〒100-8956 東京都千代田区霞が関1-1-2 東京家庭裁判所家事第二部
裁判官 足立瑞貴様

無事、2025年3月3日に判決文を拝受し、末尾にはあなたの氏名と押印があるのを確認しました。それがあなたの戸籍上の氏名でもあるのでしょう。そしておそらくあなたはそれを自分自身の氏名だと考えていることでしょう。つまり、誰ですか、と素性を問われたときには、きっとあなたは「足立瑞貴」だと答えることでしょう。なぜなら、判決文の言葉を借りれば、それが氏名というものの有する「特定個人の同一性を表象する重要な機能」だからです。

では、そんなあなたにいまこうして語りかけているわたしは誰でしょうか。わたしにはそれがわかりません。冗談ではなく、本当に自分が誰なのかがわからないのです。ただ、統一教会の「祝福二世」だということはわかります。信者たちが組織的な生殖行為に加担させられることよって生を受けた二世です。名も教会によって組織的に作りだされ、それを名乗らされることになりました(信者に命名権は与えられていません)。それはいわば「神の子」に与えられたコードネームのようなものです。つまり、わたしは生まれつき、個人的な名前を、わたしをひとりの個人として尊重してくれるような名前を奪われているのです。わたしをこの世界に一個人として存在させてくれる名前を持ちあわせていないのです。

昨年の夏にこの島に移り住んできてからは「のなみゆきひこ」と名乗ろうとしたこともありました。法的にものなみゆきひこでいられるように東京家裁への氏名変更の申立もしました。わたしの主張は、自身が「旧統一教会によって作り出された存在であると感じ、自身の存在自体を否定したいほどの精神的苦痛を感じるため、氏名の変更する必要がある」というものでした。そして、先日、共同通信NHKをはじめとするメディアによって報じられたとおり、この申立が2025年2月26日付けで棄却されていたことがわかったのです。わたしは途方にくれました。わたしはいったい、何者なのでしょうか。これからなんと名乗っていけばよいのでしょうか。

ところで、あなたはコンラート・ローレンツのことをご存知ですか。刷りこみの研究で知られるオーストリアの動物学者です。刷りこみというのは、鳥類のヒナが生まれてはじめて目にした動物を親だと思いこんでしまうという現象のこと。ふしぎなこともあるものです。昨日のわたしにもそれと同じような事態が生じたのかもしれません。藁にもすがりたいような呆然自失の状態のなかで目にとまったあなたの氏名がふとこの自分自身の氏名のように思えたのです。わたしはさしあたりの通称として「足立瑞貴」を名乗ってみてもいいのかもしれません。気味が悪いからやめてほしい? しかし、考えてもみてください。わたしを個人として同定できるような名前を奪っていった者がいまもこうして平然と自身の名前を名乗っているということの意味を。こうして名乗りたくもない名を名乗らなければいけないことの苦痛を。

とうとう面倒な申立人にからまれてしまった。つまらないハズレクジを引いてしまったな、と思われたかもしれません。しかし、それが裁判官としての判決を下すということの重みであるということもあなたは承知しているはずです。たしかにあなたは国家機関の一部として職務を遂行する公務員のひとり、組織の歯車のひとつにすぎません。しかし、それでもあなたは氏名の保持者であるということ、私の生を決定的に左右することになる判決の責任の主体として名乗りをあげているのは足立瑞貴以外にないということもまた事実なのです。

そうである以上、すくなくともそれなりの論拠を持った審判を期待していましたが、いざ目を通してみて、そのずさんさに虚をつかれる思いがしました。あなたはきっと、氏名変更をめぐるさまざまな判例を注意深く読みこんだことでしょう。戸籍法にも目をとおし、氏の変更には「やむを得ない事由」、名の変更には「正当な事由」が必要であることを再確認した上で、その解釈をめぐって自分なりの思慮をめぐらせたことでしょう。あるいは、唄孝一のような法学者の学説を参照し、「結局各個別事件に対する個々の裁判官の自由裁量乃至主観にもとづく、具体的判定にまかされるほかない」ことを自覚した上で、先学の顰に倣おうと努めたのかもしれません。あるいは、2015年にマイナンバー制度が施行されて以来「特定個人の同一性」をめぐる行政のあり方が変化していること、統一教会への解散請求をめぐって宗教二世問題が衆目を集めていることを勘案した上で、現代においてなせることを見極めようとしたかもしれません。あなたが踏んでいったかもしれないそういった手続きに思いを馳せながら、わたしはあなたの言葉を吟味しました。そして、不服申立てをするほかない、と底しれない怒りに震えながら思いました。

判決文のなかであなたは「呼称秩序の維持・安定という利益と、個人の意思の尊重という利益の比較考慮」をしつつ申立を検討した結果、「[私の戸籍上の氏名の]いずれもそれ自体から旧統一教会との関連性を直ちにうかがわせるものではなく、申立人が同氏名を名乗ることにより精神的苦痛を受けているとしても、それは申立人の主観的な感情にとどまるものといわざるを得ない。前記のとおり氏及び名が社会的に重要な機能を果たしており、その変更には厳格な要件が課されていることに照らせば、申立人の主観的感情のみをもって、氏を変更する『やむを得ない事由』や、名を変更する『正当な事由』があるとは認められない」と結論づけています。

あなたのいう「厳格な要件」については、どこにも示されていません。ただ、あなたの演繹の前提として、精神的苦痛という感情(感情とはそもそも主観的なものです)の一種にとどまるものはその要件にはあたらないらしいということは、漠然と理解できます。そして、そのように考える根拠となるのが、これまでの判例ということになるのでしょう。しかし、あなたの判決にはいくつかの致命的な問題があります。論をずさんにさせているのは何より、個人の意思と秩序の維持の二つを天秤にかける「比較衡量基準」を上辺上は採用しておきながら社会的相当性のみを問題とする「社会的相当性基準」に拠っているという点ですが、さらに根深い問題があります。だからこそ、これからは東京高等裁判所において、あなた自身の言葉を検討の遡上にあげてゆくことになります。

ここではそれに先立ち、二点の問題を指摘したいと思います。なぜそれをここでするのか、そもそもなぜわざわざあなたにあててこの書状を書いているのかといえば、統一教会という社会問題を法廷という密室に閉じこめないためです。端的にいって、これは私自身の感情的な問題なのではなく、宗教二世一般に関わる人権問題です。それを司法の密室のなかで主観の問題として切り捨てようとするあなたの所作は、統一教会が社会問題化されずに国ぐるみで見過ごされつづけている現状をいたずらに再演するだけのようにも見えます。そして結局のところあなたの言葉は、統一教会問題というものが、単なるカルト問題ではなく、そもそも日本という国の人権意識や遵法意識の低さに起因するものでもあるということをはからずも露呈してもいるのでしょう。

第一に、あなたの判決は、わたしの人格権や幸福追求権、自己決定権を踏みにじるものです。わたしはあなたの判決を「自身の存在自体を否定したいほどの精神的苦痛」の源になっている氏名をこれからも「呼称秩序の維持・安定」のために名乗りつづけろ、という宣告として受けとりました。そこまでしてあなたが守りとおそうとする秩序とは何か、という疑問もよぎりましたが、なによりそれは、違憲なのではないか、という思いにもさいなまれます。日本国憲法第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という規定があります。では、国民であるわたしは国家公務員であるあなたから個人としていかなる尊重を受けたのでしょうか。わたしはただ、統一教会という反社会的な組織によって生まれながらに与えられたコードネームではなく、わたしが一個人としてこの世界に存在できるような名前がほしいだけなのです。

第二に、あなたの判決は、わたしの精神的苦痛を一個人の感情として切り捨てることによって統一教会による組織的な犯罪の被害実態を隠蔽するものです。あなたは「[私の戸籍上の氏名は]旧統一教会との関連性を直ちにうかがわせるものではない」と主張します。しかし、あなたはわたしの名が組織的な生殖行為や命名行為の産物であるということを知っているはずです。そんなあなたの口をついて出てくるこの言葉からは、いくつもの隠れ蓑(ファイヤウォールといいます)を通して組織的な犯罪を繰りかえしてきた統一教会を意図的に見過ごしてきた国の姿勢、法匪たちの姿勢があらためて思い起こされます。あなたはそのような国ぐるみの隠蔽があったからこそ安倍晋三銃撃事件が起きたこと、それが引き金となっていま組織的な犯罪の被害実態が明らかになりつつあることも知っているはずです。そんな状況下で、あなたはあなた自身の手によって統一教会問題の被害者の訴えを単なる個人の恣意としてもみ消すことにしました。しかし、私の氏名変更の訴えは、単に旧氏名がこのわたしの気に食わないという感情的な話なのではなくて、歴史的かつ組織的な被害、法的な裏付けの可能な被害をめぐる訴えなのです。

これから東京高等裁判所でどのような判決が下ることになるのか、いまのわたしには想像もつきません。わたし自身の素朴な願いとしては、氏の変更はともかく、名の変更に関しては決定を覆したいと考えています。その後の最高裁では、氏についての議論を深めることになるでしょう。わたしはあなたの判決をある種の挨拶代わりのジャブとして受けとめましたが、いまになって思えば、これは統一教会への解散請求をめぐる流れのなかでのある種の試金石といえるものになったのでしょう。今月中にでも統一教会への解散請求命令が出されるのではないか、と世間ではささやかれています。そんななかでいまこの私が強く思うのは、統一教会を解散させることによってはなにも問題は解決しないということです。憲法によって守られているはずの個々人の尊厳を踏みにじるこの国のあり方こそがいま問われているように思われます。