熊野大学の思い出(2024)

家に帰るまでが遠足、という慣用句(?)がある。もともとは学校行事の締めくくりの訓示にでも使われていたのだろう。祭気分のまま下校して羽目を外してもらっては困る。気を引き締めろと。それがいまでは学校の塀を越え、物事にあたるときには事後処理もふくめ最後まで油断してはならない、といった意味あいで広く用いられるようになった。 僕はそこで、こんなふうに思う。遠足後にまっすぐ帰ってゆける場所があるなら、それでいい。しかし、もし帰るべき場所がないとしたら、どうなってしまうのだろう。あるいは、帰るべき場所をこれから自分で作ってゆかなければならないとしたら。どこが物事の終わりであるかを決めるのが、この自分ただひとりだけなのだとしたら。 これはつまるところ、物語の創作にたずさわる人たちをつねづね悩ませてきたことでもあるのかもしれない。遠足はなんとしても終わらせなければならない。しかし、いったいどんな形で? 落ちの付け方次第で全体の印象はいかようにも変わってしまう。だからこそ、遠足の始まる前から、落としどころ探しの事前工作をはじめることになるのだろう。出発地点が明確であればあるほど、着地もしやすい。かならずしも同じ場所に帰ってくるわけではないけれど、すくなくともそこが定点となり道しるべとなる。 物語の創作者たちは、遠足というものを始まりと終わりからなる枠組みのなかに封じこめるために日々苦心している。もちろん、本当の遠足には、始まりも終わりもないのかもしれない。本当は、家を出てからが遠足なのではなく、家を出る前にはもう遠足は始まっているし、家に帰ってからも遠足は続いている。それは実のところ、とても危険なことなのだ。そして、まさにそれゆえに、普段はだれもそれが遠足だとは思わずにいる。物語という人工的な枠組みを通すことではじめて、遠足は遠足として触知できる形をとり、時が流れはじめ、そこに変化が生まれる。自身の経験を文章の形、物語の形でふりかえるのも、よくあるけじめの付け方のひとつなのだろう。 ところで、表題にある熊野大学というのは、中上健次(1946-1992)という紀州出身の作家が死の二年ほど前に立ちあげた文化運動のことだ。それについてもすこしは触れておかなければならない。 熊野大学は、大学と銘打っているものの、日本で一般に考えられている大学像とはかけ離れている。古くは律令制のころにできた官僚の養成所のことを大学と呼んでいたというけれど、現在の日本においても、入学試験で選ばれた者たちの属する組織といったイメージがつきまとう。そんな「大学」の語感を、熊野大学はことごとく裏切る。むしろ遠回りをして「みんなの」という含みがある「University」というひびきを頼りに中世ヨーロッパの自治運動としての大学の歴史を紐解いてゆくと、中上の思い描いていたものが見えてくるのかもしれない。中上自身は、かつてこんなふうに構想を語っていた。 熊野大学というのは建物も持たないし、入学試験もあるわけじゃないし、卒業なんかも何もないと。つまり志だけでできている。組織っていうのは、分るように、その組織を延命するために、さまざまな仕掛けを作っている。その仕掛けを作っていることによって、どんどん人間の志みたいなものが歪められてしまう、どんどん無くなってしまう。組織のための組織とか、だんだんおかしくなってくるんだけど、そうじゃないんだという所から、組織に対する反組織というかね、反組織に対するさらなる反組織っていう、永久革命みたいなもんですよね。いまの時代に永久革命なんて言っても流行らないと思うんだけど。(中上健次電子全集12) 卒業は死ぬとき、ともいう。中上自身が早くもその第一号となったが、そのこころざしを受けつぐということなのだろうか、熊野大学はいまでも年に一度の夏季セミナーを和歌山県新宮市で開いている。補助金の都合もあるのかないのか、内容が設立者であり名誉新宮市民である中上関連のものになってしまうという嫌いはあるものの、毎年さまざまなこころざしを胸に秘めた人たちがさして中上のことを知るわけでもなく寄せ集められてくるのは確かである。 二〇二四度のセミナーは八月三日(土)の午後に開かれた。「中上健次×大江健三郎」というテーマで、浅田彰、川本直、高澤秀次が計四時間にわたって講演をする形となった。開催に先立ち、長年運営にたずさわってきた中上紀さんが熊野新聞の八月一日号に短いコラムを寄稿している。近年の開催状況について簡潔にまとめられているので、引用しておこう。 熊野大学の夏期セミナーはかつて2泊3日の合宿形式で行われたが、ある時から諸事情で1泊2日になり、やがてコロナ禍による3年間のブランクを経た22年からは合宿形式を取りやめ、名物だった宴会をなくし、各自で宿泊する形となった。1日だけの開催は昨年からだ。 古くからの参加者には合宿形式だったころの熊野大学をなつかしむ人が多い。それはもうすごかった、という。嘘とも本当ともつかない伝説的な話の宝庫になっている。コロナ明けから熊野大学に通いはじめた僕の耳にもそれがまことしやかな断片の形で届き、往時の熱気の一端にほんの一瞬触れられるような気がする。それなりに血の気の多い集まりであったようだ。中上紀さんは次のようにふりかえっている。 人が寄ればトラブルはつきものだ。昔合宿形式だった時は酔っぱらってモノを壊したりして宿に迷惑をかけるやからが時々いた。 だが、宴会後も夜通し飲み語るのは常で、部屋までたどり着けずロビーで寝る聴講生たちの姿は、セミナー3日目の朝の風物詩でもあった。このために毎年通い詰める参加者も多かったはずだ。 内部争いも含め、人が寄れば揉めごとは起こる(昨年度にも僕はそれをひどい形で目の当たりにした)。本気であればあるほど、収拾がつかなくなる。ついには流血沙汰になる。そういうトラブル込みでの、懐の大きな熊野大学。ただ、中上紀さん自身は、そんな往時の姿を単になつかしんでいるわけでもない。全文を引用しないかぎりはうまく伝わらないのだけれど、中上紀さんがコラムを通して言おうとしているのはもうすこし別のところにあるようだ。熊野大学はたしかに大きく姿を変えている。しかし、中上紀さんは、次のように締めくくる。 セミナーの形がどう変わろうと、ここが熊野である限り、熱い心の言葉には命が宿る。 これはある意味、熊野大学はどこにでもある(universalである?)ということでもあるのだろうか。つまり、表面的な遠足をしているときだけが遠足なのではなくて、その前後にも遠足はある。どこで遠足が始まりどこで終わるのかはだれにもわからない。今こうして僕がふりかえりの文章を書いているように、そこにさしあたりの終止符を打とうとするひとりひとりの意志があるなら、その数だけ終わりがあるし始まりがある。「ここが熊野である限り」というのは、中上健次の言葉を借りれば、なんらかのこころざしを持つかぎり、ということでもあるはずだ。いや、別にこころざしなどという大袈裟なものを持ちださなくてもいいのかもしれない。人が寄せ集まれば、トラブルによる流血を伴いつつ芽吹いてきてしまう言葉もあるのだろう。 僕自身は今年、熊野大学の夏季セミナーを聴講したものの、ほとんどのことは忘れてしまった。ずぼらなので、面白かったことだけはかろうじて覚えている。川本直さんの発表「中上健次をクィア・リーディングする」に関しては、時間の都合により途中で打ち切られてしまったのを残念に思った。しかし後日活字化されたものが文芸誌に掲載されることになったようだ。 やはりというか、特筆すべきことはたいてい、遠足の本筋とは関係のないところ、物事の隈くまや縁へりにあたるところで起こる。記憶力に乏しいこの僕でもいまだに覚えている事件がひとつある。この文章もその事件がなければ決して書きはじめていない。というのも、事件の当事者にとってはあまりにもとるに足らない出来事かもしれず、僕も含めていつかだれの記憶にも残らなくなる。きっと書いてしまえばあまりにどうでもいいことなのだけれど、それでも書かずにいられない。 さて、新宮市の神倉山のふもとには「えんがわ」の名で親しまれている場所がある。用水路にかかった小橋を渡った先の路地にある平屋の古民家だ。この家には、玄関がない。そのかわり、その名の通り大きな濡れ縁があり、そこから直接ガラスの格子戸を開けて勝手に上がりこめるようになっている。鍵はどこにもかかっていない。だれかが暮らしているわけでもない。普段は地元の子らのたまり場になっていることが多いようだ。ユースホステルとしても使われているらしく、ふらりとやってきた若いマレビトたちが束の間の滞在をしてゆくこともあるようだ。今年はそこが熊野大学の夏季セミナーにあわせ、聴講者も自由に使える宿泊場所として開放されることになった。 僕が友人と「えんがわ」をおとずれたのはセミナーの前日にあたる八月二日の午後のことだった。セミナーの聴講者はほかにだれもいなかった。そのかわり、小学生の子供たちがにぎやかな物音を立てているのが遠くからも聞こえてきていた。僕たち見知らぬ大人が座敷に上がりこんできたのに怖気づくでもない。好奇の目で僕たちを見上げ、だれや、という。六人の子供たちがいた。男の子が五人で、女の子は一人。女の子はちゃぶ台の上に夏休みの宿題冊子を広げながら頭を抱えていた。 あー、もう、全然わからん、と女の子はいう。わからんよお。手伝え。すると、出身は大阪だという友人のMさんが、よっしゃ、手伝ったる、とノリよく応じて、ちゃぶ台のむかいに腰をすえた。女の子は国語の読解問題に手を焼いているようだった。小学校三年生むけのもので、コロンブスの卵の逸話をテーマにしていた。文章から適当な言葉を抜き出し、解答文を穴埋めで完成させる問題。Mさんは大学で教鞭をとっている文学の専門家だった。状況としては、かなりオーバースペックなマレビトが助っ人として突然あらわれた形になるだろうか。 僕は後になってMさんの博識なこと、バスケットボールが上手いこと、ドラえもんのように押し入れのなかで寝てしまうことに驚かされることになるけれど、そのときになにより驚かされたのは、逆さからでも文字がすらすら読めてしまうということだった。Mさんは正面で顔をしかめた女の子といっしょに問題文のひとつを読んだあと、言葉巧みに答えを導き出してゆこうとする。ただ、いちいちまわりの邪魔が入って気が散り、文章が頭に入ってこないのか、女の子はすぐに匙を投げようとする。それでもどうにか穴埋めのひとつを終わらせると堪忍袋の緒が切れたように立ちあがり、ほかの子たちのもとに翔けてゆく。とにかく諦めが早かった。そうかと思えば、やがてまたふらりと戻ってきて、神妙な顔でいちおう次の問題にとりかかろうとする。しかし、とにかく集中力がもたない。 勉強が好きか嫌いかでいえば、そこまで好きではなかったのだろう。「コロンブスが立てたものは何ですか」という問いの解答欄に五文字を書き入れる必要があるというだけで、正答である「ゆでたまご」を抜き出してくるかわりに、とりあえず「コロンブス」と書き殴ってしまうようなところがあった。後に聞かされた話では、新宮市は和歌山県内でもとにかく学力が低い。市の教育委員会はそれを恥ずべきこととでも思いこんだのか、自分たちの面目を守るための学力稼ぎのため、今年の小学校の夏休みの始まりを八月一日として、七月末まで生徒を学校に通わせたということだった。 女の子はやがて夏の宿題を諦めてしまった。僕たちは僕たちで子供の邪魔にならないよう裏手の台所にさがり、熊野大学についてのたわいもない雑談をはじめた。初期の熊野大学の参加者にはその後、左翼系の社会運動にたずさわっていった人たちがいるという話、柄谷行人のニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント(NAM)もそのひとつだという話から、なぜそれが失敗したのかという話になった。それがやがて地域通貨とテクノロジーの問題、僕が今考えているのら公務員運動のことに話が及んだとき、突然ゴムボールが投げこまれた。 おい、キャッチボール! という。女の子が痺れを切らした顔でボールを投げかえしてくるのを待っていた。Mさんはまた、よっしゃ、と声をあげた。それで、座敷でのボール遊びが始まった。いま何が重要なのかはだれの目にもあきらかだった。僕はそのときふと、中上が死の間際に「子供会」の思い出を柄谷行人に語っていたことを思い出した。自身がまだ小学生だった1950年代のことを中上は次のようにふりかえっていた。 先生たちも、それこそ初期のソビエトを作ろうみたいな動きが、教育にあった時代ですよ。新しい価値を作りだそうという熱意があった。授業が終わってから子供会というのがあって、楽しかったのです。「路地」の中だから、「路地」というのは学校へ行かない奴が多かったりするから、先生たちが一所懸命出かけてきて、勉強を見てやる。だいたい週に二回か三回ある。そうすると僕らは学校行っているけれど、行かない子供たちが来てワイワイ騒いだり、もちろん勉強してもいいんですけれど、ほとんど騒ぎですね。そのときに「路地」の話好きな人が来て、話を自分で作って話すとか、子供たちで幻燈会をするとか、勝手に芝居を作ってやるとか、いろんなことをやった。そういうことが活発にあった。そういう一番いい時期に、僕はその子供会にいたのです。[…]当時は、あのときの子供会の活動とか、教育というものが、ほんとに価値として掲げられていたんですよ。この子たちに教育を与えなくちゃいけないのだ、教育によって人間は変わりうるんだという、自覚と自信みたいなものがあった。それに対して、大人もみんな真面目に考えていた。(中上健次電子全集 21) まだこころざしを広く共有することができる時代があった。組織の論理に従うことではなく、こころざしに突き動かされることこそが大人の責任であるような時代があった。そんな時代の熱気こそが今自分がやっている熊野大学の元になっているのだと中上はいう。 その日、夕方になって新宮に到着したほかの友人らを迎えに行くために僕たちは駅にむかった。その足で飲み屋に流れこみ、熊野三山や太平洋といった地酒を味わうつもりでいた。また、城下町にある丹鶴商店街ではタンカクフライデナイトという祭が催されるということだったから、酔いに任せて市中を歩きまわるつもりでいた。そこで「えんがわ」をそっと後にして、用水路の小橋を渡った。すると、女の子の声がした。 どこへ行く、という。この私をさしおいて、という顔で、用水路のむこう側の欄干から身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。橋を越えてくることはなかった。飲み屋さん、と答えると、女の子は眉をひそめ、首を傾げる。また会えるよ、と言うと「どこで」という。タンカクフライデナイトで。「どこ、それ?」丹鶴商店街。「どこなん?」多分、スーパーオークワの近くかな。「どこ? わからん。」うーん。城下町のほうだと思う。「城下町?」でも、まあ、とにかくそこで会おう。「でも、どこなの? わからんよ。」大丈夫、だれかに聞いたらわかるから。「わからんよお。」大丈夫、大丈夫。また会えるから。また、会おう。また。そう言って僕たちはなかば強引に歩きはじめた。しばらくしてふりかえると、まだこちらを見ていた。 いまになって、不真面目な発言をしてしまった、と思う。いったいなにが「大丈夫」だったのだろう。すくなくとも僕は、けっきょくその子と二度と会うことはなかった。だれも城下町に行かなかった。タンカクフライデナイトのことはすっかり忘れたまま飲み屋に入り浸っていた。きっと、女の子も、わざわざ城下町まで行くことはなかったはずだ。いまとなっては、本当にそのような祭があったのかどうかさえ疑わしい。しかし、もし本当にあったとしたら? そして、そこで本当に女の子が僕たちのことを待っていたとしたら。 家に帰るまでが遠足、という慣用句がある。僕たちは夜更けに酔った足でかろうじて「えんがわ」に辿り着き、そのまま昏倒するように一泊することになったが、そのときにはもう子供たちの姿も見当たらなくなっていた。子供たちはどこに帰ったのだろうか。帰るべき場所はあったのだろうか。そして、そのときぼくたちは本当にうまく帰ることができていたのだろうか。 コロンブスはといえば、まわりを巧妙に言いくるめて冒険に発つことができた。しかしその後、無事に遠足から帰ってくることができたのだったか、できなかったのだったか。その翌日になって、熊野大学の夏季セミナーがはじまったとき、僕の頭はコロンブスのことでいっぱいだった。

10 Aug 2024 · のなみゆきひこ

シェヘラザードのたくらみ⎯⎯中上健次のための千夜一夜物語考

千夜一夜物語という説話集がある。一般にはイスラム世界のものだと考えられているけれど、千夜一夜の物語が揃ったのは西洋でのことだった。というのも、東洋学者オリエンタリストのアントワーヌ・ガランがはじめてフランスに紹介する際に依拠した写本には、三百夜にも満たない数の物語しか収められていなかった。それが文字通りの千一夜にまで膨れあがったのは、植民地主義のまなざしのなかで物語が蒐集され、ときに創作された結果である。とはいえ「文字通りの千一夜」という言い方には、語弊がある。千夜一夜物語はいまでこそアラビア語で「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」として知られているけれど、もとはただの「アルフ・ライラ」、つまり「千の夜」に過ぎなかったからだ。そして、この「千の」は「多くの」という意味で使われていたのだった。「八重桜」の「八」のように。ところが、何かの悪い冗談だったのか、オリエンタリストたちの手に渡るころには千一夜の物語として知られるようになっており、そのいかにも厳密な言い方を真に受ける者がいたのだった。 千夜一夜物語は文字通りの意味でのお伽話である。お伽とは夜の相手となって無聊を慰めることである。話し相手にも性交の相手にもなる。古くは「物語」という語にもこのような二重の意味があった。千夜一夜物語はまさにそれ自体が一つの長い前戯でもあるような千一夜の寝物語ピロートークとして展開する。とはいえ、対等なかたちの交わりではない。つまり対話的ではない。というのも、性の遊戯のなかで積極性を発揮するのが男の方であるのだとしたら、女の方は物語において積極性を発揮するからだ。女の方は夜ごと男の耳の穴を犯すように物語を吹きこみつづける。 事の発端はこうだった。むかしむかし、シャフリヤールという王がいて、自身の后がひそかに数多の奴隷たちと淫蕩のかぎりを尽くしているところを目撃してしまう。王は怒り狂い、后の首を刎ねた。自身が王という権力者であってなお裏切られてしまう、ということに衝撃を受けたのだった。王は王として女を独占しなければならない。王は力によって支配できないものの存在が不安だった。そこで思いついたのが、国の処女を夜ごとに寝床に呼びつけ処女を奪った後に殺してしまう、という計画だった。殺してしまえば、その後不貞を働かれることもない。このように、王は王としての力を発揮することによって、自身の不安を取りのぞこうとした。そこで、王は三年にわたって──つまり約千一夜にわたって──処女に夜伽をさせ、そのたびに命を奪っていった。ところが、処女を集める使命を担っていた現場の大臣は、ある日もう王国に処女が残されていないことに気づく。残されていたのは、長女のシェヘラザードと次女のドニアザードだけだった。 悲嘆にくれた父にシェヘラザードが言う。自分が行く。自分には秘策があるので安心してほしいと。その策とは次のようなものだった。シェヘラザードは王の夜の相手をした後、最愛の妹であるドニアザードに言い残しておきたいことがあるという。妹には物語を一つ聞かせるという約束を前日にしていた。死の間際とはいえ、その約束だけは守らなければならない、と。王はそれを許した。そこでシェヘラザードが物語をはじめると、王は物語の虜になってしまう。ところが夜明けが近づき、佳境にさしかかったところで、シェヘラザードは口をつぐむ。そのタイミングで、明日続きをきかせてほしい、と妹がせがむ。こうして新たな口約束が結ばれ、物語の「おあずけ」が千夜にわたって続くことになり、そのあかつきには思いもよらない衝撃的な結末を迎えることになる。 物語は、千夜にわたって果てない。オルガスムに達しない、という意味において。こういってよければ、つねに前戯の延長線上にとどまり「本番」が始まることはない。王が主導する夜伽=性交においては、王の射精とそれに続く処刑という力の行使によって幕が引かれる。しかし、シェヘラザードの夜伽=物語は、性の遊戯を生への遊戯へと転嫁させるための千のクライマックスがある。『千のプラトー』に引かれたグレゴリー・ベイトソンの言葉をかりれば「一種の連続した強度のプラトーがオルガスムにとって代わっている」。ドゥルーズ=ガタリは続けて言う。「一冊の本は章から構成されるかぎり、それなりの頂点、それなりの終着点をそなえている。逆に、もろもろのプラトーからなる本、脳におけるように、いくつもの微細な亀裂によってたがいに通じ合うプラトーからなる本の場合は、どのようなことが起こるであろうか? 一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ」。 このような物語のあり方は、千夜一夜物語においては枠物語の仕組みによって実現されている。千夜一夜物語は、千夜一夜にわたる長い一つの物語なのではない。シェヘラザードがそうであるように、物語の中の登場人物もまた語り手に転じることによって、物語は多次元的に深まってゆく。そしてこの仕組みこそが王を物語の深みへとはめこむシェヘラザードの企みなのだった。西尾哲夫によれば、アラブ世界には女性の弄する悪知恵を意味するカイドという言葉があるらしい。日本語で用いられる「奸よこしま」の漢字にも「女」が含まれているけれど、イメージとしてはそれに近いかもしれない。力のない者の発揮する奸計。 シェヘラザードは力によらず、言葉のたくらみによって自身の命を救い、千人の処女の命を救った。物語は三年に及ぶ処女殺しという一本の歴史の線を打ち消すように深まってゆく。シェヘラザードはふしぎな生き延び方をした。フランス語では「生き延びること」を「survie」という。サバイバルである。しかし、この語は同時に「死後の生」や「魂の不死」をも意味する。もし仮にシェヘラザードが彼女自身の物語のなか、つまり彼女自身が主人公として登場する第一夜の物語にとどまっていたのなら、彼女は殺されていただろう。それが彼女の運命さだめだった。時間がまっすぐに流れる先には、必ず死が待ち受けている。どれほど力がある者でも、死を避けることはできない。一人のひとの運命はつねに一つである。けれども、また、人の数だけあるのが運命である。そしてシェヘラザードは別の運命=物語を語ることで、自身に待ちうける死を逃れた。このとき、シェヘラザードは単に残された生の猶予を延長したという点、変えられない運命を引きのばしたという点で生き延びたのではない。同時に、別の運命を開示してみせること、千一夜にわたって明けない夜に幽閉された自身の物語ではなく、その彼方にある昼の物語を開示してみせること、自身もまた千にあるうちの物語の登場人物の一人にすぎないことを示すことで死後の生を得た。これは同時に、一つの物語の登場人物として死を運命づけられていても、それでいてなお未知の物語の語り手にもなりえることの開示でもある。物語は生き延びるため、圧倒的な死の力に抵抗するためにある。

27 Nov 2022 · のなみゆきひこ

話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか

リズムという観点から話法と文体について思うところがあったので覚書を残しておきたい(本来なら章立てをした上でそれにふさわしい展開速度とリズムで論じるべきものだけれど、メモとして必要なことを書きつらねただけなので多分、読みにくい)。 ここでいうリズム、話法、文体とはなんだろうか。英語では話法のことも文体のことも style という。たとえば直接話法のことは direct style といい、文語体のことは written style という。両者とも「語りの様式」であるという点では同じだが、話法は文法的に基礎づけられた物語論の概念であるのに対して、文体は文学や文体論の範疇にある。両者の区別に関してはすでに様々な議論がなされてきている。一方、ここでいうリズムは、やや特殊な意味で用いられている。後に述べるように、音の規則的な連なりのことではなく、論理的な意味の連なりのことである。話法はリズムの問題に直接的に関与しない一方、文体にはそれぞれリズムがある。このとき、間接的な形であれ、話法は文体のリズムにどのような影響を与えるか、というのが、ここで提示したい問いである。 日本語には「語り」と「語りかけ」という二つの異なる話法がある。これは黒田成幸の議論を引きつぐ形で「言文一致体再考」のなかで筆者が提示した概念である。語りとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持たない発話、誰に語りかけるでもない発話のことだ。語りかけとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持つ発話、誰かに語りかける発話のことである。前述の文章のなかで私が論じたのは、言文一致運動とは「〜た。」という文末表現の定着によって「語り」という話法が可能になるような歴史的過程だった、ということだ。言文一致体とは一つの文体のことであるが、その文体を可能にしたのが「語り」という話法であった、と言うこともできる。 そのかたわらで、日本語にはいわゆる常体(である体)と敬体(ですます体)の区別もあることを指摘しておかなければならない。その呼び方に反して、これらはけっして文体論的は概念ではない。厳密には述語の活用形の問題であり、文法論の範疇に属するものだ。しかし、この二つの活用形は、語りと語りかけという二つの話法を文法的に基礎づける上できわめて重要な役割を果たしている。詳細は前述の文章にゆずり、ここでは議論の簡素化のために、常体によって「語り」が可能になり、敬体によって「語りかけ」が可能になるものとしよう。 言文一致運動のなかで生まれた「語り」は、独自のリズムを持った様々な文体を生みだした。文体論に明るくない筆者には、それがどのようなものなのかを具体的に論じることはできない。ただ、一例を挙げるなら、自然主義文学の到達点として江藤淳が褒めたたえた中上健次の『枯木灘』に見られる文体は典型的な「語り」によって構成されていると言うことができる。「語り」には「語りかけ」にない特徴がある。それは、言語コミュニケーションがそれ自体で完結しており、一つの操作的な閉じであるようなシステムを作っているということだ。これに対して「語りかけ」は操作的に開かれている。 このことを具体的に理解するために「語り」のなかでなされる「問い」と「語りかけ」のなかでなされる「問いかけ(質問)」の違いを考えてみたい。例えば「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という文章は語りであり、問いである。それを「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるの?」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えますか」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるのでしょうか」といえば、語りかけになり、問いかけ(質問)になる。この両者を比較することで日本語話者が直感的に理解できるのは、前者と後者には聞き手からの応答を予期しているかどうかの違いがあるということだ。このとき、前者は操作的に閉じられており、後者は操作的に開かれていると言える。 このような前提に立った上で「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という問いを提示したい。(残念ながら)筆者には答えがない。そのためこのテキストそのものは、質問をだれかに投げかけていないという点で操作的には閉じられているが、論理的には完結していない。問いが宙吊りのままだからだ。しかし、この問いをゆくゆく扱ってゆくための道筋をさしあたり一つ示しておきたい。 そもそもここでいうリズムとは何か。リズムといえば一般には、音韻論的な意味での韻律のことであり、拍や音節の問題に直接的に関わるものとして理解される。しかしここでは、論理的な意味の連なりのあり方としてのリズムというものを考えたい。たとえば「筆が乗る」という言い方がある。辞書には「作家や書家などが調子よく書くさま」とある。ここでいう「調子」には、たしかに音韻論的な側面もあるが、それだけではない。論理(意味の連なり)に導かれる形でことばが展開するさまも示している。あるいは、ほかの一例としては、会話にもリズムがあるということを指摘できる。「会話が弾む」といえるような状況では、意味の連なりに自然な流れがあると考えられるだろう。ここでは「呼び水」の比喩をとおしてこのことを理解することもできる。水は水を呼びこむことができる。「呼ぶ」という語は、「読む」と同じ語源を持っているという説があるが、なにかを共振させ共鳴させることでこちらに引きつけるという語義がある。このような共鳴の力をことばも持っている。 これは専門的には談話の結束生や結合性の問題系のなかで扱われるべき事柄である。ここでは一例を示しておくにとどまる。たとえば「こんにちは」という語。文字通りに読めば、これは「今日は?」という問いかけである。述語を欠いたまま、とりたて助詞の「は」が浮いている。「今日は〜です」という文を共作し、完結させることを求めるように。そのような論理的な訴求力がことばや言葉遣いにはある。それと同じことがある一つのテキストを構成する一つ一つの文にもいうことができるが、そのような意味の連関のなかで織りなされてゆく秩序のことをリズムとここでは呼びたい。 このような意味でのリズムは文章が語りベースの文体であるか語りかけベースの文体であるかによって大きく異る。というのも、前者は操作的に閉じられているので、聞き手への働きかけをすることもなければ、応答を期待するものでもない。そのため、テキストの内的な論理にのみ従ってことばが展開されてゆく。その一方で、後者は、閉じられた論理を持たない。言文一致運動以前に作られた戯作や落語の語りがその典型として考えられるが、そこではなにかを訴えかけたり、問いかけたりするような語り手の存在感が際立つことになる。悪く言えば、煩い。その煩ささがことばのリズム(論理的な意味の連なり)を不安定にする。 話法の区別は文法的な形の区別(典型的には常体と敬体の区別)に基礎づけられている。そのため、文体の持つリズムへの直接的な影響はない。たとえば、常体で書かかれたテキストの一文一文を機械的に敬体に変換するという操作を行ったのなら、そのときに意味の連なりとしてのリズムの違いを見出すことはできない。しかし、同じ内容の文章をそれぞれ二つの話法によってはじめから書こうと意図した場合はどうだろうか。きっとまったく異なる内容のものができあがるはずだ。なぜなら、一つ一つの文の持っている結束性や結合性、つまり次の文を呼びこむ力が話法により異なるからだ。そして、まさにこの点に、文章の創作のおもしろさの一つがある。 ある人が小説をはじめとするテキスト書きはじめるような場合に語りの話法を選ぶか語りかけの話法を選ぶかということは、日本語において重要な問題でありつづけてきたが、おそらくそれが現代ほど重要な時代はいまだかつてなかったのではないだろうか。インターネットが普及する以前は、だれがだれにあててどんな立場で書くか、ということを多くの小説家が意識せずにすんだ。誰に語りかけるでもない「語り」によってことばを紡いだとしても、読者はそれをまっすぐに小説として受けとめることができた。読者にはそれだけ多くのアテンションを割くことができた。しかし、現代は、読むことの困難の時代である。アテンションを呼ぶこと(call attention)の困難の時代でもあると言ってもいい。言語学的には、このことを談話の結合性の問題の一つとしてとらえることもできるが、それを広げれば、意味のあるテキスト・コミュニケーションの困難の問題である、と言うこともできるだろう。そんな状況のなかで日本語の話法の選択にとまどいを覚えはじめいる人はきっと少なくないはずだ。

9 May 2022 · のなみゆきひこ