前略

わたしは、太郎というものです。どちらかといえば、桃ではなく、浦島のほうです。お手紙、ありがとうございました。お手紙、というのは、ご新著の『ホームレスでいること』(創元社、2024)に添えられていたもののこと。すべて読みとおしたときには、日が暮れかけていました。きづけば目の前の善福寺川がいちどきに輝きはじめています。夏の日のなごりをうけて。

わたしはいま、川をさかのぼってきた末に、ほとりのベンチに体を休めることにして、このお返事をかいています。ちょうどいましがた「なごり」の変換候補として「名残」のほかにも「余波」という漢字がでてきたのに目がとまり、首をかしげました。あまり記憶にない感じがしたのです。なごり……。なごりとはなんだろう、と疑問におもいはじめます。

なごり。名残。余波。nagori。作家の Ryōko Sekiguchi さんが『Nagori』というエッセイのなかで話していたことも思いおこされます。「なごり」とはもともと「波の残り」、「なのこり」のことだというのです。辞書にも、いろいろとおもしろいことが書かれていました。「浜、磯などに打ち寄せた波が引いたあと、まだ、あちこちに残っている海水。また、あとに残された小魚や海藻類もいう」。「風が吹き海が荒れたあと、風がおさまっても、その後しばらく波が立っていること。また、その波。なごりなみ。なごろ」。

それがどうして「名残」と表記されるようになったのでしょうか。名と波。一見したところ、ふたつはとてもちがう。けれども、けっきょく、残されるもの、あとに尾を引くものだという点では、おなじなのかもしれません。ローマ字にすればおなじ「na」。

名。な。na。波。な。na。漢字を開いたり閉じたりしてみることで、ときほぐされてゆくものがあるような気がします。言葉がとおのいて、すこしよそよそしくなる。ずっと沖のほうで波打ってはゆらいでいるような。そんな言葉たちのひびきに耳をすます。すると、すこしずつ、日本語のことがわからなくなっていきます。ここはいったい、どこなのでしょうか。自分の知っている故郷なのでしょうか。

わたしは今年の夏のはじめに、本州島に舞いもどってきました。むかしから言の葉のさきわうとされる島。この敷島には、日本語が飽和したようにあふれています。そこかしこに日本語の声や文字がこだましています。そんなにぎわいのなかにうまく入ってゆけたらいいのですが、あるかないかの不協和音をふるえながら発しつづけている自分がいます。ひさしくこの島を留守にしていた弊害なのでしょうか。わたしの耳には日本語が妙になれなれしすぎるのです。

たとえば、漢字で表記された na の数々。ここでは島民の多くが自分自身の漢字を背負いこんでいます。安倍晋三でも、黒柳徹子でも、なんだっていいのですが、まるでとても強固で呪術的な鎧をまとっているようです。そして、いまの自分にはなぜかそのひとつひとつがあまりにも生々しい。湿度のせいもあるのでしょうか。無遠慮に鼓膜にはりついてくるような感じ、そのせいで na が 波として遠くからひびいてくれない感じがして、気づまりになります。

それはたぶん、わたしがひさしく滞在していた土地では主にアルファベットが飛びかっていたせいもあるのかな、とおもいます。いわば、アルファベット製の龍宮城。そこで出会う名前たちのひとつひとつがアルファベットの存在感をもっています。わたしの名も、アルファベットで呼ばれていました。そのせいか、かつてまとっていたはずの漢字は、あってないようなものでした。裸の王様が着こんでいたという透明な服のように。そのせいもあるのでしょうか。自分はほんのすこしだけ匿名的、抽象的な存在になれたような気がしたのでした。漢字という手がかりがなければ、素性をインターネットでしらべることもできない。本州島にいたころの自分は、あってないようなものなのでした。

名前というのは住所のようなものなのかな、という気がします。人は名を住まいとする。終の棲家にする人もいれば、仮住まいをする人もいる。ヤドカリかなにかのように。そしてたぶん、家に住み心地があったり、波に波乗り心地があったりするように、名にも名乗り心地がある。なれなれしく、生々しすぎることもあれば、よそよそしすぎることもある。自分をうまく包みこんでくれるものがあってかえってそこに囚われてしまうこともあれば、すこしも自分にふさわしくないものを押しつけられることもある。

このわたしはといえば、いまちょうど、自分の名を龍宮城においてきてしまったところなのでした。ある種の記憶喪失にかかった人のように。「ネームレス状態」と考えてもらえばいいでしょうか。ただ、それはかならずしも名前を持たないということではなくて。違和を、不協和を、かんじつづけている。ずれている感じがする。本州島にふたたび漂着して以来、この言の葉の国の住人になれるような気がすこしもなれないのは、きっとそのせいもあるのでしょう。

住む、ということ。すむ。sumu。それは同時に「済む」や「澄む」ということでもあるのかな、とおもいます。意味あいとしては、乱雑だったものが落ちつく、ということになるのでしょうか。秩序がとりもどされ、平穏がおとずれるということ。片がつくということ。エントロピー(?)の収束。水面は澄みきったかがみのようになる。波ひとつ立たない。なごらない。それが「すむ」ということだとしたら。わたしはいま、日本に住んでいるのか、という疑問もわきます。正直、自信はありません。東京湾の浜辺に打ちあげられたものの、着こむべき名前が見あたらない。裸の王様のままなのです。

もちろんわたしもかつては、名前つきの人間でした。姓と名とあわせて四文字の名前です。この島には姓名判断という呪術的な風習がありますが、それによると、大大吉の名前なのだそうです。けれども、その名はもともと自分にふさわしい住処では決してなかったのでした。これまでの人生をとおして自分をつつみこんできたその名前、自分にはいつまでもよそよそしかったその名前の、漢字の生々しさだけがいま、いたずらに迫ってきます。

すこしこみいった話になりますが、わたしの名前はもともと、ある教団の長によって名づけられたものでした。わたしには実の両親と呼べるような存在がはじめからいませんでしたが、わたしを肉体的に生みだすことになった人たちの交配がおこなわれたとき、教団のほうで名づけのための漢字がいくつか定められたのです。それを組みあわせたもののひとつが、わたしの名なのでした。いまになってふりかえると、それはわたしがひとりの人間としての尊厳をもって暮らすことのできる住まいと呼ぶことはできません。ちょうどわたしが子供時代をすごしたごみであふれた2Kのアパートが、人が尊厳をもって暮らすことのできる家屋ではなかったのと同じことです。

わたしはその家屋を棄てましたが、名前はほんのつい最近まで捨て去ることができませんでした。名前はみずからの命を持ってもいるからです。

名前たちは、よくもわるくも、群れるものなのかな、とおもいます。名前たちはたがいにひとりでに結びついて、大きな織りもののような村をつくりあげる。そこにはいつも、いとしさがあります。いとしいから、つながりあってしまうのです。わたしはいま、そんな名前たちのつらなりがさざなみのように寄せては引くなか、自分のかつての名が蝉の抜け殻みたいに名残っているところをみています。砂の城がすこしずつ風のなかに消えてゆくようにして、抜け殻は腐敗していとしさの網目のなかに生分解されようとしています。

そんなさなかに、あなたからのお手紙が舞いこんできました。「少し離れたそこにいるあなたへ」と題された手紙です。それは少し離れた「わたし」自身にあてたものである、とあなたは言います。

わたしとあなたは遠いようで近い。近いようで遠い。それが意味するのは、わたしたちの立場がいつかどこかで入れかわっていてもおかしくなかった、ということでもあるのでしょうか。ここはそこになり、そこはここになる。いつも裏返しの関係にある。近いけれども、裏側にあるから、決して触れることはできない。

わたしが竜宮城で出会った言葉のひとつに「partage」というものがあります。日本語では「分かちあい」とでも言えるでしょうか。これはある意味とても矛盾した言葉です。分かちあうということは、袂を「分つ」ような離別の経験にも、気持ちが「分かる」ような出合いの経験にもなる。近づきながら離れて、離れながら近づく。裏を裏として、表を表として、ふたつを縫いあわせたような言葉なのです。

ひとりでいることがわたしを助けてくれる、とあなたは言います。「ひとりでいる」ということは、さまざまな人や物、草木や山や海、そして、記憶や時間など、あらゆるものと自分との距離や違いを感じて、ひとりの自分を確認することだと。

また、あなたには何が見えますか? ともあなたは言います。いまのこのわたしには何が見えているのだろう。目の前には、川が流れています。とても遠くから流れてきている。そして、とても遠くへ行ってしまう。それでいて、こんなにもちかしい。ちょうどあなたの手紙のように。川は、なつかしい。なつかしいということはきっと、遠くて近い、ということなのです。いま、わたしには何が見えているか。

あわい桃影がみえてきました。

どんぶらこ、どんぶらこ。桃のような物体が水面を流れてゆくさまをあらわすこの擬音語のことをわたしはよく知っています。わたしの耳は、どこまでもこの島の言の葉の暴力にさらされつづけています。この本州島を巨大な地震がおそったときには、桃が川を流れる写真を提示して、ひとこと日本語を口にしてもらう。そうすることでかんたんに非国民を見分けることができる、とだれかが話しているのを最近見かけました。わたしはそのとききっと、どんぶらこ、どんぶらこ、という魔法の言葉をとなえることはできない。そのためにきっと日本刀で一太刀に切り捨てられしまうことになるのでしょう。

いまいちど「川」の音に耳をかたむけてみます。かわ。kawa。それは「川」であるだけではなく「皮」や「側」にもなります。それはものごとの境界です。「うち」に対するもうひとつの「うち」としての「そと」ではない。「うち」と「そと」とを繋ぎながら隔てるあわい。それが「かわ」です。「かわ」はひとをひとつの内側に閉ざしますが、それでいてとても遠くへ運んでくれる。かわにはかわの自由があるのです。

ひとりでいることがわたしを助けてくれる、とあなたは言います。わたしはいまわたしなりにその意味を理解しようとして、目の前を流れてゆく川に耳をすましています。わたしにはまだ名前が、ありません。いまはそれがここちいい。もうすっかり夜になってしまいました。