戸籍 2.0 と姓(名)同一性障がい⎯⎯氏名の自己決定権をめぐって
戸籍 2.0()に見る私たちの民度 日本には古くから戸籍というものがある。現代において、戸籍とはそもそも何のためにあるのだろうか。類似のものとしては、いわゆる住民票(住民基本台帳)というものがある。つい最近まで、両者はまったく用途の異なるものだった。住民票というのはもともと、国籍を問わず日本国のあらゆる生活者の個人情報を管理するためにあった。それに対して、現代の戸籍は、だれが日本人(日本国籍の保持者)であるかを定めること、ひいてはその第一要件(国籍法第二条)である血縁関係をたどることを目的としている。というのも、日本は出生による国籍取得に関して血縁に基づいて国籍を認める「血統主義」という立場を貫いている。そうである以上、国は全国民の婚姻関係や親族関係を網羅しなければならない。その手立てとされてきたのが戸籍である。 現在、戸籍のあり方をめぐって取り返しのつかないことが行なわれつつある。コロナウイルス流行の年でもある2020年に日本政府は「デジタル社会の実現に向けた重点計画」を掲げた。国の主導で社会全体のインフラをデジタルに置きかえてゆこうとする試みだ。たとえば行政上もフロッピーディスクや紙といった古い媒体を廃し、あらゆる業務をデジタル上で行えるようにする。そんな流れのなかで2024年に戸籍法が改正された。その結果、戸籍上と住民票上の個人情報のいっそうの統合が実現した。ひとことでいって最悪の事態である。「自治体で戸籍謄本の発行ができるようになって便利」のひとことで済ませられるような話ではない。政府が国民を管理しやすくなって何が悪いのだろう? と思うのなら、それは日々の自己家畜化によって無神経になりはてた末路だと考えていい。 政府が私たちを以前よりもはるかに簡単に「情報」として管理しやすくなったということは、それだけ簡単に私たちの人権や主権が侵害されるおそれがあるということだ。政府の打ちだした「誰ひとり取り残されないデジタル社会」というスローガンの原案がもともと「誰ひとり取り残さない﹅﹅﹅﹅﹅取り残さない﹅﹅﹅﹅﹅」という政府主体の形だったことにも如実にあらわれているが、いま取りかえしのない形で実現されつつあるのは無害で無色透明な「デジタル社会」なのではなく、人々の自由や尊厳を極限まで踏みにじろうとする「デジタル管理社会」である。ここでは経産省が2020年に鳴りもの入りで策定したデジタルガバナンス・コード2.0()に登場する「DX」といういかにも浅はかな用語を思いおこしてもいい。デジタル・トランスフォーメーションを略してDX。「Transform」というのは、ここで「一変する」、「変形する」、「刷新する」といった意味あいで肯定的に使われている。しかし、それはむしろ主権者にとっては悪夢のような「変質」であるというほかない。 そんな状況下で今、戸籍法がさらに改悪されようとしている。2025年5月26日に施行される新たな改正法によって、住民票に記載されている氏名の読み方が戸籍上にも氏名のフリガナとして記載されることになる。それまでの戸籍では、氏名の表記面、つまり氏名をどう書くかという部分しか公証されていなかった。それが今回の改正で、氏名の音声名、つまり氏名をどう読むかという部分まで定められることになる。もうすこし別の言い方をすれば、これまでは自身の氏名をどう読むかということについては本人次第だった。そんなフリガナの自由がいま奪われ、ただひとつだけのフリガナを強要されようとしている。政府の言い分では、行政のデジタル化の推進のための基盤整備、本人確認資料としての利用、各種規制の潜脱防止といった行政上の利点があるという。しかし、それが国民(=戸籍保持者)の基本的人権を著しく損なうものであること、したがって改正法自体が違憲だということについては一切触れられていない。そして、この私たちの多くがそのことに無自覚でいる。危機感を表明する日本語の声はあまり聞こえてこない。大塚英志が『マイナンバーから改憲へ』をはじめとする仕事を通して警鐘を鳴らしつづけているように、私たちの多くはそもそも問題を問題として認識することさえままならずにいる。福沢諭吉が「日本には政府ありて国民なし」と嘆いたときから一貫してこの極東の後進国に「近代」のおとずれた試しはない。そこで、専門家でもない私にもできる範囲で、そもそもいったい今何が問題になっているのかということを記録しておく。 氏名の自己決定権とはなにか 日本国憲法では日本国民はすべての基本的人権の享有を妨げられないということになっている。国民主権や平和主義と並ぶ三大原則のひとつだ。そんなふうに日本国憲法によって尊重されているとされる基本的人権のひとつに「人格権」というものがある。ひとことでいうと、生命や身体、自由、名誉、プライバシーといった人格的な属性の不可侵性を指す概念だ。そのなかには氏名というものも含まれており、人格権から氏名権というものが導きだされることがある。日本国憲法に明示的規定はないものの、第十三条の「すべて国民は個人として尊重される」という条文によって不文法として基礎づけられてきた。最高裁判所の判例、昭和58(オ)1311で述べられたとおり、氏名はなにより「人が個人として尊重される基礎」であり「個人の人格の象徴」であるからだ。マイナンバーは個人を管理対象として特定することはあっても、人格として尊重はしない。マイナンバーはその点において氏名と鋭く対立する。 では、人格権のひとつとされる氏名権とは具体的にどのようなものだろうか。二宮周平の論説「氏名の自己決定権としての通称使用の権利」に詳しいけれど、ひとことで言えば、それは人が自分自身の名前を持つ権利のことである。人は自分自身のものではない名前で不当に呼称されるべきではないし(氏名呼称権)、自分以外の人に自分の名前を冒用されるべきではない(氏名専用権)。ようするに、望まない名前で呼ばれたり、だれかに自分の名前を騙られたりするいわれはない。ここでいう名前というのは、戸籍や住民票上の氏名にかぎらない。人には通称を含めさまざまな名前があり、それを日々使い分けている。そのとき名前の使用に不自由があってはならない。人は自分の呼称を強制されることなく、自分自身で呼称を決定する権利がある。それを氏名の自己決定権という(ちなみに、それを侵害するという点、その根拠となる憲法十三条にもとるという点で、夫婦同姓を強いる民法750条は違憲であると考えられる)。 その上でひとつ、氏名をめぐる問題のなかで見過ごせない点がある。日本語において氏名は漢字という表語文字によっても仮名という表音文字によっても表現される、という点だ。そのため、氏名の自己決定権をめぐる議論は、漢字で自分の名前をどう書くかという次元だけではなく、それをどう読むかという次元においてもなされなければならない。この点に関しては、先に言及した最高裁判所の判例となった「謝罪広告等請求事件」が参考になる。 謝罪広告等請求事件の照らしだすもの 事件の発端は1975年にさかのぼる。読売新聞の1988年2月16日付の記事によれば、在日韓国人牧師であり人権活動家である崔昌華のとりくみがNHKのテレビニュースで報じられたとき、本人が최창화チェチャンファ최창화チェチャンファと名乗っていたにもかかわらず、サイショウカと日本語風に呼ばれた。本人がそのことについて抗議してもNHKは訂正に応じなかった。そこで崔は「人格や民族の誇りを傷つけられた」として、謝罪放送と全国紙への謝罪文の掲載、慰謝料一円の支払い、将来の韓国・朝鮮人氏名の原音読みを求めて提訴した。結論から言うと、すでに引いた最高裁の判決のなかで述べられているとおり、崔の請求は棄却されている。その理由としては、漢字には様々な読みが可能であり、民族語音によらない日本語的な漢字の読みが慣用化されている以上、NHKの行為は「たとえ当該個人の明示的な意思に反したとしても、違法性のない行為として容認されるものというべきである」というものだった。もうすこし踏みこんで言えば「氏名は[…]人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有する」ものの、それは「不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないから、他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない」。ようするに、NHKの行為は人格権を損なうものであると大枠としては考えられるものの、それを即座に不法行為とするような法的な枠組みはない、ということである。 この事件があらわにしているのは、漢字文化圏における氏名というものの複層姓である。氏名は漢字との結びつきをとおして別様に読まれてしまう。想定外の音を呼びこんでしまう。当時は強い漢字アレルギーのあった韓国の戸籍の上で、崔昌華の氏名は「최창화チェチャンファ최창화チェチャンファ」とハングルのみで表現されていたはずだ。すくなくともNHKのような御用機関に対しては、崔はただそれだけを自分自身の氏名として受け入れようとした。創氏改名の歴史などを踏まえると、自分のことを「サイショウカ」という日本語の人格としてNHKに扱われるのは、端的に不愉快だったのだろう。この私にもすこしはその気持がわかるような気がする。NHKはみずからの悪質性や歴史への無知を恥じ、崔の人格権をあきらかに踏みにじっていることに対して誠意をもって謝罪しなければならなかったと私は思う。しかしそれと同時に「최창화チェチャンファ최창화チェチャンファ」がそもそも「崔昌華」という漢字に由来するものであるかぎり、さまざまな読み方を招いてしまうのは避けられないことでもある、とも思う。そして、崔昌華の場合とは反対に、漢字に定まった読み方がないということによって、すなわちフリガナの自由によって、人格権を守ることができた者たちがいることも知っている。 フリガナの自由によって守られるもの いわゆる在日コリアンのなかには、自身のルーツを大韓民国籍、朝鮮民主主義人民共和国籍、日本国籍のうちのただひとつに結びつけない(結びつけられない)者たちがいる。彼らにとって漢字がいかようにも読めるということは、人格の決めつけを拒む手立てにもなる。そこで思いつく故人の作家を挙げると、李良枝は「양지ヤンジ양지ヤンジ」であるとともに「ヨシエ」でもあり、李恢成も「회성フェソン회성フェソン」であるとともに「カイセイ」でもあった。金鶴泳は「학영ハギョン학영ハギョン」であるとともに「カクエイ」でもあった。平野啓一郎の言葉を借りれば、複数の「分人」に結びついたものとして、彼らはそれらの氏名を使い分けていたはずだ。このような現象は、漢字文化圏のどこにでも起こりえる。そして代々の日本出身者おいても、ごくありふれたことである。 一例として、中上健次という作家のことを思いおこしてみたい。中上は「私には冠する苗字がない」と述べていたことがあった。それは中上が「私生児」を名乗っていたこととも関係がある。生物学上の父親はスズキというが、子として認知されることはなかった。生後間もないときには母親の亡き夫であるキノシタの姓を名乗り、中学生になったころから母親の再婚相手であるナカウエの姓を名乗りはじめた。しかし、いずれも自分の本当の姓のようには思えなかった。そこで、十八歳で上京してからは「中上」という漢字をナカガミと読むようになり、やがて作家としてもナカガミケンジとして認知されるようになった。その後生まれた子供もナカガミ家の子として育てられた。そもそも戸籍上の名前にもフリガナが定められていなかった以上、中上という漢字をどう読むかは本人の自由なのだった。そして本人としては、ナカガミという抽象的な感じのする名前にこそもっとも安心を感じるのだった。 これは次のように考えることもできる。中上はキノシタである自分にもナカウエである自分にも違和感を抱いていた。それは自身の「人格の象徴」や自身が「個人として尊重される基礎」にはなりえないものだった。キノシタともナカウエとも血のつながりがない。さらにいえば地元においては被差別部落との関わりから差別を招くような苗字でさえあった。そのため、自分はナカガミケンジであるともナカウエケンジであるとも何のためらいもなく自称することはできなかった。だからこそ、東京で作家としての活動をしてゆくなかでナカガミという素性をみずから作りあげることになったのだろう。そこで、氏名と人格をめぐる問題の制度上の手立てになってくれたのがフリガナの自由だった。この問題のことをここでは仮に「姓﹅姓﹅同一性障がい」と呼んでみることにしよう。 姓(名)同一性障がいとはなにか 姓同一性障がいというのは、文字通り、姓の同一性に関わる障がいのことである。戸籍名のようにあらかじめ割り当てられた苗字への違和。そういった苗字がしばしばみずから自認する苗字や人格との不一致を起こし、何らかの障がいをもたらすと考えられる。それと同様に「名同一性障がい」、ひいては「氏名(姓名)同一性障がい」といったものも想定することができるだろう。英語にすれば「Gender Dysphoria(性別違和)」にならって「Name Dysphoria(名前違和)」とでも呼べるだろうか。ここで「同一性障がい」という言葉をあえて使うのは、日本語圏ではいまだに通用している「性同一性障がい Gender Identity Disorder」という言葉との単なる兼ねあいのためだけではなく、場合によっては実際に医療の対象として扱われるべきものであり、「違和」のような軽々しい日本語で切り捨てるべきものではないからである。 障がいの度合いは幅広いグラデーション上にとらえることができる。下の名をめぐる典型的なケースとしては、性別違和との併発が考えられる。自身の戸籍上の名が想起させる性(たとえば、太郎は男性的、花子は女性的)と自身の性自認とが不和をきたすようなケースである。氏をめぐる典型的なケースとしては、親子関係や婚姻関係の変化に伴って強いられた氏への違和感が考えられる(夫婦同姓を強いる民法750条はまさにこのような障がいの引き金になるものとして理解できる)。 なお、私自身も姓および名の同一性障がいにかかっている。精神科への通院をしてもいるが、問題の根本的な解決のために戸籍上の氏名の変更や住民票上の氏名の読み方の変更を求めている。「なごること、すむこと⎯⎯ホームレスとネームレスのあわいで」や「生きのびるための改名⎯⎯統一教会の二世が東京家裁に氏名変更の申立をした経緯」といった記事で述べたとおり、統一教会の二世として生まれ育った私は戸籍上の氏名を自分自身のものだと感じたことはない。そのため現在ではできるかぎり通称を名乗ることにしている。そしてそれができないたび、つまり人から戸籍上の氏名で名指されたり、あるいは自分からそう名乗らざるをえなくなるたび、非常に不安になり、自分がいったい何者なのかがよくわからなくなる。 そこであらためて、疑問が湧く。では、そんな自分をはじめとする姓(名)同一性障がい者たちにとって、戸籍法の改悪は具体的にどのような帰結をもたらすのだろうか。 平然と行なわれる基本的人権の侵害 2025年5月26日以降、全日本国民に通知が届く。そこには戸籍に記されることになるフリガナが記されている。住民基本台帳ネットワークシステムを通して居住地の自治体と本籍地の自治体が電子的に共有することになったフリガナである。フリガナが誤っているのなら、通知後一年以内に変更の申し出ができるということになっている。誤りがなければ、通知を無視しておくだけで自動的にフリガナが振られる。おそらく私たちの多くは通知を無視するだけで済むのだろう。一方、なんらかの姓(名)同一性障がいを抱えた者にとっては、それは端的にいって、氏名の自己決定権の侵害になる可能性がある。 そもそも戸籍にフリガナが振られることになる前までは、基本的には住民票上にも自由にフリガナを振ることはできた。だからこそ、これまではいわゆるキラキラネームというものが可能だった。だからこそ悪魔ちゃん命名騒動のような事件も起き、命名権の濫用が問題になることがあった。しかし、新生児のようにこれから住民登録される者には関して、もはやそのようなことはできなくなっている。法務省は2025年2月26日にフリガナの指針案を出し、法務省の定めた基準にそぐわないフリガナは5月26日以降は認められないとしたが、多くの自治体が法改正前からすでにこれを勝手に折りこみ、住民票上のフリガナの規制をはじめたためだ。そのため、住民登録済みの者が法改正前に住民票上のフリガナを変更しようとする場合に関しても、状況はすでに絶望的である。それが法務省の基準にそぐわない場合は「読み方が通用していることを証する書面」として、当該読み方が使われていることを示す資料(パスポート、預貯金通帳、健康保険証、資格確認書等)の提出が必要になる。それがなければ、住民票上のフリガナを戸籍上のフリガナとして受け入れるしかない。そして、中上家はナカガミかナカウエ、あるいはそれ以外の読み方のうちのひとつを選ぶことになり、日本以外の漢字文化圏にルーツを持つ者たちもひとつの漢字の読みを選ぶことになる。私のような統一教会の二世は教会から組織的に与えられた名前を漢字の読みの上でも強いられることになる。 日本政府の打ち出していた「デジタル社会の実現に向けた重点計画」では「この国で暮らす一人ひとりの幸福を何よりも優先に考え[…]一人ひとりのニーズに合ったサービスを選ぶことができ[る]」ことになるとされていた。そんな謳い文句のもとで今平然と氏名の自己決定権が踏みにじられている。それは日本国憲法に反している。私たちの多くはそのことに気づかずにいるが、それは結局のところ、共に暮らす社会で生きる他の人々への配慮や想像力をいまなお欠いている私たちが虫かごのなかにすし詰めにされた極楽とんぼの群れに等しいからなのだろう。私たちはいまだに「自由」というものが何としてでも死守すべきものであるということを知らない。そのツケがいつか必ず自分たちのもとに返ってくるということも。