千夜一夜物語という説話集がある。一般にはイスラム世界のものだと考えられているけれど、千夜一夜の物語が揃ったのは西洋でのことだった。というのも、東洋学者のアントワーヌ・ガランがはじめてフランスに紹介する際に依拠した写本には、三百夜にも満たない数の物語しか収められていなかった。それが文字通りの千一夜にまで膨れあがったのは、植民地主義のまなざしのなかで物語が蒐集され、ときに創作された結果である。とはいえ「文字通りの千一夜」という言い方には、語弊がある。千夜一夜物語はいまでこそアラビア語で「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」として知られているけれど、もとはただの「アルフ・ライラ」、つまり「千の夜」に過ぎなかったからだ。そして、この「千の」は「多くの」という意味で使われていたのだった。「八重桜」の「八」のように。ところが、何かの悪い冗談だったのか、オリエンタリストたちの手に渡るころには千一夜の物語として知られるようになっており、そのいかにも厳密な言い方を真に受ける者がいたのだった。
千夜一夜物語は文字通りの意味でのお伽話である。お伽とは夜の相手となって無聊を慰めることである。話し相手にも性交の相手にもなる。古くは「物語」という語にもこのような二重の意味があった。千夜一夜物語はまさにそれ自体が一つの長い前戯でもあるような千一夜の寝物語ピロートークとして展開する。とはいえ、対等なかたちの交わりではない。つまり対話的ではない。というのも、性の遊戯のなかで積極性を発揮するのが男の方であるのだとしたら、女の方は物語において積極性を発揮するからだ。女の方は夜ごと男の耳の穴を犯すように物語を吹きこみつづける。
事の発端はこうだった。むかしむかし、シャフリヤールという王がいて、自身の后がひそかに数多の奴隷たちと淫蕩のかぎりを尽くしているところを目撃してしまう。王は怒り狂い、后の首を刎ねた。自身が王という権力者であってなお裏切られてしまう、ということに衝撃を受けたのだった。王は王として女を独占しなければならない。王は力によって支配できないものの存在が不安だった。そこで思いついたのが、国の処女を夜ごとに寝床に呼びつけ処女を奪った後に殺してしまう、という計画だった。殺してしまえば、その後不貞を働かれることもない。このように、王は王としての力を発揮することによって、自身の不安を取りのぞこうとした。そこで、王は三年にわたって──つまり約千一夜にわたって──処女に夜伽をさせ、そのたびに命を奪っていった。ところが、処女を集める使命を担っていた現場の大臣は、ある日もう王国に処女が残されていないことに気づく。残されていたのは、長女のシェヘラザードと次女のドニアザードだけだった。
悲嘆にくれた父にシェヘラザードが言う。自分が行く。自分には秘策があるので安心してほしいと。その策とは次のようなものだった。シェヘラザードは王の夜の相手をした後、最愛の妹であるドニアザードに言い残しておきたいことがあるという。妹には物語を一つ聞かせるという約束を前日にしていた。死の間際とはいえ、その約束だけは守らなければならない、と。王はそれを許した。そこでシェヘラザードが物語をはじめると、王は物語の虜になってしまう。ところが夜明けが近づき、佳境にさしかかったところで、シェヘラザードは口をつぐむ。そのタイミングで、明日続きをきかせてほしい、と妹がせがむ。こうして新たな口約束が結ばれ、物語の「おあずけ」が千夜にわたって続くことになり、そのあかつきには思いもよらない衝撃的な結末を迎えることになる。
物語は、千夜にわたって果てない。オルガスムに達しない、という意味において。こういってよければ、つねに前戯の延長線上にとどまり「本番」が始まることはない。王が主導する夜伽=性交においては、王の射精とそれに続く処刑という力の行使によって幕が引かれる。しかし、シェヘラザードの夜伽=物語は、性の遊戯を生への遊戯へと転嫁させるための千のクライマックスがある。『千のプラトー』に引かれたグレゴリー・ベイトソンの言葉をかりれば「一種の連続した強度のプラトーがオルガスムにとって代わっている」。ドゥルーズ=ガタリは続けて言う。「一冊の本は章から構成されるかぎり、それなりの頂点、それなりの終着点をそなえている。逆に、もろもろのプラトーからなる本、脳におけるように、いくつもの微細な亀裂によってたがいに通じ合うプラトーからなる本の場合は、どのようなことが起こるであろうか? 一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ」。
このような物語のあり方は、千夜一夜物語においては枠物語の仕組みによって実現されている。千夜一夜物語は、千夜一夜にわたる長い一つの物語なのではない。シェヘラザードがそうであるように、物語の中の登場人物もまた語り手に転じることによって、物語は多次元的に深まってゆく。そしてこの仕組みこそが王を物語の深みへとはめこむシェヘラザードの企みなのだった。西尾哲夫によれば、アラブ世界には女性の弄する悪知恵を意味するカイドという言葉があるらしい。日本語で用いられる「奸よこしま」の漢字にも「女」が含まれているけれど、イメージとしてはそれに近いかもしれない。力のない者の発揮する奸計。
シェヘラザードは力によらず、言葉のたくらみによって自身の命を救い、千人の処女の命を救った。物語は三年に及ぶ処女殺しという一本の歴史の線を打ち消すように深まってゆく。シェヘラザードはふしぎな生き延び方をした。フランス語では「生き延びること」を「survie」という。サバイバルである。しかし、この語は同時に「死後の生」や「魂の不死」をも意味する。もし仮にシェヘラザードが彼女自身の物語のなか、つまり彼女自身が主人公として登場する第一夜の物語にとどまっていたのなら、彼女は殺されていただろう。それが彼女の運命さだめだった。時間がまっすぐに流れる先には、必ず死が待ち受けている。どれほど力がある者でも、死を避けることはできない。一人のひとの運命はつねに一つである。けれども、また、人の数だけあるのが運命である。そしてシェヘラザードは別の運命=物語を語ることで、自身に待ちうける死を逃れた。このとき、シェヘラザードは単に残された生の猶予を延長したという点、変えられない運命を引きのばしたという点で生き延びたのではない。同時に、別の運命を開示してみせること、千一夜にわたって明けない夜に幽閉された自身の物語ではなく、その彼方にある昼の物語を開示してみせること、自身もまた千にあるうちの物語の登場人物の一人にすぎないことを示すことで死後の生を得た。これは同時に、一つの物語の登場人物として死を運命づけられていても、それでいてなお未知の物語の語り手にもなりえることの開示でもある。物語は生き延びるため、圧倒的な死の力に抵抗するためにある。