに読めば、これは「今日は?」という問いかけである。述語を欠いたまま、とりたて助詞の「は」が浮いている。「今日は〜です」という文を共作し、完結させることを求めるように。そのような論理的な訴求力がことばや言葉遣いにはある。それと同じことがある一つのテキストを構成する一つ一つの文にもいうことができるが、そのような意味の連関のなかで織りなされてゆく秩序のことをリズムとここでは呼びたい。 このような意味でのリズムは文章が語りベースの文体であるか語りかけベースの文体であるかによって大きく異る。というのも、前者は操作的に閉じられているので、聞き手への働きかけをすることもなければ、応答を期待するものでもない。そのため、テキストの内的な論理にのみ従ってことばが展開されてゆく。その一方で、後者は、閉じられた論理を持たない。言文一致運動以前に作られた戯作や落語の語りがその典型として考えられるが、そこではなにかを訴えかけたり、問いかけたりするような語り手の存在感が際立つことになる。悪く言えば、煩い。その煩ささがことばのリズム(論理的な意味の連なり)を不安定にする。 話法の区別は文法的な形の区別(典型的には常体と敬体の区別)に基礎づけられている。そのため、文体の持つリズムへの直接的な影響はない。たとえば、常体で書かかれたテキストの一文一文を機械的に敬体に変換するという操作を行ったのなら、そのときに意味の連なりとしてのリズムの違いを見出すことはできない。しかし、同じ内容の文章をそれぞれ二つの話法によってはじめから書こうと意図した場合はどうだろうか。きっとまったく異なる内容のものができあがるはずだ。なぜなら、一つ一つの文の持っている結束性や結合性、つまり次の文を呼びこむ力が話法により異なるからだ。そして、まさにこの点に、文章の創作のおもしろさの一つがある。 ある人が小説をはじめとするテキスト書きはじめるような場合に語りの話法を選ぶか語りかけの話法を選ぶかということは、日本語において重要な問題でありつづけてきたが、おそらくそれが現代ほど重要な時代はいまだかつてなかったのではないだろうか。インターネットが普及する以前は、だれがだれにあててどんな立場で書くか、ということを多くの小説家が意識せずにすんだ。誰に語りかけるでもない「語り」によってことばを紡いだとしても、読者はそれをまっすぐに小説として受けとめることができた。読者にはそれだけ多くのアテンションを割くことができた。しかし、現代は、読むことの困難の時代である。アテンションを呼ぶこと(call attention)の困難の時代でもあると言ってもいい。言語学的には、このことを談話の結合性の問題の一つとしてとらえることもできるが、それを広げれば、意味のあるテキスト・コミュニケーションの困難の問題である、と言うこともできるだろう。そんな状況のなかで日本語の話法の選択にとまどいを覚えはじめいる人はきっと少なくないはずだ。