晴れた日にアルプスをふらふらしていると、パラグライダーのたゆたうのを見かけることがある。山道に息をつきながら空を見あげると、なにかの暗示めいた暗い影が音もなく中空を滑ってゆく。その姿に見とれて立ち尽くす、というようなことが幾度ともなくあったのだった。そんな自分もつい最近になって、オート=サヴォワ県のSamoënsという村でパラグライダーに乗せてもらえることになった。想像していたよりもはるか手軽にできることに驚く。着地も羽根がクッションの上に舞い落ちるみたいにかろやかだった。同伴者付きの20分に満たない滑空だったけれど、このような機会がおとずれることは二度とないだろうから、思ったことを書き残しておきたい。
速度という点と位置という点から、パラグライダーは長編小説に喩えることができるような気がする。山の坂道から見あげたときには思ってもみないことなのだった。身を持って経験してみると、書くことや読むことに奇妙なほど似ていることに気づき、こわくなり、頭が真っ白になる。その空白のただなかに、名前の知らない猛禽がただよっていた。鳥は空を飛ぶ天才なのです、と同行者はいう。たしかにそうなのかもしれなかった。
まずは、速度という点について考えてみる。パラグライダーは、いきなり屈伸して飛びあがったりはしない。重力を組みふせるだけの力はない。しかし、重力に抗わないことを通して空を飛ぶこともできる。坂道を駆けおりるなかで浮上し地に足がつかなくなる、というところからパラグライダーははじまる。気づけば宙を蹴っている。この出だしからして長編小説の感がある。ほかの文芸の形式とはちょっと違う。たとえば俳句の場合は、音とも言ともつかないものが唐突に湧いたり降ったりしてくることがある。日本語が日本語として立ち現れるのに先んじて、言葉の速度を超えた何かが働いている。その点、雷をはじめとする天変地異に近いものがあるような。あるいは、ショートストーリーにしても、冒頭からゴキブリみたいなのになっていたりしないといけない。すでに何かが起こってしまっている。というのも、何かを本当に引き起こすのには、ショートストーリーの紙幅では足りない。だから基本的には、そこに速度の問題はないのかもしれない。他方、典型的な長編小説が何かを引き起こすための自転運動をはじめるには、ある種の助走が要る。高度や風向きに似たものも。さまざまな条件が整ったところで、気づけば地に足がつかなくなっている。
この「気づけば」というのは、天地は切り離されているのではなくたがいの延長線上にしかない、ということでもある。当たり前のことだけれど、両足が地面にくっついてしまっているがゆえに、それまでこのことに気づかずにいたのだった。またそれゆえに、高所恐怖症の自分はめまいを感じてしまう。足裏は地面を感知し、接地面の均衡を感知している。高所でその均衡に過敏になった状態で重心が崩れかけると、めまいが起きる。逆にいえば、どれほどの高所にいても、足が地面から切り離されてさえいれば、めまいは起きない。ただ、天地のつながりのただなかに置かれているのを感じる。ちょうど崖を踏み越えてなお歩いていられた古いアニメーションの登場人物たちのように。もちろん彼らの場合は、気づいた途端に、垂直落下するか、空を漕いで元の場所に戻ることになるのだけど。パラグライダーがあれば、落ちない。かといって、重力に抗うとも違う。むしろ重力になびき、従う。自分が乗せてもらったものの速度は時速30キロほどで、一般的な歩行速度の六倍ほどになる。にもかかわらず、山肌を駆け下りたときと同じ速度、その延長線上のなかで地表にむかっている、という感じがした。吹きつけてくる風の強さによってのみ辛うじて変化を感じとれる。飛行機のなかの無風状態では時速800キロと80キロの差を感知することができないのと同じように、パラグライダーにおいても、速度は慣性のなかにある。
この速度感が長編小説に似ていると思ったのだった。もちろん、長編小説が展開速度に緩急をつけられるようにパラグライダーも時速を変えることができる。カーブをすることによって加速する。それでも、地→天→地と移行するなかでの速度に断絶はない。つまり、あくまで同質の時間軸を進んでいる(俳句には多分、そういうのを踏み越えたり捻じ曲げたりする力がある)。そして、このような速度感は、どうやら視差効果とも関係があるらしい。高度を上げきった飛行機の窓の外の景色に大した躍動感がないのと同じように、パラグライダーの眼前に広がる景色と自分自身は緩慢に動きながらずれてゆく。そのずれに気づいたとき、さらには地に足がついたときには、風景が不可逆的な形で変質してしまっている。長編小説においても、こういう自身を取り巻くものの大きな変化は不可視の形で起こる。人間的な距離のなかで身近に動くものとの視差を感じ、変化の速度を感じとることはできるけど、世界全体の変容までは感知できない。世界から取り残されている、という感さえある。そういう孤独感を突き詰めてゆくと、源氏物語のようなものが生まれるのだろうか。
それから、位置という点から思ったことも書いておきたい。鳥やパラグライダーが夜に飛ばないこと、あるいは渡り鳥たちが朝や夕方の時間帯を選んで移動をすることには、気象学的な理由がある。気流は気温(気圧)の差によって生じる。水平方向のものは風と呼ばれ、垂直方向で天にむかうものは上昇気流と呼ばれているけれど、一日のうちでこれらの気流が生じやすいのは、日の出と日の入りのときだ。日なたは暑くて日陰は寒い。そのずれから風が立つ。鳥はその風の出自を探りあてるすべを心得ている。だからパラグライダー乗りの人たちは鳥の動きをよく追うという。あるいは、目視によって日なたと日陰のあわいに向かう。「あわい」といっても、光と影のコントラストは高ければ高いほうがいいようだ。そういうところが上昇気流の入り口になっていて、そこから螺旋状に舞いあがることができる。うまくいけば日の出から日の入りまでずっと空に留まっていることもできるということだった。
この話を聞いたときにも長編小説のことを思わずにはいられなかった。フランス語では長編小説が新たな展開をむかえること、起承転結でいうところの承や転のことをrebondissementといったりするけれども、これを直訳すれば「弾み」ということになる。ボールが地面にあたって弾む。パラグライダーの醍醐味の一つも上昇気流にぶつかり弾むことにある。そして、長編小説においても、異なる力が衝突し、ずれてゆくなかから何かが立ちあがったりする。そういう場所を見つけることができないと、なし崩し的に軟着陸してしまう。ショートストーリーの場合は、はじめの立ちあがりの慣性のなかで書き切ることもできるかもしれない。しかし、長編小説の場合は、何度かの切り返しによって浮力を保っていないと、風景全体を変質させるだけの位置エネルギーを持つことはできない。このような動きは、空を「飛ぶ」というより「跳ぶ」や「翔ぶ」とでもいうべきか。慣性で宙に浮かびながら、どこかでなにかを蹴りあげるすべが必要になってくるのだろう。
こんなふうに、パラグライダーを通して長編小説のことを考えるうちに、これを書いている自分自身、天地の見境がつかなくなってくるのだった。天地はたがいの延長線上にしかない。山を歩いているとふと空を歩いていることに気づくことがあるのもきっとそのためなのだろう。それでも、地に足はついている。鳥と違い、人間はめまいを起こしてしまう。たぶん、鳥は長編小説を書くことができない。歌はうたえるかもしれない。でも、長編小説は、書けたとしても、書かないと思う。書く必要もない。人間は、書かなければいけない。詐術が必要なのだ。おそらくは、本当は空を飛んでいるはずなのに地に足がついているという不思議のために。
The power of a country road is different when one is walking along it from when one is flying over it by airplane. In the same way, the power of a text is different when it is read from when it is copied out. The airplane passenger sees only how the road pushes through the landscape, how it unfolds according to the same laws as the terrain surrounding it. Only he who walks the road on foot learns of the power it commands, and of how, from the very scenery that for the flier is only the unfurled plain, it calls forth distances, belvederes, clearings, prospects at each of its turns like a commander deploying soldiers at a front. Only the copied text thus commands the soul of him who is occupied with it, whereas the mere reader never discovers the new aspects of his inner self that are opened by the text, that road cut through the interior jungle forever closing behind it: because the reader follows the movement of his mind in the free flight of daydreaming, whereas the copier submits it to command. The Chinese practice of copying books was thus an incomparable guarantee of literary culture, and the transcript a key to China’s enigmas. (Walter Benjamin. One-way Street. 1928)