暇ってなんだろう
あなたは明日暇ですか。最近、日本語を勉強中の人にそうたずねられて、すこし困ってしまった。仏語圏から来た人だったから、たぶん「Es-tu libre demain ?」という文が念頭にあったのだとおもう。英語にすれば「Are you free tomorrow?」。それを逐語的に日本語に置きかえたような質問だった。
あなたは明日暇ですか。日本語としては、こころなしアグレッシブな感じがする。ひとつには「あなたは」という言いまわしがあまり日本語らしくないせいかもしれない。「明日、暇ですか」というだけで事足りるから、わざわざ「あなた」呼ばわりをすると、角が立ってしまう。
それから「暇」という言い方。これにもすこし尖ったところがある気がする。もちろん、それはこの自分が現に暇をしているということもあったとは思う。明日だけでなく、明後日も暇。というか、つねに暇だ。それを言いあてられてつい動揺してしまった部分もある。
ただ、そんな個人的事情をさしひいても、相手を暇呼ばわりするのは、そもそもあまり穏やかではない。子供同士の会話で「明日、暇?」というのはわかる。ある程度の年ごろまでは、自分が暇をしているということを素直に受け入れられるのだろう。しかし、大人の間ではむしろ「明日、空いていますか」や「都合はどうですか」、「時間はありますか」といった言い方が好まれるむきがある。人の時間はあくまで貴重なものなのであって、それをありがたく割いていただく。暇人に暇潰しをさせるわけではない。大人になるときっと、そんな発想をするようになっていく。
そもそも、暇というのは何なのだろう。本来そこにあるべきないけれど仕方なくそうある。そんな含みも感じられる。いわば、白い壁にできたほんの小さな傷のようななにか。塗り潰しておくにこしたことはないもの。暇。よく似た字面の言葉に「瑕 」というものがある。「ほとんど完全である中に、たまたま一つだけあるわずかな欠点」。暇と瑕。よく見ると、同じ「叚」の字をともなっている。
この「叚」という謎の字。一説には、原石の受けわたしの様子を象ったものらしい。そこから「貸し借り」や「仮の」、「不完全な」という意味に転じたという。だから、たとえば「霞」というのは雨の原石のような状態をさしている、という説を見かけた。雨にみたない雨。雨としては欠けたところがある。それが霞なのではないか。では「暇」という字は? 何をあらわしているのか、正直よくわからない。漢字をつくづく眺めてみても、謎は深まるばかりだ。
いちどひらがなに開いて「ひま」という和語について考えてみることもできるかもしれない。辞書には「手空きの時間・状態」や「物と物との間の空所。すきま。すき」、「人と人との間にできた気持ちの隔たり。不和」、「手抜かり。油断」というような説明があった。ある種の余白。余計なはみ出しものでもありながら、それと同時に、満たすべき欠如でもあるような。
暇とはいわば、持てあましてしまった隙間のことなのだろうか。単なる空き時間のことではなくて、どうしても使い道の見いだせなかった空き時間。うまく時間管理ができなかった不手際のせいで生じてしまった残余。できることならそれを埋めたかった。しかしそれでも最終的に残ってしまった半端分。ある種の手づまりのなかで。
暇。いずれにしても嫌味な感じは拭えない。暇人呼ばわりをされていい気になる人はたぶん少ない。暇はあくまで一過性のもの、暫定的なものにすぎず、時とともに消えるべくして消える。人として人生をかけて暇そのものであるようなことは、ありえない。それではただの穀潰しではないか。なんのために生きている? 猫という暇の権化みたいな生き物ならまだしも、まがりなりにもあなたは人間でしょう。しかも大の大人でしょう。そんな冷ややかな声も聞こえてくるような気がする。
たしかに、自分のまわりの大人たちを見ても、暇そうにしている人はあまりいない。それは単に日々の職務に追われているからということでもなくて。仮に無職の身であっても、忙しくしている人たちがいる。この世界には、読むべきものや見るべきもの、聴くべきもの、いいねやシェアをするべきものであふれている。だから、空き時間はできたそばから埋まってしまうことが多い。一瞬トイレに立つときでさえ電話を手放さずにいる。
情報のあふれかえった現代において、暇かどうかは気の持ちようでもあるのだろう。今暇なのかどうかは、自分が決める。自分で決める。そしてきっと、自分自身に対しても他人に対しても、多忙をよそおっているほうが気楽なのだ。そうすれば、自分が今すべきことをしている感が出る。だから大人の知恵として、暇であることをみずから禁じる。人生に与えられた時間はかぎられているのだから、持てあましていい時間などない、と自分に言いきかせる。その結果、子供のときにはあんなに享受していたはずの暇が、ある種の恥ずべきものに変質してゆく。暇人でいることがタブーになってゆく。
自由を持たないというアナキズム
暇ではないということ。自分がすべきことを知っていてそのために自分の時間を有効活用しているということ。現代の日本においてはそれが「生産的」なことだとされていて、それが「ゆたかさ」をもたらしてくれるとも考えられているようだ。しかし、このような考え方が決して当たり前ではない時代がつい最近まであった。そのことを教えてくれたのは、ミヒャエル・エンデの『モモ——時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』だった。
モモは、ホームレスの女の子。どこにも帰るべき場所を持たない。しかし、ただそれだけではない。こういってよければ「タイムレス」な女の子だったのかもしれない。すこし奇妙な言い方になるかもしれないけれど、モモは時間も持っていない。そのため、時間を割くということ、なにかのために有効活用するということがない。モモにとっては、時間は量に換算できるもの、空間的な広がりを持つものではないようなのだ。多くの現代人にとっては、時間はさまざまな用途のために割り振ることができるリソースとしてある。一年や一ヶ月、一日、一時間といった単位があるから、それで時間を区切っていって、自分なりの時間割を組みたててゆく。過去から未来にいたる時間の流れを自分の活動によって刻んでゆく。そういったことがモモにはできない。そのかわり、人の話に耳をかたむけるのは得意だ。いつまでも延々と話を聴いていられる。
では、モモは暇なのだろうか。暇とはちょっとちがう気がする。というのも、いわばモモには「今」しかない。暇とは、隙間のことだ。隙間というものは、分割された時間のなかにだけ生じる。たとえば、午後七時から八時までは夕食の時間で、十時から翌朝の六時までは就寝の時間だけれど、夕食から就寝までの空き時間をどんな予定で埋めていいのかわからない。それを暇と呼ぶなら、モモの生きる「今」にはそのような隙、つまり分割の痕跡がない。では、モモはいったい何なのだろう。
モモは自由である、と思う。とはいえ「自由」というのは、日本語としては、やや堅苦しい。英語にすれば「Momo is free」。仏語では「Momo est libre」。かなりくだけた文だ。それでいて「暇」という日本語のように難癖めいてもいない。自分の時間などが使用可能(available / disponible)といった程度の意味で、日常的に使われている。「空席(free seat / place libre)」というときのように、空いた隙間、埋めることのできる隙間がある、という意味。モモはその意味で、自由そのものなのかもしれない。しかし、モモは自由を所有しているわけではない。自由そのものであるということと自由を所有しているということとは、とても違う。
この違いについてはきっと、これまでいろいろな人が考えてきた。カール・マルクスもそのひとりだ。マルクスいわく、資本による搾取の構造のなかで、労働者は二重の意味で「自由(frei)」あるという。第一に、奴隷と違って、自分の労働力を切り売りするかどうかをみずから決めることができるということ。つまり、自由(可処分時間や労働力)の所有者であるということ。そして、その自由をみずからのために行使する自由(自己決定権)の所有者でもあるということ。第二に、生産手段をはじめとする材からみずからが切り離されているということ。ひいては、あらゆるしがらみに縛られずにいるということ。つまり、自由そのものであるということ。着の身着のままで何者でもなく、自身が売り物として所有する自由以外は何も持たざる者だということ。「Duty Free」のことを日本語では「免税」というけれど、そのような意味で、自由人であるということを除いたあらゆることから免じられている。
いまでは廃れてしまった日本語としては「フリーター(自由人)」という語にもこのような「自由」の二重性をかすかに聞きとることができた。現代でいう「非正規」のような身も蓋もない言いまわしとちがって、社畜として拘束されず、何者であることからも免じられているという意味での自由の積極的な意味が辛うじてこめられていた。あえて何者でもないことを選びとる。何者でもないことを強いられるようになった現代においては、もはやこの「あえて」が単にそらぞらしくひびくだけだとしても。
では、モモはある種のフリーター(自由人)だと考えることができるだろうか。マルクスのいう第二の意味において、つまり着の身着のままであるという意味においては、フリーターに通じるところがあるかもしれない。しかし、第一の意味での自由を所有しているわけではない。モモ自身は手空きなのに、空き時間はない。したがって、労働者としてそれを切り売りすることもできない。その点においては、不自由でさえある。むしろ奴隷に近い。
労働者という自由人とちがって、奴隷は自由に自分の自由時間を使うことができない。そのため、逆説的な言い方になるけれど、奴隷は自由から自由である。つまり、マルクスのいう第一の意味での自由(可処分時間や自己決定権)から免じられている。そして、そのように自由でいられるのは、奴隷が主人の所有物だからだ。労働者が自由を市場で切り売りしなければ生存できないのに対して、奴隷にはそもそもそんな選択肢が与えられていない。
モモの場合は、主人のいない奴隷のようなものなのかもしれない。自分自身をふくめ、だれも自由を所有していない。モモはいわば「今」という時間に隷属している。モモの無力のなかで、自由は自由として手つかずのままそこにある。だれもそれを盗むことができない。モモはいわば、暇を持たない暇人。隙だらけというより、隙そのものだから、それに引きつけられてくる者たちがいる。そうして、そこにちいさな重力が生まれ、一種のアナキズムが芽生える。
時間の高騰と囲いこみのなかで
時間が一種のモノとして捉えられるようになったのは、いつごろからなのだろう。近代的な意味での自由や個人、所有といった観念が生まれたころからだろうか。すくなくとも「時は金なり」という格言が十八世紀に出てきたときにはすでに時間はある種の材、ひいては個々人の私有物と見なされるようになっていたのだとおもう。時間が私有物になるということは、売買などの交換の対象になるということ。それはようするに、時間が金銭などに換算可能なものとして市場の論理のなかに組みこまれるということでもある。
機会損失という考え方が生まれたのも、きっとそのころかもしれない。機会損失というのはつまり「何もしない」ということが「無為に過ごす」という負の行為になるということだ。たとえば、時給千円で雇われている非正規労働者がいたとする。そして、その人がある日の午後一時から六時まで何の仕事の予定も入れなかったとする。そのとき、五千円分の機会損失をしたと考えてみることができる。自分の労働力を売る自由のなかで、売らないという選択肢をとった。見方を変えれば、労働によって得られたはずの五千円の対価として五時間分の自由を得るという選択肢をとったということだ。
経済合理的には、そういう話になる。いつからかこうして「何もしない」ということまでもが損得勘定のなかに組みこまれるようになった。そのことに無自覚でいられるかぎりは、自分自身が時間の無駄使いをしているとは感じない。ちょうど為替相場の動きを知らずに日本円を貯めこんでいる人が、実は大きなリスクをともなう投機的な賭けに出ているということにはつゆほども気づかないように。ところが、自分の行動のいちいちが市場のなかで知らずしらずにしている選択なのだということ、自分がそのような自由につねに晒されているということを意識すればするほど、人は無為に生きることができなくなる。あらゆるものをトレードオフと捉えるようになる。トレードオフとは、つねになにかが別のなにかの対価としてあるということだ。一方を求めれば、もう一方は犠牲になる。
このようなトレードオフ思考のなかでこそ、暇というもの、つまりは非生産的な時間というものが目の敵にされてゆくのかもしれない。時間が希少な資源と見なされるようになり、時間の価値が高騰すればするほど、それに見あうだけの生産性が求められてゆく。その結果、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』に登場する守銭奴のように、もっぱら経済合理的な最適解を追い求めるあまり、非生産的な活動がことごとく味気ない時間の浪費のように感じられるようになる。貴重な時間が逃れてゆくような焦燥感のなか、生産性への強迫観念のなか、時間の出し惜しみをするようになる。それは端的に、生を貧しくしてゆくばかりだ。
ここではいわば、時間の囲いこみ、魂の囲いこみが起きていると言えるのだろう。そのときに失われているのは、ゆとりである。ゆとりとは、余裕のこと、遊びのことだ。語源的には、ゆったりしているということ、ゆたかであるということ。暇という語と同様、なんらかの残余を指す。ゆとり教育にまつわる風評被害によって、この「ゆとり」という語もそこはかとない蔑みの的になった。とはいえ、暇という言い方に比べて、ゆとりや余裕、遊びのほうには、いくぶん肯定的なひびきがあるような気がする。
ゆとりは、生産性の向上によっては得られない。私有物として囲いこまれたそばから失われてしまう。つまり、ゆとりはつねにだれのものでもないものとしてある。ゆとりとは、だれにも所有されずにいる自由そのもののことだ。
昨今の行動経済学では、ゆとりの欠乏はさらなるゆとりの欠乏をもたらす、ということが明らかになってきているようだ。センディル・ムッライナタンの『いつも「時間がない」あなたに』という本のなかでは、ゆとりのない人がまさにそれゆえに時間的にも金銭的にもますます追い詰められてゆくような負のスパイラルについて論じられている。トレードオフ思考のなかでは、目先のことしか考えられなくなり、突発的な事態に対応できなかったり、長期的な展望を持てなくなる。つまり、現在の自分自身の利益という点からしか世界を見ることができなくなってしまう。思考に遊びを欠いているので、状況が好転するきっかけにもなるような様々な可能性が視野に入ってこない。さらに、トレードオフ思考においては、あらゆるものに代償がつきものである以上、ともすると現状を仕方なく受けいれてしまう。かつての日本にも、痛みなくして改革なし、という甘言につられ、あまりにもいたずらな現在の痛みに甘んじてしまう人たちが大勢いたように。それが結果的にはさらなる欠乏を生みだす。資本の運動はそれを食い物にして経済的な格差を拡大する。
労働の脱手段化にむけて
現代の日本には深刻な貧困問題がある。2023年付のデータをすこし見ておこう。まず、金融広報委員会の調査によると、日本の総世帯のうちの28.4%が将来のための貯蓄をしていない。つまり、四人に一人以上の日本人がもっぱら日々のやりくりに追われている。また、厚生労働省の調査によれば、就業者人口に占める非正規労働者の割合が37.1%に及んでいるし、国税庁の調査からは、ワーキングプアとも呼ばれる年収が200万円以下の就業者の割合が20.4%、年収が300万円以下の場合は34.4%にまで上っていることがわかる。さらに、統計局による労働力調査では、完全失業率が約2.5%にまで落ちこんでおり、2000年前後の状況や他国の現状に比べても低い水準にある。これらのことから確認できるのはつまり、日本ではいまだ労働力をすすんで投げ売りしてしまう労働者に事欠かないということだ。外国出身の労働者を巻きこんだ節操のない労働力の安売り競争のなか、時間が法外に低い付け値で買い叩かれてゆく。その結果、ゆとりのない使い捨ての生を知らずしらずに選びとってしまう自由人たちが増えて行き場を失ってゆく。
労働者は奴隷ではないということになっている。切り売りできる自由の所有者である。しかし、生存の代償として自由の投げ売りを余儀なくされているとしたら、どうだろう。つまり、生存と自由がトレードオフの関係にあり、それに甘んじるしかないのだとしたら。
生存と自由がトレードオフの関係にあるということ。それは生活にゆとりが欠乏しているという事態そのものであると同時に、欠乏の再生産のための土壌にもなる。労働力の投げ売りに精を出すあまりに目先のことだけで手一杯になり、その先には身も蓋もない破滅が待ち受けていることに気づかずにいる人はきっと少なくない。そして、無節操な自由の切り売りが生活の首を締めるようになってくると、やがてコストパフォーマンスさえよければどんな手段も厭わなくなる。その結果、たとえば戦争が起きた場合には、自発的にみずからの生を投げだすようにさえなるかもしれない。決して自業自得なのではない。人を破滅へと巧妙に駆り立てるような力が働いているというだけなのだ。
このような隷属の競争から抜けだすのに必要なのは、自分の労働力を人よりもさらに安く見積もることでもなければ、自分の生産性を向上させることでもない。近視眼的な経済合理性にふりまわされることない長期的な展望を持つことが必要である。そのためにはなによりもまず、ゆとりが要る。それはお金に換算できるような単なる空き時間のことではなくて、市場の外でだれのものでもないまま手つかずにいる自由のことだ。しかし、自由の切り売りのスパイラルのなかにある労働者は、ゆとりをゆとりとして見出すことができない。時間と金銭、自由と生存のトレードオフの外部、時間や魂を囲いこみつづける市場の外部に出るのは容易なことではない。
現代の日本では、労働市場からドロップアウトすれば社会的にも経済的にも抹殺されてしまう、と広く信じられている。働かざるもの食うべからず。ただ飯食うなかれ。食うにも対価が要る。つまり、無条件で生存を享受できるわけではなく、その代償としての自由が相応に支払わなければならない。きっとそのような刷りこみのもとで、自由を生存の代償とすることが法外なまでに正当化されてきたのだろう。
法的な観点から言えば、このような生存と自由のトレードオフ思考は間違っている。日本国憲法の二五条にいわゆる生存権が規定されているからだ。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。つまり、生存のためにみずからすすんで自由の投げ売りをする必要などどこにもない。苛烈な労働市場に飛びこんで自由を消耗することになる前に、あらかじめ試しておく価値のあるものがある。それは、健康で文化的な最低限度の生活に必要な給付金をまずは得てみる、ということである。それは一般に「生活保護」と呼ばれていて、運用の細則がいわゆる「生活保護法」に記載されている。法文の英語版では「Public assistance(公的扶助)」や「Public Assistance Act(公的扶助法)」と呼ばれるものだ。
生活保護という日本語には、語弊がある。労働市場に適応できなかった弱者が困りはてた末に御上の庇護を受ける、といったイメージへの誘導がそこにあるからだ。実際、いまでも非常時のセーフティネットとして広く認知されており、制度の捕捉率も低い。厚労省の報告によれば、2023年時点の給付金の利用率は1.6%である。しかし、本当はもっと多くの人、日本の総人口の約8%が利用してしかるべきものだ。というのも、公的扶助制度の捕捉率は2割程度にすぎないとされている。つまり、制度を利用すべき人の約8割はそれを利用せずにいるということだ。
このような現状は、言葉遣いのレベルでの国家的なネガティブキャンペーンの賜物である。公的扶助への偏見が醸成され、無職であることは後ろめたいことだとされてきた。というのも、制度が利用されればされるほど、囲いこみの外に出る労働者が増えて失業率が上がり、財政が悪化する。国としてはできるだけ労働者を市場に送りかえし、消費者や納税者として経済に組みこまれていてほしい。それを拒否して権利ばかりを主張する国民は国にとってはあまりありがたくない。しかしそもそも、国とは人のためにあるものだ。人が国のためにあるわけではない。人のためにならない国は要らない。憲法に書かれているのは、そういうことだ。
原則的な話をすれば、公的扶助による給付金は、日本の国籍や永住権を持っている者で、収入がないことや銀行や証券の口座に資産がないことさえ証明できれば、だれでも利用することができる。排除ベンチというものの存在が象徴しているように、行政にとっての公共財や制度はそもそも、秩序を守るため、生を管理するためにある。行政の思惑から逸脱するような利用は望ましくないし、行政としてはできるだけ自分たちで勝手に現場のルールを作っていきたい。しかし、人はその人自身の必要のために自由に公衆ベンチを使うことができる。そして、それくらいカジュアルな気持ちで、公的扶助による不労所得を得ることができる。労働市場での生存競争に疲弊した末の命綱なのではない。ほんとうは順番が逆で、出発点として生存のための不労所得が確保され、その上で労働市場に参加するかどうかが決められるべきだ。つまり、労働は生活が保護された上で見出される目的のひとつであるべきであり、生活を保護するための手段であってはならない。
時間や魂にゆとりのない人、それゆえにトレードオフ思考に陥っている人には、公的扶助の利用者のことを税金泥棒のようにも限られたパイを奪う穀潰しのようにも思うかもしれない。しかし、ゆとりはいつも囲いこまれた空間の外側にあり、それを担保するために公的扶助という制度はある。公的扶助の利用者は、税金を私物化するわけではない。つまり、自分の私物として資産の囲いこみをするわけではない。むしろ、コミュニズムの空間に投げだされる、といったほうが実情に即しているような気がする。
時間のコミュニズム
現代の日本においては、公的扶助の利用が生活にさまざまな不自由をもたらすことになるのはまちがいない。税金の支払いの免除や、医療・介護サービス、公共交通や公共放送の無償化といった恩恵はある。しかし、障害者加算などがなければ、行政からの給付金は多くても月に十三万円程度。そのなかで生活のやりくりをしなければならない。日本円を使った消費行動が生存の基盤となっている都市部においては、消費者として市場に関わりつづける必要があり、それなりの不如意を強いられることになる。
そのかわり、公的扶助によって得られる効用がひとつある。時間を売りわたさない自由が得られるというものだ。それは生存の代償とされてきた自由時間をゆとりへと、つまりゆたかなものへと変える。トレードオフ思考のなかで時間の損得勘定をすることがなくなるので、暇人として無為に過ごすことが機会損失とは考えられなくなる。時間割の囲いを抜けでた時間は山野を通り過ぎてゆく川のように恬淡と流れはじめる。
時間が私有物ではないということ。それは、時間がありふれている、ということでもあるのだろう。ありふれている、というのは、どこにでも潤沢にあるということ、希少ではないということだ。まだ商品としては囲いこまれていないから、だれもが自由に利用できる。このような意味での「ありふれている」は、英語では「common」という。コモン。「共有材」という堅苦しい訳語があてられる言葉でもある。また「communism」のように語形変化させると「共産主義」といった語も出てくる。
しかし、なんらかの資源が共有されていることと、その資源がありふれていることの間には、大きなずれがある。共有は、それが資源の分割や分配をするということである以上、あくまでも経済的な営みである。たとえばかつての共産主義国では、生産手段をはじめとする有限な材を国家権力が囲いこみ、その上で国民がそれを借り受けるという管理体制をとった。そのような分配の体制はきっと、つねにゼロサムゲームとして機能するのだろう。一方の得られるものが多ければ、他方は少ない。いわゆる共産主義国はその差配を国家権力に委ねたということだったのかもしれない。
共有材ではなく、ありふれたものとしてのコモンは、ゼロサムゲームの囲いからつねにはみだしてゆく。そのような意味でのコモンの代表に、時間と貨幣がある。ただし、両者のありふれ方には大きな違いがある。貨幣には際限なく貯蓄ができるという性質があり、それによって資本は貧富の格差というものを無限に押し広げてゆくことができる。それに対して、時間は貯蓄できない。それでいて、空気のようにあらゆる人に行き届いている。
ありふれた資金や時間やつねに行き先を求めて動く。幸いなことに、この市場経済には余剰を回収する仕組みがいたるところにある。特に時間のほうは賃労働によって換金することができる。錬金、といってもいいかもしれない。これといった目標を掲げて生きているわけではないが、急かされるようにお金稼ぎに勤しんでいる人は少なくないはずだ。時間とお金の錬金術に励み、トレードオフの均衡を保っているかぎりは、ありふれたものは単にありふれたものにすぎない。ありがたみも感じない。
しかし、ときにはありふれたものが生々しい余剰となってトレードオフの均衡が暴力的に崩してしまうこともあるのではないだろうか。たとえば、宝くじによって突然転がりこんできた一攫千金。突然の解雇によって生まれた果てしない空き時間。差し引きゼロのところで帳尻のあっていたはずの生活にそのような余剰が流れこみ、異常な不均衡が生じたときには、平常を保つための反作用が働く。それでも如何ともしがたければきっと、心理的な苦痛が生じる。
このように考えてみると、公的扶助の効用として得られる自由は、人によっては耐えがたい苦しみの源にもなりえるのだろう。賃労働によって日本円に錬金できない時間だけが残り、貨幣経済の囲いの外でその時間を生きてゆく必要がある。それはつまり、いわゆる「社会人」であるということをやめるということだ。暇潰しには困らない子供だったのなら、ゆたかさをゆたかさとして享受する術も心得ていたのかもしれない。モモのようなおとぎ話の世界の主人公になることもできたかもしれない。では、大人はいわゆる「社会」の外で何ができるだろうか。可能性はさまざまにある。そして、いい歳をした大人だからこそ得意とすることも、たぶんある。
のら公務員という生き方
公的扶助の利用によって生存と自由のトレードオフを終わらせることで、コモンとしてありふれた時間を取り戻すことができる。その上で、労働市場に参加することもできるし、しないこともできる。しかし、しなかった場合には、いったいどんな生き方ができるだろうか。可能性は無数にある。ここでは二つの筋道を思いえがいてみたい。
第一に、新しい社会作りを試みることができる。現代の日本では、貨幣経済に順応した労働者であり消費者であり納税者であるような人たちを囲いこむような空間のことを「社会」という。そして、学業を経た子供が「社会に出る」ということをして大人の「社会人」になるものと広く信じられているようだ。そのような道筋を外れ、いつまでも働かずにいることは恥ずべきこととされ、いわゆる「社会復帰」を目標に据えた支援や管理の対象になる。公的扶助制度も基本的にはその手立てとして運用されているという実態がある。
しかし、現実問題として、社会はつねにいくつもある。一般に「日本社会」と呼ばれているものは、実のところ無数に散らばる孤島のひとつにすぎない。それが日本列島をさまざまな次元において包摂するただひとつの社会であるというわけではない。社会は人のつながりの数だけある。列島に暮らしているからといって、かならず日本円での生活をしなければならないわけではない。新しい貨幣を作ること、あるいは貨幣によらない経済圏を作ることだってできる。そう考えてみると、公的扶助を踏み台にしながらも最終的には円経済の外で自立した暮らしを営むこともできるようになるかもしれない。独自の経済圏をもった小さな独立国家めいたものは、実際この列島にいくらでもあるのではないだろうか。
第二に、この日本社会の内部にとどまりながらも、その公共性を読みかえてみることができる。「公」という語は英語の「public」の日本語訳にも使われているけれど、そもそも「おおやけ」、すなわち「大きな家」を意味する儒教の概念である。おおやけは権威や権力を持ったおかみをともなうものだ。女将でも御上でも御神でもいい。一家の主として家をとりまとめるような存在。現代の日本語ではそれを「国家権力」とも単に「国」ともいう。戦時中には「おくに」とも呼ばれた。そのようなおかみの手先として現場で働く人たちのことは、公務員と呼ばれている。おおやけという組織のために務める者たちのことだ。
公務員は決して「public」という語の本来的な意味での公共性のため、すなわち「庶民」のため、「人」のために働いているわけではない。英語でいう「public servant」の語感からはかけ離れた存在だ。彼らはむしろ、人をおおやけに囲いこんで組織化することにもっぱら意を注いでいる。秩序を乱すような存在を見出しては「支援」と称して取り締まり、この社会から無駄をなくそうとする。
当然、公的扶助の利用者も取り締まりの対象になる可能性がある。日本社会にとっては非生産的なゆとりに過ぎないためだ。こういってよければ、日本社会という組織に役立つような労働=消費=納税者として、ある種の家畜状態に置かれているわけではない。かといって、完全な野生状態にあるわけでもない。というのも、税金から賄われた給付金によって中途半端に生存しているからだ。いわば「のら」状態に置かれていると言えばいいだろうか。国家という組織の利益を追求する公務員としては、この無駄を消したい。
しかし、見方を変えれば、公的扶助の利用者こそがまったく違った意味での公務員のような存在でもありえるかもしれない。公的扶助の利用者には、もはや切り売りの対象ではなくなった時間だけが残っている。それは無駄ではなく、ゆとりである。それを身のまわりにいる人のために役立てることにしたのなら、そしてそれを行政から毎月得ている給付金の対価と考えてみたのならどうだろうか。
そのとき、いわば「のら公務員」としての生き方を試みることができるかもしれない。月々の手取りが多くても13万円程度であることを考えると、それなりの薄給ではある。そのかわり雇用主が不在なので、労働時間は自分たちで定めることができる。働く時間を少なくすればするほど、時給換算での待遇は適宜改善できる。
のら公務員には、あらかじめ定められた職務がない。さまざまな形で、時間のゆとりをゆとりとして生きてみることができる。たとえばモモは、しばしば人の話に耳を傾けていた。なんらかの助言をするわけでもなかった。ただ、自分自身の時間のゆとりをゆとりとして差しだす。そんななか、話し相手はみずからが紡ぐ言葉とともにゆっくり息を吹きかえしてゆくのだった。ゆとりは人を触発する力を持っている。それは深呼吸が別の深呼吸の呼び水になることにも似ている。こういってよければ、それは時間のコミュニズムの実践でもある。時間を生存のための貴重な資源とみなすのではなく、無限にありふれた「今」としてともに生きる。ともに時間を呼吸してみる。
それは、しずかな抗議の運動にもなりえる。人が自由であることをいいことに、人の生を平然と使い潰し、人の尊厳を踏みにじりつづけるこの世界への抗議。大声で騒ぎたてるわけではない。騒ぎたてながらも結局のところいままでどおり労働者として生きることで搾取の構造に加担するわけでもない。嵐を呼ぶのは、しずかな言葉。ハトの歩みでおとずれる思いつきが道を切りひらく、とフリードリヒ・ニーチェは言っていた。ひとりからでも、ひとりだからこそ、始められるしずかな抵抗の形がある。