私は現在、戸籍上の氏名の変更許可のための申立をしています。これは一部の宗教二世にも関わる事案なので、記者会見をすることにしました。一部というのは、宗教上の都合によって望まない氏名を与えられた二世たちのことです。たとえば、私の場合は統一教会の二世にあたりますが、そのなかでも祝福二世と呼ばれる人たちがその典型です。

統一教会はいわゆる合同結婚式(祝福)をとおして信者たちに祝福家庭というものを作らせ、組織的な生殖行為をさせてきました。祝福二世というのは、その結果生みだされた新しい信者のことです。統一教会では、祝福二世は人の子ではなく、神の子、教団という大家族の子である、と考えられています。そのため、教団が神の子の名づけ親になります。具体的には、まず、家庭局というところが教祖の定めた漢字を使って名前を作ります。その後、それを伝達された二世の生みの親が奉献式という儀式をおこない、命名をします。この儀式は、自分たちが二世の親ではないこと、教祖こそが真の親だということ、すなわち二世は神の子であるということを神前で誓う、という趣旨のものです。

こうして組織的に作られた名を名乗らされ、神の子としての人格を強いられるということ。これは統一教会による組織的な犯罪の被害実態のひとつです。2022年の安倍晋三銃撃事件が起きるまではそもそも宗教二世の存在自体が見過ごされてきたことでした。私自身も口をつぐみつづけてきましたが、ほかの二世信者が声をあげはじめたのに勇気づけられる形で、2024年10月に氏名変更の申立をすることにしました。

結論から言えば、私の申立はすべて棄却されています。まず、今年の3月3日に東京家裁(足立瑞貴)からの棄却判決を受けています。即時抗告をしましたが、4月23日に東京高裁(佐々木宗啓、浅田秀俊、古谷健二郎)によっても棄却されることになりました。棄却の理由は、原審の立場を単になぞるだけのものでした。次のような判決です。

[私の戸籍上の氏名は]それ自体から旧統一教会との関連性を直ちにうかがわせるものではなく、申立人が同氏名を名乗ることにより精神的苦痛を受けているとしても、それは申立人の主観的な感情にとどまるものといわざるを得ない。

高裁での判決を受け、4月25日(金)に許可抗告の申立をしました。氏名がその字面から直接統一教会との関係性を連想させるものかどうかという表面的な点のみをもっぱら問題とし、申立の理由を申立人の主観的な感情にとどまるものとして棄却するこの判決は、下記の重大な事実を覆い隠すものだからです。

  • 第一に、申立人は戸籍上の氏名を名乗らされることにより基本的人権を侵害されているという事実。
  • 第二に、上記の事実は統一教会による組織的な犯罪行為の結果生じた被害であるという事実。

第一の事実を蔑ろにするという点において、高裁の判決は違憲です。具体的には、下記の人権の侵害が見過ごされています。

まず、憲法十三条によって保障されるべき人格権。判決は以下の事実を考慮に入れていません。

  • 大前提として、氏名は個人の特定機能だけではなく、個人の人格の構成機能を持つ「人格的象徴」のひとつであるということ。1988年2月16日の最高裁判決の言葉を借りれば「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するものというべきである」ということ。したがって、社会的相当性だけではなく人格権の観点から、氏名がその使用者にもたらす人格的(不)利益が考慮されるべきであるということ。
  • 申立人の人格的象徴である氏名のうちの名は、東京高裁が事実として認める命名の経緯からも明らかなとおり、それが統一教会の家庭局によって神の子の名前として組織的に作りだされたものであり、申立人を個人(教団とは無縁なひとりの人間)として尊重するものではない以上、申立人はそれを自身の名として強要されることによって憲法によって保護されるべき人格的利益を著しく損なわれ、精神的苦痛を被ってきたということ。

次に、憲法二十条によって保障されるべき信教の自由。判決は以下の事実を考慮に入れていません。

  • 申立人の戸籍上の氏名は、それによって象徴される神の子としての人格が統一教会という大家族に属するということを含意するものであるということ。すなわち、表面的には教団との直接的な関連性を示すものではないとしても、名が奉献式という宗教儀式をとおして命名されたものであること、氏が合同結婚式という宗教儀式によって作られた家庭のものであることからも自明のとおり、氏名の使用者である申立人にとってはそれが単なる世俗的なものではありえないこと。そのため、それは単なる主観的な感情の問題なのではなく、宗教的人格権(他者からの干渉を受けずに、みずからの信教の自由を享受する権利)を著しく損なうものであり、現に申立人に深刻な精神的苦痛をいまなお与えつづけているものであるということ。

最後に、憲法一四条によって保障されるべき平等権。判決は以下の事実を考慮に入れていません。

  • 申立人の戸籍上の氏名は、申立人が祝福家庭に生まれた神の子という宗教的存在であるということを象徴することによって、家庭内における虐待や差別を助長し、申立人自身の差別意識を醸成してきたということ。具体的には、申立人は祝福家庭に生まれた神の子である以上、罪深い一般人と性関係や婚姻関係と結ぶことによって神の血を汚すことは許されない、といった差別的な教義を正当化してきたということ。このような教化の一端を担ってきた実績を持つ氏名をいまなお名乗らされることで、申立人は現に差別を受けている(神の子としての人格を強いられている)と感じ、平等権を侵害されることによって深刻な精神的苦痛を受けつづけているということ。

これらの人権侵害の被害を「主観的な感情」として切り棄てる判決は、単に違憲であるだけにとどまりません。被害が統一教会による組織的な犯罪の結果であるという事実を見過ごすという点において、悪質です。今回の申立が棄却された場合は、次のようなメッセージが統一教会の祝福二世だけではなく、宗教的な理由によって望まない氏名を与えられた宗発二世たちにも発せられることになります。

  • 国から解散命令が下るほどの反社会的な組織によって命名され、世俗的な一個人として尊重される人格ではなく二世信者としての人格を強いられてきたことによって深刻な精神的苦痛を長年にわたって受けてきたとしても、それは主観的な感情の問題にすぎない(基本的人権の侵害にはあたらない)。
  • したがって、それは氏名変更のやむをえない理由、正当な理由にはならないので、氏名のせいでたとえ自殺したくなるほどの苦痛に苛まれることがあったとしても、これからもせいぜい二世信者としての氏名とそれが象徴する人格を一生背負って生きてゆくしかない。

そもそもこれまでに一部の宗教二世たちが被ってきた被害は、単にある特定の教団が組織的な犯罪行為をしてきたということにとどまりません。そうではなく、さまざまな関係者がそれぞれの資格において人権侵害を追認し、無責任にも犯罪に加担してきた結果として生じています。とりわけ司法の世界において、ちょうど今回の事件のように人権侵害という深刻な被害の実態がもみ消されることで、さらなる被害の発生を助長してきました。この点に鑑みても、今回の判決は重大な人道上の問題を含んでいると言わざるをえません。

最高裁において判決の違憲性と悪質性が明らかになり、宗教的な理由によって望まない氏名を与えられた二世たちにとっては生きる励みとなるようなメッセージを送れることをこころより願っています。