2022年7月8日(金)11時31分頃に起きたのだという。状況如何では前日の岡山市での遊説の際に決行されていた。7月7日。天に願いを託す日、二つのかけ離れた星がもっとも接近するという伝説を祝い寿ぐ日でもあった。それらの星がその後決定的にすれ違うのか、あるいはたがいに引き下がってゆくのかは知らない。一方は、あるグループに家族や人生を破壊されてしまったという。もう一方は、そのグループに祖父の代からすり寄り権力をほしいままにしてきた。その二人が奈良市の交差点で五メートルの距離にまで接近した。取りだされた手製の火器から発射された豆粒のような鉄の玉がその距離を埋め肉を食い破り血管を裂き血を吹かせた。山上さんの人生が安倍さんの人生に鋭く交差した瞬間のことだった。

そのとき自分はブルターニュの外れにある家の一室でこんこんと眠っていたのだった。7月7日の夜遅くにたどり着いたとき、一階のキッチンの照明に甘い香りのする粘着テープが吊りさげられているのが目にとまった。螺旋階段のように渦を巻いている。そこに何匹もの蝿がへばりつき息絶えていた。ちょうど天上の光を目指し悶えているようにも見える。照明を落とすと、窓の外だけが明るい。夜空はおびただしい星々の輝きに満ちていた。そのうちの豆粒のような二つ、天の川のほとりにたたずむ二つの星は、地球の裏側では織姫や彦星といった名で呼ばれている。それをまるでひとつの秘めごとのように知っているのは、その家のなかでただ私ひとりだけなのだった。

翌朝になり、事件がフランス中に知れ渡ることになったときも、自分は口を噤んでいることしできなかった。「特定の団体に恨みがあり犯行に及んだ」という文言があった。そのことにただ不快なまでに胸をかき乱されていた。その日に顔をあわせたひとにはみな、事件のことをたずねられた。なぜなのか、と顔を曇らせていう。わからない。政治的な理由ではなく、個人的な理由によるらしい、とだけしか答えられなかった。その翌日には統一協会への恨みによるものだということが報じられるようになった。なぜおまえはそんなに平然としているのか、とも問われた。かけがえのない命が失われた、しかもおまえの国のリーダーの命が失われたというのに、残念ではないのか、と神妙な顔で、蝿の螺旋階段を挟んでいう。そこでも答えに窮してしまった。言うまでもなく、あまりにもいたましい事件だった。山上さんである自分自身、安倍さんである自分自身を思うと、ひそかに震えている自分に気づき、その震えのもとをたどってゆくとその先に暗く血なまぐさいものがとくとくと流れているのがいやおうなくみえ呻きたくなる。

いかなる理由であれ人を殺すのは許しがたい、殺人を肯定的に語ってはならない、というような発言を見かけた。殺人も戦争も絶対的に悪である、と考える人はきっとそう少なくないのだろう。自分もそのように考えている。そして、そのような自分自身の想像力の欠如に、ただただ絶望感しか湧いてこない。自分自身は、圧倒的に、生きている者の側にいる。法を遵守する者の側にいる。そのような自分の感じる「許しがたさ」や「憤り」は、絶望的なまでに気安い。

ひとのやさしさ、安倍さんのやさしさ、ひいては山上さんのやさしさ、いのちのやわらかさと、たましいのもろさに、胸はりさける思いがする。それは自分もまた穢のない血をもつという「神の子」として生まれてきたひとり、言いようもなく激しい怒りを腹の底に相口のように忍ばせてきたひとり、安酒のような香りに誘われて天国への階段にへばりついた蝿のような両親のもとに生まれてきたひとりでもあったはずだからだ。

夜更けに見上げた空に輝くおびただしい星々のひとつひとつ、安倍さんを食い破ってできた弾痕のようなひとつひとつ。それら光の滴りのことごとくが不潔だったし天の川も濁っていた。日は新たに昇り、空は掃き清められるのだとしても、またそれと同じ数だけ空がふたたび穢されてゆく。そのはるか下の世界のかたすみ、やさしさを貫く針の痛みの刺す世界のかたすみ、日に日に清められてゆく世界のかたすみの川の畔で、自分は言葉の感性を研ぎ澄ませてゆくことしかできない。