卵刈り空青ざめる

はとのことが生まれつき好きだった。幼年を過ごした名古屋市昭和区の2Kのコーポでははとがよくベランダに降りたった。赤ん坊の私はその姿を見るたびに並々ならない興味を示したらしい。生まれてはじめて口にしたことばが「ぽっぽ(ぽおぽ?)」だったという。パパでもママでもない。生粋のはと好き、はとっ子だった。そんな自分は、はとのことをハトとカタカナで書くのに抵抗がある。イヌやネコのような動物としての概念を話すならたぶんハトと書く。けれども、ひらがなに開かれた「はと」がいちばんしっくりくる。読みにくいとは思うけれど。ふくよかで不潔な感じがよく出ている。 あの不潔感は人間との距離感から来ているのかな、と思うことがある。そこはかとない近しさを感じ、それと同時にそこはかとない嫌悪感を抱いてしまう。そういうところをくるめて好きだった。高校に行かずに詩を書いてばかりいたときには公園で弁当を食べながらはとへのささやかな讃歌を書いた。いまでも生まれ変わったらはとになりたいと思う。ただ、欲をいえば、ドバトではなく、モリバトになりたい。 私の暮らすストラスブールの町にはその二種類がいるのだった。フランス語ではPigeon bisetとPigeon ramierになるのかな。後者のはと、つまりモリバトには、ドバトのようなずうずうしさがない。人間のおこぼれによりかかるようなライフスタイルではなく、自分たちでつつしみのある暮らしを守ろうとする。首を前後させながらよちよち歩み寄ってくるということもなく、日中はしずかに梢から梢を渡り歩いている。巣作りも街路樹の上でする。きっとひとつひとつの木に縄張りの網の目があるのだろう。ドバトには踏みいることのできない世界なのだった。 ドバトの暮らしは人間に似ている。特にみさかいもなくコロニーを作ってしまうところが人間的だ。二つの世界はゆるく重なりあっている。ドバト特有の厚かましさや何の気のなさのなせるわざなのか、道を歩いていてもふりかえればはとがいる、ということが往々にしてあるような。かくいう私もマンション暮らしのなかで日常的にドバトとの共存を強いられているのだった。フランスでは一般的にマンション暮らしのことをよく思う人は少ない。マンションを指す一般名詞のTour(タワー)という言い方には侮りがこもっている。アジアではよくあるようなコロニーのせせこましさからフランス人は貧しさを嗅ぎとってしまうのかもしれなかった。 たしかに住宅地の一角での私自身の暮らしにも心細くなるようなつましさしかない。ベランダに出るとむかい側にもよく似たタワーが立っている。まっすぐに切りそろえられたその屋上にドバトたちの一群が横並びにとまっている。ちょうどそれと同じような光景が、私自身の真上、私自身のタワーの屋上でも広がっているのを知っている。目視はできないけれど、音でわかるのだった。ぐううるる、ぐううるる、とドバトが鳩胸をふくらませて鳴くのが聞こえてくる。モリバトが木々を渡り歩くように、ドバトはマンションの屋上をモモンガを思わせる動きで行き来している。縄張り争いのためなのだろうか、一点張りの五月鳩さで低くうなりつづける、ということが毎日のように繰りかえされている。人間からすれば、たがいによそ者同士の分際でなにを、である。けれども、よく考えてみたら、このタワーの持ち主、地球の一角にあるこの空間の持ち主は自分たちである、と思いこむのがそもそもの誤りなのかもしれなかった。 ドバトたちは、人間の生活の虚を突くようにして、たびたびベランダに降りてくる。ドバトには生きる才覚がある。世界の間隙を忍耐強くうかがいその隙間に存在の活路を見出すことができる。勇気がある、ということなのかな。それを愚かだとは言いたくない。私のアパルトマンの北側と西側にある二つのベランダにも何度となく降りたっては巣作りをこころみてきた。長くなるので書けないけれど、そのたびに様々な工夫をこらさなくてはいけない羽目になり、たいていそれがイタチゴッコ化することになったのだった。 卵はすでに三度も産みつけられていた。一度目はウクライナでの戦争がはじまり、首都が包囲されたころのことだった。北のベランダの片隅に申し訳程度に二、三の枝が置かれていたことがあり、それだけならと油断した。その翌朝には、そこに卵があった。虚を突くように白かった。それがただ、世界に紛れこみ孵化までの時間をやり過ごすのにふさわしいような灰色だったのならよかった。その装われた何気なさに苦笑いをしながらいまいましく思うこともできた。けれども、この世界にすでに存在して生を営んでしまっている親たちの姿かたちとは対照的に、卵そのものにはすこしも不潔感がないのだった。ただただ白かった。「しろい」とはもともと著しい、つまり際立っている、という意味だけれど、ドバトの卵はなぜ、そんなにも目立つ色をしているのだろう、とふしぎに思った。そう思いながら、それをつまみ上げ、ゴミ箱に捨てた。 五月は卵刈りの季節なのだった。このフランスのかたすみの町にも五月晴れがある。雨がちな日本と違い、ストラスブールの夏は大波の押しよせるように深まってゆく。ただただゆるやかな迷いのない線が伸び、大きな台地の広がりような夏の盛りを迎える。それにつれて、空が青ざめてゆくのが分かる。白昼にさえ、宇宙の星々の輝きをその深まりのなかで感じとることができる。はとの白い卵たち。青ざめた空の下でつぎつぎと孵化しては飛び立ってゆくやわらかなものたちがいる。その一方で、飛びたてずに潰える無数の魂もある。 今朝も西のベランダの鎧戸をあけたら、それに驚いたはとが飛びたっていった。ズッキーニを植えたプランターの中にうずくまって五月のなまぬるい一夜を過ごしたのだろう。葉陰に白い卵があった。触れると、あたたたかった。そのぬくもりを感じとることのできる人間の指先。鋭く走る痛みを感じとることもできるその指先。その指先にあるやわらかな魂の震えが痛ましく、その痛ましさから一日をはじめなければならないこと、自分がはとではなく人間であること、空の深まりにむけて羽ばたくことさえできないのが苦痛でならなかった。

13 May 2022 · y. nonami

話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか

リズムという観点から話法と文体について思うところがあったので覚書を残しておきたい(本来なら章立てをした上でそれにふさわしい展開速度とリズムで論じるべきものだけれど、メモとして必要なことを書きつらねただけなので多分、読みにくい)。 ここでいうリズム、話法、文体とはなんだろうか。英語では話法のことも文体のことも style という。たとえば直接話法のことは direct style といい、文語体のことは written style という。両者とも「語りの様式」であるという点では同じだが、話法は文法的に基礎づけられた物語論の概念であるのに対して、文体は文学や文体論の範疇にある。両者の区別に関してはすでに様々な議論がなされてきている。一方、ここでいうリズムは、やや特殊な意味で用いられている。後に述べるように、音の規則的な連なりのことではなく、論理的な意味の連なりのことである。話法はリズムの問題に直接的に関与しない一方、文体にはそれぞれリズムがある。このとき、間接的な形であれ、話法は文体のリズムにどのような影響を与えるか、というのが、ここで提示したい問いである。 日本語には「語り」と「語りかけ」という二つの異なる話法がある。これは黒田成幸の議論を引きつぐ形で「言文一致体再考」のなかで筆者が提示した概念である。語りとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持たない発話、誰に語りかけるでもない発話のことだ。語りかけとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持つ発話、誰かに語りかける発話のことである。前述の文章のなかで私が論じたのは、言文一致運動とは「〜た。」という文末表現の定着によって「語り」という話法が可能になるような歴史的過程だった、ということだ。言文一致体とは一つの文体のことであるが、その文体を可能にしたのが「語り」という話法であった、と言うこともできる。 そのかたわらで、日本語にはいわゆる常体(である体)と敬体(ですます体)の区別もあることを指摘しておかなければならない。その呼び方に反して、これらはけっして文体論的は概念ではない。厳密には述語の活用形の問題であり、文法論の範疇に属するものだ。しかし、この二つの活用形は、語りと語りかけという二つの話法を文法的に基礎づける上できわめて重要な役割を果たしている。詳細は前述の文章にゆずり、ここでは議論の簡素化のために、常体によって「語り」が可能になり、敬体によって「語りかけ」が可能になるものとしよう。 言文一致運動のなかで生まれた「語り」は、独自のリズムを持った様々な文体を生みだした。文体論に明るくない筆者には、それがどのようなものなのかを具体的に論じることはできない。ただ、一例を挙げるなら、自然主義文学の到達点として江藤淳が褒めたたえた中上健次の『枯木灘』に見られる文体は典型的な「語り」によって構成されていると言うことができる。「語り」には「語りかけ」にない特徴がある。それは、言語コミュニケーションがそれ自体で完結しており、一つの操作的な閉じであるようなシステムを作っているということだ。これに対して「語りかけ」は操作的に開かれている。 このことを具体的に理解するために「語り」のなかでなされる「問い」と「語りかけ」のなかでなされる「問いかけ(質問)」の違いを考えてみたい。例えば「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という文章は語りであり、問いである。それを「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるの?」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えますか」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるのでしょうか」といえば、語りかけになり、問いかけ(質問)になる。この両者を比較することで日本語話者が直感的に理解できるのは、前者と後者には聞き手からの応答を予期しているかどうかの違いがあるということだ。このとき、前者は操作的に閉じられており、後者は操作的に開かれていると言える。 このような前提に立った上で「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という問いを提示したい。(残念ながら)筆者には答えがない。そのためこのテキストそのものは、質問をだれかに投げかけていないという点で操作的には閉じられているが、論理的には完結していない。問いが宙吊りのままだからだ。しかし、この問いをゆくゆく扱ってゆくための道筋をさしあたり一つ示しておきたい。 そもそもここでいうリズムとは何か。リズムといえば一般には、音韻論的な意味での韻律のことであり、拍や音節の問題に直接的に関わるものとして理解される。しかしここでは、論理的な意味の連なりのあり方としてのリズムというものを考えたい。たとえば「筆が乗る」という言い方がある。辞書には「作家や書家などが調子よく書くさま」とある。ここでいう「調子」には、たしかに音韻論的な側面もあるが、それだけではない。論理(意味の連なり)に導かれる形でことばが展開するさまも示している。あるいは、ほかの一例としては、会話にもリズムがあるということを指摘できる。「会話が弾む」といえるような状況では、意味の連なりに自然な流れがあると考えられるだろう。ここでは「呼び水」の比喩をとおしてこのことを理解することもできる。水は水を呼びこむことができる。「呼ぶ」という語は、「読む」と同じ語源を持っているという説があるが、なにかを共振させ共鳴させることでこちらに引きつけるという語義がある。このような共鳴の力をことばも持っている。 これは専門的には談話の結束生や結合性の問題系のなかで扱われるべき事柄である。ここでは一例を示しておくにとどまる。たとえば「こんにちは」という語。文字通りに読めば、これは「今日は?」という問いかけである。述語を欠いたまま、とりたて助詞の「は」が浮いている。「今日は〜です」という文を共作し、完結させることを求めるように。そのような論理的な訴求力がことばや言葉遣いにはある。それと同じことがある一つのテキストを構成する一つ一つの文にもいうことができるが、そのような意味の連関のなかで織りなされてゆく秩序のことをリズムとここでは呼びたい。 このような意味でのリズムは文章が語りベースの文体であるか語りかけベースの文体であるかによって大きく異る。というのも、前者は操作的に閉じられているので、聞き手への働きかけをすることもなければ、応答を期待するものでもない。そのため、テキストの内的な論理にのみ従ってことばが展開されてゆく。その一方で、後者は、閉じられた論理を持たない。言文一致運動以前に作られた戯作や落語の語りがその典型として考えられるが、そこではなにかを訴えかけたり、問いかけたりするような語り手の存在感が際立つことになる。悪く言えば、煩い。その煩ささがことばのリズム(論理的な意味の連なり)を不安定にする。 話法の区別は文法的な形の区別(典型的には常体と敬体の区別)に基礎づけられている。そのため、文体の持つリズムへの直接的な影響はない。たとえば、常体で書かかれたテキストの一文一文を機械的に敬体に変換するという操作を行ったのなら、そのときに意味の連なりとしてのリズムの違いを見出すことはできない。しかし、同じ内容の文章をそれぞれ二つの話法によってはじめから書こうと意図した場合はどうだろうか。きっとまったく異なる内容のものができあがるはずだ。なぜなら、一つ一つの文の持っている結束性や結合性、つまり次の文を呼びこむ力が話法により異なるからだ。そして、まさにこの点に、文章の創作のおもしろさの一つがある。 ある人が小説をはじめとするテキスト書きはじめるような場合に語りの話法を選ぶか語りかけの話法を選ぶかということは、日本語において重要な問題でありつづけてきたが、おそらくそれが現代ほど重要な時代はいまだかつてなかったのではないだろうか。インターネットが普及する以前は、だれがだれにあててどんな立場で書くか、ということを多くの小説家が意識せずにすんだ。誰に語りかけるでもない「語り」によってことばを紡いだとしても、読者はそれをまっすぐに小説として受けとめることができた。読者にはそれだけ多くのアテンションを割くことができた。しかし、現代は、読むことの困難の時代である。アテンションを呼ぶこと(call attention)の困難の時代でもあると言ってもいい。言語学的には、このことを談話の結合性の問題の一つとしてとらえることもできるが、それを広げれば、意味のあるテキスト・コミュニケーションの困難の問題である、と言うこともできるだろう。そんな状況のなかで日本語の話法の選択にとまどいを覚えはじめいる人はきっと少なくないはずだ。

9 May 2022 · y. nonami

ウィリアム・ミドリが仕掛けたダブル・バインドのなかで

中学生のころに万引をして補導されたことが一度あった。それ以来万引をすることはなくなったけれども、万引をうたがうような目で見られることなら今でもある。その日は、スーパーのレジで背負いかばんのなかを見せるように言われたのだった。それがその店での一応の決まりになっていた。一応、というのは、とくに馴染みの客の場合は顔パスになることが多い。毎日のようにそのような要求をされては客もいい気はしない。客の立ちかわりのはげしい観光地ならまだしも、地元の常連のあつまる小さなスーパーなのだった。 その日はちがった。仕事帰りの昼下がりに買いものをしたとき、二年ほど前から顔見知りだったレジ係の女の要求にしたがい、背負いかばんを開けてみせた。なかに入っていたのはタイガーの水筒とiPad Pro、ケーブルの収納ポーチ、印刷所で受けとってきた四十人分のA3の試験問題の束を二つ折りにしたもの。普段ならそのまま儀礼的な何気なさのなかで商品のスキャンがはじまるはずだった。ところが、わずかに噛みあわない感じがあった。レジ係は目をそらしつつ、 「いちおう、決まりになっているので」 という。レジ係はそのまま商品をスキャンしはじめるだけでよかった。しかし、そこで妙な間があいた。 「店の外にはロッカーもありますよ」 「ええ」 と答えた。なにをいまさら、と思いながら。そんな小さないまさら感のなかで、ウィリアム緑がささやかな口火を切ったのだった。フランス語で書けば William vert。ウィリアムという名はフランス人にはめずらしい。というのも、フランス語ではギヨーム Guillame に変わる。それゆえにこそあえてウィリアムという異国感のある商品名が選ばれたのだろう。南アフリカ産ではあったけれど、そういう名前の梨が売られており、こちらはそれを毎日のように食べていた。ほかにもベルギー産の Conférence という品種やポルトガル産の Rocha もあったが、ぜったいにウィリアム緑しか買わない。緑といっても、ほかに黄色のウィリアムや橙色のウィリアムがあるわけではない。一つの商品名なのだった。クメール・ルージュ Khmer Rouge、つまり「赤いクメール」が一つの固有名詞であり、黒いクメールや青いクメールが存在しないのと同じことだった。 ウィリアム緑は黄緑がかった色をしていた。バナナと同じで、熟れると黄色になる。文字通りに緑色をしたウィリアム緑は食べごろではないので買ってはいけない。その日は、五月にしては珍しく、熟したものがいくつかあった。もっとも黄色がかっているのを四つ選んだ。一日に二個食べてしまったとしても二日連続で食べられる計算だった。まとめて袋に入れ、近くの計量器にそっと載せる。タッチスクリーンを操作してウィリアム緑の文字を見つけて押すとバーコードのシールが出てくる。それを袋に貼った。 レジ係の女はただそれをスキャンするだけでよかった。もちろん、袋のなかの果物とシール上に印刷された商品名が一致していないのであれば、不正が行われている可能性がある。ウィリアム緑はウィリアム緑であって、Conférence や Rocha ではないことをチェックするのもレジ係の仕事だった。そのため、商品をひとめ見ただけでその名前がわからなければいけない。その日、その女は、それができなかった。 「これはウィリアム緑じゃないでしょう」 という。こちらの反応を待たずに「ちょっと」と通りがかりの同僚を呼びとめ、梨の入った袋を差しだしながら目で合図を送った。間違ったバーコードが貼られているので、そちらで正しいものに貼りかえてきてほしい、という意味のものだった。 「でも」と自分は言った。「ウィリアムは一種類しかありませんよ。ウィリアム緑です」 「これが緑色に見えるんですか」 そう真顔で切りかえしてくる。迷いのない目をしていた。返事にこまり、首を横にふった。梨を受けとった店員が慣れた手つきで計量器を操作した。それを遠目に見守ることしかできなかった。新しく貼られたバーコードに「Rocha」と印刷されているのを見たとき、かすかに怒りが沸いた。Rocha はウィリアム緑と違い、もっと赤茶けている。質感ももっとさらさらしている。果物売り場に行って自分の目で確認してくるように言おうとしたとき、さらに別の店員が通りがかった。果物売り場の担当者だった。 「これは Rocha ではないですね。ウィリアムです」 「ウィリアム緑ですか」 「そうです」 それで話がついた。 レジ係の女は納得がいかないようだったが、肩をすくめると、黙って商品のスキャンにとりかかった。その後、会計がすんだとき、やや悪びれた感じで「Bonne soirée」と儀礼的な挨拶をした。そうかと思うと、首をふってため息をつき「Bonne journée」と言いなおした。こちらもそれに「À vous aussi(そちらこそ)」と返して店を出た。疲れていたのかもしれない。肩で息をする感じがあった。午後二時のことだった。 ただそれだけといえばそれだけの事件だった。実際、帰路を急ぐうちにほとんど忘れかけていた。そのことをあらためて思いかえしたのは、帰宅後にウィリアム緑を袋から出して、台所の棚にひとつずつ並べたときのことだった。黄色く熟れているのをまじまじと眺めた。いびつに傾きながらめいめいお辞儀をするようなひっそりとした佇まいをしている。すこしも緑色ではない。それを緑と呼ぶのは、もちろん、嘘なのだった。世にありふれたそんな嘘を見過ごすことができないのは、とても心細いことなのかもしれない。 ウィリアム緑は、いかにも頼りなげだった。ナイーブで、猜疑心をおこすということもない。人種差別もしない。そのいかにもな感じを眺めるうちに食欲が失せて、その日は結局昼ごはんを食べることもなかった。

8 May 2022 · y. nonami

濱口竜介さんのこと、天皇霊としてのマナとイエスの復活のこと⎯⎯『偶然と想像』の奇妙な棒読み調をめぐって

私は普段あまり映画を観ることはありません。そのため映像作品について語るための語彙を致命的に欠いているのですが、濱口竜介さんの『偶然と想像』を観る機会があり、深い感銘を受けた、ということがあったので、これを書かずにはいられなくなりました。私の暮らすストラスブールの町でも『Contes du hasard et autres fantaisies』という題で上映されていて、つい先日駆けこみで観ることができたのです。前作の『ドライブ・マイ・カー』と『寝ても覚めても』(これは『Asako I & II』というへんてこな仏題でした)をフランスで観る機会にもすでに恵まれていたのですが、これらの作品を思いかえすうちに濱口さんの試みのかけ金がおぼろげながら見えてきたような気がするのです。今Wikipediaで読んだことくらいしか知らないにわかものの私ですが「語録」の項にある次の発言が目にとまりました。 抑揚を捨て、セリフが身体の中に入り込むまで本読みを繰り返すリハーサル手法は、『ジャン・ルノワールの演技指導』という短編ドキュメンタリーに登場するイタリア式本読みを実践したものです。『ハッピーアワー』以降も、これができる体制をどうつくるかがカギでした。この本読みは、プロの俳優にとってもセリフを新鮮に捉えて、自分のものにしてもらう方法になるといまは感じています。 あの奇妙な棒読み調は一体何のためのものなのだろう、と私も考えずにはいられなかったのですが、ここにそのヒントがあるような気がします。ことばを身体に入りこませる、ということ。ここではこれを「ことばの器になる」と言いかえてみることもできるかもしれません。そこで私が思いおこすのは、折口信夫や中上健次のことです。折口は天皇という存在について深く考えようとした人なのですが、天皇とはようするに「みこともち(御言持ち)」のことなのだと言っているのですね。安藤礼二の『折口信夫論』に詳しいように、天皇は空の器として「天皇霊」という言霊、マナに似た何かがその力を発揮するときの通り道になる、というようなふしぎな考え方をする人でした。それで、なぜこのようなシャーマン的な存在の話をしているのかというと、俳優にもやはりそのような側面があるからです。シャーマンは演技をします。たとえば大川隆法のような現代のシャーマンを思い浮かべてもらってもいいですが、シャーマンは二つの異なる世界をつなぐ通り道なのです。俳優も「この世界」と映像のなかの「むこうの世界」を仲介します。濱口さんがこの点に関心を寄せているということは「語録」の次の発言からも伺いしれるような気がします。 俳優はカメラの前で演技している。それは演技する俳優のドキュメンタリーでもある。1回限りの何かをその都度やっている。 おそらく、カメラが複数の世界を同時に捉えている、という意識が濱口さんにはあるのではないでしょうか。登場人物の生きるフィクション世界と俳優の生きるドキュメンタリーの世界です。この二つの世界はつねに重なりあい、侵食しあっています。卑近な例をあげれば『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観る私たちは、ジャック・スパロウという登場人物のなかにジョニー・デップという俳優を受けとることもできるし、その反対にジョニー・デップという俳優のなかにジャック・スパロウという登場人物を受けとることもできます。濱口さんのいう「純然たるフィクションも純然たるドキュメンタリーも存在しない」ということの一端はこの点にあります。 私はこう思うのです。このような二つの世界の交わりは(登場人物も俳優もふくめた)「ひと」を匿名の存在にするのではないか、と。匿名というのはつまり自分以外の者でも同時的にありえる、ということです。あらためて天皇制に引きつけていえば、歴代の天皇というものは、空の器としての身体はそれぞれ異なるけれど、匿名者として万世一系の一つの天皇霊を体現する者でもあるわけですね。ジョニー・デップの場合は、その逆です。様々な物語の登場人物を通してジョニー・デップが体現されるとき、かれらは匿名者になる。言ってみればそのような形で自己同一性を解いてしまうようなダイナミズムがなにかを「演じる」ということにはつきまといます。 中上健次のように耳のよい作家は以上のことを「音」のアナロジーから捉えなおしてもいました。音は空気の振動ですが、この振動は複数の周波数の重なりでできています。つまり音は一つの音ではなく複数の音、つまり倍音の重なりからなります。中上はそれらの複数のレベルの音が響きあい侵食しあうことに非常に大きな恐怖を感じるという類まれな作家でした。それに近いものを濱口さんの作品からも私は受けとりました。 このことを掘りさげるには、ここでジル・ドゥルーズのいう「現勢化 actualisation」というものについて触れておかなければなりません。ドゥルーズの『Le Bergsonisme』というエッセイによれば、マルセル・プルーストは記憶に関して「アクチュアルではないままリアルで、抽象的ではないままイデアルである」と述べています。ドゥルーズはそれを導きの糸にする形で「リアル(実在的)/ポッシブル(可能的)」と「アクチュアル(現勢的)/バーチャル(潜勢的)」の区別についての考察を深めます。それを強引にまとめれば、次のようになります。この「リアルな世界」というのはその外側にも広がる「ポッシブルな世界」の一部です。とはいえ、このリアルな世界にも、アクチュアルなものとバーチャルなものの二つがあります。では、アクチュアル/バーチャルとは何か。ここではさしあたり「ここ(いまの私)」と「そこ(いまの私でないもの)」の区別に相当するものだと考えさせてください。システム論的な言葉づかいでは、次のように言いかえることもできます。システムというものが自己を環境から区別する差異化 differentiation の運動であるとすれば、このような差異のなかから立ちあらわれるものが「ここ」です。このとき、環境としての「そこ」は、自己の存在にはなくてはならない裏打ち(自己の陰)としてあります。私の理解が正しければ、ジル・ドゥルーズは、このような「ここ」の生起のことを現勢化 actualisationと呼んだのでした[1]。リアルな世界とポッシブルな世界の区別においてはこのような「いまここ性」(時空間の中心)を欠いていたわけですが、アクチュアル/バーチャルの区別を立てることによって、それを意識できるようになったわけです。 ここでようやく本題に戻ることができます。なぜこのような面倒な迂回をしたのかというと、このことこそが映画を撮ること、あるいは登場人物を演じることの核にあり、濱口さんのかけ金の一つはそこに置かれているのではないかと考えているからです。私ではないけれども私を裏打ちする私の陰としての「バーチャル」。これは、俳優にとっては登場人物であり、登場人物にとっては俳優のことです。あるいは、カメラのむこう側の世界にとってのこちら側の世界であり、こちら側の世界にとってのむこう側の世界のことです。それはリアルな力です。ポッシブルでもアクチュアルでもないけれど、バーチャルであり、リアルです。折口はそのことを「もの」とも「マナ」とも呼び、中上健次のような人は「物語はモノがモノを語るシステム」という言い方で「もの / マナ」の現勢化のダイナミズムをとらえようとしたのでした。 濱口さんの『偶然と想像』の第三話では、そのダイナミズムのこと、ひとが同時に自分以外のだれにでもなってしまう(なれてしまう)という匿名性がとてもうつくしい形で物語のレベルに落としこまれています。最後のシーン「俳優」「登場人物」「登場人物の演じるそこにはいない誰か」の三つのレベルが重ねあわされます。「目の前にいるのは、いったい誰なのか」という問いのなかで「信じる」ということが現勢化する。私はこのシーンを目の当たりにして、ジャン=リュック・ナンシーが『私に触れるな:ノリ・メ・タンゲレ』で語っていたヨハネによる福音書の物語(20章)のことを思い起こさずにはいられませんでした。 この場面はイエスの死後何日か経ってマグダラのマリアが墓園に行くところからはじまります。まだ日の昇りきらない早朝に、マリアは墓の入り口をふさいだ石が取りのけられているのを見て、二人の弟子たちのところに駆けてゆく。「だれかが主を取り去ってしまいました。いまどこに置かれているのかもわかりません。」そこで弟子たちは墓に出むき、イエスのくるまれていた亜麻布だけがそこに残されているのに気づきます。その後弟子たちが家路についてからもマリアは墓の前で泣きつづけました。ところがしゃがみこんで墓の中をのぞきこむと、二人の天使がそこにいて「女よ、どうして泣いているのだ」という。マリアが答えていうには「だれかが主を取り去ってしまったからです。いまどこに置かれているのかもわかりません。」そう言いながら振りかえると、イエスがそこに立っていました。けれども彼女はそれがイエスだと気づかず、園丁なのだと思います。「女よ、どうして泣いているのだ。だれを探しているのだ」と問われ、「あなたが主を運び去ったのでしたら、どこに置いたか仰ってください。わたしが引き取ります」と言いました。すると突然、彼は「マリア!」と言いました。彼女は振りかえり「ラボニ!」と言いました(ヘブライ語で「師」という意味です)。そこで、イエスが言います。「わたしに触れるな。まだ父のもとに上っていないのだから。だがわたしの兄弟たちのところに行ってこう伝えなさい。わたしはわたしの父のもと、あなたの父のもとに、わたしの神のもと、あなたの神のもとに上ってゆくのだ」と。彼女は弟子たちのもとに行って、彼女が主を見たこと、主が彼女に言ったことを伝えました。こうして彼女ははじめの証人に、イエス復活の福音をはじめて告げしらせる者になります。触れることと告げしらせることがあたかも両立できないことのように。 このことについてはかつて「盲たちの白河夜船」というエッセイのなかで書いたことがあるのですが、この場面においては、信じることの力は触れずにいることによって支えられることになります。『偶然と想像』の第三話の最終シーンはそれとは対照的です。というのも、掲載した写真にあるとおり、二人のひと(登場人物でもあり俳優でもある)がことばに釣られるなかで、たがいを避けがたく触れてしまうのです。そもそも触れずにはいられないのだ、とでも言うように。そして、すでに避けがたく信じてしまっている。そのような不可抗力こそをカメラは眼差そうとしている、という印象を私は受けました。表題にある「偶然」はフランス語ではhasardと訳されるものですが、ここではむしろ「偶有性 contingence」が問題になっています。偶然という語からは二つの別種のものの巡りあいという語感を私は受けとりますが、偶有性にはむしろ、仏教的な縁に近い何か、二つのものがそもそも分かち難い関係のなかにあり、その不可抗力のせいで何かがそうあってしまう、というような意味あいがあります。 ここでようやく、イタリア式本読みの話まで遡ることができます。これは濱口さんがどこまで意図するものなのか知るよしもないのですが、私はあの奇妙な棒読み調のなかに、アクチュアルとバーチャルの揺らぎを感じずにはいられませんでした。いわゆる普通の演技をした場合、こういってよければ、俳優がことばを飼いならしてしまうおそれがあるのではないでしょうか。そのときに私たちが目の当たりにしているのはきっと登場人物ではなく、それを上手に演じる俳優のほうなのですね。そして、逆説的になりますが、まさにそれゆえに物語をただ一つの物語として追うことができるのかもしれません。そのとき、私たちがバーチャルという潜勢力を感じることはない。しかし、濱口さんの映画からは、ことばが先行し独立し、飼いならされずにいる、ということを強く感じます。そのせいか、俳優と登場人物との重なりがずれて、互いにはみ出してしまう。一つの音が様々な倍音の揺らぎからなりたっているように私たちが揺れているのだとしたら、そこでその揺れが極度に増幅されます。そのときに気づかされるのです。登場人物も俳優も空の器なのだ、と。そして、折口が「もの / マナ」と呼んだものの潜勢力の横溢を感じるのです。 特に会話劇である『偶然と想像』においてはそれがことばとして俳優の身体を通り過ぎるのだとしたら、その前々作である『寝ても覚めても』においては、ある意味ではその反対のことが起こっているとも言えるのかもしれません。私の記憶が正しければ、テオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』のように、ある俳優が一人二役をしていたはずですが、このときにバーチャルな力として通り過ぎることになるのは、ことばではなく、俳優の身体のほうです。物語の登場人物には、一人二役をする俳優の姿が見えていない。見えているのは、俳優の影である二人の別の登場人物だけなんですね。盲目の世界にとどめおかれているのです。そのひとの身体に触れても、俳優の身体に触れたことにはならない。しかし、気づかずにいるだけで、本当は触れているのです。そこには静かなバーチャルの力があります。棒読み調の演技によって倍音がかき乱され明らかになるような激しさとしてではなく、静けさとして。「盲たちの白河夜船」に書いたとおり、ハイデガーは「隠れなさ」unverborgenheit という意味でのアレーテイアを一つの真理の形として見たのですが、登場人物には見えないそのような真理の静かなあらわれがあるのではないでしょうか。

26 Apr 2022 · y. nonami

昼寝して復活したら肌寒い⎯⎯ベシュレル村での音感マッサージの思い出

今年の西方教会の復活祭は4月17日に祝われました。ブルターニュのベシュレル(Bécherel)という小さな村では、毎年恒例のブック・フェスタ、Fête du livreが開かれました。今年で32回目になります。ベシュレルといえばBescherelleという文法書を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、つづりも違うし、たぶん無関係です。それでも、その高名にあやかって……ということだったのか、1989年以来、本の力で村おこしを試みてきたのでした。東京でいうところの神保町みたいな村、古本屋の立ちならぶ村ですね。 ところで、本屋というものはかなりの身体的な疲労を伴う場所だと前々から思うのですが、漢字や仮名ではなくラテン文字で書かれた本を漁るとなると苦痛は倍増します。というのも、書籍の背にかかれたタイトルを読むには、首を左右のどちらかに傾げなければならないからです。ベシュレルには様々な素性の本が集まってきているので、右むきのものもあれば、左むきのものあり、それらがたいてい所狭しと入り乱れている。そんななかで絶えず体や首の向きを変えつつ蟹歩きの移動をする。想像しただけで気疲れしますが、本漁りのコツでもあるのか、現地の人間はそういうことを全然苦にもしない様子なんですね。 いずれにしてもあまり本に関心のない私は、村はずれの空き地にひだまりを見つけ、昼寝をしていたのでした。Massage sonore(音感マッサージ)なるものが折よく催されていて、昼寝にはおあつらえむきのキャンプチェアが用意されていました。しかもヘッドフォンまで備えつけられている。チェアの背後にはエレキギターの奏者と朗読者がいたのですが、彼らの演奏がヘッドフォンを通して聴ける仕組みになっていたのですね。おかげさまで、ぬくぬくと眠りこむことができました。風のない日でした。日だまりのぬくもりだけが温かい。しかし、春のブルターニュはひとたび日が陰っただけで、急に肌寒くなるものです。目を覚ましたときには、すでに日だまりは遠のいていました。ちょうどそのとき、注意を引かれたものがあります。 ブルターニュにも桜は咲きます。その空き地にも桜が咲いていました。その桜の枝を掴みよせてしきりに揺する人影がありました。そうして花吹雪を起こしている。はじめにこみ上げたのは深い怒りでした。なぜこんなにもうつくしい花の寿命をむやみに縮めるような真似をするのか。そう考えたそばから答えは出ていました。花の舞う日だまりのなかで男の子がもろ手を空に伸ばしてぴょんぴょん跳ねている。一点のくもりもないような笑顔。それを見たいがために男は花をいたずらに散らし、男自身もまた破顔しているのでした。そういう残酷なところを見るのは嫌いです。だから、ふたたび目をつむり、今度は体をこごめるようにして不貞寝をしました。うまく寝付けませんでした。次に目を開いたときには父子の姿はもうどこにもありませんでした。

24 Apr 2022 · y. nonami

隠喩としての自家用車とタクシー⎯⎯岨手由貴子『あの子は貴族』のこと

春に立てつづけに観た邦画の二つが濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー 』(原作は村上春樹)と岨手由貴子の『あの子は貴族』(原作は山内マリコ)でした。この二つの映画には一つの共通点があります。視点人物が他人に運転される車に乗って移動を繰りかえすというものです。前者は自家用車、後者はタクシーという違いはありますが、いずれにしても、ここにはきわめて重要な物語のレイトモチーフが提示されているといえるでしょう。それをひとことでいえば、自身の進むべき道を他人に委ねてみること、委ねてしまうことの限界と可能性です。とはいえ、自家用車とタクシーは同じではない。そこからそれなりに違った形の帰結も引きだされることになります。 1980年代の半ばだったか「現代小説の方法」と題された公開講座のなかで車という物語の装置の面白さについて中上健次が語っていたことがあります。車は「異界」にトランスポーテションするための女性器のようでも男性器のようでもある神聖な空間なのだというのですね。これはきっと中上が自身の『日輪の翼』から教わったことだと思うのですが、このような発想からある特定の時代の放つ匂いも嗅ぎとれるような気がします。実際、このことを補助線に同時代の作家である村上春樹の物語を振りかえってみると、まさしく車が異界へのトランスポーテションの手段、自己変貌の装置としてしばしば用いられている。『ドライブ・マイ・カー』はこのことについて村上が意識的に掘りさげようとした作品です。 そのことを踏まえた上で『あの子は貴族』で多用されるタクシーのことを考えてみると、どうでしょうか。映画のなかでは特に自転車との対比のなかで強調されることになるのですが、とにかく閉塞感がすごい。自家用車と違ってタクシーはある一点から別の一点へのピンポイントの移動に用いられている、ということにも起因しているのかもしれません。ある意味、決められたレールの上を走る電車よりもひどい。電車の場合はもうすこし気楽な雰囲気のなかで途中下車をしてみたり乗り換えてみたりすることもできるけれど、タクシーには妙に堅苦しくなるようなところ、どちらかといえばエレベーターの気詰まりに通じるようなところがある。このような物語の装置が効果的な比喩として用いられているせいか、映画のなかで描きだされた東京はただひすたすら息苦しく、出口のない感じがする。日常に一つの空隙として突如立ちあらわれるような「異界」がない。ある意味では、それが物語を圧倒的に退屈にさせている。そして、まさにこの生ぬるい退屈に説得力のある輪郭を与えてみることこそがこの映画の目論見だったのだとも言えるのかもしれません。 もちろん、物語の筋立てをビルディングスロマンとして生真面目に読むなら、最後に自家用車や三輪車といった移動手段への切り替えが提示されることで、今後の可能性というか、小さな成長が開示される、というあたりさわりのないオチになるのですが、まさにそのあたりさわりのなさこそがいっそうの息苦しさややり場のなさを垣間見せていて、その点にこそこの映画の魅力があるような気がするのです。

3 Apr 2022 · y. nonami

盲たちの白河夜船⎯⎯未生の記憶のための備忘録

「二年前の真夏、デロスでロケハンをしていたときのことだ。廃墟にあふれる猛烈な日照りのなかで、崩れおちた大理石や倒れた柱のあいだをさまよっていた。おびえたトカゲが墓石の下に滑りこむのが見えた。みじめな蝉たちの間延びした鳴き声が、がらんとした景色にうらぶれた趣きをそえていた。すると、何かの軋むような乾いた音が聞こえてくる。まるで地響きのような音が。丘の方を見上げると古びたオリーヴの木があって、それがゆっくりと倒れてゆくところだった。丘の上のオリーヴの木。それがゆっくりと死のなかに沈みながら、地面に倒れてゆく。巨大で、孤独な木。この木の倒れたところに裂け目ができて、中から古代の彫刻が顔をのぞかせた。重みで首の折れたアポロン像の頭部だった。さらに歩きつづけ、ライオンや男根の像が立ちならんでいるのを通り過ぎると、やがて小さな聖所にたどり着いた。伝説によればそこがアポロンの生まれた場所だというところに。そこでポラロイドカメラをかまえてシャッターを切った。ところが滑りでてきた写真には、奇妙なことに何も写っていなかった。立ち位置を変えてもう一度試してみる。だが何も写っていない。まっさらなネガの写真。目がおかしくなってしまったみたいだった。何度写真を撮っても、どれも同じ空っぽの四角形。真暗闇だった。やがてこの風景を見捨てるように日が海に沈んでいった。自分も闇の中に沈んでゆくのだと思った」(『ユリシーズの瞳』)。 闇という字はうつくしい。よく見ると、門のなかに音が閉ざされている。まるで耳のなかの暗やみのように。内耳 1 にひらかれた迷宮がしじまに包まれている。まるでクリプタ2のように。暗号化された死者の記憶のように。耳の経験が、目の経験のなかに書きこまれている。双方の経験の間を取りもつこの沈黙、このイメージ、闇という象形文字は、迷宮の入り口、記憶の入り口のようでもあり、夢の世界につづく洞口のようでもある。それともこういってよければ、象形文字というものそれ自体が一つの夢なのだろうか。その夢はいつまでも謎めいたまま、どんな真理も教えてはくれないのだろうか。あるいは剥きだしのイメージとして、すでに自分自身をあますところなく呈示しているということ、それが一つの真理なのだろうか。ハイデガーにならって言えば、それは認識や言表の正しさ、見ることの正しさとしての真理、オルトテースを語るのか、それともそれ自体がすでに存在の隠れなさとしての真理、アレーテイアなのか。——要するに、それはコンスタティヴな真理なのか、パフォーマティヴな真理なのか。——こうした真理の二義性をプラトンは洞窟の譬喩のなかで語った。そして、アレーテイアの方は「イデアの軛の下」につながれて棄却され、「それ以来、見ること及び見方の正しさという意味での『真理』〔オルトテース〕を求める努力」が西洋の形而上学においてなされてきた、とハイデガーはいう。それは存在忘却なのだ、と。こうしてハイデガーはアレーテイアという「隠れなさ」unverborgenheit をめぐる存在の問いへとむかう(『真理の本質について』)。 しかしもともとこのギリシア語には、忘却(レーテ)の否定、「忘れないこと」の意味がある。隠されていないこと、つまりいまやヴェールをはがされて明白であること。そして忘れないこと。この二つにはやはりいくらかの違いがある。とりわけ、たとえ隠されていても忘れられないことがあるのだとすれば。たとえば、クリプト記憶 cryptomnesia のように。人は過去の体験を忘れていながら、まるで初めてのことであるかのように同じことを繰り返すことがある。晩年をむかえた作家が幼いころに読んで忘れるがままになっていた本と同じ内容のことを、ときには一語一句たがわず、それがまるで自分の新しい着想であるかのように書き記すことがある3。あるいは、記憶の古層にうもれた幼少期の体験を前世の出来事ととりちがえて語る人もいる。忘れていながら覚えていること。それがまるで他人事のように、この世界の出来事ではないもののように感じられたのだろうか。記憶はきっとそんなふうにしてこの世界の単一性を幽霊のように脅かす。 ここでは記憶の問題に賭け金がおかれている。イデア論と並んで有名な「想起説」の方を思い起こしてもいい。『メノン』のなかでプラトンはソクラテスにこう語らせている。「人間の魂は不死であり、 われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、 すでにあらゆるものを学んで知ってしまっている。 だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、 じつは、『学ぶ』とか『探求する』とか呼ばれているのは、 すでに獲得しながら忘れていた知識を想い起すこと anamnesis にほかならないのである。」古代ギリシアのころには輪廻転生が信じられていた。肉体が滅び、魂が黄泉の洞窟に行くと、レーテ、つまり忘却という名の川の水を飲まされ、前世の記憶を失ってしまう(この川は眠りの神、ヒュプノスの眠る洞窟を流れているという)。そしてまさに人は記憶喪失者として生まれかわる。だから、想い起こすのだ、忘れていた知識を、とプラトンが真理というものにかこつけて——まるであたらしい詐欺の手口のように、しかも腹話術師のようにソクラテスの口をとおして——言うことができたのだった。レーテはまた、忘却の女神の名でもあった。だとすれば、アレーテイアとはいわばこの女神を殺害する試みだったのだろうか。そうすれば、まるで夢から覚めたときのように、今まで忘れていたはずの思い出がすぐそばに満ちあふれていることに突然気づく、ということだったのだろうか。前世というものがもはや前世ではなくなるほどに。 なんであれ、ここでは記憶の問題に賭け金が置かれている。思い出すということ。忘れないということ。こうしたことを真理ではなくイメージをめぐる別種の問題としてとらえなおすことはできるだろうか。プラトンが『国家』のなかで述べたような洞窟と天上界との形而上学的なコントラストの中ではなく、淡い翳りの中でもなお思い出せるものや忘れられるものがあるのだとしたら、それをどのように語ることができるだろうか。たとえばしかし、無意識の潜在的な記憶、忘れていたようでどこかで忘れずにいたような記憶が意識の方へ再来してくるというような、そんな情報処理のありさまについて精神分析的に語るというのでもない。そうではなく、イメージという沈黙のなか、意識と無意識の二項対立が宙づりになるような目の経験のなかで、記憶というものの反義語について語ることはできるだろうか。 プラトンは、洞窟を出るように言ったのだった。幻影にみちた洞窟を抜けだし、太陽というもろもろを照らす唯一の光源に目を「向けかえる」ように言った。そして哲学者の務めとは、この向けかえという陶冶(パイデイア)によって洞窟にとどまっている人々を導きだすということだという。それ以来、哲学にはどこかしら盲目というものが付きまとうようになったのだとしたらどうだろう。まるで盲者にこそ見えるものがあるといったように。哲学はこうして転倒したのだろうか。それとも、こういってよければ、天上へと墜落したのだろうか4。プラトンのこの声が、プラトン自身の目を閉ざした。見えないものを見て、見えるものを見ないというこの向けかえ。それは目から口への移行でもある。プラトンのいう「イデア」はもともと「見られたもの」を意味していた。見る idein ということ。プラトンが潰したのは、その目だったかもしれない。いわば目ではなく口によって、つまり言葉によって見ることのできるもの。それがイデアであるとプラトンは考えた。イデアを想起するには、目を瞑らなければいけない。ここでは、一見は百聞に如かず5、というわけにもいかない。哲学はきっとこのときから声への愛 philophonia として、その終わりない口唇期に踏み出してゆくことになる。何ごとかを語れば語るほど哲学の口唇期は深まってゆく。いくたびも吃りながら。 それにしても、語りえないことについては沈黙すべきだろうか。たしかにその通り、と頷くこともできるかもしれない。しかし、だからといって、もちろん目まで閉じるべきではない。口ではなく目によって思考する可能性の残っているかぎり。たとえば象形文字の沈黙のなかでしか語れないことがあるように6。つまり、声(パロール)という単一性 linearity のなか、ニュース番組や映画といったひとつづきの運動のなかではなく、むしろ象形文字やニュースペーパー、マンガといった静かな平面の広がりのなかでしか理解されないもの、つまりデザインというものがあるように。このパノプティコン的な「視力」——あらゆるものをエクリチュールの表面に併置する夢のようなヒエログリフ性。正確にいえば、それは布置 constellation の力、星座のような位置関係の力、音声言語による説明をこえた暗示的な謎めく力である。たとえばその具体的なかたちをディディ=ユベルマンの「アトラス展」に見ることもできるだろう。2011年にマドリード、ハンブルクとつづけて開催されたもので、アビ・ヴァールブルクの仕事「ムネモシュネ」をひきついだこの催しには、膨大な数のイメージ、とりわけマトリクスのような、マインドマップのようなモンタージュ群が展示された。パネル平面にひしめく夢のように多種多様なイメージは、「視覚知」として、謎めくインフォグラフィックとして、あるいは生けるアーカイヴとして、それぞれの布置が時間や空間やできごとを再構成し、単一的でひとつづきだと考えられてきた「歴史」を脱臼=脱記憶 dismember する。床に就くたび、ひとつづきだと考えられてきた意識がほつれ、夢の時制のなかでふたたび息を吹きかえすときのように。イメージは幽霊のような時間を——つまりは死後生=生き延び survie を7——生きて、残存しつづけるものなのだから。そしてそれぞれのイメージやその布置はモンタージュ的な衝突を繰り返し、ハイパーリンクのように相互参照しあうアナクロニックな空間の広がりを見せ、弁証法的な葛藤に引き裂かれ、錯乱しながらも、静止している。ベンヤミンの『パサージュ論』から言葉を借りれば、「形象の中でこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの状況 konstellation を作りあげるのである。言い換えれば、形象は静止状態の弁証法である。(中略)それは時間的な性質のものではなく、形象的な性質のものである。」 このような布置の力、こういってよければ視覚言語の力には、とても月並みな側面がある。レストランのメニューであれ、ウェブサイトであれ、漫画であれ、新聞であれ、レイアウトのあるもの、デザインされたものにはすべて布置の力が働いている。当たりまえといえば当たりまえのことだし、極論をいえば布置とは区別された空間そのもの、場面そのもののことなのだ。だからといって単に通俗化されるべきものでもない。視覚言語はまさにそれ自身について語る口を持たない。まさにそのために音声言語がそのことについて語らなければならないのだから。その一方で——そして結局は同じことを言うわけだけれども——視覚言語は決して神秘化されるべきものでもない。たとえばまさに「布置」というものに重きを置いていたユングがしばしばオカルトの誹りを受けてきたように。なぜなら神秘があるとすればそれは単に、英語と日本語がちがうという以上に、音声言語と視覚言語のあいだの埋めがたい不一致のことでしかないからだ。音声言語で語りえないものが、視覚言語でもまた語りえないとはかぎらないし、それは何よりコンスタティヴな言表を超えたところにもまた力を持つ。欲望やイデオロギーの力を精神分析がなおざりにしないのと同じように、この力を単なる神秘として片付けるべきではない。その上、さらに立ち止まって考えるべきことがあるとすれば、こうしたパノプティコン的なヴィジョンは、ナチズムとの関わり、ひいては西洋の形而上学システムを支えてきた表象そのものの問題との関わりも深い、ということに触れておくべきなのかもしれない。やや長い引用になるが、ジャン=リュック・ナンシーはこう言っている。「ナチズムが表象を、いかにあらゆる角度から涵養し利用したかは周知のとおりである。それはモニュメントとしての芸術やパレードという角度から、だがまた同じように、『世界の表象』(Weltanschauung『世界観』)という側面からもなされており、このテーマをめぐってはヒトラー自身が、『わが闘争』で、哲学的な言説にとどまることなく大衆にも呈示可能であるような「展望 vision」が政治的に優れた重要性をもつと論じている。たしかに、メディアの有効性が問題になっているのではある。だがそれ以上に問題となっているのは、一望の下に置かれうる世界、その全体性、真理、運命が現前している世界、したがって断層も、深淵も、退隠した不可視性もない世界である。感性的表示〔hypotypose〕としての表象、一望の下に置くこととしての、演出することとしての、現前している〔in praesentia〕真理を産出することとしての表象が、人種、ヨーロッパ、人類の再生についての展望という枠組みにおいて、あらゆる店で決定的な役割を果たしているのである」(『イメージの奥底で』)。もちろんこの指摘をそのままユベルマンやヴァールブルクの試みに当てはめていいわけではない。とはいえ、まるで意味深な陰影をそえるように大戦のころの記憶が兆してもいる。ハイデガーの亡霊もちらつかせながら。表象それ自身の語らないところに。 実際、ユダヤ系ドイツ人だったヴァールブルクその人は1929年に没しているが、彼の仕事を引きついだヴァールブルク研究所はそれから四年後、ナチスによる迫害を逃れ、ビルトアトラスと呼ばれるモンタージュ群とともにロンドンへと移転している。キリスト教の迫害をおそれた異教徒たちのように。さもなくばナチスはこのコレクションを——この記憶力 recollection を——焼き尽くしたことだろう。たしかに似ているのだから。モンタージュによる一望のシステムと、ナチスの世界観とは。イメージによる記憶と(再)現前化。こうした試みを突きうごかす欲望の所在もまた問われなければならない。あるいはなぜ人は忘却を拒むのか、ということも。そもそもヴァールブルクの試み、「ムネモシュネ」は、その字面からアナムネーシスという言葉が思い起こされるように、記憶の女神の名前のことだった。あるいは、オルフェウス教においては、レーテ川のすぐそばに位置する泉の名前でもある。死んだときにレーテの水ではなく、この泉の水を飲めば、すべてを記憶しておくことができるという。そうして全知のまま生まれかわるのだろうか。自分が自分であるという同一性を保ったまま。眠りからさめてもまだ自分は今までの自分のままなのだと堅く信じる人のように。オルフェウスをはじめペルセポネーやディオニソスのように、黄泉に下ってもなお還ってくることのできたものたち、つまり文字どおりよみがえったものたちのように8。 イメージはどうしてあんなにも静かで、不穏なのだろう。写真を、とりわけ人の顔の写りこんだ写真を見るたび、どこか不吉な気持ちになる。フォト−グラフという光の痕跡。その平板なデスマスクは、みずからを過去のものとして不在を告げしらせる。たとえば古代ギリシアのブタデスという娘が戦地に赴く恋人の影をなぞったのがポートレイトの起源とされているけれども、影をなぞるためには実物の恋人からはかならず目をそむけなければいけない。ごく普通の肖像画を描くときでさえもモデルではなくカンバスの方に目をむけなければならないのと同じように。ここにはすでに、不在が、ある種の盲目が、そして戦地に赴く恋人の死が予告されている。盲目の予言者テイレシアスはナルキッソスが生まれたとき、その母親にむけて「この子は自分自身の姿を見ないかぎり長生きするだろう」と予告した。ナルキッソスはみずからのうつくしさに魅せられたあまりに溺死するが、なにより自分自身のイメージを見るということが、すでに一つの死の予告だったのだろう。また、オルフェウスが黄泉の洞窟に下ったのは妻エウリュディケを連れもどすためだったけれども、彼女といっしょに地上へ抜けでるときに「決して後ろを振り返って妻の姿を見てはならない」「さもなくば妻を連れ帰ることはできない」と念を押されながらも、最後の最後でとうとう後ろを振りかえり、結局最愛の人を死の世界にとどめることになった。「見るなのタブー」として広く知られるほかの様々な類型と同じように、ここにもまた見ることと死ぬこと、離別することの、避けがたい喪の悲しみにも似た結びつきがある。決してオルフェウスが軽率だったわけではない。結局のところ、それがイメージというものの定めでもあるのだ。開眼であるとともに一つの失明であるような——そして死であるとともに一つの記念でもあるような——この去勢的=脱記憶的な二義性はどんなイメージにも避けがたく付きまとっている。イメージが不穏なのは、単にそれが不在に満ちているからではなく、同時にある種の生々しい潜勢力を保持しつづけながらつねに現在に関わるからだ。現前と不在のあわいを移ろうこの幽霊的な力、痕跡としてのイメージの力は、遺影のように思い出すこと remember のよすがとなりながらも、記憶を錯乱 dismember させる9。 しかしいずれにしても、イメージは記憶そのものではない。少なくとも、頭のどこかに貯蔵されたデータベースとしての記憶ではないし、そもそも記憶や無意識なるものが実体としてどこかにあるというわけでもない。記憶は一般的に、re-member、re-call 、re-mind、re-collect、re-minisce といった言葉が教えてくれるように、反復や回帰といった運動のなかにはじめて見いだされる。それは精神分析的な情報処理一般の問題、ディスクールという交通の問題に送り返される。ディスクールは時間を必要とするかぎりにおいて、表音文字であれ表語文字であれ、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』だろうとウィキペディアだろうと、あらゆる音声文字言語で書かれたものと同様、どこかしら単線的 linear で、クロノロジカルである。 ここで記憶に関する範例的なエピソードの一つとして、フロイトの報告したあの「いないいない遊び」をあげることもできるだろう。生後一年半をむかえたフロイトの孫エルンストは、母ゾフィーの不在のなかで、何を思ったのか、木製の糸巻きを手にとり、それをベッドの影に投げこむと、オーオーオー(ない、ない、ない)と舌足らずにも嬉々とした声を上げた(彼は fort と正しく発音することがまだできないのだった)。すると今度は糸巻きの糸をひきよせて——まるでアリアドネの糸巻き10の、その糸をたぐり寄せるテセウスのようにひきよせて——、ダー(あった)と満足げにいった。ごくごく単純なこの再会の物語、ベッドの影にかくれた糸巻きを再び見いだすという、ただそれだけのふしぎな喜びに満ちたこのエピソードは、ディルクールというもの、つまり「物語り」というものそれ自体のはじまりの寓話でもある。糸巻きの不在を、ひいては母親の不在を「オー」という声によって引き受けること。このことをラカンは「物の殺害」と呼び、言葉の世界、つまり象徴界への参入の契機と見なした。言いかえれば、幼児期の沈黙をこえてディスクールというクロノロジーを獲得するということ。こうしたことを説明する上であまりにもよくできたこのエピソードはまた、ベッドの影を無意識になぞらえれば、意識と無意識の交通のはじまりの寓話にもなる。糸巻きという思い出が見え隠れするなかで、一歳半の男の子は、記憶というものの喜びを知る。つまり、糸巻きが完全に消え去ったのではなく、ベッドの影のなかにとどまりつづけているということの喜びを。なぜなら彼はしっかりとその糸を握りしめているのだから。未分化だった声(フォネー)が「ダー」や「オー」といった語に分節=去勢されたのに対して、糸は断たれずにいるままだ。糸というこの交通の回路が——それは糸電話のふるえる糸のようだ——記憶を、再会を、可能にする。まるで母のような、アテナのような、アリアドネのような、ベアトリーチェのような糸が導いてくれるので、彼は決して迷宮で迷子にならない11。 ある種の盲目というものが暗に差しはさまれたのは、まさにこのときだったのだろうか。エルンストは、幼児期の沈黙をこえて言葉の世界に参入した。まるで目から口への移行を果たしたプラトンのように。しかし単にそれだけでなく、糸という導きを得た。たとえ迷宮のなかで目が見えなくとも、それを握りしめてさえいればやがて出口を見つけられることができるかもしれない。指先を、つまり触覚を使って、いわば歩くすべを彼は覚えた。記憶をたぐり寄せるということもまた、まさに暗やみのなかでの手探りの作業ではなかっただろうか。暗室のなかで写真を現像するときのように。感光材に焼きついた光の痕跡を、潜像を、現像液にひたして再び翳らせるときのように。 ところで、というべきか、ユジェン・バフチャルという写真家は、はじめから盲目だったわけではなかった。まずはじめに一本の枝が左目に刺さって光を奪った。そうして数ヶ月のあいだ片目で過ごしているうちに、今度は地雷のせいで右目に重傷を負った。しかしすぐに視力が失われたわけではなく、徐々に風景の色彩は退いていったが、まだ辛うじて世界を見ることができた。彼の目が完全に見えなくなるまでには数ヶ月の猶予が残されていた。「だからそのあいだ中、引きかえすことのできない旅立ちの御伴に、美しいものだとか、本とか、色とか、空の様子をいそいで記憶にとどめなければならなかった」(Le voyeur absolu.)と彼はいう12。そして十二才のころに何も見えなくなった。はじめてカメラを手にしたのはそれから四年後のことで、それは単に、思いを寄せていた女の子のスナップショットを撮るためだった。バフチャルはこう回想している。「そのとき感じた喜びは、自分のものではないものを盗みとってフィルムにおさめたことから来ていた。見ることのできないものを所有できるのだということをひそかに発見したのだった。」彼はこうしてその後も写真を撮りつづけた。しかしもちろん「カメラで撮られた像のなめらかな表面が何かを訴えかけてくることはない。自分にはかつて見たり会ったりした風景や人々の物理的な痕跡しか残されていないのだから。そういうわけで、他人の見たその写真の亡霊的なまぼろし simulacre を通してしか自分のまなざしは存在しない。自分はこの大いなる無用さをうれしく思う。自分の内部でイメージを息づかせる他人のまなざしこそ自分は必要としているのだから。」 バフチャルにとってシャッターを切ることは、盲目とともに盲目のなかでたしかに生きられていたはずの世界を——声や触感や匂いにみちた時間を——切りとり、写真という沈黙のなかに送り返すことに似ている。あとにはつるつるとした写真の手触りのむなしさしか残らない。まるですべての写真が露出過多によってのっぺらぼうのような明るい静けさに満ちてゆくように、シャッターを切るたび時間がどこか手の届かないところに埋葬されてゆく。まるでなにかを聖化するときのように、けれども見届けることはできないまま。と、そんなふうに想像をめぐらせることもできる。しかし彼にとって写真を撮ることは必ずしもそういうものではなかった。 第一に、彼が彼自身の写真を見ることはできなくとも、他人はそれを見ることができる。他人が彼の写真を見て、彼に彼自身の写真について語ることで、フィルムに切りとられたイメージは新たに息を吹きかえす。他人によってもたらされた言葉が、意味が、彼のなかでイメージへと受肉する。第二に、身も蓋もないといえばそれまでだけれども、彼はそもそもこの現実を記録するためではなく、自分が頭のなかで思い描いたものを現実化するためのシャッターを切る。たとえ頭のなかのイメージと現実との不一致こそが、きっと彼の作品の魅力となっているにしても。彼ははっきりとこう述べている。「写真を現実の『切りとり』として捉えるのではなく、むしろコンセプチュアルな構造物として、視覚言語という統合的な形態として、マレーヴィチの黒い正方形のようなシュプレマティスト的イメージとして捉えるような立場に、とても親近感をおぼえる。」まるで、ユベルマンの試みのように。彼のイメージは一つの言語なのだった(実際、奇妙なことにもというべきか、彼はカメラを口元にかまえるという)。イメージにはこのとき、言葉の盲目が——シニフィアンという指示性という盲目、ブタデスの描いたポートレイトのように自分ではない別のものを指さすような盲目が——染みわたっている。そしてイメージもまた言葉に生彩と翳りを与える。言葉はイメージへ移ろい、イメージは言葉に移ろう。言葉のあるところにはイメージがあり、イメージのあるところには言葉がある。そしてバフチャルにおいては彼の盲目こそがイメージと言葉の触れあう交通空間となる。あるいはまた、イメージを眼差す他者が彼にむけてイメージを言語化する余地の所在となる。しかし、バフチャルにかぎらず、誰しもが少なからず盲目なのだ。イメージを伴わない言葉も、言葉を伴わないイメージもない。それぞれが互いを汚染しあっている。こうした汚染の余地、あるいは閾とでもいうべきところに、夕方のような暗やみがある。ひとつの神秘として。息をひそめて耳をすましつづける名もない動物の、そのしずかな息遣いように。 それでもやはり忘れてはならないのはむしろ、ユジェン・バフチャルという写真家ははじめから盲目だったわけではなかったということだ。彼が失明するまでに見た光景のすべては、故郷スロヴェニアにあった。故郷だけが、明るい。それ以外の場所、失明後におとずれたどの町も決して輝きに翳ることはなかった。「自分の幼少期の世界は、光であり永遠だった。すべてがそこからやってくる」と彼自身が言うように。まるでオプトグラムのようでもある。殺人事件の被害者が最後に見た光景。それが網膜に焼きついているという探偵小説的な迷信。生と死のはざまにある最後の光学的な痕跡。まるでそんなような光の痕跡、亡霊のような光のノスタルジアが、彼のヴィジョンを支えている。故郷の光、光の記憶がひとつの永遠として、最初のまなざし、失われたまなざしとして、つねにそこにあるからこそ、彼はシャッターを切ってイメージを暗やみへと送りかえすこと、記憶の光を埋葬することができる。ドン・キホーテを自称するこの盲目の写真家が仮にもナルキッソスのように死ぬことがあるとすれば、それはこの光のなかにおいてでしかない。晴眼者であれば目を閉じることができる。しかし彼にはそれができない。悪夢を振りはらおうとするあまり、真夜中に寝覚めてしまう、ということさえない。瞼のない魚たち、まるで夢うつつの魚たちのように、夢も思い出もすぐそばにある。まるで暗やみに触れることのできる光のように。まるで光というものが触れることのできる一本の糸であったかのように。 バフチャルのことを知ることができたのはそもそも、ある人がこの写真家の作品を何枚かメールに添えてくれたからだった。バフチャルの作品はとても美しい、と彼女はあるとき言った13。「どこかヌードデッサンを思わせるようなところもある。あなたがヌードデッサンを今まで一度でもしてみたことがあるかどうかはわからないけれども14、わたしからすれば人が経験できることのなかでもこれ以上面白いものもそうそうない。以前は何度もヌードデッサンをしていたのに、ここ数年はなかなか時間がとれずにいた。けれどつい最近になってようやくその機会がめぐってきた。ヌードを描くのと、ヌードになって描かれるのと。それがどれほど素晴らしかっただろう。なによりヌードデッサンは——それとも、どんな絵だろうと何かを描くということは——盲人が写真を撮るのに通じるところがある。結局、視力だけではなく他の感覚も必要なのだから。たとえ体のごく一部を描くときでさえ、あらかじめ肌や筋肉や骨を感じとらなければならない。じかに手で触れるように。意識と無意識のつながりをずらしてゆくなかで、ものの見方を変えて、『肉そのもの』に集中しながら。」 ある種の暗やみのなかでこそ、この共感覚的な視覚と触覚の交わりがはたされる。そしてなにかを描くということが手探りの作業であるのなら、書くことも読むこともまた盲目になるということだった。象形文字のような視覚言語とちがって、音声言語は布置のかわりに声を伝える。表語文字であれ点字であれ、朗読されたものであれ、この原則は変わらない。たとえば、かつては黙読というものがそこまで一般的でなかったという。黙読ができるというだけで、アレクサンドロスやカエサルは部下や政敵を困惑させた。アウグスティヌスでさえも、黙読する人の姿を見かけて「彼は決して声を出して読書することがなかったのである」と素朴な驚きとともに告白している。さらに時代を遡ればなおさらのことだった。アルベルト・マングウェルは『読書の歴史』のなかでこう言っている。「シュメール人による初期の銘板以来、書き言葉は、もともと朗唱されるのを意図して記されたものであった。文字という記号は、まるでそれが筆者たちの魂であるかのように深い意味があり、ある特別な音を発するものとされていたのである。古典古代には、よく『書かれたものは残り、話されたものは空中に消えていく』という言い方をしていたが、これは実際には、全く反対のことを言わんとしたものである。つまり、朗唱される言葉は、動きのない、いわば死んだ書き言葉とは違って、翼を持ち空を飛ぶこともできるということを賞賛した表現なのである。」読書は目ではなく第一に耳によって行われていた。ジュリアン・ジェインズはまた次のように述べている。「紀元前三〇〇〇年の頃の読書法は、楔形文字を聞く、つまり、今日我々がやるように音節を視覚的にとらえて読んでいくのではなく、絵で抽象的に示されたものを見て、そこから発せられる言葉を、幻覚のようなものとして聞いていたのではないか」(The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind.) ...

31 Oct 2012 · y. nonami