統一教会の解散をめぐって今、地下鉄サリン事件の記憶とともに宗教二世が思うこと

統一教会の解散請求がなされたのは、2023年10月12日のことだった。正確にいえば、宗教法人法第81条に基づき、統一教会への解散命令を出すよう文部科学省が東京地方裁判所に求めた。それを受けた裁判所で四度の審問が重ねられ、2025年1月27日に審理がすべて終わった。早ければ年度内には判決が下されるのではないかと言われている。 私はこれまでに何度か統一教会の「祝福二世」として記者たちからの取材を受け、教団の解散についての意見を求められてきた。そのたびに私は自分のことがよくわからなくなった。いたずらに自分自身がぶれてゆくだけだった。ただひとつ、非常に身勝手な気持ちとして、自分に言い聞かせていることがある。統一教会には解散命令が下されるべきではない。理由はふたつある。 ひとつは、教団もろとも私自身も死んでしまうおそれがあるということ。これまでずっと、この世界から消えたい、と天に祈るような思いで生きてきた。消えることができないなら、せめてどこまでも透明な存在でいたかった。しかし、2022年の白昼に安倍晋三銃撃事件が起きたときには、バケツになみなみと注がれた血をこの身体にぶちまけられたような気分になった。社会に穿たれた穴から無数の醜聞が引きずりだされ、衆目を集めた。二世たちは憐憫を買うとともに奇異の目でも見られた。 私自身は、信者たちの組織的な生殖行為によって生みだされている。それはあらゆる点において犯罪的な行為というほかないけれど、それがなければそもそも私は生まれていなかった。その点、教団は私の生みの親そのものだ。私の故郷。私の起源。それが今、手荒に葬られようとするのを目の当たりにして胸が張り裂けそうだ。同じ反社会的な存在として、私自身もこの世界にいることが許されていないような心地がして、不安になる。 もうひとつは、真に消滅すべきものは統一教会や私以外にもあるということ。この国にこそ解散命令が出されてほしい、と私は今、心の底から天に祈っている。この国というのは、日本国政府のこと、ひいては私たち日本国民のことだ考えれば考えるほど、この私たちこそが諸悪の根源だというほかなくなる。私たちに比べてあまりにもちっぽけな集団にすぎない統一教会は、トカゲのしっぽにすぎない。しっぽを切ってみたところで、真の責任がこの私たちの無責任のなか、私たちという巨悪のなかにあることに変わりはない。 東京都千代田区には私たちの集合的無責任を象徴するような存在が暮らしている。それは単に憲法第一条にそう明示されているからだけではなく、身を持って無責任の不言実行をなさってくださっているのだと、私は今思う。では、無責任な者が無責任の責任をとらないままやり過ごそうとしていると、その結果何が生じるだろうか。さまざまな皺寄せや歪が生じる。統一教会問題もそのひとつである。では、統一教会は消えるのに、私たちの象徴が消えずにいるのは、なぜなのだろう。ほんとうに「反社会的」なのは、いったいどちらのほうなのだろうか。 これまでにも反社会的であることを理由に存在を許されなかったものは無数にある。たとえば、オウム真理教。1995年に解散命令が下された。地下鉄サリン事件は、ちょうど三十年前の明日(2025年3月25日)に起きた。幼かった私にとっては、ただ禍々しいだけの事件だった。そもそもの事件の動機にまで思いを馳せるだけの力もなかった。教祖の麻原彰晃が多くを語らないまま2018年に処刑されたこともあり、事件はいまだ後味の悪さを残したままでいる。 ここでは、事件に関する仮説をひとつ紹介したい。統一教会の解散が差し迫る今、それが無責任な私たちへの示唆を与えてくれる気がするからだ。仮説というのは、藤原新也が『黄泉の犬』のなかで提示したもの。藤原によれば、麻原彰晃はこの社会によって自分の視力が失われたと考えていた可能性がある。 麻原彰晃は1955年に熊本県八代市に生まれたときにはすでに先天性緑内障にかかっていた。八代市といえば、水俣病の舞台となった八代海に面した町のひとつで、水俣市から車で四十分のところにある。また、1955年といえば、後に水俣病の初報とされた新聞記事のなかで百匹あまりの猫が狂死したとして「猫踊り病」が報じられた翌年のことである。麻原の兄や弟も視覚障害を患っていた。全盲の兄の証言によれば、水俣病が原因なのだという。水俣病の被害者認定の申請を市役所にしたこともあったが、棄却された。認定を求めて戦えば、地域社会のなかでも「アカ」扱いをされるので、そこで諦めたという。 麻原の視覚障害が実際に水俣病によるものだったのかどうかは今となってはわからない。それが事実なのかどうかが重要なのでもない。重要なのは、私たちの想像力だ。そして、私がここで言いたいのはただ、オウム真理教が丸ノ内線などに撒き散らしたサリンとチッソ株式会社が八代海に垂れ流したメチル水銀には興味深い共通点がある、ということ。それは、両者ともに目に見えない形で拡散するということ。そして、視覚障害を引き起こすということだ。そこで、ひとつの疑問が湧く。麻原はいわば「目には目を」の実践をしたのではないか。二重の意味で「不可視」の存在だった麻原。文字通り視力を奪われた被害者であるとともに、巨大な力によって存在しないことにされつづけた。 水俣病という災厄は見えない生体濃縮の連鎖をとおして結実する。それと同様に、麻原の生をとおして結実した災厄があるとすれば、その背景にはだれの責任ともつかない不正の連鎖、恨みの連鎖の果てしない拡がりがあったのかもしれない。障がいを背負って生まれてきたのは天罰である、とこころない言葉を吐く声はかつて無数にあったし、いまもそのような声はあるのだろう。しかし、真に天罰に値するものがいるとすれば、それはこの無責任な私たちをおいてほかにない。 もとはといえば、統一教会の教祖の文鮮明もこの世界に満ちた「恨ハン恨ハン」を解くことをその使命にしていた。しかし、彼が結果的にもたらしたのは恨の連鎖の拡がりだった。それが生体濃縮することによって生みだされたのが、統一教会の二世でもある。声をあげれば、背後にアカ(サタン)がついているとされた。そして、不可視の存在であることを強いられつづけてきた。そんな二世を食えば、めぐりめぐった毒の味がする。2022年の銃撃事件もそんなめぐりあわせの渦中に起きたものだ。 今、私たちの目には何が見えているだろうか。私たちは私たち自身の姿を直視することはできない。私たちに見えるのは、私たちの影だけである。鏡という日本語はもともと「影見」を意味する。この世界はいつも私たちの鏡写しで満ちている。それをみにくく思うあまりに手を上げ鏡を粉々にしたところで、私たちのみにくさは消えない。むしろいっそうみにくくなってゆく。そして、私たちの盲目が深まってゆくだけである。では、今、私たち自身のこの暗闇のなかで、いったい何ができるのだろうか。 この私は今、これから、何ができるだろうか。憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。そうだとすれば、私は決して日本国民になることができない、と思う。統一教会のいう「天一国」の国民でいたほうがまだいい。この国の根幹をなす「総意」がいつまでも無責任なものでありつづけるかぎり、闇は決して晴れない。

19 Mar 2025 · y. nonami