ソール・クリプキが2022年9月15日に亡くなった。『名指しと必然性』(1972) の著者である。クリプキのことは柄谷行人の著作を通して知った。日本ではおそらく1980年代ごろ、特に柄谷が『探求』(1986)を発表したころから、固有名をめぐるクリプキの議論が注目を集めるようになった。

この固有名という概念は、固有名詞 proper nounという言い方とは微妙に違うことからも示唆されるように、文法的なものでない。個別の言語の文脈から切り離された哲学的概念だった。ここではそんな固有名をめぐる問題を言語学的な観点から掘りさげたい。具体的には、日本語の親族呼称システムにおいて、固有名がどのような位置づけを持ち、そこにどのような意義があるのかを考察する。ここでいう固有名とはいわゆる名前のことである。英語でいえばnameだ。フランス語では、name(名)にもnoun(名詞)にもなるnomという語が用いられる。それゆえにnom propre (proper noun) と明示しなければならない。その日本語訳が「固有名」とも「固有名詞」ともなるのだけれど、ここでは前者の訳語を名前(name)の意味で用いることにする。

日本語にはさまざまな親族呼称がある。親族呼称とは「お父さん」や「お母さん」、「お兄さん」や「お姉さん」といった呼び名のことだ。日本語には人称代名詞(英語でいうIやYou)の概念がないため、親族間の会話においては、しばしば自称(一人称)や対称(二人称)、他称(三人称)のために用いられる。例を挙げておこう。

1.お父さんは悲しいよ。 I am sad.(自称) 2.お父さんは悲しいの? Are you sad?(対称) 3.お父さんは悲しがっている。He is sad.(他称)

これらの「お父さん」はすべて呼称である。ただひとりの人を名指ざす呼び名、いかなる形でも定義できない名として、独異性を持っていると言える。ただし「太郎」のような固有名とはすこし違う。というのも、親族呼称はなにより関係性をあらわす語であり、さらには一般名詞としての意味作用も持つからだ。たとえば「全国のお父さんが悲しがっている」というような文においては「お父さん」は父親一般を意味しており、「母親」や「子供」のような概念との対立関係のなかに置かれている。さらに、具体的な親族コミュニケーションの場においては、上述の例文のように、ただひとりの「お父さん」という呼び名で名指される者としてその妻子との対比のなかにある。このように他の語との相関性を持つ親族呼称は、固有名とは区別されなければならない。というのも、固有名は基本的にいかなる語とも対立関係を持たないからだ(たとえば「ポチ」という固有名の対義語を考えても無益である)。このように完全な固有名であるとは言えないものの、親族呼称は「名」としての独異性と「名詞」としての一般性を同時に兼ね備えている。では、この二重性は何に由来しているのだろうか。この問いに答えるためには、日本語の親族呼称システムの働きを見てみなければならない。

日本語の親族呼称は一つの非対称性を生みだすような原則のもとで用いられている。その原則とは、序列が上の者の呼び名としては親族呼称を使い、序列が下の者の呼び名としては固有名を使うというものだ。この序列は基本的に世代や年齢の違いよって決まる。一例として次のような家族構成を考えてみたい。

[母]ユミコ [長女]ミカ [次女]ユキ

仮にこのうちの長女が私であるとして、原則的な話をしよう。私は母を「お母さん」などと呼ぶ一方で、母は私を「ミカ」と呼ぶ。その反対に私が母を「ユミコ」と名指すことはない。また、私は次女を「ユキ」と呼ぶ一方で、次女は私を「お姉ちゃん」などと呼ぶ。私が次女を「妹ちゃん」のように呼ぶことはない。つまり、序列が下の者は固有名で名指される一方で、序列が上の者は匿名者の立場にとどまる。非対称性を生みだすこのような規則によって親族コミュニケーション・システムという名の秩序が成りたっている。こういった規則がない場合、たとえば親族のあらゆる成員が固有名のみで名指しあった場合、言語使用のレベルにおいて親族の序列は失われる。親族呼称の使用規則は一つの秩序の創出のために不可欠なものなのだ。

ここで素朴な疑問が湧く。なぜ、いったい何のために、親族コミュニケーションの秩序は親族呼称と固有名の非対称性に支えられているのだろう。たとえばなぜ母は長女である私を「ミカ」と呼ぶかわりに「娘ちゃん」と呼ぶことができないのか。なぜ私は次女を「ユキ」と呼ぶかわりに「妹ちゃん」と呼ぶことができないのか。このような問いには無数の答えが考えられる。社会言語学的には、もっともらしい答えの一つとして次のようなことも言える。父と母が基本的にはそれぞれ一人きりであるのに対して子供は複数人になる可能性があり、その場合は固有名が各人を区別するのに有用である、というものだ。しかし、家族の状況が変われば、言語使用の形も変わる。たとえば、父や母が複数人になるような家族、たとえばホモセクシュアルの両親が子供を持つような家族の場合、「パパ」や「ママ」のような語が両親の識別の役に立たなくなってしまい、子供が両親を固有名で名指すこともあるかもしれない。このように様々な想定ができるけれども、ここではいずれにしても、固有名というものについての関心のなかで、もうすこし別の角度から日本語の親族コミュニケーションにおける非対称性の意義を考えたい。

そこでまず、親子の言語コミュニケーションの発生の典型的な現場を想定してみよう。幼児は六ヶ月ごろから人にむけて喃語を話しはじめるようになり、一歳ごろから「パパ」や「ママ」らしき言葉を発しはじめる。パパは子音に「p」を含み、ママは「m」を含んでいる。音声学的には両唇破裂音と呼ばれるこれらの子音は、幼児がはじめに発声することのできる単純な音である。幼児は父や母を意味しようとして「pa」や「ma」の音を出しはじめるわけではない。しかし、それらの音を両親は「父」や「母」としていわば身勝手に受けとる。その仮定で「パパ」や「ママ」という親族呼称ができあがり、それらが父と母とを識別する。その一方で、父母は幼児のことをたとえば「ミカ」と呼ぶ。このとき「パパ / ミカ」や「ママ / ミカ」といった対立軸ができる。これらはすべて呼び名であり、幼児にとってはいかなる一般性も持たない。

ところが、幼児はやがて世界には複数のパパとママがいることを知る。パパやママが単なる呼び名だと信じていた幼児にとっては、他人の両親はパパでもママでもない。にもかかわらず、パパやママと呼ばれているのを目の当たりにする。そのとき、パパやママという語が一般名詞でもあること、自身の両親はなにより「ミカのパパ」や「ミカのママ」であることに気づく。その一方で「ミカ」は「ミカ」のままである。こうした一般性への気づきを契機として、親族呼称であるパパ・ママと固有名であるミカとのあいだに非対称性が生じる。この非対称性は、成長した幼児が自身のことを「私」という一般性を伴った語で指示できるようになり、さらに「お父さん」や「お母さん」のような語を使うようになってからも維持されたままでいる。両親は子を「ミカ」という固有名で呼びつづける一方で、子が両親をその名で呼ぶことはない。このような規則によって親子の序列が支えられる。

固有名は子にとって所与=偶然のものである。他者によって与えられたものであり、自身が自身に与えたものではない。名にはいかなる必然性もない。「ミカ」ではない別の名前でもよかったはずだ。その一方で、親子関係は言語のレベルで必然を装う。気づいたときには、mamaのような音が、母親を意味するママという語にすり替えられることで、所与=必然のものとしてある。しかし、実際のところ「ママ」は肩書にすぎない。母親は匿名者でいる。やがて子が「ミカ」に代わって「私」と自称することを覚えても、母親はあくまで「ママ」や「お母さん」という語で自称をつづける。このような非対称性の維持のなか、必然性の装いのなかで、母親はひとつの不自由を強いられることになる。それは、自身の匿名性ゆえに、子の前では母親以外の何者でもあることはできないというものだ。それとは対照的に、自身に与えられた固有名がいかなる関係も含意しないことによって、名が偶然の産物であることによって、子は親族関係から半ば自由でいられる。それでもその自由が限定的であるのは、親族呼称システムにおいて固有名はつねに序列が上の者の親族呼称との対立関係のなかでのみその場所を持つからだ。こうして固有名は、二重の意味での独異性を持つ。第一に自身の親にとってはただひときりの「ミカ」を名指すための呼び名であること。第二に「ミカ」はほかの語といかなる関連性も持たずに存在できるということ。この二重性は、親族呼称が呼び名であるとともに一般性や匿名性を兼ね備えていることによって裏付けられている。というのもそのような一般性や匿名性との対比のなかでのみ、そして「ミカ」が「ミカ」であることの偶有性のなかでのみ、固有名の「ミカ」は独異であることができるからだ。一般性や偶有性のない世界には独異性もない。

日本語の親族呼称システムは、序列が上の者の名を隠して肩書のみを名乗るという規則によって、操作的に閉じられた秩序を作る。それと同時に、序列が下の者に名を与えるということによって、外部に開かれる(たとえば、ホームステイにきた留学生をその名で呼ぶことができる。それに対して、学生は親族呼称で応じることができる)。このような二重性は、父母が二通りの仕方でたがいを呼びあえるという事実のなかに結実している。父母はたがいの固有名で呼びあうことができる一方で「お父さん」や「お母さん」とも呼びあうことができる。親族コミュニケーションの秩序は父母が子の前で自身の固有名を伏せることによって強化されるが、その一方で当人は自身が父母以外の者でありえることも知っている。それと同様に、子の「ミカ」は家族の一員であると同時にその外の者であることも知っている。

以上のことは次のようにまとめられる。固有名は、日本語の親族間コミュケーションという具体的な言語使用の場においては、子にその名の与えられた瞬間から一つの力学のなかに置かれ、父母のような一般性を持った匿名者の存在によって裏打ちされる。固有名は親子関係の装われた必然性との対比のなかで自身の偶有性を見出す。このような力学において、独異性は一つの文法的な効果としてあらわれる。言語使用のダイナミズムを捨象することでのみ論じられることもあれば、そうではないこともある。