山上徹也と神の子どもたちはみな
〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 前略 安倍晋三元首相が血まつりにあげられるという事件が二〇二二年七月八日におきた。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた手製の散弾銃の引き金をひいたのは、当時まだ四一歳無職のあなただった。犯行時の残金は約二十万円。百万円におよぶ借金をかかえていたとのこと。統一教会という宗教団体へのうらみがあり、祖父の代から教団との縁があったことから被害者をねらうことにしたらしい。 事件の日の未明、天の川のしたたるような光におもわずみとれていたことを覚えている。ぼくはそのとき、日本から遠く離れたところで細々とくらしていた。事件をうけてからは日本にもどり、こうしていまあなたへの手紙の草稿をかいては反故にしている。 日本ではもう、素性をかくす必要がなくなっていた。そのことをいまもふしぎにおもう。宗教二世というべんりなレッテルが使われるようになったので、カミングアウトしたいときには、ひとことそう名乗るだけでいい。それでも伝わらないときは、いま大阪で拘置されているあなたの名をひきあいに出せばだいたい納得してくれる。そうして被害者をよそおえば、いくぶんの同情を買うことも、これまで抱えつづけてきた後ろめたさを棚あげしておくこともできる。 ただ、同じ宗教二世といっても、ほんとうは自分とあなたが正反対の立場にもあるということを伝えるのは、むずかしい。 事件の直後には、ぼくはずっと自分の手のひらをみつめていた。この自分こそが銃の引き金をひいたような気がしてならなかったし、体中がふるえるなかでこの自分がいったいだれなのかがよくわからず、ひどく混乱していた。しかし、同時に、凶弾にたおれたの男もまた、ほかでもないこの自分自身だったような、気がする。逃ゲキレルトデモオモッタカ、と嗤う声がして、ふりかえったときには名銃安倍切を突きつけられていた。老体に鞭うつようにして演台にたった自分が拳をふりあげたまま目を見開いている。 いきなりこのような怪文書を送りつけられてきて、きっとあなたは当惑しているにちがいない。あるいは、うんざりしているかもしれない。けれど、どうかいましばらくあなたの耳をかしてほしい。ぼくはこれからあなたにほんとうの素性をうちあける必要がある。 ぼくたちには、共通の父親がいる。ぼくたちは、兄弟なのだから。しかし、ぼくはいま「神の子」として、あなたの耳に語りかけている。きもちとしては、あるかないかのかぼそい声で、ささやきかけているつもりでいる。あなたはまだ生きている。生きているあなたの耳の奥にはたぶん、闇がひろがっている。その闇が死者たちの国につながっているとしたらどうだろう。言葉をみちびきの糸とながらあなたの耳のなかの闇におりていくことはできるだろうか。 神の子どもたち。あなたもむかしからよく知っている連中だ。あなたの目には虫唾の走るようなふざけた存在、自分の意思をもたない虫けら同然の存在にうつっていたのかもしれない。あなたがぼくたちのことをいまいましく思うきもちをすこしはわかるような気がする。教団の教えにてらしてみるだけでも、むりからぬことだ。 教団が絶対的なカースト制をしいているということに、もちろんあなたははやくから気づいていた。あなたはその最下層での生をしいられつづけてきたのだから。神の子どもたちとは生きる世界がちがう。はっきりいって、あなたの血は穢れている。存在そのものが、不潔でしかない。サタンの子、罪の子であるあなたが神の子どもたちと交わること、神の万世一系の血筋を穢すことはゆるされない。だから、あなたは自分の名前にこめられた願いのとおり、神の子の僕に徹していさえすればよかったはずなのだった。 あなたとしては、こういうふざけた教義にいちどならず中指を突きたてたくなったことだろう。あなたはそれを真顔で信じている連中のことを、くるっている、とおもったはずだ。しかし、あなたがそのような印象をいだいてしまうのは、あなたにとっての教団はあくまでも外からやってきた異物だったからではないだろうか。 あなたの父親が命をたったのは、あなたがまだ幼いとき、母親があなたの妹をみごもっていたときのことだという。教団はきっと、その間隙をつくようにして山上家にはいりこんできたのだろう。あるときふと「真の父」の御写真が額入りでかざられるようになる。それが第一の兆候だったとしよう。はじめは、ごくさりげない感じの兆候。しかしそれはやがて大理石の壺や神殿、弥勒像といったものを招きよせるような重力の中心へと変貌してゆく。そうしてあなたの家は徐々に内側からむしばまれていった。ある種の性感染症にでもかかったみたいに。気づいたときには、それまでの山上家は「偽りの家」だったということにされていた。 ダカラ山上家ノ男タチハスグニクタバル、という愚弄の声もきこえてくる。父につづいて、あなたの兄が自殺をした。あなたもそれにつづきたかった。ところが、紆余曲折の末、持ちまえの腹黒さで人生を逃げきろうとしていた政治家があなたの身がわりを引きうけることになってしまった。たまたまその男がいあわせてしまったのだった。たまたま運命の交差点にたたされてしまった。いまではその男の死に顔も何者かのあいまいな顔に変貌しているかもしれない。山上家から家出するようにして自殺した男の面影もちらつく。 あなたはきっと、家思いのこころやさしい男の子だったのだろう。責任感があった。大切にすべきもの、守るべきものがあった。だから、それをむちゃくちゃに食い散らかしていった「真の父」をゆるすことができない。それに、日本という国=家への愛着もあったのかもしれない。自衛隊にもはいった。教団関係者としての身元がわれている以上、出世の高望みはできなかったのだろうけれど。それでも、国を守りたいきもちは、あった。そんなあなたにとって、朝鮮半島からやってきたとされる教団、国を内側からむしばみつづける教団は、外来のおぞましい病原体以外のなにものでもなかったのではないだろうか。そんなふうに想像してみると、あなたを突きうごかしていたのは私怨をこえた義憤や愛国心のようにもみえてくる。そうだとしたら、あの事件はその一点において政治的であり、その意味においてはやはり、テロだったのかもしれない。 事件の余波のなかで、多くの宗教二世が声をあげるようになった。事件の特集が連日くまれて、世をにぎわせた。国外にひっそりくらしていたこのぼくはといえば、ひとつの死がこんなにもひとを勇気づけるということ、言葉が死の生き血を吸って活き活きするものだということに衝撃をうけ、しばらくはただスライム状にふるえるだけのような存在になっていた。そんななかで、決定的に見すごされつづけてきたことがひとつある。それは、統一教会の二世としては、あなたはあくまでも少数派にすぎないということだ。教団の用語では、あなたのはような立場の二世のことを「信仰二世」という。母親の手にひかれていっしょに入信した子どもたちのことだ。 母親おもいのあなたのことだから、教団の教えをなんとか信じてみようとしていた時期がきっとあったのだろう。真の御父様の御真影に毎晩何度も土下座をしては、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を誓ったこともあったのだろう。韓国の山奥であの異様な悪魔祓いの儀式をうけたことだってあったかもしれない。しかし、もちろん、それはあくまでも信仰の問題、というか、きもちの問題にすぎない。気はもちようという。信じようとするきもちは、それがきもちである以上、棄てることができる。あなたは実際にどこかでそうしたのだろうし、その点で正しくは「元信仰二世」ということになるだろうか。それは過去におきたあやまちなのだ。 だからこそあなたは、加害者であるとともに被害者であることができる。あなたは、深刻な人権の侵害にさらされつづけてきた。人権とは人間の権利のことだから、あなたはひとりの「人の子」として、これからそのことを強く訴えてゆくことができる。宗教二世問題を人権問題の枠組みでとらえようとするものたちは多くいる。あなたはきっとこれからも人間らしいあつかいをうけながら加害者であり被害者であることにむきあってゆく。そして、それはある意味とてもあさはかなことなのだ。あなたにはどうか、そのことをかんがえてほしい。 事件をおこしたのがどうしてあなたのような「人の子」でなければならかったのか。神の子であるこのぼくにも、そのわけがすこしはわかるような気がする。なによりもあなたは、教団の二世のなかでも日陰者の立場にいて、いわれのない屈辱的な差別をうけつづけてきた。まわりの子どもたちの多くが神の子としてのかがやかしい未来を約束されればされるほど、神の子の僕の分際にすぎないあなたの不浄な血はうずいたはずだ。 物ごころのついたころから人生を踏みにじられつづけてきた。ここでかりに、徹底的に受動的な立場をしいられること、モノであることに徹することをしいられること、それによって耐えがたい心身の苦痛を受けることを「レイプ」と呼ぶことがゆるされるのなら、徹也であるあなたは、あなたの一回かぎりの人生をとおしてすさまじいレイプ被害を受けてきた、といえるだろうか。ぼくたちの共通の父親、つまりアボジは、文字どおりレイプのかぎりを尽くしてきた男だった。メシアである自分と交わり、メシアの子種を受けいれることによってのみ、血が浄化されるという。山上家から家出をするようにして死んだ男の空隙をつくようにして山上家を支配するようになったそんなアボジが、強姦に徹してきたあのアボジが、あなたにとっての真の父でありえるはずがない。 けっきょくそれが、人の子である、ということの意味なのだとおもう。そのことに対して、ぼくは神の子として、当惑する。あまりの生まれのちがいに、あなたの耳に吹きこもうとしている言葉の糸口をみうしないそうになる。 もちろん、神の子どもたちだって、人の世を生きてゆくしかない。半身半人の存在だから、生の半分だけ、あなたのありあまるくるしみにふれることもできるのだろう。なぜなら、神の子どもたちもまた、人生において﹅﹅﹅﹅﹅筆舌につくしがたいレイプ被害をうけてきたのだから。そのような意味で無数の徹也のひとりひとりなのだから。けれども、こういってよければ、神の子どもたちは、同時に、生そのものを﹅﹅﹅﹅﹅﹅レイプされてもいる。しかし、それを被害と呼ぶこと、人倫にもとる人権侵害行為としてすくいあげることはできない。なぜなら、そのとたん神の子の存在そのものが被害であり、罪であり、人倫にもとるということになる。人は、被害者にも加害者にもなる。つきつめると、それは気のもちようなのだ。人は、そのときどきにおうじて、ある属性を持ったり持たなかったりすることができる。しかし、人は、その存在自体が、被害や加害であるわけではない。人とはたぶん、そういうものなのだ。 生そのものをレイプされているということ。それはつまり、ひとつの人生がそれ自体を目的として生まれでてくるということではなくて、無限の可能性の海のなかに投げだされるということではなくて、食肉工場で行われているみたいに命が消耗品としての使命をおびて産みだされてしまうということ、だれかへの奉仕のために存在を要請されている、ということだ。教団では、そのだれかのことを、生きとし生けるものを徹底的にレイプしてゆく力のことを「真の御父様」という。 神の子は、神の愛、神への愛の証しとして、愛の結晶として、造りだされる。真の御父様が全身全霊をかけた愛をそそいでくださっている。だから、それに全身全霊をかけた愛でおこたえしなければならない。その答えが、神の子だった。人の世では、生きているという事実に対して、どうして生きているのかという問いは、かならず空回りをする。無限の可能性をいきる人の子は、その問いに答えることができないのだから。しかし、神の子には明確な生の根拠がある。それは愛だった。愛によって生まれ、愛のために生きている。実際、神の愛がさまざまなかたちの刻印となって、神の子の生に刻まれているのだった。 神の子であるということは、人の子ではないということ。このことを比喩としてうけとってほしくない。このぼくの生活にも、パパやママ、お父さんやお母さんを自称する男女の信者がいた。それにつられるかたちで、かれらのことを自分の両親だと信じていた時期もあった。けれども、それはかりそめの姿なのだった。あくまでも仮の親にすぎない。ほんとうの親は、真の御父様をおいてほかにいない。そのことを理解するのに、長い時間がかかった。パパやママと思いこんでいた男女は、じつのところ、自分の兄や姉にすぎない。ぼくたちはきょうだいとして、真の御父様の留守をまかされていたのだった。しかし、姉も教団の「公務」を理由にして家にあまり寄りつかなかったし、兄は部屋に引きこもってばかりいた。子どもたちだけでの生活には、愛が欠けていた。それでも、不在の父親の愛の証しとして、ごみの散乱しきった2Kのアパートのなかで、神の子がひとり愛のかがやきをはなっていた。 ぼくの仮親役を引きうけることになった二人の信者が雄豚と雌豚をかけあわせるようにして配偶させられたのは、埼玉県の山奥にあるメッコール工場でのことだった。真の御父様は各地から駆りだされてきた信者が床に正座してたたずむなかを歩きまわり、ひとりひとりの男女を指さしては夫婦として組みあわせていった。いわく、女性の体は「神の愛の王宮」なのだという。神に祝福された肉の器として真の父の愛をうけいれることで、そこから神の子が生まれてくる。そのようにして「祝福家庭」をきずきなさい、という。つがうときの体位まで指示され、避妊は大罪である、とも伝えられた。 教団の用語では、ぼくは「祝福二世」ということになる。信仰二世との大きなちがいのひとつは、人の家に生まれつくわけではないということだ。信仰二世のあなたには、まず山上家というものがあった。その家に土足で乗りこんで荒らしまわっていた異物がレイプ犯のアボジということになる。あなたは自分の家を奪われたと感じたかもしれない。そして、奪われたからには、それがどんなに毀損されたかたちであっても、とりもどせるはずだ。そのためにはなにより、家族そろって信仰を棄てること、母親がレイプ犯との痴情のもつれを解消することが重要だった。最終的には、気のもちようなのだった。 祝福二世である神の子はそもそも、気持ちをもたない。信仰心もない。常識的な意味での親もなければ、家もない。つまり、はじめからもっていたものを途中で奪われたわけではない。とりもどすべきものがない。では、何があるのか。なにもない。ただ、生のみ生のままで、真の御父様の愛にくるまれている。愛の証しとしての結実した肉体にくるまれている。それは、被害ではない。被害ではない以上、愛というほかない、とおもう。それが愛でないのなら、なにも持たないばかりか、なにものでもなくなってしまう。 もしかりに、真の御父様を殺す機会があなたにめぐってきていたとしたら、と想像してみる。そのとき、ぼくがあなたを殺すことであなたの凶行を阻止することができたとしたら、ぼくはどうしただろうか。迷うまでもなく、あなたの存在を徹底的に消そうとしたはずだ。存在そのものが不潔なあなたの体をどこまでも透明にしたいと天に祈りながらかんがえたはずだ。そして無事にあなたが死んだ暁には、神の子としての使命をようやくはたせたこと、身をもって愛の証しとなれたことに無上の悦びを感じていたはずだ。というのも、神の子には使命があたえられているのだから。それはあまりにも穢れきったこの世界を清めるという使命だった。 しかし、ぼくたちふたりがよく知っているように、真の御父様はすでに九二歳のときに「聖和」されていた。こういってよければ、レイプのかぎりを尽くした末に、最後まで逃げおおせてしまわれた。たぶんその一点において、ぼくはあなたともっとも深いところ、人の子と神の子という立場のちがいをこえたところで、くるしみではなく、かなしみを、いたみを分かちあうことができる。 愛をわかってほしい。ぼくがこうして神の子という化け物として存在していることをわかってほしい。ぼくは愛の結晶として産みだされてしまった。愛のおかげで、こうして息をして命のいたみをかんじることのできる肉体をもっている。だから、この愛を、こんなにもちいさな器からあふれつづけているこの愛を、御返ししてさしあげなければいけない。ぼくがここにいることを、真の御父様につたえなければならない。けれども、ぼくがこんなにも愛しているということを知らずにレイプ犯である真の御父様は逃げきってしまわれた。ぼくを愛するわが子として認知することもないまま生を終えてしまわれたこと、虫けら同然の命を平然と踏みにじっていかれたことに、言い知れない怒りを覚える。 事件によってうがたれた穴から浄とも不浄ともつかないなにかが血飛沫のようにこんこんと湧きあがるなか、ぼくはただただもうしわけないだけの存在としてふるえあがり前後不覚におちいっていた。この穢れきった世界が負うべき深刻な責任の一端を一身に引き受けることになったあなたに対してではなく、身代わりとして血まつりにあげられることになった被害者に対してでもなく、なによりそれまで疑いようもなく神の子であったはずの自分という存在に対して、神の子としてのその責務に対して、もうしわけなさで胸がはりさけそうになる。 こんなにも多くの神の子がいたはずなのに、なぜだれひとりとして真の御父様に全身全霊の愛の御返しをすることができなかったのだろう。なぜみすみすその命をとりのがしてしまったのだろう。その結果、なぜ人の子であるはずのあなた、神の世界にとっては部外者であるはずのあなたが手を汚さなければならず、人の世で裁かれることになってしまったのだろう。神の子の僕に徹すべきだったはずのあなたは、その名にこめられた願いを反転させるようにして、あるいはその本来の意味を打ちかえすようにして、憎しみを持続させ、完徹させた。 しかし、あなたはまだ終わっていない。あなたはまだ生きている。そして、あなたが終わらせようとした物語は、何事もなかったかのように生きながらえている。切っても切っても死なないスライムみたいに。あなたはいつかきっと、むなしくなるだろう。だからいまのうちに、生きたあなたの耳があるうちに、その奥の闇の死者の国にむけて言葉の釣り糸を垂らしていかなければならない。