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大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付
山上徹也様

前略

あなたはガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだことがありますか。ぼくは一度だけならあります。もうほとんどの内容を忘れてしまいましたが、なぜかある一場面のことだけは記憶に焼きついています。ホセ・アルカディオという男が寝室にこもり、自分の頭を銃で撃ち抜いた直後の場面です。血の滴りが寝室のドアの隙間から流れてきたかと思うと、そのまま居間を横切って道に出て、一切の迷いのない動きで雑多な町中を縫ってゆきます。それからある家に入りこむと、応接間の敷物を汚さないように礼儀正しく壁伝いに進んで、台所に出ます。そこで料理にとりかかろうとしていたのがホセ・アルカディオの母親でした。驚いた母親は赤い糸のように伸びた血の筋を辿りなおしてゆきます。その血は、母親のみが見ることのできるもの、他のだれの目にも見えない不可視のものだったのでした。母親はそうしてうつ伏せに倒れた息子のもとまで導かれ、銃弾によって鼓膜の食い破られた右の耳から生き血が噴きだしているところを目撃することになります。そう。血は生きているのです。

当たり前の話ですが、血は流れるものです。その源流をたどった先にはなにかしらの穴がありますが、『百年の孤独』の場合は血は耳の穴から湧き出ているのでした。耳の奥には闇が広がっています。「闇」という漢字の作りがはっきり示しているとおり、そこは音のない世界、あるいは音の閉ざされてしまった世界とでも言えるでしょうか。死者の国です。そして、死者の国に下りてゆくには、生き血の赤い糸をたどっていかなければならないのです。

いまになってふりかえれば、ぼくの胸の奥底で慄えつづけている細い芯のようなものとは、血の糸だったのかもしれません。七夕の翌日に斃れた犠牲者の血。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトに染みこみ、暗い地の底へと吸いこまれていったはずの血。それがなぜか細い琴線のようなものに形を変え、ぼくの胸のうちにも慄えながら流れています。

それが問いを生みます。自分はいったい何者なのだろう。自分のこれまでの人生はいったい何だったのだろう。長年権力をほしいままにしてきたひとりの人の血祭りにあげられることになった事件の余波のなかで、そのことばかりを自問してきました。問いは揺らぎながらさまざまに形を変えます。なぜ事件の引き金を引かなければならなかったのがあなたであって、このぼくではなかったのか。その結果、法によって裁かれるのも紛れもなくあなたであって、なぜこのぼくはいまこうして許されているのか。結局のところ、ぼくとあなたには、どんな違いがあったというのだろう。そんなふうに問いを掘り下げてゆけばゆくほど、この自分の輪郭がぶれて不確かになってゆく。

あなたは、山上徹也です。ぼくが山上徹也について知っていることは、ほぼ皆無です。手始めとして、ウィキペディアの記事を読んでみたりはしました。ウィキペディアといっても日本語版では、山上徹也の名はどこにも見当たりません。何度か山上徹也の項目が立てられたこともあったようですが、そのたびに削除され、いまは作成そのものが禁じられています。それ以外の言語では、山上徹也について気兼ねなく語られていたので、そこからごくおおまかな事実関係を確認することはできました。たとえば、英・仏語版である Tetsuya Yamagami の項目には、山上徹也の生い立ちはもちろん、元所属先である海上自衛隊の最終階級まで記されていました(Leading Seaman。日本では、海士長にあたるのでしょうか)。

また、山上徹也のものとされるツイートや手紙を読みかえしたり、鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』や五野井郁夫さんと池田香代子さんの『山上徹也と日本の「失われた30年」』を手にとってもみました。文藝春秋のようなゴシップ誌の記事にもいくつか目を通しました。それらの雑多で表面的な情報の不細工なパッチワークとして、このぼくのなかにもぼんやりとした山上徹也の像ができあがっています。それはいわばあなたが引き金を引いた事件が独り歩きをした結果生み出された副産物のようなもので、ぼくがいまこうして語りかけているあなたとはあまりにかけ離れたものなのかもしれませんが。

ぼくたちは見ず知らずの他人です。常識的には、そういうことになっています。常識的には、こうして一方的な怪文書を送りつけてくる正体不明のこのぼくのことをいかがわしく思う気持ちもきっとあることでしょう。しかし、結論から言ってしまえば、ぼくはあなたの弟です。あなたはぼくの兄です。あるいは、ここでぼくたちの天一国の国語を使うことが許されるのなら、あなたはぼくのヒョンです。

徹也ヒョン。そう呼ばれることを不快に思われるかもしれませんね。このぼく自身、オレオレ詐欺かなにかのように親族を騙り、あわよくばあなたの警戒心を解こうという魂胆はありません。そうではなく、打ち消しがたい事実として、ぼくたちは兄弟だったのです。あるいはいまなお、兄弟なのです。

それはなぜでしょうか。結局のところ、ぼくたちにはたがいに統一教会の二世だからです。つまり、神様ハナニムを中心とした大きな家の屋根の下で生かされてきた、ということです。別の言い方をすれば、そのような苦境を辛うじて生き延びてきたということ、いまもまだこうして二世の苦しみの延長線上に生存しているということです。そのことを教えてくれたのは、ほかでもないあなたです。名銃安倍切によって穿たれた穴から浄とも不浄ともつかないものが噴きだしている。いまなお尽きることのないその余波の慄えのなかで、自分がいまなおこうして生きていることのふしぎが何度となくこみあげてきました。

ぼくたちは統一教会の教祖、文鮮明という真の御父様によって同じ運命を背負わされた真の兄弟です。しかし、それと同時に、ぼくたちふたりをどこまでも引き裂いてゆくものがあることもまた事実なのでしょう。いわば、織姫と彦星のように、神様の大きな意志というほかない何かによって、決定的に隔てられてもいるのです。

というのも、ぼくは、神の子です。いわゆる祝福二世です。それに対して、あなたは神の子ではない。あなたも知っている教会用語を使えば、あなたは、ヤコブです。つまり、罪の子、穢れた血を引く子。信仰二世です。あなたの兄も妹も、そうです。あなたたち三人兄弟はいわば、真の御父様の愛の目にとまることで命拾いをした捨て子たちなのです。

手元の年譜によれば、あなたの生みの父親がみずからの命を絶ったのは、あなたが四歳になった年のことです。そのときにはもう、第三子の出産が迫っていました。しかし、結局、その子が産声を上げるよりも先にマンションから飛び降り、姿を消してしまいます。さらに立て続けに、第一子が小児ガンの手術の後遺症により片目が見えなくなるということも起きます。

そんな事実の羅列を前にして、ぼくはただ、言葉を失います。ぼくたちが空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い、としか言いようがない。人の想像力を支えていたはずの言葉がつゆほども役に立たなくなる。そんな状況下において、あなたの母親は統一教会に出会い、神様の呼びかけを耳にして摂理の道をゆく一兵卒となり、最終的には一億円以上に及ぶ献金を積むことになった、ということになるのでしょうか。ぼくにはなにもわかりません。

きっとそれから間もなくして、あなたの家には壺が置かれ、祭壇が立ち、ある偉大な御方のほほえむ御姿の御真影が飾られるようになったことでしょう。あなたは幼いころからその前で何度となく跪拝を重ね、何度となくあの家庭盟誓を暗唱させられることになったはずです。天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します、という宣言からはじまる、あの長く果てしない天との約束の言葉です。そして、そのころを境に、その御方があなたのことをだれよりも深く愛してくださる真の御父様になったのです。その見返りとして、あなたのほうからも御父様アボニムをだれよりも深く愛することが求められました。ようするに、あなたの生みの父親の死の空隙をつくようにして、新しい父親がまずはプロマイド写真の形をとって家に乗りこんできたというわけです。

真の御父様はいったいなんのために山上家にやってきたのでしょうか。答えは簡単です。それは「真の家庭」を実現するためです。つまり、それまでの山上家は、偽りの罪深い家庭、失敗した家庭であったということです。だから、再出発をしなければならなかった。そうしてあなたの母親が生きなおそうとした真の家庭がどのようなものだったのか。あるいは、あなたと御父様との父子関係がどのようなものであったか。このぼくには想像だにできません。ただ、同じ真の家庭の一員として、思わずにはいられないことがひとつあります。

まだ幼かった当時のあなたにとっても、新しくやってきたその御方のことを「真の御父様」と呼ぶことには抵抗があったのではないでしょうか。すくなくとも、そこになんらかの白々しいひびきを感じとっていたことでしょう。それは単に、あなたにはもともと生みの父親がいて、その御方とは血の繋がりがないからとか、その御方がはるか遠くのイースト・ガーデンの地にお住まいで直接お目にかかることは叶わないからとかいうことではありません。そうではなく、神のまなざしにおいて、あなたはなにより、穢れた俗世の子、呪われたサタンの子であって、神の子では決してありえなかったからです。

あなたは、神様の祝福を受けながら生まれてきたわけではないのです。毎週日曜日に通った教会のなかでも、あなたが祝福二世たちの輪にとけこめるようなことはなかったはずです。あなたが合同結婚式に参加できる年頃になったとしても、祝福二世との結婚を許されることもなかったでしょう。つがいとしてあなたにあてがわれることになったのは、同様に穢れた血を引くヤコブの子であったはずです。真の御父様の真のまなざしにおいては、生まれからしてあなたは劣った存在だったのです。

まずはそのことが、あなたのやわらかな魂を屈折させることになったのでしょうか。あなたがどれほど御父様を愛そうとしたところで、あなたの思いが報われることはありません。そもそも真の御父様は、あなたが偽りの父親の飛び降り自殺後に移り住んだ奈良の町で生の苦しみに呻いていることも知らなければ、あなたのような虫けらが存在していることさえ知らないのです。

屈折した魂は、ふたつの世界を同時に視ること、行き来することができます。あなたは祝福を受けて生まれてきた神の子たちと違い、真の愛の輝きを裏付ける影の領域に身を置くこともできました。そんなあなただったからこそ、あのような挙に出ることができたのだろうか、とぼくは何度も考えたものです。この問いはすぐさまぼく自身へと矛先をむけて、では、神の子だったはずのこのぼくは、いったい何だったのだろう、何者だったのだろう、という疑念へと形を変えます。

そしてなによりもありがたさがこみあげ、慄えがとまらなくなる。ありがたい、というのはつまり、ありえない、ということです。もっとはっきり、奇蹟が起きた、と言ってもいい。不可能だったはずのものが、思ってもみない力、人知を越えた力によって、可能になった。だからこそひとは、ありがたいことに感謝をするのではないでしょうか、つまり、負い目を感じる。心の底から深く傷つく。

いや、もっと素直にこう言えば済む話なのかもしれない。ぼくはただただ、あなたに対してのもうしわけのない気持ちで、胸がいっぱいになる。そして、なぜ自分はこんなにもうしわけなさを感じているのかといえば、それはぼくがやはり、神の子だからなのです。

神の子、という言い方にあなたがつまづいてしまうのなら、表現を変えてもいい。ようするにぼくは、統一教会という物語によって生を受けた化け物なのだと言えばいいでしょうか。あなたのように人間的な性の営みによって生まれた人の子とは、断じてちがう。真の御父様の愛のおかげで、こうしていま息をしているし、痛みを感じる生身の体を持っているのです。もっとはっきり言えば、ぼくは文鮮明のコピーなのです。つまり、無数の文鮮明のうちのひとりとして、神の使命を受けて、この世に生み出されたのです。あなたもご存知のとおり、神の子の使命とは、この穢れた世界を浄化する、ということです。物語の落し子である神の子には、そういう聖なる力が備わっているものなのです。

世界を浄化するということは、当然、暴力を振るうことではない。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトを血で穢すことではない。神の名のもとにであろうとなかろうと、ひとりの人の命を消し去ってしまうことが世界の浄化であっていいはずがない。

あなたはこの世界を汚した。とりかえしのつかない形で汚してしまった。そのせいでいま、生き血を吸った言葉がいつになく幸わっている。天にぶちまけられたおびただしい数の星々の輝きのように。もう時間がない。それでも、ぼくは神の名のもとに、そんな言葉たちを死の国へと送り返してゆかなければならない。だから、かぎられた時間のなかで、あなたの真の弟であるぼくが耳をいまこうして借りている。あなたの耳の奥の闇へと吹きこまれてゆく言葉の息づかいが聴こえますか。いまは亡き真の御父様の声がまだ、聴こえますか。