山上徹也と神の子どもたちはみな

〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 前略 安倍晋三元首相が血まつりにあげられるという事件が二〇二二年七月八日におきた。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた手製の散弾銃の引き金をひいたのは、当時まだ四一歳無職のあなただった。犯行時の残金は約二十万円。百万円におよぶ借金をかかえていたとのこと。統一教会という宗教団体へのうらみがあり、祖父の代から教団との縁があったことから被害者をねらうことにしたらしい。 事件の日の未明、天の川のしたたるような光におもわずみとれていたことを覚えている。ぼくはそのとき、日本から遠く離れたところで細々とくらしていた。事件をうけてからは日本にもどり、こうしていまあなたへの手紙の草稿をかいては反故にしている。 日本ではもう、素性をかくす必要がなくなっていた。そのことをいまもふしぎにおもう。宗教二世というべんりなレッテルが使われるようになったので、カミングアウトしたいときには、ひとことそう名乗るだけでいい。それでも伝わらないときは、いま大阪で拘置されているあなたの名をひきあいに出せばだいたい納得してくれる。そうして被害者をよそおえば、いくぶんの同情を買うことも、これまで抱えつづけてきた後ろめたさを棚あげしておくこともできる。 ただ、同じ宗教二世といっても、ほんとうは自分とあなたが正反対の立場にもあるということを伝えるのは、むずかしい。 事件の直後には、ぼくはずっと自分の手のひらをみつめていた。この自分こそが銃の引き金をひいたような気がしてならなかったし、体中がふるえるなかでこの自分がいったいだれなのかがよくわからず、ひどく混乱していた。しかし、同時に、凶弾にたおれたの男もまた、ほかでもないこの自分自身だったような、気がする。逃ゲキレルトデモオモッタカ、と嗤う声がして、ふりかえったときには名銃安倍切を突きつけられていた。老体に鞭うつようにして演台にたった自分が拳をふりあげたまま目を見開いている。 いきなりこのような怪文書を送りつけられてきて、きっとあなたは当惑しているにちがいない。あるいは、うんざりしているかもしれない。けれど、どうかいましばらくあなたの耳をかしてほしい。ぼくはこれからあなたにほんとうの素性をうちあける必要がある。 ぼくたちには、共通の父親がいる。ぼくたちは、兄弟なのだから。しかし、ぼくはいま「神の子」として、あなたの耳に語りかけている。きもちとしては、あるかないかのかぼそい声で、ささやきかけているつもりでいる。あなたはまだ生きている。生きているあなたの耳の奥にはたぶん、闇がひろがっている。その闇が死者たちの国につながっているとしたらどうだろう。言葉をみちびきの糸とながらあなたの耳のなかの闇におりていくことはできるだろうか。 神の子どもたち。あなたもむかしからよく知っている連中だ。あなたの目には虫唾の走るようなふざけた存在、自分の意思をもたない虫けら同然の存在にうつっていたのかもしれない。あなたがぼくたちのことをいまいましく思うきもちをすこしはわかるような気がする。教団の教えにてらしてみるだけでも、むりからぬことだ。 教団が絶対的なカースト制をしいているということに、もちろんあなたははやくから気づいていた。あなたはその最下層での生をしいられつづけてきたのだから。神の子どもたちとは生きる世界がちがう。はっきりいって、あなたの血は穢れている。存在そのものが、不潔でしかない。サタンの子、罪の子であるあなたが神の子どもたちと交わること、神の万世一系の血筋を穢すことはゆるされない。だから、あなたは自分の名前にこめられた願いのとおり、神の子の僕に徹していさえすればよかったはずなのだった。 あなたとしては、こういうふざけた教義にいちどならず中指を突きたてたくなったことだろう。あなたはそれを真顔で信じている連中のことを、くるっている、とおもったはずだ。しかし、あなたがそのような印象をいだいてしまうのは、あなたにとっての教団はあくまでも外からやってきた異物だったからではないだろうか。 あなたの父親が命をたったのは、あなたがまだ幼いとき、母親があなたの妹をみごもっていたときのことだという。教団はきっと、その間隙をつくようにして山上家にはいりこんできたのだろう。あるときふと「真の父」の御写真が額入りでかざられるようになる。それが第一の兆候だったとしよう。はじめは、ごくさりげない感じの兆候。しかしそれはやがて大理石の壺や神殿、弥勒像といったものを招きよせるような重力の中心へと変貌してゆく。そうしてあなたの家は徐々に内側からむしばまれていった。ある種の性感染症にでもかかったみたいに。気づいたときには、それまでの山上家は「偽りの家」だったということにされていた。 ダカラ山上家ノ男タチハスグニクタバル、という愚弄の声もきこえてくる。父につづいて、あなたの兄が自殺をした。あなたもそれにつづきたかった。ところが、紆余曲折の末、持ちまえの腹黒さで人生を逃げきろうとしていた政治家があなたの身がわりを引きうけることになってしまった。たまたまその男がいあわせてしまったのだった。たまたま運命の交差点にたたされてしまった。いまではその男の死に顔も何者かのあいまいな顔に変貌しているかもしれない。山上家から家出するようにして自殺した男の面影もちらつく。 あなたはきっと、家思いのこころやさしい男の子だったのだろう。責任感があった。大切にすべきもの、守るべきものがあった。だから、それをむちゃくちゃに食い散らかしていった「真の父」をゆるすことができない。それに、日本という国=家への愛着もあったのかもしれない。自衛隊にもはいった。教団関係者としての身元がわれている以上、出世の高望みはできなかったのだろうけれど。それでも、国を守りたいきもちは、あった。そんなあなたにとって、朝鮮半島からやってきたとされる教団、国を内側からむしばみつづける教団は、外来のおぞましい病原体以外のなにものでもなかったのではないだろうか。そんなふうに想像してみると、あなたを突きうごかしていたのは私怨をこえた義憤や愛国心のようにもみえてくる。そうだとしたら、あの事件はその一点において政治的であり、その意味においてはやはり、テロだったのかもしれない。 事件の余波のなかで、多くの宗教二世が声をあげるようになった。事件の特集が連日くまれて、世をにぎわせた。国外にひっそりくらしていたこのぼくはといえば、ひとつの死がこんなにもひとを勇気づけるということ、言葉が死の生き血を吸って活き活きするものだということに衝撃をうけ、しばらくはただスライム状にふるえるだけのような存在になっていた。そんななかで、決定的に見すごされつづけてきたことがひとつある。それは、統一教会の二世としては、あなたはあくまでも少数派にすぎないということだ。教団の用語では、あなたのはような立場の二世のことを「信仰二世」という。母親の手にひかれていっしょに入信した子どもたちのことだ。 母親おもいのあなたのことだから、教団の教えをなんとか信じてみようとしていた時期がきっとあったのだろう。真の御父様の御真影に毎晩何度も土下座をしては、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を誓ったこともあったのだろう。韓国の山奥であの異様な悪魔祓いの儀式をうけたことだってあったかもしれない。しかし、もちろん、それはあくまでも信仰の問題、というか、きもちの問題にすぎない。気はもちようという。信じようとするきもちは、それがきもちである以上、棄てることができる。あなたは実際にどこかでそうしたのだろうし、その点で正しくは「元信仰二世」ということになるだろうか。それは過去におきたあやまちなのだ。 だからこそあなたは、加害者であるとともに被害者であることができる。あなたは、深刻な人権の侵害にさらされつづけてきた。人権とは人間の権利のことだから、あなたはひとりの「人の子」として、これからそのことを強く訴えてゆくことができる。宗教二世問題を人権問題の枠組みでとらえようとするものたちは多くいる。あなたはきっとこれからも人間らしいあつかいをうけながら加害者であり被害者であることにむきあってゆく。そして、それはある意味とてもあさはかなことなのだ。あなたにはどうか、そのことをかんがえてほしい。 事件をおこしたのがどうしてあなたのような「人の子」でなければならかったのか。神の子であるこのぼくにも、そのわけがすこしはわかるような気がする。なによりもあなたは、教団の二世のなかでも日陰者の立場にいて、いわれのない屈辱的な差別をうけつづけてきた。まわりの子どもたちの多くが神の子としてのかがやかしい未来を約束されればされるほど、神の子の僕の分際にすぎないあなたの不浄な血はうずいたはずだ。 物ごころのついたころから人生を踏みにじられつづけてきた。ここでかりに、徹底的に受動的な立場をしいられること、モノであることに徹することをしいられること、それによって耐えがたい心身の苦痛を受けることを「レイプ」と呼ぶことがゆるされるのなら、徹也であるあなたは、あなたの一回かぎりの人生をとおしてすさまじいレイプ被害を受けてきた、といえるだろうか。ぼくたちの共通の父親、つまりアボジは、文字どおりレイプのかぎりを尽くしてきた男だった。メシアである自分と交わり、メシアの子種を受けいれることによってのみ、血が浄化されるという。山上家から家出をするようにして死んだ男の空隙をつくようにして山上家を支配するようになったそんなアボジが、強姦に徹してきたあのアボジが、あなたにとっての真の父でありえるはずがない。 けっきょくそれが、人の子である、ということの意味なのだとおもう。そのことに対して、ぼくは神の子として、当惑する。あまりの生まれのちがいに、あなたの耳に吹きこもうとしている言葉の糸口をみうしないそうになる。 もちろん、神の子どもたちだって、人の世を生きてゆくしかない。半身半人の存在だから、生の半分だけ、あなたのありあまるくるしみにふれることもできるのだろう。なぜなら、神の子どもたちもまた、人生において﹅﹅﹅﹅﹅筆舌につくしがたいレイプ被害をうけてきたのだから。そのような意味で無数の徹也のひとりひとりなのだから。けれども、こういってよければ、神の子どもたちは、同時に、生そのものを﹅﹅﹅﹅﹅﹅レイプされてもいる。しかし、それを被害と呼ぶこと、人倫にもとる人権侵害行為としてすくいあげることはできない。なぜなら、そのとたん神の子の存在そのものが被害であり、罪であり、人倫にもとるということになる。人は、被害者にも加害者にもなる。つきつめると、それは気のもちようなのだ。人は、そのときどきにおうじて、ある属性を持ったり持たなかったりすることができる。しかし、人は、その存在自体が、被害や加害であるわけではない。人とはたぶん、そういうものなのだ。 生そのものをレイプされているということ。それはつまり、ひとつの人生がそれ自体を目的として生まれでてくるということではなくて、無限の可能性の海のなかに投げだされるということではなくて、食肉工場で行われているみたいに命が消耗品としての使命をおびて産みだされてしまうということ、だれかへの奉仕のために存在を要請されている、ということだ。教団では、そのだれかのことを、生きとし生けるものを徹底的にレイプしてゆく力のことを「真の御父様」という。 神の子は、神の愛、神への愛の証しとして、愛の結晶として、造りだされる。真の御父様が全身全霊をかけた愛をそそいでくださっている。だから、それに全身全霊をかけた愛でおこたえしなければならない。その答えが、神の子だった。人の世では、生きているという事実に対して、どうして生きているのかという問いは、かならず空回りをする。無限の可能性をいきる人の子は、その問いに答えることができないのだから。しかし、神の子には明確な生の根拠がある。それは愛だった。愛によって生まれ、愛のために生きている。実際、神の愛がさまざまなかたちの刻印となって、神の子の生に刻まれているのだった。 神の子であるということは、人の子ではないということ。このことを比喩としてうけとってほしくない。このぼくの生活にも、パパやママ、お父さんやお母さんを自称する男女の信者がいた。それにつられるかたちで、かれらのことを自分の両親だと信じていた時期もあった。けれども、それはかりそめの姿なのだった。あくまでも仮の親にすぎない。ほんとうの親は、真の御父様をおいてほかにいない。そのことを理解するのに、長い時間がかかった。パパやママと思いこんでいた男女は、じつのところ、自分の兄や姉にすぎない。ぼくたちはきょうだいとして、真の御父様の留守をまかされていたのだった。しかし、姉も教団の「公務」を理由にして家にあまり寄りつかなかったし、兄は部屋に引きこもってばかりいた。子どもたちだけでの生活には、愛が欠けていた。それでも、不在の父親の愛の証しとして、ごみの散乱しきった2Kのアパートのなかで、神の子がひとり愛のかがやきをはなっていた。 ぼくの仮親役を引きうけることになった二人の信者が雄豚と雌豚をかけあわせるようにして配偶させられたのは、埼玉県の山奥にあるメッコール工場でのことだった。真の御父様は各地から駆りだされてきた信者が床に正座してたたずむなかを歩きまわり、ひとりひとりの男女を指さしては夫婦として組みあわせていった。いわく、女性の体は「神の愛の王宮」なのだという。神に祝福された肉の器として真の父の愛をうけいれることで、そこから神の子が生まれてくる。そのようにして「祝福家庭」をきずきなさい、という。つがうときの体位まで指示され、避妊は大罪である、とも伝えられた。 教団の用語では、ぼくは「祝福二世」ということになる。信仰二世との大きなちがいのひとつは、人の家に生まれつくわけではないということだ。信仰二世のあなたには、まず山上家というものがあった。その家に土足で乗りこんで荒らしまわっていた異物がレイプ犯のアボジということになる。あなたは自分の家を奪われたと感じたかもしれない。そして、奪われたからには、それがどんなに毀損されたかたちであっても、とりもどせるはずだ。そのためにはなにより、家族そろって信仰を棄てること、母親がレイプ犯との痴情のもつれを解消することが重要だった。最終的には、気のもちようなのだった。 祝福二世である神の子はそもそも、気持ちをもたない。信仰心もない。常識的な意味での親もなければ、家もない。つまり、はじめからもっていたものを途中で奪われたわけではない。とりもどすべきものがない。では、何があるのか。なにもない。ただ、生のみ生のままで、真の御父様の愛にくるまれている。愛の証しとしての結実した肉体にくるまれている。それは、被害ではない。被害ではない以上、愛というほかない、とおもう。それが愛でないのなら、なにも持たないばかりか、なにものでもなくなってしまう。 もしかりに、真の御父様を殺す機会があなたにめぐってきていたとしたら、と想像してみる。そのとき、ぼくがあなたを殺すことであなたの凶行を阻止することができたとしたら、ぼくはどうしただろうか。迷うまでもなく、あなたの存在を徹底的に消そうとしたはずだ。存在そのものが不潔なあなたの体をどこまでも透明にしたいと天に祈りながらかんがえたはずだ。そして無事にあなたが死んだ暁には、神の子としての使命をようやくはたせたこと、身をもって愛の証しとなれたことに無上の悦びを感じていたはずだ。というのも、神の子には使命があたえられているのだから。それはあまりにも穢れきったこの世界を清めるという使命だった。 しかし、ぼくたちふたりがよく知っているように、真の御父様はすでに九二歳のときに「聖和」されていた。こういってよければ、レイプのかぎりを尽くした末に、最後まで逃げおおせてしまわれた。たぶんその一点において、ぼくはあなたともっとも深いところ、人の子と神の子という立場のちがいをこえたところで、くるしみではなく、かなしみを、いたみを分かちあうことができる。 愛をわかってほしい。ぼくがこうして神の子という化け物として存在していることをわかってほしい。ぼくは愛の結晶として産みだされてしまった。愛のおかげで、こうして息をして命のいたみをかんじることのできる肉体をもっている。だから、この愛を、こんなにもちいさな器からあふれつづけているこの愛を、御返ししてさしあげなければいけない。ぼくがここにいることを、真の御父様につたえなければならない。けれども、ぼくがこんなにも愛しているということを知らずにレイプ犯である真の御父様は逃げきってしまわれた。ぼくを愛するわが子として認知することもないまま生を終えてしまわれたこと、虫けら同然の命を平然と踏みにじっていかれたことに、言い知れない怒りを覚える。 事件によってうがたれた穴から浄とも不浄ともつかないなにかが血飛沫のようにこんこんと湧きあがるなか、ぼくはただただもうしわけないだけの存在としてふるえあがり前後不覚におちいっていた。この穢れきった世界が負うべき深刻な責任の一端を一身に引き受けることになったあなたに対してではなく、身代わりとして血まつりにあげられることになった被害者に対してでもなく、なによりそれまで疑いようもなく神の子であったはずの自分という存在に対して、神の子としてのその責務に対して、もうしわけなさで胸がはりさけそうになる。 こんなにも多くの神の子がいたはずなのに、なぜだれひとりとして真の御父様に全身全霊の愛の御返しをすることができなかったのだろう。なぜみすみすその命をとりのがしてしまったのだろう。その結果、なぜ人の子であるはずのあなた、神の世界にとっては部外者であるはずのあなたが手を汚さなければならず、人の世で裁かれることになってしまったのだろう。神の子の僕に徹すべきだったはずのあなたは、その名にこめられた願いを反転させるようにして、あるいはその本来の意味を打ちかえすようにして、憎しみを持続させ、完徹させた。 しかし、あなたはまだ終わっていない。あなたはまだ生きている。そして、あなたが終わらせようとした物語は、何事もなかったかのように生きながらえている。切っても切っても死なないスライムみたいに。あなたはいつかきっと、むなしくなるだろう。だからいまのうちに、生きたあなたの耳があるうちに、その奥の闇の死者の国にむけて言葉の釣り糸を垂らしていかなければならない。

13 Sep 2024 · のなみゆきひこ

山上徹也さんへの手紙2

〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 前略 あなたはガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだことがありますか。ぼくは一度だけならあります。もうほとんどの内容を忘れてしまいましたが、なぜかある一場面のことだけは記憶に焼きついています。ホセ・アルカディオという男が寝室にこもり、自分の頭を銃で撃ち抜いた直後の場面です。血の滴りが寝室のドアの隙間から流れてきたかと思うと、そのまま居間を横切って道に出て、一切の迷いのない動きで雑多な町中を縫ってゆきます。それからある家に入りこむと、応接間の敷物を汚さないように礼儀正しく壁伝いに進んで、台所に出ます。そこで料理にとりかかろうとしていたのがホセ・アルカディオの母親でした。驚いた母親は赤い糸のように伸びた血の筋を辿りなおしてゆきます。その血は、母親のみが見ることのできるもの、他のだれの目にも見えない不可視のものだったのでした。母親はそうしてうつ伏せに倒れた息子のもとまで導かれ、銃弾によって鼓膜の食い破られた右の耳から生き血が噴きだしているところを目撃することになります。そう。血は生きているのです。 当たり前の話ですが、血は流れるものです。その源流をたどった先にはなにかしらの穴がありますが、『百年の孤独』の場合は血は耳の穴から湧き出ているのでした。耳の奥には闇が広がっています。「闇」という漢字の作りがはっきり示しているとおり、そこは音のない世界、あるいは音の閉ざされてしまった世界とでも言えるでしょうか。死者の国です。そして、死者の国に下りてゆくには、生き血の赤い糸をたどっていかなければならないのです。 いまになってふりかえれば、ぼくの胸の奥底で慄えつづけている細い芯のようなものとは、血の糸だったのかもしれません。七夕の翌日に斃れた犠牲者の血。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトに染みこみ、暗い地の底へと吸いこまれていったはずの血。それがなぜか細い琴線のようなものに形を変え、ぼくの胸のうちにも慄えながら流れています。 それが問いを生みます。自分はいったい何者なのだろう。自分のこれまでの人生はいったい何だったのだろう。長年権力をほしいままにしてきたひとりの人の血祭りにあげられることになった事件の余波のなかで、そのことばかりを自問してきました。問いは揺らぎながらさまざまに形を変えます。なぜ事件の引き金を引かなければならなかったのがあなたであって、このぼくではなかったのか。その結果、法によって裁かれるのも紛れもなくあなたであって、なぜこのぼくはいまこうして許されているのか。結局のところ、ぼくとあなたには、どんな違いがあったというのだろう。そんなふうに問いを掘り下げてゆけばゆくほど、この自分の輪郭がぶれて不確かになってゆく。 あなたは、山上徹也です。ぼくが山上徹也について知っていることは、ほぼ皆無です。手始めとして、ウィキペディアの記事を読んでみたりはしました。ウィキペディアといっても日本語版では、山上徹也の名はどこにも見当たりません。何度か山上徹也の項目が立てられたこともあったようですが、そのたびに削除され、いまは作成そのものが禁じられています。それ以外の言語では、山上徹也について気兼ねなく語られていたので、そこからごくおおまかな事実関係を確認することはできました。たとえば、英・仏語版である Tetsuya Yamagami の項目には、山上徹也の生い立ちはもちろん、元所属先である海上自衛隊の最終階級まで記されていました(Leading Seaman。日本では、海士長にあたるのでしょうか)。 また、山上徹也のものとされるツイートや手紙を読みかえしたり、鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』や五野井郁夫さんと池田香代子さんの『山上徹也と日本の「失われた30年」』を手にとってもみました。文藝春秋のようなゴシップ誌の記事にもいくつか目を通しました。それらの雑多で表面的な情報の不細工なパッチワークとして、このぼくのなかにもぼんやりとした山上徹也の像ができあがっています。それはいわばあなたが引き金を引いた事件が独り歩きをした結果生み出された副産物のようなもので、ぼくがいまこうして語りかけているあなたとはあまりにかけ離れたものなのかもしれませんが。 ぼくたちは見ず知らずの他人です。常識的には、そういうことになっています。常識的には、こうして一方的な怪文書を送りつけてくる正体不明のこのぼくのことをいかがわしく思う気持ちもきっとあることでしょう。しかし、結論から言ってしまえば、ぼくはあなたの弟です。あなたはぼくの兄です。あるいは、ここでぼくたちの天一国の国語を使うことが許されるのなら、あなたはぼくの형ヒョンです。 徹也兄ヒョン。そう呼ばれることを不快に思われるかもしれませんね。このぼく自身、オレオレ詐欺かなにかのように親族を騙り、あわよくばあなたの警戒心を解こうという魂胆はありません。そうではなく、打ち消しがたい事実として、ぼくたちは兄弟だったのです。あるいはいまなお、兄弟なのです。 それはなぜでしょうか。結局のところ、ぼくたちにはたがいに統一教会の二世だからです。つまり、神様ハナニムを中心とした大きな家の屋根の下で生かされてきた、ということです。別の言い方をすれば、そのような苦境を辛うじて生き延びてきたということ、いまもまだこうして二世の苦しみの延長線上に生存しているということです。そのことを教えてくれたのは、ほかでもないあなたです。名銃安倍切によって穿たれた穴から浄とも不浄ともつかないものが噴きだしている。いまなお尽きることのないその余波の慄えのなかで、自分がいまなおこうして生きていることのふしぎが何度となくこみあげてきました。 ぼくたちは統一教会の教祖、文鮮明という真の御父様によって同じ運命を背負わされた真の兄弟です。しかし、それと同時に、ぼくたちふたりをどこまでも引き裂いてゆくものがあることもまた事実なのでしょう。いわば、織姫と彦星のように、神様の大きな意志というほかない何かによって、決定的に隔てられてもいるのです。 というのも、ぼくは、神の子です。いわゆる祝福二世です。それに対して、あなたは神の子ではない。あなたも知っている教会用語を使えば、あなたは、ヤコブです。つまり、罪の子、穢れた血を引く子。信仰二世です。あなたの兄も妹も、そうです。あなたたち三人兄弟はいわば、真の御父様の愛の目にとまることで命拾いをした捨て子たちなのです。 手元の年譜によれば、あなたの生みの父親がみずからの命を絶ったのは、あなたが四歳になった年のことです。そのときにはもう、第三子の出産が迫っていました。しかし、結局、その子が産声を上げるよりも先にマンションから飛び降り、姿を消してしまいます。さらに立て続けに、第一子が小児ガンの手術の後遺症により片目が見えなくなるということも起きます。 そんな事実の羅列を前にして、ぼくはただ、言葉を失います。ぼくたちが空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い、としか言いようがない。人の想像力を支えていたはずの言葉がつゆほども役に立たなくなる。そんな状況下において、あなたの母親は統一教会に出会い、神様の呼びかけを耳にして摂理の道をゆく一兵卒となり、最終的には一億円以上に及ぶ献金を積むことになった、ということになるのでしょうか。ぼくにはなにもわかりません。 きっとそれから間もなくして、あなたの家には壺が置かれ、祭壇が立ち、ある偉大な御方のほほえむ御姿の御真影が飾られるようになったことでしょう。あなたは幼いころからその前で何度となく跪拝を重ね、何度となくあの家庭盟誓を暗唱させられることになったはずです。天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します、という宣言からはじまる、あの長く果てしない天との約束の言葉です。そして、そのころを境に、その御方があなたのことをだれよりも深く愛してくださる真の御父様になったのです。その見返りとして、あなたのほうからも御父様アボニムをだれよりも深く愛することが求められました。ようするに、あなたの生みの父親の死の空隙をつくようにして、新しい父親がまずはプロマイド写真の形をとって家に乗りこんできたというわけです。 真の御父様はいったいなんのために山上家にやってきたのでしょうか。答えは簡単です。それは「真の家庭」を実現するためです。つまり、それまでの山上家は、偽りの罪深い家庭、失敗した家庭であったということです。だから、再出発をしなければならなかった。そうしてあなたの母親が生きなおそうとした真の家庭がどのようなものだったのか。あるいは、あなたと御父様との父子関係がどのようなものであったか。このぼくには想像だにできません。ただ、同じ真の家庭の一員として、思わずにはいられないことがひとつあります。 まだ幼かった当時のあなたにとっても、新しくやってきたその御方のことを「真の御父様」と呼ぶことには抵抗があったのではないでしょうか。すくなくとも、そこになんらかの白々しいひびきを感じとっていたことでしょう。それは単に、あなたにはもともと生みの父親がいて、その御方とは血の繋がりがないからとか、その御方がはるか遠くのイースト・ガーデンの地にお住まいで直接お目にかかることは叶わないからとかいうことではありません。そうではなく、神のまなざしにおいて、あなたはなにより、穢れた俗世の子、呪われたサタンの子であって、神の子では決してありえなかったからです。 あなたは、神様の祝福を受けながら生まれてきたわけではないのです。毎週日曜日に通った教会のなかでも、あなたが祝福二世たちの輪にとけこめるようなことはなかったはずです。あなたが合同結婚式に参加できる年頃になったとしても、祝福二世との結婚を許されることもなかったでしょう。つがいとしてあなたにあてがわれることになったのは、同様に穢れた血を引くヤコブの子であったはずです。真の御父様の真のまなざしにおいては、生まれからしてあなたは劣った存在だったのです。 まずはそのことが、あなたのやわらかな魂を屈折させることになったのでしょうか。あなたがどれほど御父様を愛そうとしたところで、あなたの思いが報われることはありません。そもそも真の御父様は、あなたが偽りの父親の飛び降り自殺後に移り住んだ奈良の町で生の苦しみに呻いていることも知らなければ、あなたのような虫けらが存在していることさえ知らないのです。 屈折した魂は、ふたつの世界を同時に視ること、行き来することができます。あなたは祝福を受けて生まれてきた神の子たちと違い、真の愛の輝きを裏付ける影の領域に身を置くこともできました。そんなあなただったからこそ、あのような挙に出ることができたのだろうか、とぼくは何度も考えたものです。この問いはすぐさまぼく自身へと矛先をむけて、では、神の子だったはずのこのぼくは、いったい何だったのだろう、何者だったのだろう、という疑念へと形を変えます。 そしてなによりもありがたさがこみあげ、慄えがとまらなくなる。ありがたい、というのはつまり、ありえない、ということです。もっとはっきり、奇蹟が起きた、と言ってもいい。不可能だったはずのものが、思ってもみない力、人知を越えた力によって、可能になった。だからこそひとは、ありがたいことに感謝をするのではないでしょうか、つまり、負い目を感じる。心の底から深く傷つく。 いや、もっと素直にこう言えば済む話なのかもしれない。ぼくはただただ、あなたに対してのもうしわけのない気持ちで、胸がいっぱいになる。そして、なぜ自分はこんなにもうしわけなさを感じているのかといえば、それはぼくがやはり、神の子だからなのです。 神の子、という言い方にあなたがつまづいてしまうのなら、表現を変えてもいい。ようするにぼくは、統一教会という物語によって生を受けた化け物なのだと言えばいいでしょうか。あなたのように人間的な性の営みによって生まれた人の子とは、断じてちがう。真の御父様の愛のおかげで、こうしていま息をしているし、痛みを感じる生身の体を持っているのです。もっとはっきり言えば、ぼくは文鮮明のコピーなのです。つまり、無数の文鮮明のうちのひとりとして、神の使命を受けて、この世に生み出されたのです。あなたもご存知のとおり、神の子の使命とは、この穢れた世界を浄化する、ということです。物語の落し子である神の子には、そういう聖なる力が備わっているものなのです。 世界を浄化するということは、当然、暴力を振るうことではない。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトを血で穢すことではない。神の名のもとにであろうとなかろうと、ひとりの人の命を消し去ってしまうことが世界の浄化であっていいはずがない。 あなたはこの世界を汚した。とりかえしのつかない形で汚してしまった。そのせいでいま、生き血を吸った言葉がいつになく幸わっている。天にぶちまけられたおびただしい数の星々の輝きのように。もう時間がない。それでも、ぼくは神の名のもとに、そんな言葉たちを死の国へと送り返してゆかなければならない。だから、かぎられた時間のなかで、あなたの真の弟であるぼくが耳をいまこうして借りている。あなたの耳の奥の闇へと吹きこまれてゆく言葉の息づかいが聴こえますか。いまは亡き真の御父様の声がまだ、聴こえますか。

17 Jun 2024 · のなみゆきひこ

山上徹也さんへの手紙1

〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 拝啓 盛夏の侯 七夕の日がまた近づいてまいりました。 七月八日に起きた事件の前夜に見た天の川のことをぼくはよく覚えています。いまでも目をつむり耳をすますと、耳の奥の闇のなかを光り輝く川の流れてゆく気配がするのです。 七夕は遠く隔てられた二つの星がもっとも接近する日。織姫と彦星のお話の伝わる東アジアの国々では、むかしからそう考えられてきたようですね。ぼくはその日、日本から海で隔てられた大陸のむこう側のフランスにいました。ドイツとフランスを隔てるライン川のほとりに、そのときはまだ、妻と二人暮らしをしていたのです。 七月七日は、フランスではごく平凡な日です。織姫と彦星の知名度もさして高くはないのでしょう。何が祝われるわけでもない。天の川は「Voie lactée」の名で知られていますが、その日にかぎって天を仰ぎ、ひときわ輝く二つの星、ベガとアルタイルを探しだそうとする人はいません。このぼく自身、八年前にフランスに移り住んでからというもの、季節の風情を肌で感じる力をゆっくりと失ってゆき、ついには七夕という風習があったことさえ忘れていたのでした。 ところが、事件前夜には天の川を目にする機会がたまたまあったのです。ちょうど深夜の零時にさしかかるころでした。日本ではもう日付が変わり、七月八日の朝になっていたはずです。七時間の時差があるので、午前七時ごろ。事件は十一時三一分に起きたということなので、その四時間半ほど前ということになるでしょうか。 ぼくはそのとき、ブルターニュ地方の寒村の外れにいました。妻の実家がそこにあったのです。義理の父親は、ぼくがフランスに移り住んできた年に腎臓ガンをわずらい、長く地道な治療をつづけていました。いっときは寛解してガンのことなど忘れかけたこともあったようですが、ある日突然再発するということがあり、みるみるうちに病状が悪化してしまいました。そんな義理の父親の容態が好ましくないということで、妻と電車で帰省することになりました。それが七月七日のことだったのです。 早朝の出発でした。ブルターニュではとにかく雨が降る、といいます。実際にはそこまでの降雨量でもないとぼくなどには思えるのですが、フランス人たちの間では、ブルターニュといえば雨ということになっているようなのです。その日はそんな思いこみを先取りするようにして、朝から小雨が降りしきっていました。 そういえば、と妻が何の前触れもなく話を切り出したのは、ぼくが車内でうつらうつらしかけたときのことです。 子供ができたかもしれない、と妻は言いました。自分はそこでどんなふうに応じたのだったか。妻のほうに顔をむけて、ほんとう? と間の抜けた声でも出したのかもしれません。ろくにフランス語を話せなかったこともあり、ごく自然に驚いてみせることも喜んでみせることもできなかったことだけは覚えています。 妻も妻で、さして気にとめるふうでもありませんでした。まだ確信も持てずにいたのでしょう。今度、保健所で血液検査をしてくると、なかば上の空でつぶやきます。フランスでは血液による検査が主流のようです。尿よりも早い時期に確い精度で判定ができるということでした。妊娠の話はそうこうするうちに取りとめがなくなり、そのまま歯切れ悪く終わってしまいました。 気づけば、寝入っていました。早起きした分のちょっとした穴埋めをするつもりが、深みにはまりこんでしまったようです。電車がセーヌ川を越えてパリの郊外の駅に止まったときに、ゆすり起こされました。しばらく息をしていなかった、と妻が声をひそめて言います。とても苦しそうな顔をしていた、と。ぼくには意外なことでした。苦しいどころか、電車の心地よい揺れのなかで、とてもよく眠れたような気さえしていたからです。 いまになって思えば、そのときにはもう何かが微妙に狂いはじめていたのかもしれません。その日の夜、妻の実家に泊まったぼくは床に就いてから、一睡もできなくなりました。つゆほどの眠気も沸いてこないのです。 あたりは物音ひとつしません。ほかの人はみな寝入ってしまって、まるで自分ひとりだけがこちら側の世界に取り残されてしまったみたいです。そのことが次第に気詰まりになってきます。圧迫感のある静けさでした。そこが石造りの家だったせいもあるのかもしれません。木などとちがって、石は硬く冷たい。気づけば張りつめていた耳の奥のほうから体がこわばりはじめていました。 ぼくは部屋を抜けだし、裸足のままトイレにむかいました。そのとき、窓の外が妙に明るいことに気づきました。まるでスポットライトでも注がれているように明るいのです。それに吸い寄せられるようにしてふらふらと外に出たときになってはじめて、すぐ頭上に巨大な天の川が流れていること、なによりもその日が七夕だということに突然思いあたりました。 おびただしい量の星々、小さな針の筵のような星々が、無数に輝いていました。むしろ、光を滴らせていた、と言うべきか。事件後の色眼鏡ごしには、そのひとつひとつの鋭く刺すような輝きが、激しい痛みに呻いていたとしか思えなくなります。やがておとずれるであろう破局を予感しているようにも、それまでに延々と繰りかえされてきた苦しみを反芻しているようにも見える。 天の星々はきっと、いたましさやむごたらしさといったものをつね日頃から引きずっているものなのかもしれません。しかし、だれもそれを気にとめようとしません。星々はそれだけはるか遠く日常から隔てられているのでしょう。また、だからこそ、その遠さにおいて、天に祈ることも許されているのでしょう。しかし、その七夕の日だけは、ほんの目と鼻の先まで接近していたのです。 約七メートル、というのは、あなたがその日、事件の被害者までもっとも接近できた距離です。普段は決して交わることのない二つの星の隔たりをかぎりなく縮めようとした結果、導きだされたのでしょう。しかし、あなたはさらにその隔たりを埋めるための飛び道具を用意していました。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた小型の散弾銃です。一発で六粒の弾丸を発射できる仕組みになっていて、それが合計九発撃てる大型のものも用意されていたようですが、当日に使われたのは二発のみ撃てる小型のものです。携帯性に優れる一方、正確な射撃能力が求められます。 ぼくには、あなたがどんな気持ちで安倍切の引き金を引いたのかを知るよしもありません。ただ、ひとつ思うのは、もしぼくが引き金を引く立場にあったのなら、すくなくとも最後の引き金が引かれたあとは、天に祈るような気持ちになったのではないか、ということです。 あなたがその地点にひとりで立つに至るまでには、実にさまざまな偶然の積み重ねが必要だったことでしょう。事件後、MBS毎日放送が当日の様子を七五秒にわたって複数の視点で検証する「安倍元総理“銃撃の記憶”」という映像を公開したのですが、それを何度なく見返すたびに、銃撃の成否があまりにも多くの不確定要素に左右されていたことに驚きます。しかし、あなたは突如到来した千載一遇の機会のなかで計画を実行に移し、それが実を結びました。実を結んだ、というのは、銃口から放たれた豆粒のような弾が被害者の皮と肉を食い破って鎖骨の下の動脈を傷つけ、そこから生き血を吹き出させたということです。 事件のことを妻から知らされたのは、目が覚めてからのことです。安倍元首相の暗殺が報じられているということでした。日本の大手メディアでは「特定の団体に恨みがあり、安倍氏がこの団体とつながりがあると思い込んで犯行に及んだ」という趣旨の供述をしている、と報道されていました。「思い込んで」というのは、勝手な忖度による付け足しでしょう。報道機関の方でもこの時点ですでに自己検閲的になり、ある種の混乱に陥っていたことが伺われます。 いずれにしても、ぼくにはそんなことを考える余裕はありませんでした。ぼくはそのとき、ただただ慄えるだけの存在になっていました。ぼくの反応があまりにも薄いことに妻はすこし物足りなさを感じたようでした。しかし、ぼくはそのとき、こころの底から慄えていました。大きく震えてうろたえる、ということではありません。そうではなくて、胸のうちを辿ってゆくとかぼそい芯のようなものに行き当たり、それが微細に慄えているのです。そしていつまでもそれが収まらないのです。 さまざまな問いが渦巻いていました。いまになって思うと、それは二つの問いに集約されます。このぼくはいったい何者なのだろう。ぼくはこれまでいったい何をしてきたのだろう。 もはやその問いに答えも出ています。ぼくは父、文鮮明の子であり、神の子です。そして、ぼくはこれまで、そのことからひたすら逃げつづけてきた。だれにも教会との関係を知られたくなかった。きっと大げさだと思われるかもしれませんが、ぼくはずっと「亡命」をしているつもりでいたし、そのように人生をやり過ごすつもりでいたのです。妻にも出会い、子を授かることもわかりました。このままうまくやり過ごすことができたら。そんなぼくのささやかな願いを打ち砕いたのが、七月八日に起きた事件です。 いまぼくは日本に帰ってきて、ホームレスをしています。ある図書館のかたすみに身を寄せながら、この手紙を書いています。なぜ、手紙を書くのか。それは、あなたがまだ自殺せずに生きているからです。自殺せずに生きているということは、まだ活動をとめていない心臓があり、耳があり、自分の引き起こした事件の帰結にむきあうことができる、ということです。 フランスで習った言葉を使えば、あなたは responsible です。つまり、応答できる状態にある、ということです。ぼくはあなたからの返事を期待してこの手紙を書いているわけではありません。あなたに読まれることを期待してもいない。しかし、それでもあなたは生きているから、responsible であることには変わりない。だからぼくはこの手紙を書くことができる。そして、ぼくはこの手紙を書かなければいけない。 それはなぜでしょうか。それはぼくが父、文鮮明の子であり、神の子だからです。そのことから逃げつづけてきたことに対して、ぼく自身に対して、ぼくなりの責任を果たす必要があると思うのです。そして、責任は、あなたが引き起こした事件の余波の後で、ぼくなりに生き延びてゆくなかでしか果たされないのだろうし、生き延びるためにはやはり、言葉を紡いでゆくしかないのです。 一通目の手紙にしては、あまりにもとりとめのない怪文書になってしまいました。ここまで目を通してわかったと思いますが、ぼくが結局したいことというのは、生きたあなたの耳を借りる、ということなのでしょう。あなたの耳の奥には暗闇が広がっています。その暗闇の先には、死の国がある、とぼくは思う。ぼくはこれからあなたの耳を通して、死の国へと下りてゆきます。 なんのために? それは言葉を返すためです。かけがえのないひとりの人の命を奪った事件によって豊かになった言葉があります。それを死へと送り返さなければならない。しかしそのためには、それを聞き届ける生きた耳が必要なのです。

11 Jun 2024 · のなみゆきひこ

死の余波に湧くありがたさ

7月7日は二つのかけはなれた境遇の星が急接近する日であると言われている。同時に、天への祈りをささげる日でもある。ひとりのひとの命が血祭りにあげられたのはその翌日のことだった。その余波の広がりを見まもりつづけた二週間のあいだ、ことばを失ったまま、ひとりでにじぶんの輪郭がぼやけるほどはげしく震えていた。神の子のひとりとして生まれてしまってからというもの、じぶんの血はこの世の罪の穢れから守られたものなのだと耳元でささやかれつづけてきた。その血のことただただ醜く不潔に思い、生きていることを苦痛に思った。それがいまも体中をめぐっている。自分はいったい何に震えているのだろう。 そう思いながら夏の朝の光のなかでちいさな動揺をたどってゆくと、深い感謝のきもちとしか言いようのないものが、こんこんとこみあげているのに気づく。そのきもちは、特定の人、事件の加害者や被害者にむかっているわけではない。自分のなかでどろどろしつづけてきたものを浄めるようにとめどなく流れ、生きることを励ましてくれているように感じる。断固としてゆるしがたい殺人事件の余波がここまでひとに生きる勇気を与えてしまうということ、そのあまりにも不謹慎な実感をじぶんはいまだにどう受け止めていいのかわからない。 事件の前後では、このちいさなじぶんの世界のありかたが大きく変わってしまった。肉を食い破る鉄砲豆のような穴がこの世界にあいてしまって、そこから浄とも不浄ともつかないなにかが生きているものの側のほうへ吹きだしている。それがひとをやさしく、うつくしくしてくれているのだった。もっといえば、ひとを傷つけながら生かすことで、この世界にみちている痛みをすこしでも感じとれるようにしてくれているのだった。 フランス語には「sensibilité」という語がある。日本語では「感受性」とか「思いやり」と訳されたりする。とはいえ、もうすこしよく考えると、もともと「sensible」という形容詞には「感受性が強い / 思いやりがある」ということのほかにも「痛みや苦痛に敏感である」という意味がある。その文字を目で追いながら、自分の瞳の表面が鋭利な力によって深く切り裂かれてゆくところを思う。開いた傷口が、痛む。しかし傷そのものが痛みなのではなくて、傷が痛みを感知させる。フランス語の「sensibilisation」という言葉は日常的には「人の関心を喚起する」という啓蒙的な意味で使われているけれども、もとをたどればそれは第一に、傷を開く、ということだったのかもしれない。 じぶんがまだこうして痛みを感じられる存在、痛覚を奪われた死者にならずにいられることがうれしい。この世界には痛みとして感知できないものがあまりにも多く満ちている。世界は基本的に、不感症なのだろう。ちょうど自分の体に開く穴という穴、口や鼻、肛門といったものによってしか感受できないものがあるように、世界はつねにむき出しになって痛みに絶え続けているわけにはいかない。けれども、折に触れて、不意打ちのように、激しい痛みがおとずれることがある。このちいさな世界が7月8日以来の余波のなかでそれを感知しているのを目の当たりにして、ただありがたさとしか表現しようのないものが募る。そんななか、これまで言いしれない憎しみを抱えてきた神の子のひとりとして、それをただ、あまりにもむごいことのようにも思う。

22 Jul 2022 · のなみゆきひこ

濁る川の畔、星々の沈黙

2022年7月8日(金)11時31分頃に起きたのだという。状況如何では前日の岡山市での遊説の際に決行されていた。7月7日。天に願いを託す日、二つのかけ離れた星がもっとも接近するという伝説を祝い寿ぐ日でもあった。それらの星がその後決定的にすれ違うのか、あるいはたがいに引き下がってゆくのかは知らない。一方は、あるグループに家族や人生を破壊されてしまったという。もう一方は、そのグループに祖父の代からすり寄り権力をほしいままにしてきた。その二人が奈良市の交差点で五メートルの距離にまで接近した。取りだされた手製の火器から発射された豆粒のような鉄の玉がその距離を埋め肉を食い破り血管を裂き血を吹かせた。山上さんの人生が安倍さんの人生に鋭く交差した瞬間のことだった。 そのとき自分はブルターニュの外れにある家の一室でこんこんと眠っていたのだった。7月7日の夜遅くにたどり着いたとき、一階のキッチンの照明に甘い香りのする粘着テープが吊りさげられているのが目にとまった。螺旋階段のように渦を巻いている。そこに何匹もの蝿がへばりつき息絶えていた。ちょうど天上の光を目指し悶えているようにも見える。照明を落とすと、窓の外だけが明るい。夜空はおびただしい星々の輝きに満ちていた。そのうちの豆粒のような二つ、天の川のほとりにたたずむ二つの星は、地球の裏側では織姫や彦星といった名で呼ばれている。それをまるでひとつの秘めごとのように知っているのは、その家のなかでただ私ひとりだけなのだった。 翌朝になり、事件がフランス中に知れ渡ることになったときも、自分は口を噤んでいることしできなかった。「特定の団体に恨みがあり犯行に及んだ」という文言があった。そのことにただ不快なまでに胸をかき乱されていた。その日に顔をあわせたひとにはみな、事件のことをたずねられた。なぜなのか、と顔を曇らせていう。わからない。政治的な理由ではなく、個人的な理由によるらしい、とだけしか答えられなかった。その翌日には統一協会への恨みによるものだということが報じられるようになった。なぜおまえはそんなに平然としているのか、とも問われた。かけがえのない命が失われた、しかもおまえの国のリーダーの命が失われたというのに、残念ではないのか、と神妙な顔で、蝿の螺旋階段を挟んでいう。そこでも答えに窮してしまった。言うまでもなく、あまりにもいたましい事件だった。山上さんである自分自身、安倍さんである自分自身を思うと、ひそかに震えている自分に気づき、その震えのもとをたどってゆくとその先に暗く血なまぐさいものがとくとくと流れているのがいやおうなくみえ呻きたくなる。 いかなる理由であれ人を殺すのは許しがたい、殺人を肯定的に語ってはならない、というような発言を見かけた。殺人も戦争も絶対的に悪である、と考える人はきっとそう少なくないのだろう。自分もそのように考えている。そして、そのような自分自身の想像力の欠如に、ただただ絶望感しか湧いてこない。自分自身は、圧倒的に、生きている者の側にいる。法を遵守する者の側にいる。そのような自分の感じる「許しがたさ」や「憤り」は、絶望的なまでに気安い。 ひとのやさしさ、安倍さんのやさしさ、ひいては山上さんのやさしさ、いのちのやわらかさと、たましいのもろさに、胸はりさける思いがする。それは自分もまた穢のない血をもつという「神の子」として生まれてきたひとり、言いようもなく激しい怒りを腹の底に相口のように忍ばせてきたひとり、安酒のような香りに誘われて天国への階段にへばりついた蝿のような両親のもとに生まれてきたひとりでもあったはずだからだ。 夜更けに見上げた空に輝くおびただしい星々のひとつひとつ、安倍さんを食い破ってできた弾痕のようなひとつひとつ。それら光の滴りのことごとくが不潔だったし天の川も濁っていた。日は新たに昇り、空は掃き清められるのだとしても、またそれと同じ数だけ空がふたたび穢されてゆく。そのはるか下の世界のかたすみ、やさしさを貫く針の痛みの刺す世界のかたすみ、日に日に清められてゆく世界のかたすみの川の畔で、自分は言葉の感性を研ぎ澄ませてゆくことしかできない。

15 Jul 2022 · のなみゆきひこ