中学生のころに万引をして補導されたことが一度あった。それ以来万引をすることはなくなったけれども、万引をうたがうような目で見られることなら今でもある。その日は、スーパーのレジで背負いかばんのなかを見せるように言われたのだった。それがその店での一応の決まりになっていた。一応、というのは、とくに馴染みの客の場合は顔パスになることが多い。毎日のようにそのような要求をされては客もいい気はしない。客の立ちかわりのはげしい観光地ならまだしも、地元の常連のあつまる小さなスーパーなのだった。
 その日はちがった。仕事帰りの昼下がりに買いものをしたとき、二年ほど前から顔見知りだったレジ係の女の要求にしたがい、背負いかばんを開けてみせた。なかに入っていたのはタイガーの水筒とiPad Pro、ケーブルの収納ポーチ、印刷所で受けとってきた四十人分のA3の試験問題の束を二つ折りにしたもの。普段ならそのまま儀礼的な何気なさのなかで商品のスキャンがはじまるはずだった。ところが、わずかに噛みあわない感じがあった。レジ係は目をそらしつつ、
「いちおう、決まりになっているので」
 という。レジ係はそのまま商品をスキャンしはじめるだけでよかった。しかし、そこで妙な間があいた。
「店の外にはロッカーもありますよ」
「ええ」
 と答えた。なにをいまさら、と思いながら。そんな小さないまさら感のなかで、ウィリアム緑がささやかな口火を切ったのだった。フランス語で書けば William vert。ウィリアムという名はフランス人にはめずらしい。というのも、フランス語ではギヨーム Guillame に変わる。それゆえにこそあえてウィリアムという異国感のある商品名が選ばれたのだろう。南アフリカ産ではあったけれど、そういう名前の梨が売られており、こちらはそれを毎日のように食べていた。ほかにもベルギー産の Conférence という品種やポルトガル産の Rocha もあったが、ぜったいにウィリアム緑しか買わない。緑といっても、ほかに黄色のウィリアムや橙色のウィリアムがあるわけではない。一つの商品名なのだった。クメール・ルージュ Khmer Rouge、つまり「赤いクメール」が一つの固有名詞であり、黒いクメールや青いクメールが存在しないのと同じことだった。
 ウィリアム緑は黄緑がかった色をしていた。バナナと同じで、熟れると黄色になる。文字通りに緑色をしたウィリアム緑は食べごろではないので買ってはいけない。その日は、五月にしては珍しく、熟したものがいくつかあった。もっとも黄色がかっているのを四つ選んだ。一日に二個食べてしまったとしても二日連続で食べられる計算だった。まとめて袋に入れ、近くの計量器にそっと載せる。タッチスクリーンを操作してウィリアム緑の文字を見つけて押すとバーコードのシールが出てくる。それを袋に貼った。
 レジ係の女はただそれをスキャンするだけでよかった。もちろん、袋のなかの果物とシール上に印刷された商品名が一致していないのであれば、不正が行われている可能性がある。ウィリアム緑はウィリアム緑であって、Conférence や Rocha ではないことをチェックするのもレジ係の仕事だった。そのため、商品をひとめ見ただけでその名前がわからなければいけない。その日、その女は、それができなかった。
「これはウィリアム緑じゃないでしょう」
 という。こちらの反応を待たずに「ちょっと」と通りがかりの同僚を呼びとめ、梨の入った袋を差しだしながら目で合図を送った。間違ったバーコードが貼られているので、そちらで正しいものに貼りかえてきてほしい、という意味のものだった。
「でも」と自分は言った。「ウィリアムは一種類しかありませんよ。ウィリアム緑です」
「これが緑色に見えるんですか」
 そう真顔で切りかえしてくる。迷いのない目をしていた。返事にこまり、首を横にふった。梨を受けとった店員が慣れた手つきで計量器を操作した。それを遠目に見守ることしかできなかった。新しく貼られたバーコードに「Rocha」と印刷されているのを見たとき、かすかに怒りが沸いた。Rocha はウィリアム緑と違い、もっと赤茶けている。質感ももっとさらさらしている。果物売り場に行って自分の目で確認してくるように言おうとしたとき、さらに別の店員が通りがかった。果物売り場の担当者だった。
「これは Rocha ではないですね。ウィリアムです」
「ウィリアム緑ですか」
「そうです」
 それで話がついた。
 レジ係の女は納得がいかないようだったが、肩をすくめると、黙って商品のスキャンにとりかかった。その後、会計がすんだとき、やや悪びれた感じで「Bonne soirée」と儀礼的な挨拶をした。そうかと思うと、首をふってため息をつき「Bonne journée」と言いなおした。こちらもそれに「À vous aussi(そちらこそ)」と返して店を出た。疲れていたのかもしれない。肩で息をする感じがあった。午後二時のことだった。
 ただそれだけといえばそれだけの事件だった。実際、帰路を急ぐうちにほとんど忘れかけていた。そのことをあらためて思いかえしたのは、帰宅後にウィリアム緑を袋から出して、台所の棚にひとつずつ並べたときのことだった。黄色く熟れているのをまじまじと眺めた。いびつに傾きながらめいめいお辞儀をするようなひっそりとした佇まいをしている。すこしも緑色ではない。それを緑と呼ぶのは、もちろん、嘘なのだった。世にありふれたそんな嘘を見過ごすことができないのは、とても心細いことなのかもしれない。
 ウィリアム緑は、いかにも頼りなげだった。ナイーブで、猜疑心をおこすということもない。人種差別もしない。そのいかにもな感じを眺めるうちに食欲が失せて、その日は結局昼ごはんを食べることもなかった。