私は統一教会の二世です。信者たちが組織的な生殖行為に加担させられることよって生を受けた者です。山上徹也さんのように生後になってから親に連れられて入信した「信仰二世」との差別化をはかるため、教団の内部では「祝福二世」とも呼ばれています。あるいは「神の子」ともいいます。

2024年12月12日に共同通信NHK総合によって報じられたとおり、私は今年の夏に帰国後、東京家庭裁判所に氏名変更の許可を求める申し立てをしました。申し立てが受け入れられる公算は決して高いわけではありません。とりわけ氏の変更にはさまざまな困難が伴うことになるでしょう。それでも今回の申し立てをしたのには、それなりのわけがあります。

個人的には、教会によって与えられた氏名を名乗ることに耐えがたい苦しみを感じている、というのが理由のひとつです。この氏名のために何度となく自殺をしたいと考えてきました。一方、それとは別に、そもそもこの自分たち祝福二世とはいったい何者なのか、ということを今回の申し立てをとおして自分なりに明らかにしたいという思いもあります。これはなにより、同じ苦悩を抱えこんできた神の子たちへの呼びかけでもあります。統一教会問題にたずさわる司法関係者や医療従事者、メディア関係者だけではなく、なにより同じ二世にむけて書かれています。

そこで、祝福二世という存在をめぐるひとつの問いから話を起こしてみたいと思います。それは、祝福とは呪いのことではないのか、という問いです。呪術的なものから縁遠くなってしまった現代においては、きっと奇妙に感じられることでしょう。それでもたしかに、祝福二世には呪いと呼ぶほかないものがかけられているような気がするのです。ひとことで言うと、自分を生みだした教義に背こうとすればするほど自殺するほかなくなるという呪いです。2024年11月26日の記者会見の折にも述べましたが、実際、これまで多くの祝福二世がどこまでも透明な存在になろうするあまりに命を絶ってきました。今後も、安倍晋三銃撃事件によって引き起こされた衝撃の余波のなか、統一教会への解散請求をめぐる動きのなかで、自殺者が出てくることになるでしょう。

この呪いはもちろん、ファンタジーの世界で描かれるような神秘的な力などではありません。そうではなく、それは物語の力です。物語とは、とても簡単にいえば、言葉によって形作られた現実のことです。これから、その圧倒的な現実がいかなるものなのかについて述べます。まずはその足がかりとして、統一教会の教義を簡単に紹介させてください。

統一教会の教えと実践、その結晶としての神の子

統一教会の教義の核心にあるもの。それは「復帰」という考え方です。復帰とは、神の意志に背いて繰りかえされてきた人類の歴史の失敗をやりなおすということです。失敗の形はさまざまですが、その最たるものは、神を中心とした家族作りの失敗です。教会によれば、神は「真の家庭」を築くための男女として、アダムとエバを創造しました。ところが、エバはサタンと不義の交わりをすることで血を穢してしまう。さらにその体でアダムと交わり、穢れをある種の性感染症のようにうつしてしまう。穢れは原罪として子々孫々に伝わり、そのために人類は一度たりとも神を中心とした真の家庭を築いてこられなかったといいます。

教祖の文鮮明は、そんな歴史の失敗の巻き返しのために遣わされたメシアを名乗りました。ここでは復帰のことを英語で「リバーシー」と訳してみてもいいかもしれません。あるいは「オセロ」という類似のボードゲームのことを思い起こしてもいいでしょう。というのも、エバとサタンとの交わりが穢れの発生源であるのなら、今度はメシアとの交わりによってそれを打ち消し、血を浄めることができる、と考えられているからです。そうしてある種の血清を得た女たちがほかの男たちと交わることで、いわば正の感染爆発パンデミックが起き、人類全体の血が浄化されてゆく。そして、そんな男女たちが産みだした子は、メシアのように生まれつき原罪がないとされています。以上の考え方に基づいた組織的な生殖行為の実践はかつて「血分け」と呼ばれていました。

血分けは現在、あからさまな形では行われていません。そのかわり、それを象徴的な形に置きかえたものがあります。それが「祝福」です。世間では「合同結婚式」の名で知られているものです。祝福を受けた男女の信者は、指定された体位での生殖行為に手をつける前に「真の御父様」であらせられる文鮮明の血と愛の象徴が溶かしこまれているとされる聖酒を飲み、さらにはそれを体の各所に塗って身を浄めます。そうして象徴的にメシアと交わり、メシアの所有物になった上でこそ、真の家庭を築くことができると考えられています。

ここで押さえておかなければならない点があります。祝福二世というのは、合同結婚式に参加した男女がたまたま結果的に生むことになった子供ではない、ということです。そうではなく、家族作り、子作りこそが信仰生活の最大の目標だということ、だからこそ信者による生殖行為が組織的かつ意図的に実践されているということ、そのような実践の確かな成果物こそが、いわゆる祝福家庭であり祝福二世であるということです。

以上のことから、祝福二世が神の子と呼ばれていることの意味も明確になってきます。それはつまり、世俗的な意味での家族の子、人の子ではない、ということです。祝福二世はなにより、統一教会という神を中心とした大家族を構成する兄弟姉妹のひとりであり、文鮮明という現人神の赤子だということです。

このような大家族主義的な考え方は、一世信者とその肉親との関係を損なってきたものでもあります。特に1960年代から80年代にかけて入信した一世たちの間では、教祖こそが真の親、教会こそが真の家庭であり、肉親は穢れた俗世界にとらわれた偽りの親である、と考えられてきました。統一教会は英語圏では「文」という教祖の姓にちなんで「Moonies」つまり「文の一族」と呼ばれることがありますが、まさにこの大家族主義を端的に示すものです。世代が下ることになっても、それが今度は一世信者と二世との間の親子の絆を否定してゆくことになります。教会の言葉を使えば、信者たちの肉体はあくまでも「神の愛の王宮」にすぎません。そこで信者たちはある種の産む機械となって子作りに励むことになりますが、その結果生みだされてきた子は真の御父様の穢れなき血を引くものだと考えられています。

ところが、この大家族主義はまさにそれが組織的であるがゆえにひとつの重大な歪みを抱えこむことになります。それは、真の御父様は、子供たちに絶対的な愛と服従を求める一方で、現実の子育てに関与するわけではない、というものです。この非対称性の結果、現実においては、真の親の不在の家庭が生まれます。そこにいるのは一世も二世も含めた神の赤子たちだけです。それこそが合同結婚式によって組織的に作りだされてきた祝福家庭の内実です。人によっては、そこに天皇による人間宣言によってはじまった戦後という父なき時代の反映を読みとることもできるかもしれません。天皇は偽りの父であり、日本は偽りの国家なのだという嘆きもかすかに聞こえてきます。このことを祝福二世の目線でとらえると、彼らは世俗的な意味での家や親を奪われたみなし子の生、真の御父様からは遠く隔てられた生を与えられることになります。個々の事情はさまざまに異なりますが、基本的にはこのような実存の状況が現実に組織的に生みだされてきたといえるでしょう。

こうした状況を文字通り祝福ととるかどうかは、二世次第です。とはいえ、統一教会が反社会的で悪質な組織とみなされており、実際に無限の自己犠牲を信者に要求することでその生活を破壊してきた以上、祝福二世がなんらかの不遇を強いられることになるのは間違いありません。ときには不遇を信仰の力によって祝福に転嫁できるような場合もあるかもしれませんが、多くの二世は不遇から逃れ、自分自身の生を切り開こうとします。彼らがみずからにかけられた呪いに気づくことになるのは、まさにそのときです。

そこであらためて、祝福二世にかけられた呪いとは何かという問いに戻り、そのメカニズムを明らかにしなければなりません。

壮大なはったりによって組織的に生みださるということ

呪いとはなんらかの神秘的な力のことではなく、言葉によって現実を形作る物語の力のことである、と先に述べました。ここではそれを、騙りの力、でっちあげの力、ペテンの力と言いかえることもできます。英語では「トリック」と言えるでしょうか。ペテン師のことは「トリックスター」と言ったりします。日本語には「鷺を烏と言いくるめる」といった表現があるように、トリックスターは物事を逆転させることを得意とします。

トリックスターの一例として、シェイクスピアの悲劇『オセロ』の登場にするイアーゴという男を挙げることができるでしょうか。ちなみに、オセロというのは、物語の主人公であるヴェニスの軍人の名前です。彼が黒人であるのに対してその妻のほうは白人であることにちなんだのがボードゲームのオセロなのでしょう。あらすじをひとことで言えば、オセロが妻を殺した挙げ句に自殺する、という話です。なぜそんなことになってしまうのかというと、オセロが腹心のイアーゴにありもしない作り話を吹きこまれたからです。いわく、あなたさまの妻はあなたさまに不義をはたらいております、と。オセロはそこで嫉妬にかられて妻を殺します。オセロは生真面目ゆえに、物語を真に受け、丸めこまれてしまうのです。そしてついにはみずからの命まで絶ってしまう。それがトリックスターによる騙りの力です。

統一教会の教祖である文鮮明もまた、すぐれたトリックスターでした。王位につくためには奴隷の身にもならなければならない、という若いころの発言にもよくあらわれていますが、文鮮明は二つの極をさまざまに設定した上で、それを反転させる術を心得ていました。そしてその十八番こそ、前述の「復帰リバーシー」なのでした。トリック自体はとても単純なものです。

文鮮明はまず、われわれ神の側とサタンの側という線引きをします。次に、この世界のあらゆるもの(万物)はサタンに奪われているとします。そして、それをわれわれ神の側に取り戻すこと、黒く塗りつぶされたオセロの盤面をすべて白へと反転させることこそがメシアの使命なのだとします。では、そのためにどんな実践が必要なのかといえば、この自分とのセックスということになります。この大ぼらに神学的な信憑性を与えるため、文鮮明はまず、サタンとエバとの呪われた交わりのエピソードから話を起こし、忌まわしい現状の青写真となるようなひとつのネガを用意します。その上で、その極となるポジティブな世界線としてメシアとの性交を提案する、という流れです。このようにある種の蝶番となって世界の反転を担う者こそがトリックスターなのです。

統一教会の一世は、トリックスターによる煽りを真に受けてしまった者たちだと言えます。トリックを解消するには脱洗脳デプログラミングの手続きを踏むことになります。信者はその過程で、神とサタンという二分法に丸めこまれるままに世界を単純化するのではなく、世界をありのままの複雑なかたちで見ることを受け入れることになるでしょう。このこと自体は単なる発想の転換の問題にすぎません。そこで詐術に気づいた末、元の世界に「再復帰」することができればそれでいいし、それができず、シェイクスピアのオセロのようにみずからの命を絶つようなことがあれば、それは単なる悲劇ということになるでしょう。事態が込みいるのは、でっちあげを吹きこまれるままにひとりの人間を現実に生みだしてしまったとき、つまり物語の命じるままに祝福を受けた男女が子作りをするという喜劇的なハッピーエンドをむかえてしまったときです。

神の子がある種の喜劇の渦中に生みおとされるということ。たとえそれが一世にとっては受難に満ちた信仰生活のひとつの目的エンドだったのだとしても、二世にとっては覚めない悪夢の始まりにすぎません。悪夢のなかで、あなたは神の子なのだとささやかれつづけます。そして、俗世はサタンの穢れに満ちているので、決して神様の庇護の外には出てはいけない、と命じられます。しかし、それでいて、肝心の父なる神はどこにもいらっしゃらず、神の子たちが神への愛の結晶として生みだされ、息をしていることにさえ気づかない。それゆえに、多くの祝福二世はみずからの不遇のなかで、やがて自分たちを丸めこんでいる力に気づかされることになります。

おかしいのは俗世ではなく、わたしたちのほうなのではないか、という疑問がよぎります。疑問を突きつめてゆくと、清らかな血を引いた神の子とされる自分のほうこそ、おぞましい化け物なのではないか、という思いにもさいなまれることになるでしょう。元古参信者のひとりが出版した『六マリアの悲劇』という暴露本の副題「真のサタンは文鮮明だ」が物語っているように、メシアというのは、エバと交わったサタンを反転させることによってなりたっています。それを再反転させれば、鷺が烏になる。結局のところ、オセロの石には白と黒の両面しかない。白でなければ黒になり、黒でなければ白になる。両者のあわいになるようなグレーゾーンがないのです。

それこそが祝福二世を苦しめる呪いです。それはつまり、いずれにしても自分自身は普通の存在ではありえない、という呪いです。自分が何者かであるとすれば、鷺のように清らかな神の子か、烏のように穢れた化け物になる。そのどちらか以外の何者にもなりえない。というのも、一世には帰るべき場所があり、再復帰すべき「普通」があります。それに対して、祝福二世は生まれながらにそのような場所をはじめから奪われています。なぜなら、人生のどこかの段階で詐術に丸みこまれたのではなく、そもそもみずからの家庭環境やみずからの肉体そのものが詐術の結晶にほかならないからです。そんなはったりを否定することは、みずからの存在の否定を招いてしまうのです。

ここまではこのように言葉を重ねることによって、祝福二世のおかれた実存的な状況について述べてきました。すでに明らかなように、統一教会の教えを踏まえ、それがある種の呪いや物語として作用しているということを理解することなくして、祝福二世の苦しみの所在は見えてきません。とはいえ、祝福二世にかけられた呪いをとても端的な形で体現しているものもあるのです。それこそが祝福二世に与えられた氏名です。

氏名という呪い、あるいは愛の紐帯

氏名は、近代の典型的な「家庭」、すなわち性愛によって結ばれた異性(ないし同性)とその子供たちを核とする世帯において、親から子に与えられる最初のものです。氏名を与えられるということにはさまざまな社会的な働きがあり、現実にさまざまな帰結を伴います。そのひとつに数えられるのは、子供の子供としてのアイデンティティのよりどころになる、というものです。ようするに、氏名をとおしてこそ人はだれかの子供でいられるのではないでしょうか。

子供は人生のどこかで「自分は何者なのか」という問いに直面することになるかもしれません。氏名はそこにさしあたりの答えを与えてくれるものであり、そもそもそのような孤独な問いを抱いてしまうことから未然に子供たちを遠ざけてくれるものでもあります。

自分が◯◯家の一員の◯◯であるということ。多くの場合、それは子供にとってポジティブな意味を持ちます。というのも、子供はしばしば両親の愛の結果として、さらには個人の幸せを願われた愛の対象として、世界に生まれおちてくるからです。そのような存在としての〈子供〉が発見されたのが、そもそも近代という時代なのです。子供の発する「自分は何者なのか」という孤独な問いが愛によって報われる時代です。

そんな時代において、子供が両親(あるいは、そのどちらか)と同じ「氏」を持つということは、言語学的な観点においても、みずからが帰属するひとつの「ウチ」を持つということでもあります。日本語において、よその家の人は基本的に氏によって名指されます。たとえば、近所にフグ田マスオという人が住んでいたとして、その人のことを「マスオさん」ではなく「フグ田さん」と呼ぶからこそ、その人が自分のウチの外にいることが明確になる。なぜなら、近代社会の伝統においては、同じウチの者は同じ氏を共有しており、そうである以上、同じウチの者が氏によって名指されることはなく、それゆえにこそ、氏で呼ぶということが部外者の印になるからです。

同じウチの者同士の呼称に関して、やや特別な規則があります。それをひとことで言うと、年少者は年長者によって名指される(たとえば、姉が弟を「カツオ」という名で呼ぶが、弟は姉を名指せない)というものです。多くの核家族においては、まず「パパ」や「ママ」、あるいは「お父さん」や「お母さん」をかたる年長者がいます。そして、その対になるものとして、子供はたとえば「のび太」として名指されることになります。つまり、近代の日本語において、親から与えられた名というものは、いかなる文脈からも切り離された固有名としてあるのではなく、なによりも親族の呼称の体系のなかに居場所が与えられているということです。そして「のび太」という名であれば、そこにはきっと、のびのびと育ってほしい、といった願いでもこめられているのでしょう。愛は切なる願いの形をとり、名がその結晶となります。このように、近代的な家庭において、氏名は子供の子供としてのアイデンティティを支える上での重要な役割を果たしています。

以上のことを踏まえると、統一教会がいかなる時代錯誤をしているのかということ、それがいかに祝福二世を苦しめているのかということが見えてきます。前述した統一教会の大家族主義は、異性(ないし同性)間の性愛や親子間の家族愛を核にして成りたつような「家庭」を偽りとして退けます。つまり、統一教会のいう復帰とは、近代的な家族観の否定のことでもあるのです。それはあらゆるものを真の御父様を中心とした一つの家の屋根の下に組みいれようとします。歴史的には、それはかつての日本で喧伝されていた八紘一宇という儒教思想の焼きなおしということになります。

そんな統一教会が組織的に行ってきたことがあります。祝福家庭に生みおとされた神の子への名付けです。生みの親には命名をさせない。そうすることで世俗的な親子の紐帯に楔を打ちこむことができます。そこではさらに、あらかじめ定められた漢字が用いられることによって、同じ大家族の兄弟姉妹のひとりであるという烙印が押されることになりました。ここでは一例として、1982年の合同結婚式でできた祝福家庭における名付けを見ておきましょう。公称では六千組の男女が参加したということから、彼らは「六千双家庭」とも呼ばれています。統一教会のウェブサイトに掲載されている命名文字一覧によれば、その子供たちの命名には下記の漢字のうちのいずれかを使用しなければならないことになっています。

男子:福、秀、興、孝、聖、国、権、顕

女子:佳、仁、誉、情、香、蘭、多、利、思

これらの漢字は真の御父様の近親者の名にちなんだものであると考えられます。メシアとして血分けの実践をしてきた真の御父様に多くの隠し子がいることは間違いありませんが、父として正式に認知した子供は下記の十四名ということになっています。

文孝進(長男、洪蘭淑と結婚)、文興進(次男)、文顕進(三男)、文国進(四男)、文権進(五男)、文栄進(六男)、文亨進(七男)

文誉進(長女)、文恵進(次女)、文仁進(三女)、文恩進(四女)、文善進(五女)、文妍進(六女)、文情進(七女)

六千双家庭に生まれた祝福二世たちは、たがいに兄弟姉妹として同様の漢字を共有しているだけではなく、文鮮明の子供たちとも共有しているということになります。文鮮明の子供たちは真の子女の鑑であり、祝福二世はその似姿コピーであることが求められてきましたが、実際、薬物中毒や家庭内暴力、自殺、事故死といったスキャンダルの数々が報じられてきた真の子女と同様、祝福二世の多くが機能不全の家庭のなかでさまざまな困難を抱えてきたことは間違いありません。

では、これらのことはいったい何を意味するのでしょうか。繰りかえしになりますが、それをひとことで言えば、祝福二世は生みの親の子である以前に文鮮明の子である、ということです。つまり祝福二世は、合同結婚式によってできた祝福家庭に生まれながら、祝福家庭の子ではない。みずからがその氏を名乗る家庭の一員でありながら、そうではない。だからこそ、祝福二世は生みの親を「お父さん」や「お母さん」と呼びながらも、文鮮明のことを「真の御父様」と呼ぶことになるのです。このダブルスタンダードにこそ多くの祝福二世が直面しつづけてきた矛盾の核心があります。

ここでは「真」という形容表現がひとつの詐術として機能しています。「真」の裏には「偽り」があります。文鮮明こそが真の家庭の真の御父様であるからこそ、そのコピーである自分たちの家庭はすべて偽物であらざるをえない。このような板挟みの状況を端的に示しているのが、氏と名の不協和です。あるいは、神の子は氏名から二重に疎外されているといってもいいかもしれません。

第一に、教義においては真の御父様の血を引く者であるにもかかわらず、「文」を名乗ることが許されず、偽りの氏を名乗らされているということ。第二に、それとは反対に、現実においては偽りの家で暮らしているにもかかわらず、組織によって与えられた神の子としての名を名乗らされているということ。これらの矛盾のなかで、氏と名が噛みあわないままたがいの「真らしさ」を損なうことになります。

祝福二世においては、このことが「自分は何者なのか」という問いに答えることを著しく困難なものにしています。すくなくとも近代的な意味での愛によって、すなわち世俗的な家族からの解答によって、問いが報われることはありません。というのも、祝福二世は性愛の結果として生まれてきたわけでもなければ、親子愛の対象として生まれてきたわけでもないからです。では、何のために生まれてきたのか。何を原因として、また何を目的として、生まれてきたのか。この問いには、はじめから非近代的かつ明確な答えが与えられています。神の子は、真の御父様への愛のために、その結晶として生みだされてきています。ところが、現実には、その真の御父様から見放されている。真の御父様はそもそもそんな子供たちが彼への絶対的な愛と服従のために生身の体を持って存在し、息をしているということさえ感知せずにいます。

自分は神の子である、とみずからを詐術によって言いくるめることができなくなったとき、祝福二世の「祝福」は「呪い」へと反転します。山上徹也さんのような信仰二世であれば、自分は何者でもあるのかという問いに答えることはそう難しくないでしょう。さしあたりは、自分は山上家の子である、とか、自分は徹也と名付けられた者である、という答えが与えられるはずです。そうして、世俗的な性愛や親子愛を生の根拠とすることができるはずです。まさにそれゆえにこそ、山上さんはみずからの帰るべき場所を崩壊させた統一教会への怒りを抱くことができたのでした。

祝福二世には、自分がなによりも普通の「人の子」であるという答えははじめから選択肢にありません。みずからの生の根拠が教義の実践のなかにしかないからです。したがって、自分が神の子でもないとすれば、さしあたり自分は化け物であるか、さもなくば自分は何者でもない、ということになります。人の子であるということ、人として矛盾なく名乗ることのできる氏名があるということは、すでに自分が何者かであるということですが、祝福二世にはそれがありません。

ここには祝福二世に直面しているアイデンティティの問題があります。これは、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスをめぐる議論とは異なっています。つまり、なんらかの当事者性や被害者性が問題になっているわけではありません。そうではなく、祝福二世にとって、アイデンティティは文字通り、自分は何者なのかという問いの困難としてあらわれています。この問いには答えがありません。祝福二世が訴えるべき被害があるとすれば、まずこの「ない」ということ、その身も蓋もない貧しさにあります。「ない」ものは見えませんが、祝福二世はたしかにそんな不可視の欠如にさいなまれています。

神の子にかけられたこの呪い自体は、組織的かつ構造的なものです。しかし、呪いへの対処の仕方はさまざまです。

私はといえば、氏名を変更することにしました。これはたまたま私が長らく日本を離れていられたこととも関係があります。私はフランスで暮らしていたのですが、そこで自分の氏名がアルファベットで表記され、フランス語風に発音されることが、私にとっての救いでした。日本にいたころとは別の自分自身を生きているような気持ちになれたからです。ところが、日本に戻ってきた途端、自分の氏名が呪術的なほどに生々しい漢字の表記を伴っていることに思いあたりました。そして、新しく出会った人に自分の姓を名乗り「◯◯さん」と当たり前のようにその姓で呼ばれるたびに胸が疼きました。なぜなら、それはなにより私にとっては祝福家庭の一員であることの印であるからです。その一方で、ひさしぶりに生みの母親にあたる女との再会をしたときには「◯◯くん」と下の名で呼ばれ、そのことにも強い不快感を覚えました。下の名で人を呼ぶことはその人を身内呼ばわりするということですが、その名もまた、私にとっては統一教会という大家族の一員であることの印でもあるのです。かといって女が私のことを「◯◯さん」と氏で呼ぶことはできない。祝福家庭の一員である彼女自身の氏と同じものでもあるからです。そのように考えると、今の私はこの社会において、さしあたり無名の人間になるほかないのです。

私自身は、一度として、自分の氏名を自分自身のものだと思ったことはありません。それは結局のところ、自分が本当の意味でのだれかの子であると思ったことはないためなのでしょう。生みの親にしても、真の御父様にしても、親であること、親として子を愛することを放棄しつづけてきました。生みの親はただ、埼玉県神川町にあるメッコール工場に招集された末、教祖の気まぐれひとつによって豚のようにつがわされ、組織の操り人形となって私を生みだしただけです。その後、私に虐待を繰りかえすことはあっても、親らしいふるまいをしたことはありませんでした。結局のところ、彼らもまた、真の御父様の愛に飢えた同じ屋根の下の兄弟姉妹たちなのです。ところが、真の御父様は私たち兄弟姉妹がこんなにも愛してやまなずにいることに気づいてくださらない。ただ、私たちが真の御父様の手足となって新たな神の子を生み育てることを漠然と期待なさるだけです。

私はずっと、自分のことをみなし子だと思いつづけてきました。私の氏も、私の名も、私には無縁なもの、無責任なものとして、私に張りついている。それを耐えがたいほど苦痛に思うみなし子です。私はこのみなし子の悪夢から抜けだすために、何度も自分自身の存在を抹消しようとしてきました。その最良の方法はこの肉体を破壊することだと長らく思っていました。しかし、もっと別の道があるのかもしれない。たとえば、氏名変更をすることで新たな生の可能性を探ることもできるのかもしれない。愛を、氏名を与えてくれる者がいないのなら、自分で与えるしかない、と今ひさしぶりのメッコールを手に思います。それが祝福二世としての自分にかけられた呪いから抜けだすための一つの手立てであるような気がするのです。