2022年7月8日に安倍晋三銃撃事件が起きて以来、統一教会(全国世界平和統一家庭連合)がこれまでに起こしてきた問題にあらためて光があてられるようになりました。そんななかで全国統一教会被害対策弁護団が結成され、被害者たちによる集団交渉の申し入れの手続きがすすめられています。
2024年11月26日には第九次通知が教団に送られ、訴えを起こしている被害者の数はあわせて194名となりました。また、同日の14時には東京地方裁判所の司法記者クラブで全国統一教会被害対策弁護団による会見が開かれ、赤旗や産経新聞、Yahoo!ニュースといったメディアでとりあげられました。
記者会見では新たに名を連ねた16人の被害者のうちのひとりが宗教二世として短い談話を発表をしました。参考までに、その原稿をここに載せておきます。
私は統一教会の二世ですが、正確には、いわゆる祝福二世というものです。祝福二世というのは、教会によって組織的に子作りをさせられた信者の子どものことです。神の子とも呼ばれています。
私は、今年の夏までフランスで大学教員をしていました。フランスは、日本に比べてはるかに気楽でした。なぜかというと、嘘をつかなくてもよかったからです。日本では、とにかく人を騙してきました。家族から虐待を受けてきたことや、狂信的な家庭で生まれ育った自分の素性というか、アイデンティティについて、ずっと隠しつづけてきました。そういう二世としての現実から目を背けるため、逃げるために、日本を出たのですが、そのおかげでフランスではほんとうにおだやかな暮らしができました。自分が二世であるということさえ忘れていたくらいです。ある意味、自分自身まで騙しとおせたということなのでしょう。
ところが、二年前に安倍晋三銃撃事件が起きて、ちょっと言葉にはできない衝撃を受けました。いままでの自分の人生はいったい何だったんだろう。嘘をつきつづけて結果がこれなのか、と思いました。自分のことがひたすら恥ずかしかったです。それで、今年の夏に帰国して統一教会にむきあうことにしました。そんななか、別の二世の方が集団交渉に参加して記者会見をなさったのを知りました。それに励まされて、こうして声をあげることにしました。
私がいちばん訴えたいこと。それをひとことでいうと、生まれたときから人間としての尊厳を踏みにじられつづけてきたということです。
祝福二世というのは、ひとりの人としてではなく、モノとして、組織のための道具として、神に絶対的な忠誠を尽くす兵士として、組織的に生みだされています。これは、統一教会の教義にかかわることなのですが、どの信者にも求められているのは、神の子を作るということ、家庭を作るということです。それが信仰生活の最大の目標です。家庭を作り、神の子を産むことができなければ、地獄に落ちると考えられています。だから、私にも生物学的な意味での両親がいますが、この二人は、教義のため、組織のために、組織的な縁組をさせられて、私を生まされたわけです。そして、神の子として生まれてきた自分も、次世代の神の子を産みだすことを求められます。
ようするに、信者の肉体というのは、神の子を生む機械のようなものだと言えます。教会の言葉では「神の愛の王宮」ともいいます。肉体というのは、自分の所有物ではなく、神の所有物だという考え方です。ひとりの人間として尊重はされていない。だから、そこでいろいろな人権の侵害が起きる。恋愛が禁止され、教育が軽視される。
私自身、実際、生みの親に親らしいことをしてもらった記憶はあまりありません。二人とも自分たちが親だという意識が完全に欠如していました。女親のほうは、ほとんど家にもいなかったし、男親のほうはたいてい自室にひきこもっていました。家はいつもごみ屋敷で、足の踏み場もありませんでした。彼らを含め、徹底的に自己肯定感を貶められてきた。自分自身、組織的に生み出されてきたわけなので、そんな化け物じみた自分自身の存在が苦痛でたまりませんでした。存在していることが苦痛でした。
統一教会の教義は神の子を組織的に量産しようとします。そんな教義を否定するいちばんの方法は、自殺をすることなのかもしれません。だから実際、多くの祝福二世が自殺してきました。つまり、教義によって生みだされてきたものが、その教義に背こうとするときには、自殺においやられるわけです。その悪質性、非人道性について、つきつめて考える必要があります。
人間には、人間としての尊厳があるのではないでしょうか。人は、モノではなく、人間らしく扱われなければいけません。これは当たり前のことですし、それを平気で踏みにじってくるのがこの日本という国なのだとも思うのですが、人はなにかの手段や道具として扱われるのではなく、その人自身の自由や幸福がなにより尊重されなければいけません。
だから、統一教会が組織的な形で信者に生殖を行わせているということは、決して許されていいことではありません。それは人間の尊厳に対する罪ですし、生まれてきた子どもたちは、自分が存在しているということそのものに一生をかけて精神的苦痛を感じつづけることになります。そのような子どもたちを生み出した統一教会に対して、然るべき法の裁きがくだされるのを願っています。
今回は、祝福二世という立場で私がお話をする機会をいただけましたが、統一教会の二世といっても、さまざまな二世がいて、それぞれの被害の内実は違います。たとえば、安倍晋三銃撃事件を起こした山上徹也さんは、いちおう、統一教会的には、信仰二世という立場にあります。そして、信仰二世のなかにも、いろいろな立場の違いがあるはずです。
それでも、ひとつ言えるのは、それぞれの仕方で、人生を損なわれたということ、人間としての尊厳を踏みにじられてきた、ということです。立場はちがっていても、その点できっと手をとりあうことができる。今回の私のお話がメディアにとりあげられるのかどうかはわかりませんが、もしなんらかの形で報道されることがあるなら、同じ二世に伝えたいこと、というか、過去の自分に伝えたいことがひとつあります。それは、自分たちは孤独ではない、ということです。自分もこれまでは圧倒的な無力感に打ちひしがれてきました。それで、現実からずっと逃げてきました。ほんとうは同じように苦しんでいる仲間がたくさんいるのに、過去の自分はそのことにも目を背けつづけてきました。
しかし、いまはちがいます。いまは、こうして声を上げる二世が出てきました。そして、この全国統一教会被害対策弁護団による集団交渉の枠組みのなかでも、その声がとりあげられるようになりました。弁護団のウェブサイトには、電話やメールでの相談を受けつけています。どうかいっしょに声をあげましょう。
写真 (c) 春増翔太 20240921