春に立てつづけに観た邦画の二つが濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー 』(原作は村上春樹)と岨手由貴子の『あの子は貴族』(原作は山内マリコ)でした。この二つの映画には一つの共通点があります。視点人物が他人に運転される車に乗って移動を繰りかえすというものです。前者は自家用車、後者はタクシーという違いはありますが、いずれにしても、ここにはきわめて重要な物語のレイトモチーフが提示されているといえるでしょう。それをひとことでいえば、自身の進むべき道を他人に委ねてみること、委ねてしまうことの限界と可能性です。とはいえ、自家用車とタクシーは同じではない。そこからそれなりに違った形の帰結も引きだされることになります。

1980年代の半ばだったか「現代小説の方法」と題された公開講座のなかで車という物語の装置の面白さについて中上健次が語っていたことがあります。車は「異界」にトランスポーテションするための女性器のようでも男性器のようでもある神聖な空間なのだというのですね。これはきっと中上が自身の『日輪の翼』から教わったことだと思うのですが、このような発想からある特定の時代の放つ匂いも嗅ぎとれるような気がします。実際、このことを補助線に同時代の作家である村上春樹の物語を振りかえってみると、まさしく車が異界へのトランスポーテションの手段、自己変貌の装置としてしばしば用いられている。『ドライブ・マイ・カー』はこのことについて村上が意識的に掘りさげようとした作品です。

そのことを踏まえた上で『あの子は貴族』で多用されるタクシーのことを考えてみると、どうでしょうか。映画のなかでは特に自転車との対比のなかで強調されることになるのですが、とにかく閉塞感がすごい。自家用車と違ってタクシーはある一点から別の一点へのピンポイントの移動に用いられている、ということにも起因しているのかもしれません。ある意味、決められたレールの上を走る電車よりもひどい。電車の場合はもうすこし気楽な雰囲気のなかで途中下車をしてみたり乗り換えてみたりすることもできるけれど、タクシーには妙に堅苦しくなるようなところ、どちらかといえばエレベーターの気詰まりに通じるようなところがある。このような物語の装置が効果的な比喩として用いられているせいか、映画のなかで描きだされた東京はただひすたすら息苦しく、出口のない感じがする。日常に一つの空隙として突如立ちあらわれるような「異界」がない。ある意味では、それが物語を圧倒的に退屈にさせている。そして、まさにこの生ぬるい退屈に説得力のある輪郭を与えてみることこそがこの映画の目論見だったのだとも言えるのかもしれません。

もちろん、物語の筋立てをビルディングスロマンとして生真面目に読むなら、最後に自家用車や三輪車といった移動手段への切り替えが提示されることで、今後の可能性というか、小さな成長が開示される、というあたりさわりのないオチになるのですが、まさにそのあたりさわりのなさこそがいっそうの息苦しさややり場のなさを垣間見せていて、その点にこそこの映画の魅力があるような気がするのです。