私は普段あまり映画を観ることはありません。そのため映像作品について語るための語彙を致命的に欠いているのですが、濱口竜介さんの『偶然と想像』を観る機会があり、深い感銘を受けた、ということがあったので、これを書かずにはいられなくなりました。私の暮らすストラスブールの町でも『Contes du hasard et autres fantaisies』という題で上映されていて、つい先日駆けこみで観ることができたのです。前作の『ドライブ・マイ・カー』と『寝ても覚めても』(これは『Asako I & II』というへんてこな仏題でした)をフランスで観る機会にもすでに恵まれていたのですが、これらの作品を思いかえすうちに濱口さんの試みのかけ金がおぼろげながら見えてきたような気がするのです。今Wikipediaで読んだことくらいしか知らないにわかものの私ですが「語録」の項にある次の発言が目にとまりました。
抑揚を捨て、セリフが身体の中に入り込むまで本読みを繰り返すリハーサル手法は、『ジャン・ルノワールの演技指導』という短編ドキュメンタリーに登場するイタリア式本読みを実践したものです。『ハッピーアワー』以降も、これができる体制をどうつくるかがカギでした。この本読みは、プロの俳優にとってもセリフを新鮮に捉えて、自分のものにしてもらう方法になるといまは感じています。
あの奇妙な棒読み調は一体何のためのものなのだろう、と私も考えずにはいられなかったのですが、ここにそのヒントがあるような気がします。ことばを身体に入りこませる、ということ。ここではこれを「ことばの器になる」と言いかえてみることもできるかもしれません。そこで私が思いおこすのは、折口信夫や中上健次のことです。折口は天皇という存在について深く考えようとした人なのですが、天皇とはようするに「みこともち(御言持ち)」のことなのだと言っているのですね。安藤礼二の『折口信夫論』に詳しいように、天皇は空の器として「天皇霊」という言霊、マナに似た何かがその力を発揮するときの通り道になる、というようなふしぎな考え方をする人でした。それで、なぜこのようなシャーマン的な存在の話をしているのかというと、俳優にもやはりそのような側面があるからです。シャーマンは演技をします。たとえば大川隆法のような現代のシャーマンを思い浮かべてもらってもいいですが、シャーマンは二つの異なる世界をつなぐ通り道なのです。俳優も「この世界」と映像のなかの「むこうの世界」を仲介します。濱口さんがこの点に関心を寄せているということは「語録」の次の発言からも伺いしれるような気がします。
俳優はカメラの前で演技している。それは演技する俳優のドキュメンタリーでもある。1回限りの何かをその都度やっている。
おそらく、カメラが複数の世界を同時に捉えている、という意識が濱口さんにはあるのではないでしょうか。登場人物の生きるフィクション世界と俳優の生きるドキュメンタリーの世界です。この二つの世界はつねに重なりあい、侵食しあっています。卑近な例をあげれば『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観る私たちは、ジャック・スパロウという登場人物のなかにジョニー・デップという俳優を受けとることもできるし、その反対にジョニー・デップという俳優のなかにジャック・スパロウという登場人物を受けとることもできます。濱口さんのいう「純然たるフィクションも純然たるドキュメンタリーも存在しない」ということの一端はこの点にあります。
私はこう思うのです。このような二つの世界の交わりは(登場人物も俳優もふくめた)「ひと」を匿名の存在にするのではないか、と。匿名というのはつまり自分以外の者でも同時的にありえる、ということです。あらためて天皇制に引きつけていえば、歴代の天皇というものは、空の器としての身体はそれぞれ異なるけれど、匿名者として万世一系の一つの天皇霊を体現する者でもあるわけですね。ジョニー・デップの場合は、その逆です。様々な物語の登場人物を通してジョニー・デップが体現されるとき、かれらは匿名者になる。言ってみればそのような形で自己同一性を解いてしまうようなダイナミズムがなにかを「演じる」ということにはつきまといます。
中上健次のように耳のよい作家は以上のことを「音」のアナロジーから捉えなおしてもいました。音は空気の振動ですが、この振動は複数の周波数の重なりでできています。つまり音は一つの音ではなく複数の音、つまり倍音の重なりからなります。中上はそれらの複数のレベルの音が響きあい侵食しあうことに非常に大きな恐怖を感じるという類まれな作家でした。それに近いものを濱口さんの作品からも私は受けとりました。
このことを掘りさげるには、ここでジル・ドゥルーズのいう「現勢化 actualisation」というものについて触れておかなければなりません。ドゥルーズの『Le Bergsonisme』というエッセイによれば、マルセル・プルーストは記憶に関して「アクチュアルではないままリアルで、抽象的ではないままイデアルである」と述べています。ドゥルーズはそれを導きの糸にする形で「リアル(実在的)/ポッシブル(可能的)」と「アクチュアル(現勢的)/バーチャル(潜勢的)」の区別についての考察を深めます。それを強引にまとめれば、次のようになります。この「リアルな世界」というのはその外側にも広がる「ポッシブルな世界」の一部です。とはいえ、このリアルな世界にも、アクチュアルなものとバーチャルなものの二つがあります。では、アクチュアル/バーチャルとは何か。ここではさしあたり「ここ(いまの私)」と「そこ(いまの私でないもの)」の区別に相当するものだと考えさせてください。システム論的な言葉づかいでは、次のように言いかえることもできます。システムというものが自己を環境から区別する差異化 differentiation の運動であるとすれば、このような差異のなかから立ちあらわれるものが「ここ」です。このとき、環境としての「そこ」は、自己の存在にはなくてはならない裏打ち(自己の陰)としてあります。私の理解が正しければ、ジル・ドゥルーズは、このような「ここ」の生起のことを現勢化 actualisationと呼んだのでした[1]。リアルな世界とポッシブルな世界の区別においてはこのような「いまここ性」(時空間の中心)を欠いていたわけですが、アクチュアル/バーチャルの区別を立てることによって、それを意識できるようになったわけです。
ここでようやく本題に戻ることができます。なぜこのような面倒な迂回をしたのかというと、このことこそが映画を撮ること、あるいは登場人物を演じることの核にあり、濱口さんのかけ金の一つはそこに置かれているのではないかと考えているからです。私ではないけれども私を裏打ちする私の陰としての「バーチャル」。これは、俳優にとっては登場人物であり、登場人物にとっては俳優のことです。あるいは、カメラのむこう側の世界にとってのこちら側の世界であり、こちら側の世界にとってのむこう側の世界のことです。それはリアルな力です。ポッシブルでもアクチュアルでもないけれど、バーチャルであり、リアルです。折口はそのことを「もの」とも「マナ」とも呼び、中上健次のような人は「物語はモノがモノを語るシステム」という言い方で「もの / マナ」の現勢化のダイナミズムをとらえようとしたのでした。
濱口さんの『偶然と想像』の第三話では、そのダイナミズムのこと、ひとが同時に自分以外のだれにでもなってしまう(なれてしまう)という匿名性がとてもうつくしい形で物語のレベルに落としこまれています。最後のシーン「俳優」「登場人物」「登場人物の演じるそこにはいない誰か」の三つのレベルが重ねあわされます。「目の前にいるのは、いったい誰なのか」という問いのなかで「信じる」ということが現勢化する。私はこのシーンを目の当たりにして、ジャン=リュック・ナンシーが『私に触れるな:ノリ・メ・タンゲレ』で語っていたヨハネによる福音書の物語(20章)のことを思い起こさずにはいられませんでした。
この場面はイエスの死後何日か経ってマグダラのマリアが墓園に行くところからはじまります。まだ日の昇りきらない早朝に、マリアは墓の入り口をふさいだ石が取りのけられているのを見て、二人の弟子たちのところに駆けてゆく。「だれかが主を取り去ってしまいました。いまどこに置かれているのかもわかりません。」そこで弟子たちは墓に出むき、イエスのくるまれていた亜麻布だけがそこに残されているのに気づきます。その後弟子たちが家路についてからもマリアは墓の前で泣きつづけました。ところがしゃがみこんで墓の中をのぞきこむと、二人の天使がそこにいて「女よ、どうして泣いているのだ」という。マリアが答えていうには「だれかが主を取り去ってしまったからです。いまどこに置かれているのかもわかりません。」そう言いながら振りかえると、イエスがそこに立っていました。けれども彼女はそれがイエスだと気づかず、園丁なのだと思います。「女よ、どうして泣いているのだ。だれを探しているのだ」と問われ、「あなたが主を運び去ったのでしたら、どこに置いたか仰ってください。わたしが引き取ります」と言いました。すると突然、彼は「マリア!」と言いました。彼女は振りかえり「ラボニ!」と言いました(ヘブライ語で「師」という意味です)。そこで、イエスが言います。「わたしに触れるな。まだ父のもとに上っていないのだから。だがわたしの兄弟たちのところに行ってこう伝えなさい。わたしはわたしの父のもと、あなたの父のもとに、わたしの神のもと、あなたの神のもとに上ってゆくのだ」と。彼女は弟子たちのもとに行って、彼女が主を見たこと、主が彼女に言ったことを伝えました。こうして彼女ははじめの証人に、イエス復活の福音をはじめて告げしらせる者になります。触れることと告げしらせることがあたかも両立できないことのように。
このことについてはかつて「盲たちの白河夜船」というエッセイのなかで書いたことがあるのですが、この場面においては、信じることの力は触れずにいることによって支えられることになります。『偶然と想像』の第三話の最終シーンはそれとは対照的です。というのも、掲載した写真にあるとおり、二人のひと(登場人物でもあり俳優でもある)がことばに釣られるなかで、たがいを避けがたく触れてしまうのです。そもそも触れずにはいられないのだ、とでも言うように。そして、すでに避けがたく信じてしまっている。そのような不可抗力こそをカメラは眼差そうとしている、という印象を私は受けました。表題にある「偶然」はフランス語ではhasardと訳されるものですが、ここではむしろ「偶有性 contingence」が問題になっています。偶然という語からは二つの別種のものの巡りあいという語感を私は受けとりますが、偶有性にはむしろ、仏教的な縁に近い何か、二つのものがそもそも分かち難い関係のなかにあり、その不可抗力のせいで何かがそうあってしまう、というような意味あいがあります。
ここでようやく、イタリア式本読みの話まで遡ることができます。これは濱口さんがどこまで意図するものなのか知るよしもないのですが、私はあの奇妙な棒読み調のなかに、アクチュアルとバーチャルの揺らぎを感じずにはいられませんでした。いわゆる普通の演技をした場合、こういってよければ、俳優がことばを飼いならしてしまうおそれがあるのではないでしょうか。そのときに私たちが目の当たりにしているのはきっと登場人物ではなく、それを上手に演じる俳優のほうなのですね。そして、逆説的になりますが、まさにそれゆえに物語をただ一つの物語として追うことができるのかもしれません。そのとき、私たちがバーチャルという潜勢力を感じることはない。しかし、濱口さんの映画からは、ことばが先行し独立し、飼いならされずにいる、ということを強く感じます。そのせいか、俳優と登場人物との重なりがずれて、互いにはみ出してしまう。一つの音が様々な倍音の揺らぎからなりたっているように私たちが揺れているのだとしたら、そこでその揺れが極度に増幅されます。そのときに気づかされるのです。登場人物も俳優も空の器なのだ、と。そして、折口が「もの / マナ」と呼んだものの潜勢力の横溢を感じるのです。
特に会話劇である『偶然と想像』においてはそれがことばとして俳優の身体を通り過ぎるのだとしたら、その前々作である『寝ても覚めても』においては、ある意味ではその反対のことが起こっているとも言えるのかもしれません。私の記憶が正しければ、テオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』のように、ある俳優が一人二役をしていたはずですが、このときにバーチャルな力として通り過ぎることになるのは、ことばではなく、俳優の身体のほうです。物語の登場人物には、一人二役をする俳優の姿が見えていない。見えているのは、俳優の影である二人の別の登場人物だけなんですね。盲目の世界にとどめおかれているのです。そのひとの身体に触れても、俳優の身体に触れたことにはならない。しかし、気づかずにいるだけで、本当は触れているのです。そこには静かなバーチャルの力があります。棒読み調の演技によって倍音がかき乱され明らかになるような激しさとしてではなく、静けさとして。「盲たちの白河夜船」に書いたとおり、ハイデガーは「隠れなさ」unverborgenheit という意味でのアレーテイアを一つの真理の形として見たのですが、登場人物には見えないそのような真理の静かなあらわれがあるのではないでしょうか。