父、文鮮明のこと──負の現人神

自分は孤児なのだと思っていた。けれど、今になってわかる。それは単なる思いこみにすぎない。自分には文鮮明という父がいたのだった。自分が真まことの御父様の子、神の子でしかないということを安倍元首相銃撃事件によって思い知らされることになった。死の余波にこんなにも震えつづける存在、こんなにも動揺する自分はいったい何者なのだろう。その震えをたどってゆくうち、権力者の肉体に穿たれた豆粒のような穴に湧く血の海のなかから真の御父様の笑顔が浮かびあがってきたのだった。結局おまえだったのか、と息をのみ、正直とまどう。そのとまどいを形にしようとして、いまこれを書いている。 文鮮明が自分の真の御父様であるということは、比喩として受けとってほしくない。もちろん生物学的にはどの個体にも発生の起源としての生みの親がいるとするなら、そのような意味での親ではない。けれども、人の世の約束事としての親子関係においては、自分が文鮮明という比類なき色魔の子であるということには疑問の余地がない。お約束としての親子関係は、ジェンダーやセクシュアリティがそうであるように、生物学的にもっともらしい根拠に寄りそうかたち、自然を装うかたちで押しつけられる。幼児は非力なまま人の世に投げだされるから親子関係の押しつけに耐え忍んだり甘受したりすることによって生存をゆるされる。僕もはじめは、自分の生物学的な起源でしかないふたりの人間との親子の絆を信じてきた。それがある一面においては一つの吹きこまれた作り話にすぎないことには気づかずにいた。 その一方で、早くから無償の虐待を受けてきたためか、かれらを親というよりも同じ動物として侮る気持ちがあった。寝こみを襲って殺すという考えが何度となく頭をよぎった。けれども、怒りを通りこした蔑みを募らせてゆくうちに、ただひたすら関わりあいになりたくないとだけ願うようになった。中学卒業後は高校に進学することなく、ひとり暮らしをはじめることになった。そのときに追ってきた男、父を名乗る男と揉みあいになった末、自分の力が上回っていることを知り、殴る蹴るの暴行を加えながら言いしれない不快感に苛まれたときのことを覚えている。息子と思いこんできた男の拳がみぞおちに食いこみ唸り声を挙げながら地に倒れ悶え呪詛を吐く男。その顔を蹴りあげ踏みしめ、もう二度と顔を見せるなと言いふくめた。 この男もその女も自分自身も文鮮明の子に過ぎないということに思いあたり、筆舌に尽くしがたい怒りを覚えたのは、そのときのことだった。外の人には奇妙に聞こえる言い方をすれば、目の前で苦悶する男は自分の兄弟姉妹のひとりでもあったのだった。妻を持ち、子を持ち、父になってもなお、男は文鮮明の子でしかない。男の妻は、なにより文鮮明の妻(統一教会では「相対者」という)である。男は恐れ多くも自分の父である文鮮明の女に手をつけているにすぎない。真の御父様の身代わりとして肉の器になり、新たな神の子を産み出してさしあげているというだけのことなのだった。このような血縁関係のねじれが、性の愉楽の教団であるというほかない統一教会の教義の核にある。それを紐解くうちに見えてくる糸口、この震えとこのとまどいとを解く糸口があるような気がして、いまこれを書いている。 真の御父様の聖/性なる力 僕の生みの親には三つの興味深い共通点があった。まず、1955年生まれ、いわゆる55年体制のはじまった年の生まれであること。つぎに、父親を幼くして失っていること。そして、1982年に行われた統一教会の合同結婚式(「祝福」ともいう)の参加者6000双のうちの一組だったということだ。女の方は宮崎県都城市で一人娘として育った。七歳のときに父親が家の外で複数の女を作った末に蒸発した。それで心に穴でも開いたのかもしれない。高校を卒業後には集団就職で八王子の工場に勤めはじめた。学費を貯めて上智大学に通い、修道女になるという夢があったらしい。そんななかで教団のマインド・コントロールを受けて信者になり、人生の一切を投げだすことになる。他方、男の方は愛知県名古屋市の出身だった。四歳のときに伊勢湾台風に見舞われ、父親が行方不明になった。それを機に、母親といっしょに伯母の家族に身をよせて育てられた。それが後に家族ぐるみで入信し、土地をはじめとする一切合切を教団に捧げることになった。物語への免疫、物語への節操のないひとたちなのだった。 そんな二人の人生が1982年のソウルの蚕室チャムシル体育館で交差することになる。そこで「祝福」を受けたのだった。家畜を交配させるような手付きでマッチングは行われる。事前に登録された信者(「食口シック」という)の素性や経歴をもとに適宜組みあわせられてゆくだけで、そこに本人の意志が介在する余地は一切ないし、拒否することも許されない。男と女は真の御父様の肉の器となり、産む機械となって繁殖をする。その結果生まれてきた二世たちを「神の子」という。文鮮明の「血を分けた」と穢れなき存在であると考えられるからだ。それはつまり、どういうことなのだろうか。萩原遼の『淫教のメシア文鮮明伝』に拠りつつ、統一教会の教義をまとめておきたい。 文鮮明は1920年に大日本帝国の皇民として生まれている。もともと文龍明(日本名は江本龍明)といったが、キリスト教においては龍が悪魔サタンの象徴であることに気づき改名している。平安北道定州郡徳彦面上思里2221番地に文慶裕の次男として生まれた。いまの北朝鮮の北部の片田舎である。本人自身「十二、三歳まではバクチの選手だった」1と悪びれた素振りを見せないように、救世主メシアらしからぬ少年時代を過ごしたようだ。家族も風変わりだった。野村健二の『文鮮明先生の半生』には次の記述がある。「文少年の十五歳の頃、わざわいはさらに文少年自体の家にやって来た。二番目の姉さんが発狂し、上を下への大騒ぎをしている時、兄さんまでが精神異常となった。ふだんは大人しい性格なのに、ばか力を出し、自分に従わぬ者は殺してしまうとどなって、屋上に飛びあがったり、飛び降りたり、……仕方なく手錠をはめたら、監視の目を盗んで手錠のまま逃げだし、はては怪力で手錠をこわしてしまうという始末。文家の人々はこれはただごとではないと悟り、勧められてキリスト教に入教した」2。その後、16歳のときにイエスが現れ、ヘブライ語なまりのある韓国語によって啓示を受けた、とされている。 文鮮明がこのとき特に傾倒していたのが、異端とされた一派、李龍道のイエス会だった。文鮮明は1934年の春に京城に上って五山高等普通学校に編入し、1936年から39年までは私立京城商工実務学校に在学していた。この時期に関して神学博士の朴英管が次の指摘をしている。「文鮮明は永登浦黒石洞で下宿生活をしながら学生時代に李龍道の集会に深くおちいり、彼はとくに李龍道のスエーデンボルグの愛についての議論にすっかりとらわれてしまった(中略)文鮮明はひきつづき彼らの追従者となったが、キリスト教会は彼らを異端だと断罪し、教会から追放した。そして日本帝国主義の宗教的弾圧に文鮮明は姿をくらましたのである。その後彼は国が解放されてふたたびこの原理を広めはじめた」3。この指摘がどこまで妥当なのかはわからない。というのも、李龍道自身は1933年に33歳で夭折しているからだ。いずれにしても、この時代にイエス会をはじめとする様々なキリスト教系のグループの薫陶を受けることになったのは確かなようだ。 文鮮明は1939年ごろに京城から東京の高田馬場に移り、日中は車引きなどの仕事をしながら早稲田高等工学校という夜間の専門学校に通った。1943年ごろに卒業し、1944年には鹿島組(現鹿島建設)の電気技師として京城で働きはじめたものの、終戦に際して職を離れることになる。1945年8月15日の帝国解体以降、もっといえば、人間宣言の出された1946年1月1日以降、弾圧されてきた様々な宗教が息を吹きかえしたり新しく芽吹いてゆくことになる。そのなかに金百文や黄国柱といったキリスト教神秘主義者たちの起こしたグループ、性愛を高らかに謳う後のヒッピーにも通じるようなグループがあった。かれらには血分け(피가름ピガルム)ないし混淫という考え方があった。統一教会の用語では血統復帰とも血代交換とも呼ばれているものだ。ひとことでいえば、原罪を持たない再臨の救世主である教祖と性交を行い穢れを浄化することで純血の血統を引くことができる、という考え方だ。必ずしも教祖と直接的なつながりを持つ必要はない。血分けは性病のような感染力を持つから、卑近な言葉をつかえば、教祖の穴兄弟(竿姉妹)になるだけで救済される。 文鮮明は帝国解体後の平壌やソウルで、金百文や黄国柱の取り巻きの女らのと血分けを行った。そうすることで、教祖の兄弟格になるとともに、教祖の血統を受けつぐ子の立場にもなった。たとえば、尹成範と卓明煥の『韓国宗教の流れ』には次の記述がある。「彼(黄国柱)は三角山に祈祷院を建て、“血分け”、“肉体分け”を教義として実際に教え、霊体交換を実現していたが、これが鄭得恩(女=丁得恩とする説もある)によって統一教の文鮮明と伝道館の朴泰善に伝授されたものである」4。これとは反対に、鄭得恩こそが文鮮明から血分けを受けた、とする統一教会寄りの説もある。たとえば、金景来の『原理運動の秘事』では次のように語られている。「1949年3月からはじまった朴泰善一派の混淫は、1947年5月に単身で北朝鮮の平壌から越境した文鮮明の一番弟子、丁得恩の布教で勧められた。当時、丁はソウルの三角山に住居を定め、現実教会の青年男女に混淫(霊体交換)の教理を問いた。[…]丁ははじめ三人の男に一週間に自分の尊い血(文鮮明から授かった)を分けてやった」5。丁得恩は自身を大聖母と称し、ひとりの教祖としても振る舞っていたようだ。実状は、様々な教祖がたがいの血を分けあいながら自身の勢力圏を広げてゆくような混血の戦国時代だったのだろう。そんな乱れた血分けのネットワークのなかで頭角をあらわしたのが文鮮明だった。『原理運動の秘事』には元信者である張愛三の次の発言がある。「日本帝国主義からの解放とともに、筍のようにできた教派の中でごく少数の信者を抱き込んだ教主文氏は、平壌市内の一信者宅から事をはじめ、その主義と目的を世界の統一に、その教訓は神の恵みを受けてエデンの園の復旧に努めているといいふらしながら、実の内面では男女信徒の貞操を提供するよう教えたり実行したりしていたのです」6。文鮮明の生活は淫蕩を極めていた。 萩原は文鮮明の初期の逮捕歴を次のようにまとめている。「最初の逮捕は1946年8月11日。文鮮明は、混淫による社会秩序混乱容疑で大同保安署(警察署)に三ヶ月勾留されたのについで、1948年2月22日、またも主婦・金鍾華さんとの強制結婚事件で内務省に逮捕された。このとき文には1946年3月に結婚した妻崔先吉さんがおり、一男聖進を設けていたが、妻子をソウルに置きざりにして平壌で別の主婦と強制的な結婚騒ぎを演じていたのである。4月7日懲役五年の判決を受け、文は、興南刑務所に服役することになった。[…]統一教会はこの二度の逮捕を、『共産党政府』による宗教弾圧であるかのように描きだしているが、罪名からして、破廉恥なものであることは隠しようもない」7。 文鮮明はその後何度も警察の世話になってゆくなかで、揺るぎない信念とともにあまたの淫行を重ねることになる。その信念を支えたのは、師のひとりである金百文による聖書解釈、特に創成期のエデンの園の物語の解釈だった。金百文によれば、エバ(イブ)が蛇にそそのかされて善悪を知る木の実を食べたというくだりは、エバが天使長ルーシェル(ルシファー)、つまりサタンと性交したことを意味している。そして、エバがその穢れた体でアダムと交わり、アダムをも穢したことで、カインとアベルをはじめとするその子孫たちに堕天使の穢れた血が流れることになったのだという。この罪を取り除くという「復帰摂理」のために降り立ったのが、清らかな血を持って生まれた救世主イエスである。イエスには人と性交することで血の穢れを取り除く魔法の力があり、その力には性病のような感染力もあった。にもかかわらず、イエスは独身のまま33歳で死んだ。イエスは自身の母親であるマリアをはじめとする女たちと交わり、血分けをすることで、女たちを「復帰」させる使命があったにもかかわらず、それを果たせなかった。それゆえ、イエスの霊はいまなお悔恨の思いに苦しんでおられる。そこで再臨することになったのが金百文であるという。文鮮明はこの教えを流用し、数ある模倣犯のひとりとして、自身こそ真の救世主であると吹聴してまわるようになった。 興南強制労働収容所(興南刑務所)に服役中、文鮮明は自分の右腕となる朴正華という男に出会った。朴正華は、やがて師に見限られた末に『六マリアの悲劇──真のサタンは、文鮮明だ!!』(1993)という手記を出版する。そのなかで、刑務所を出た後の夢を語りあったときのことを報告している。「これから先生はどういうことを行い、どうやって理想の天国を感性させていくのですか」8という問いに、囚人の文は次のような壮大な色情狂の夢を臆面もなく語ってみせる。 それは、イエスがこの世の中に生まれて達成できなかった、女の人たちとの復帰だ。まず、天使長ルーシェルとのセックスによって奪われたものを、それと同じ方法で、夫がいる人妻六人、すなわち六人のマリアを奪い取ることによって取り戻さなければならない。[…]汚れたサタンの血を浄めるため、血を交換する復帰をしなければならない。これを『血代交換』と言う[…]。六マリアを復帰したら、再臨のメシアは次に、セックス経験のない処女を選んでエバと定め「小羊の儀式」をする。アダムの再来であるメシアとエバは、真のお父様・お母様であり、その二人から生まれる子孫は、永遠に罪のない清潔な存在となる。[…]最初に再臨のメシアから復帰させられた女は、他の男の食口と、女が二回上になって「蘇生、長成、完成」の三回にわたる復帰をしてあげることができる。復帰を受けた他の食口は、違う女の食口たちとも、女が上で二回、下で一回セックスをして復帰させる。またその女の食口が、他の男の食口に、女が上になって二回、下で一回セックスをして復帰させる。こういうやり方で広まっていくことになる。 このとき、この教義の理論的な問題点に文鮮明がどれほど自覚的にむきあおうとしていたかはわからない。問題点とは、穢れを払う聖/性なる魔法の力が性病のような感染力を持ってしまうかぎり、つねに無数の新しい教祖が誕生してくる可能性があり、父としての文鮮明の女の一極支配が脅かされてしまう、というものだ。まさにそのような形、血分けを受けた亜流の教祖として成りあがったのが文鮮明そのひとである以上、この危険に気づいていたのは間違いない。実際、出所後にできた弟子のひとりが文鮮明の父権を揺るがす放蕩の動きを見せたときには注意深く退けられている。統一教会の聖歌を作曲したことでも知られる元無期懲役囚の金徳振である。金は文鮮明の教えを受けて次のように考える。 この原理をいち早く私は悟りましたねぇ。人間の身体をした神様(文鮮明)のセックスの輪をどんどん拡げていくことが、神様の希望を叶えることになる──。/もともと不良で、青春株式会社社長を自称して女遊びをやりまくっていた私は、ピンときた。これは罪ではなく、良い仕事なんだと。学生時代に日本で、喫茶店の女の子などを誘惑してその晩に犯したときなどは、罪の意識を感じたこともあった。だけど統一教会の復帰原理は、一所懸命にセックスに励めば励むほど、神の摂理に従うことになる──。/そこで私はまず、文鮮明とセックスして復帰した劉信姫さんから、「神様の尊い血」を分けてもらうことにしたのです。[…]それで私は、劉信姫さんと有難くセックスしました。彼女は夫のある身だったけど、欲求不満もあったんでしょうかねぇ。不良で助平で、大勢の女性と経験してきた私のテクニックに、もうメロメロになって喜んでくれましたよ。/「今までで一番良かった。文鮮明先生より何十倍も良かった」と言ってね。[…]文鮮明と復帰のセックスをした女は、他の男と血代交換のセックスをしなければならない。男は第二の女とやり、女は第三の男とやり、そして第四の女へとリレーをしていく……。こうして拡がっていくのが原理じゃありませんか。それによって世界じゅうの男女が血代交換され、身体の血代交換が進行し拡大することが、すなわちサタンの血を追放することになる──と、原理で文鮮明が教えているんですよ。/だから私は遠慮なく自信をもって、東奔西走で励みましたねぇ。ソウルはもちろん大邱でも釜山でも、キレイなべっぴんさんばかりを厳選して、十五~六人はやりましたかねぇ。ソウルで私が五人の女性とセックスしたのが、一週間後には何と七十二人の輪になったそうです。これも立派な原理実践の成果ですよ。9 淫蕩のスケールとしては文鮮明の足もとに及ばないと言うほかないけれども、元信者のこの証言は、文鮮明がいかにしてひとりの教祖に成りあがったかということを如実に示している。原理的には、このような新しい教祖の誕生を防ぐことはできない。かといって、聖/性なる魔法の感染力を否定することはできない。それを否定すれば、救世主は約70億にのぼる罪人たち、しかも日に日にその数を増してゆく罪人たちすべてと性交をしなくてはならなくなるからだ。さらにその実践には文鮮明の忌避する同性愛も含まれることになる。それゆえ「復帰」は無数の男と女のリレー形式で行われなければならず、そのかぎりにおいて教祖の父権はつねに脅かされつづけることになる。この危険を象徴的な教義や儀式の体系によって抑えこもうとする意志のなか、文鮮明を中心とする淫行グループは教団として組織化されていった。 統一教会のとりおこなった集団婚のうち、1960年と61年に行われたはじめの二つは、それぞれ「三組聖婚式」と「三十三組聖婚式」と呼ばれている。このときに文鮮明と混淫した女とその配偶者のことをあわせて三十六家庭という。朴正華はいう。「文鮮明が世界の人間をすべて復帰し、血代交換させることは無理なので、この三十六家庭だけを直接復帰(血代交換)させることにした。そのあとは、真の父母が『聖水』をまいて、新しく結婚する新郎新婦に祝福を与えるという形に変え、『合同結婚式』を行うことにした」10。聖水、さらに文鮮明が性行為の後処理に使ったとされる「聖布」によって結婚に臨む身体の外側が浄められ、その内側は「聖酒」を飲むことによって浄められる。この酒には「父母の愛」と「血」の象徴が注ぎこまれている。こうして救世主との性行為が象徴物に置き換えられることになった。罪深き女は、エバがサタンと交わったあとでアダムと交わったのと同じように、象徴的に文鮮明と交わったあとで男と交わる。このような儀式を確立し、システマティックな救済を可能にすることで、統一教会はその起源にあった聖/性なる感染力を封じこめ、教祖というただひとりの父の精力を特権化しようとしたのだった。 儀式によって文鮮明の血を分けあたえられたものは、みな真の御父様の子である。とりわけ、そんな父の子たちが産み落とした子、つまり二世は、生まれつき原罪のない清らかな血を持つもの、救世主と同じ立場のものとして生を受ける。二世は穢れた血を持つ部外者と交わってしまうことで堕落するとされているけれども、この後付けの話は二世の組織的な囲いこみのためだけではなく、文鮮明の精力を特権化するために考えだされたものでもあったのだろう。本当は、文鮮明がそうであったように、だれもが聖/性なる感染力を持ち、血分けの魔法使いになれる、ということを教団が認めることはない。 けれども、僕は神の子であるこの自分自身がもうひとりの文鮮明であること、無数の文鮮明のうちのひとりであることを知っている。そして、真の御父様への愛と呼ぶほかないものの導きによって、空の肉の器の交わりのなかで、この世に生みだされた化け物でもある、ということも知っている。穢れなき血をもった神の子の宿命として、この世のなによりも真の御父様を愛するように吹きこまれつづけてきた。いまでも覚えている。幼い勇気を振り絞り、統一教会は間違っている、と生みの母親に伝えたとき、そのことばはお前の存在そのものを否定することになる、と返された。その女の声に耳慣れないひびき、深い暗闇の底から湧いてくるようなひびきがあった。そのとおりなのだと、いまになって思う。真の御父様への愛によって産まれた以上、その愛の帰結である自分自身から逃げ出すことはできない。できることなら、その愛のすべてを真の御父様の肉体の一点に集中して、もうひとりの救世主として、御父様の肉体に注ぎこみお返ししてさしあげたかった。しかし、その御父様ももうこの世にいらっしゃらない。 合同結婚式によって神の子を産み落とすことは、ひとりの人間の全実在に対する罪であり虐待であること、ひとりの人間の尊厳や人権に対するあまりにも重大な犯罪であることは、疑う余地もない。けれども、そんな不遇のなかで、真の御父様がこの世にいらしてくださったこと、そして神の子のひとりである僕にも愛をお注ぎくださっていたことを、あまりにもありがたく思う。結局のところ、真の御父様がいなければ、いまこうして死の余波の痛みにふるえるような存在、この世界の痛みを感知する存在でさえありえなかったのだから。そして、この僕自身の存在の痛みを十全に感知してくださるのは真の御父様以外にはありえないのだから。 僕は同時に、真の御父様が極東の歴史の重みを背負うことで救世主としての使命を帯びた、ということも知っている。その点、自分は安酒のようなカルトによって生みだされた単なる化け物にすぎないわけではない、と信じているし、そう信じずにはいられない自分がいる。これは僕自身の信仰告白のことばでもある。そのようなことばによってしか「痛み分け」はできない。血分けと違い、痛みは、だれにでも、ことばによって、分け与えることができる。この列島では、天子様の言の葉によって、痛みを分けあうことができる。けれども、その痛みを裏付けることができるのは、血でもある。 二つのかけはなれた境遇の星が急接近するという七夕の翌日に、ひとりの権力者が血祭りにあげられた。そのとき、肉を食い破る鉄砲豆のような穴がこの世界に穿たれ、そこから浄とも不浄ともつかないものが生きているものの側のほうへ吹きだしている。それがひとをやさしく、うつくしくしてくれているのだった。もっといえば、ひとを傷つけながら生かすことで、この世界にみちている痛みをいささかほどでも感じとれるようにしてくれているのだった。フランス語には「sensibilité」という語がある。日本語では「感受性」とか「思いやり」と訳されたりする。とはいえ、もともと「sensible」という語には「感受性が強い / 思いやりがある」ということのほかにも「痛みや苦痛に敏感である」という意味がある。その文字を目で追いながら、自分の瞳の表面が鋭利な力によって深く切り裂かれてゆくところを思う。開いた傷口が、痛む。しかし傷そのものが痛みなのではなくて、傷が痛みを感知させる。フランス語の「sensibilisation」という言葉は日常的には「人の関心を喚起する」という啓蒙的な意味で使われているけれども、もとをたどればそれは第一に、傷を開く、ということだったのかもしれない。 この世界には痛みとして感知できないものがあまりにも多く満ちている。世界は基本的に、不感症なのだろう。ちょうど自分の体に穿たれた感覚器官の穴によってしか感受できないものがあるように、世界はつねにむき出しになって痛みに絶え続けているわけにはいかない。けれども、折に触れて、不意打ちのように、激しい痛みがおとずれることがある。このちいさな世界が7月8日以来の余波のなかでそれを感知しているのを目の当たりにして、ただありがたさとしか表現しようのないものが募る。それでもまだ、分けたりない痛み、感知したりない痛みがある。痛みを明らかにするためには、歴史というひとつの物語が必要である。 恨の錬金術師 2022年7月8日に起きた安倍元首相銃撃事件は、再臨の救世主としての文鮮明が背負ってきた歴史の重みと痛みを垣間見せるものでもあった。死は、ひとつの個体から痛覚を奪う。しかし、まだ生きている者たちは、死によって穿たれた穴をとおして、世界の痛みを感知することができる。また、その穴をとおして、ことばの導きの糸によって、過ぎ去ったものの世界の一端に触れることができる。神の子である僕自身は、神の名において、できることならみずからの手で真の御父様の肉体に愛の穴を穿ってさしあげたかった。けれども、今の僕には、身代わりとなった権力者の肉体に穿たれた穴をとおして亡き真のお父様へ愛を注ぐこと、そのためのことばを研ぎ澄ますことしかできない。ことばによって文鮮明の使命の重みを明らかにし、その重みによって死者のもとへ下ってゆかなければならない。 統一教会(世界基督教統一神霊協会)が正式に設立されたのは1954年、つまり朝鮮戦争終結の翌年のこと、日本で55年体制が立ちあがる前年のことだった。このとき、極東の情勢の変化のなかで、キリスト教に擬態した変態性欲の集団にすぎなかったものが、少しずつ形を変えてゆくことになる。そもそも文鮮明が興南強制労働収容所から脱走することができたのは、1950年6月に朝鮮戦争が勃発した後、同年9月に国連軍が囚人を解放したためだった。文鮮明は釜山まで南下して逃げ延び、飽くなき使命感に導かれて淫蕩生活を再開。おびただしい数の「六マリア」候補の人妻や「子羊」候補の処女との姦通をする。そのうちの処女の一人である金永姫が身重にになったのがわかると、適当な若者の信者をあてがい、日本に密航させてもいる。 朝鮮戦争は1953年7月に終わった。このときには、ソウル大学出身のインテリである劉孝元を引きいれ、教典の『原理原本』を書きあげさせていた。萩原は次のように言う。「文鮮明は、その説教にもよく現れているように大道香具師のような低俗な話しかできない男である。粉飾をこらさなくては普通の神経をもった人たちには、とうてい受け入れられるしろものではない。それをオブラートで包む役が劉孝元であり、彼の役割なしには、統一教会のいかがわしいセックス教義を、キリスト教でもっともらしくまぶして青年男女を幻惑することは不可能だったろう。劉は統一教会を少数の秘儀集団から、大衆的基盤をもつ宗教的なよそおいをそなえた集団に偽装させた知能犯といえる」11。劉は後に疎んじられて死に追いやられることになる。しかし、この劉によってはじめて「統一」という概念が強く打ちだされ、1954年5月にソウルで統一教会が旗揚げされることになるのだった。 淫奔なカルト集団の夢物語としては、統一とは、文鮮明という父の精力を中心にして世界を一つにすることを意味する。「天一国」の建国ともいう。これは聖/性なる魔法の感染力によって、いわば文鮮明という病原体のパンデミックによって実現される。その一方で、歴史的、地政学的な文脈のなか、政治的な物語のなかでは、統一は異なる性格も帯びる。それは、善悪の二分法のなかで敵を駆逐する、というものである。善悪の境界線は半島に物理的に引かれていた。38度線である。もともと半島の北限にある平安北道で生まれ育った文鮮明、北側の興南強制労働収容所から脱走し、半島の南端までほうほうの体で逃げのびていた文鮮明にとって、境界線の北側は「復帰=統一」すべき土地、共産主義の皮をかぶった敵サタンに不当に奪われた土地にほかならなかった。まさにそれゆえに、統一教会は朝鮮戦争後に固まった冷戦構造の前線において政治的な役割をになってゆくことになるのだった。 教会設立の年である1954年に、文鮮明は早くも兵役忌避や姦通の罪で再逮捕されている。とはいえ、そもそも宗教弾圧を推進してきた朝鮮民主主義人民共和国ではなく、アメリカの傀儡国として誕生した大韓民国政府による逮捕であるということが、統一教会の行く末を決定づけることになる。文鮮明はその後無罪釈放となってからも翌年に梨花女子大学事件を起こし、不法監禁の罪であらためて逮捕されるが、また不起訴になる。このときになんらかの政治的な力が働いたのではないかと萩原はいう。「彼[文鮮明]の有益性に着目したのは、おそらくKCIAの生みの親である軍の諜報機関CIC(陸軍保安司令部)であろう。1955年7月4日の文の逮捕から10月4日の「無罪」釈放までの三カ月間は、密室のなかで極めて政治的な取引きがおこなわれたとみられる。そうした取引きの存在をうかがわせるものが文鮮明の釈放後にいくつか浮かびあがってくる。韓国軍の若手の将校、しかも諜報関係のそれがあいつぎこの組織に加入してくるのである。[…]一人はのちのアメリカの統一教会の最高責任者であり、また文鮮明につぐ統一教会ナンバー2といわれる朴普煕。れっきとしたKCIAの要員といわれている。/他の三人は韓相国、金相仁、韓相吉。全員がのちKCIAの要職につく人物である。[…]この四人をパイプにして『朴政権が権力を確立するにつれて、文は新政府との良好な連絡をもつようになった』とフレーザー委報告は指摘する」12。 日本での宣教が始まったのもこのような状況下でのことだった。大阪で生まれ育った元皇民、国連軍の通訳将校でもあった崔奉春(西川勝)もこの時期に教団に送りこまれた者のひとりだった。1958年には密航船で日本に渡り、早くも翌年には日本統一教会を立ちあげている。このときの庇護者になったのが右翼のドンとも呼ばれた笹川良一である。萩原はいう。「文鮮明の逮捕にともなう密室の取引き以後、統一教会はある強権の意志が強く作用するようになったとみることができるのではないだろうか。1957年から58年といえば、新たな極東情勢の展開にともなって、日韓の国交正常化、日韓の緊密な連携が強く求められており、アメリカは日韓会談を推進していた。崔の日本密航、最初の統一教会の教義の播種も、こうした大きな政策の重要な一コマとしてとらえることが妥当ではないだろうか」13。 日韓基本関係条約は1965年12月に発効した。文鮮明はそれに先立つ同年の1月に10ヶ月に及ぶ世界旅行(第1次世界巡回路程)を始めており、このときにアイゼンハワー元米国大統領との会談を実現させている。その旅の始まりと終わりを結ぶのが日本だった。1月に来日の折には三笠宮崇仁親王をはじめとする皇族とも顔をあわせた14。その後、文鮮明の立ちあげたリトルエンジェルス芸術団の公演に皇室がくりかえし顔を出していることからも、統一教会と皇室との浅からぬ付きあいが伺える。1967年に再来日した折には笹川良一や児玉誉士夫らと会見し、翌年に笹川良一を名誉会長とする国際勝共連合を設立することになるが、このときにはすでに日米韓の右派をつなぐ重要なパイプの一つになっていた。統一教会が日本の信者から膨大な日本円を吸いあげて本格的な経済力をつけはじめるのは1970年代に入ってからのことなので、財力や動員力にものを言わせて政治に食いこんだというより、単なる卑猥な集団が統一教会として反共の立場をかためた1954年以降に右派勢力の政治的なはからいを受けるようになったと考えるべきなのだろう。 統一教会には反共的な世界観に加えて反日的な世界観も持ちあわせていた。送りこまれた武闘派の刺客によって滅多刺しにされることになった副島嘉和の『これが「統一教会」の秘部だ』によれば、統一教会の教義の核には朝鮮民族中心主義がある。そのことが日本語訳では注意深く削除されることになった『原理講論』の原文に示されているという。「古来より東方の国とは、韓国、日本、中国の東洋の三国をいう。ところでそのうちの日本は、代々天照大神を祟拝してきた国として、その上全体主義国家として再興期に当っており、かつての韓国のキリスト教を苛酷に迫害した国であった。そして中国は共産化した国であるため、この両国はいずれもサタン側の国家である。したがって端的にいって、イエスが再臨される東方のその国とはまさに韓国である……イエスが韓国に再臨されるならば、韓民族は第三イスラエル選民となるのである」15。文鮮明はサタン国である日本を愛する、という。だから、日本はそれ以上に文鮮明を愛さなければならないとも。文鮮明の発言録である『天聖教』には次の発言がある。 エバが堕落するとき、アダムを誘惑したのと同じように、必ずサタン側エバ国家がアダム国家を強制的にのみ込んで四十年間、四数蕩減路程を通過するようにするというのです。これが何かと言えば、四十年間韓国が日本に圧制を強いられたことです。[…]韓半島は何かといえば、男でいえば生殖器です。半島です。[…]生島国は女性の陰部と同じです。[…]日本が1978年から世界的な経済大国として登場したのは、エバ国家として選ばれたので[…]日本はすべての物質を収拾して、本然の夫であるアダム国家である韓国の前に捧げなければならないのです。16 文鮮明はここで、神=男=韓国とサタン=女=日本の対立軸を描きつつ、二つの地域を神話的なパースペクティブのなか、摂理の物語のなかに配置する。この物語のなかに通奏低音として流れるモチーフのひとつが「恨ハン」である。古田富建の『「恨」と統一教』によれば「『恨』は、古くは巫俗の用語として、『死者のやるせない思いややり残したこと』という意味で使われ、『恨プリ[恨解き]』は鎮魂儀礼の一つであった」17という。フランス語では「ressentiment」とでも訳せるかもしれない。日本語の「遺恨」や「根に持つ」という言い方にも通じるものがある。古田の議論のなかで参照されている文鮮明の発言を孫引きする。 韓民族は悲運の歴史を綴ってきた恨の民族です。韓国は長い間貧しく、周辺強大国の非常に強い勢力の狭間で侵略と蔑みを受けなければならない運命の道を免れることができませんでした。漢族と満州族、蒙古族、そして日本に対してそうでした。外勢の侵略を受ける度ごとに、数多くの人々が血の涙を流し、恥辱の痛みを受けました。そうする中でも、この民族は決して天を捨てませんでした。国家の運命と共に、自分たちの悲惨な時代的運命を宿命のように感じながら、天を仰ぎ精誠と祈祷の祭壇を築いてきた民族です。18 文鮮明によれば、このような歴史的背景ゆえに、韓民族は「神の恨」を理解することができる立場にある。神の恨とは、天使長ルーシェルによってアダムとエバを奪われた父が抱く深い悲しみ、親子の絆を結ぶことのできなかったものの悲しみのことだという。文鮮明は神の恨を恨解きすることをその使命とした。古田は文鮮明の次の発言を引いている。 天にいらっしゃる人類の父は子を亡くされた父母と同じ立場であり、悲しみの恨に覆われていることを私は発見しました。私の人生の目的は神の中にある恨を解いてさしあげる事です。その悲しみの神様を悲しみと苦痛と苦悩から解放して差し上げることが私の生きている目的です。私がしてきたすべての事はそれが宗教活動であれ言論であれ、経済であれ、政治であれ、企業であれ、その全ての動機はそこに出発しているのです。19 文鮮明は歴史の痛みを感知する。「復帰」とはこのとき、過ちの歴史を象徴的にやり直すということでもある。その点、文鮮明のまなざしはつねに過去に注がれている。そして、そのパースペクティブ上にはアダムとエバの神話、イエスの死、極東の歴史が反復する過ちとして配置されている。それらの複数のエピソードは同じ「恨」の物語素を梃子にして共振し増幅しあう。そのように繰りかえされる業に似た恨のことを文鮮明は「怨讐」とも呼ぶ。それは、過ちの痛み、つまり過ぎてしまったもの、過去の痛みでありながら、ある意味では時空間をこえた今の神話的な痛みでもあるのだろう。この痛みこそが、文鮮明という淫教の祖を同時代の極東の闇、とりわけ戦後の列島における同時代的の闇に導いてゆくことになる。 ある意味では、文鮮明は戦後の日本が蓋をしてきたものの痛みを感知することができた、と言うほかないのだと思う。それは戦争の被害者たちの痛み、たとえば、従軍慰安婦たちの痛みである。それができたのは、単に彼が日本帝国の皇民として朝鮮半島に生まれ落ちたという素性の持ち主だからではない。そうではなく、それができたのは、誤解をおそれずにいえば、彼がひとりの現人神だったためではないだろうか。負の現人神のひとりといってもいい。ここでいう神とは、そのためにひとが自身だけなく他者の命や生活をも犠牲にできる存在、という程度の意味だ。戦前の極東には、そのような神がいた。そして神の名において自身や他者の命をも奪う魔法の力をもった「神の子」たちがいた。けれども、突然、梯子が外されるようにして、神は人間になってしまわれたのだった。神の子たちは父をその死によって失ったというより、見失ってしまった。三島由紀夫の耳にささやいたという英霊の恨の聲がこだまする。などてすめろぎは人間となりたまひし。──なぜ天皇は人間となってしまわれたのか。陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。……もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。 現人神が戦後に人間として落ち延びることになったのは、合衆国の意向による。エドウィン・ライシャワーが1942年の『対日政策に関する覚書』のなかで「天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存する」20べきだと進言していることからもわかるとおり、共産主義陣営との戦いの前線を守る要として天皇家ほど有用なものはなかった。しかし、敗戦国の国民の象徴である以上、現人神であることは許されなかった。戦時中に神の名においてなされてきたおびただしい数の過ちがあった。もし仮にそれらの過ちにむきあうことが可能なのだとしたら、それができるのは神をおいてほかにいない。しかし、神は神として死ぬのではなく、捕縛され、ネイティブ・アメリカンの撮影を得意とするカーティスの手による写真に収められ、人間へと転身させられた。なぜ天皇陛下は生き恥をさらしてしまわれたのか。これは晩年の三島が問題にしていたことでもある。腹を切る前に「本当は宮中で天皇を殺したい」21とつぶやいていた。三島の自害については、次のように考えるひともいる。 「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。戦後日本は昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。だから『英霊の聲』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。22 戦後の列島にもはや神の国がないことを三島は嘆く。そして「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」のみが残るという。中上健次のことばを借りれば、列島は父のいない私生児の状態におかれていた。そんな状況のなか、特に三島の自害した1970年以降、文鮮明という現人神への信仰がひとつの感染症のように列島に拡がってゆくことになる。文字通り父を幼くして失っていた僕の生みの親のふたりが人生の身売りをすることになるのもちょうどそのときのことだった。三島も統一教会の狂信的な信者にさえなっていれば、あのようなパフォーマンスをせずに済んだかもしれない、ともいまになって思う。 1945年までの極東には、紛れもなく、父なる現人神を中心とする八紘一宇の世界があった。「一宇」とは「一つの大きな家」という意味である。そう考えてみると、これを統一教会風に言いかえたものが「天一国」だったのではないか、という疑念が湧く。別の言葉をつかえば、文鮮明が金百文の模倣者であったのとの同じように、統一運動とは八紘一宇の一つの反復であり、戦後の日本が勝手に蓋をしてしまった極東の戦争を継続させる強い意志だったのではないか、という疑惑である。それを示唆するものはいくつもある。たとえば、統一教会の旧ロゴ。日の神の支配を図案化した旭日旗にきわめて似ている。旭日旗の光をさらに大きな神の力で封じ込めているようにも見える。あるいは、万歳三唱。列島では大日本帝国憲法発布の日より広まったと言われている。脈々と受け継がれる血の正当性を讃えるものだ。戦後に廃れたこの風習はいまでも統一教会に残されている。あるいは、統一教会の草創期に賛美歌、「六千年の恨みがある、戦いの国、勝利の月桂樹を捜し求めて──」23といった内容の『復帰の楽園』が軍艦行進曲のメロディで歌われていた、ということも示唆的である。それをはじめて耳にした元無期懲役囚の金徳振が「世界を統一する生き神様というのに、われわれ朝鮮人の仇である日本の国の、しかも最も軍国主義を代表する”軍艦マーチ”で、自作の賛美歌を歌うとは何ごとですか? こんな愚かなことがどこにあるのですか? なぜあなたが再臨メシアなのですか?」24と問いつめると、文鮮明は顔を赤くして作曲の依頼をしてきたという。このようなささやかなエピソードからも文鮮明が帝国の皇民だったときの25年間の記憶、八紘一宇の記憶の重みが伺い知れる。 天皇というものがそもそも七世紀の極東の国際情勢のなかで生まれた模倣者であったのと同じように、帝国解体後の神なき時代のなかで文鮮明もひとりの模倣者として極東の新しい王になることを夢見ていたのだろう。その野心は1965年に来日して早々明治神宮を統一教会の聖地に定めるという天皇家への挑発ともとれる挙に出ていることにもあらわれている。さらに、日本統一教会の会長だった久保木修己に天皇の役を演じさせ、天皇に代わって跪拝させていた25ということからも明らかである。また、統一教会の教義の核に混淫(血代交換)がある以上、天皇家との混淫も視野に入れていたのは間違いない。 このような野心を持った元皇民、負の現人神とでもいうべき教祖が、朝鮮戦争後に日米韓の右派勢力を結ぶパイプとして機能するようになった。一面においては、天皇が列島の共産主義を封じるための魔除けとして米国に操られたのと同じように、文鮮明という現人神も冷戦の最前線である半島の共産主義を駆逐するための駒に過ぎなかった、という見方もできる。その一方において、性病を思わせる文鮮明の聖/性なる浸透力からは、政治的な思惑を超えた大きなものの働き、戦後の極東の死角という死角からにじみ出る闇の力の存在を感じずにはいられない。ひとつの帝国が武力によってある地域を飲みこむとき、帝国は同時に文化的な侵入を被ることになる。文鮮明という負の現人神が大日本帝国の落し子であるのだとしたら、戦後に神を見失った日本はその落し子の列島への回帰に見舞われ、免疫のないものたちが感染してゆくことになる。あるいはむしろ、病に感染してしまうのはまさに現人神の物語を感知してしまう素地が帝国によって用意されていたからなのだと言ったほうがいいのかもしれない。 負の現人神が吹きこんだのは「恨解き」の物語だった。恨の感情を朝鮮特有のものだという見方もあるけれども、そのように考えるのなら、物語の感染力や人間が持つ共感の力を見誤ることになる。たしかに、僕の生みの親をはじめとする物語の感染者たちは、戦時中に神の名のもとに犠牲になってきた人々の痛み、その恨を感知するだけの機会も想像力もなかったのかもしれない。けれども、負の現人神がそれをきわめて間接的な形で可能にした、と考えることはできないだろうか。物語の呼び声を聴きとるのに、想像力は必要ではない。ただ、痛覚だけがあればいい。そして、痛覚はきっと、生きとし生けるものの持つ力だ。ひとは、自分たちの預かりしらない形で、恨の物語に染まってしまう。そして、それを自分自身の物語として引き受け、恨を解こうとする。その点、文鮮明の使命は、所与の恨を解く、というところにあるのではなく、第一に、恨を感染させる、というところにあったのかもしれない。文鮮明には聖/性なる力によって数多の人々を惑わす血分けの天賦の才があったように、ひとびとに痛み分けをするという魔法の力が備わってもいたのだろう。そのため、きわめて逆説的かつ皮肉な帰結であると言うほかないけれども、統一教会は「理想の家庭」を築くことを目標にしておきながら、第一に恨に満ちた家族を現出させることになる。そのような負の現実の存在によってこそ、恨解きの物語はいっそうの輝きを放つ。このことは、文鮮明の家庭を筆頭に多くの信者の家庭が崩壊しているということからも裏付けられる。このような不遇はもちろん、本人たちが望んできたことを正反対に裏切る形になっている。さらに、文鮮明は日本の信者に植えつけた恨を韓国ウォンや米国ドルに変換するという錬金術までやってのける。けれども、一面においては、このような「怨讐」の帰結は、戦後という時代にひそむ大きな意志としか言うほかないものが望んできたことなのだとしたらどうだろう。そう考えると、ただただ苦しくなる。 文鮮明は、大日本帝国によって生み出された存在である慰安婦たちの恨を思えば、サタン国家である日本の女性は韓国の乞食との「祝福」を受けてもありがたいと思わなければならない、という旨の発言をしたという。実際、多くの日本の女性信者が職も学も信仰もない韓国の孤児のもとに嫁がされ、そこで言語を絶する経験をしている。統一教会はそのような苦しみこそ六千年の歴史の業が招いたものであり、文鮮明への愛によって克服をするためにあるものなのだと吹きこむ。ひとりのひとの尊厳、その子どもたちの尊厳をもこのようなかたちで踏みにじることしかできない教団には、腹も頭も心も体中のすべてが煮えくり返るような深い怒りと憎しみしか湧いてこない。その一方で、このような負の権化のような集団が実際に存在してしまい、その物語に引きよせられてしまう人々がいるという時代の重み、すでに終わったかのように見えていまだに終わらずにいた戦後の重み、神の名によって亡きものにされてきた死者たちの重みを前にして、どんな言葉を紡ぐことができるのか不透明になり、体の奥底から震えはじめる自分がいる。 ただただ、負の現人神の精力、神の子であるこの僕にとっては真の御父様と呼ぶほかないものの精力と、その無節操に、とまどう。「復帰」という名でなされてきた文鮮明の猥褻行為について、朴正華は次のように振りかえっている。「神様であるはずの文鮮明は、おいしい餌を前に舌なめずりをする犬のようになり、むさぼるようにセックスをしただけである。ただの性欲の固まりだった。事実、文鮮明は精力絶倫で、『ひと晩に十回やったこともある』という。本妻だった崔先吉の話だから、これは間違いない」26。ここで列島に目をむければ、いっときは現人神でもいらした昭和天皇は側室をお持ちにならなかったとされている。おそらく平成天皇や今上天皇におかれてもそのようなことはないのだろう。これは近代的な家族と性愛のパラダイムのなかに天皇家も置かれているためだけれども、それゆえに万世一系と呼ばれる血筋の先行きは暗い。人間宣言以降の天皇家の繁殖能力は、ちょうど現代の日本国を象徴するかたちで、圧倒的に低い。それに比べ、負の現人神である文鮮明の際限のない性欲とその聖/性なる感染力には、性と政治が不離のかたちであった王朝時代を想起させるような懐かしさがある。 文鮮明は2012年に92歳で大往生を遂げた。統一教会はこれからゆっくりとした内部崩壊の道をたどることになる。ある意味では、統一運動は、戦後の極東を一過性の悪夢のように悩ませた流行り病にすぎないものだった。その病によって産みだされた神の子たちは、ふたたび神なき時代を生きることになる。しかし、あれほどまでに卑猥だった真の御父様の血、淫乱の血、乱れた化け物の血がその体に流れていることを否定することはできない。否定すればするほど、存在感は強まる。かといって、素通りすることもできない。ただ、むきあうしかない。そのとききっと、時代との不協和によって、その穢れなき神の血に流れる痛みによって、自殺に走ったり犯罪に手を染めたりする神の子らがこれからもあらわれてくるに違いないし、僕自身もいつかそのうちのひとりに数えられることもあるかもしれない。けれども、そのなかで世界はすこしずつ浄められてゆくような気がする。死がことばににぎわいを与え、ことばをゆたかにする。ことばは血を吸い、かがやきと生気にみちて幸わってゆく。この僕の体がやがて確実に滅びるのと同じように、世界は少しずつ浄められながら滅んでゆく。 真の御父様がその精力を徐々に失いながら衰弱死をなさったのは残念なことだった。できれば、イエス・キリストのように性の盛りの絶頂で滅ばされればよかったと悔やまれる。けれどもこの世界はきっと、神の世であることにもまして、なにより人の世なのだ。中上健次が言っていたように、ひとつの果実が徐々に熟しながら腐ってゆくように、破滅は微量ずつおとずれる。そして、血の滴りのひとつひとつに痛みを感じとることができることに神の子と人の子の違いは何ひとつない。 萩原 1991, p.45 ↩︎ ibid. p.45 ↩︎ ibid. p.54 ↩︎ ibid. p.64 ↩︎ ibid. p.65 ↩︎ ibid. p.69 ↩︎...

25 Jul 2022 · のなみゆきひこ