盲たちの白河夜船——未生の記憶のための備忘録

「二年前の真夏、デロスでロケハンをしていたときのことだ。廃墟にあふれる猛烈な日照りのなかで、崩れおちた大理石や倒れた柱のあいだをさまよっていた。おびえたトカゲが墓石の下に滑りこむのが見えた。みじめな蝉たちの間延びした鳴き声が、がらんとした景色にうらぶれた趣きをそえていた。すると、何かの軋むような乾いた音が聞こえてくる。まるで地響きのような音が。丘の方を見上げると古びたオリーヴの木があって、それがゆっくりと倒れてゆくところだった。丘の上のオリーヴの木。それがゆっくりと死のなかに沈みながら、地面に倒れてゆく。巨大で、孤独な木。この木の倒れたところに裂け目ができて、中から古代の彫刻が顔をのぞかせた。重みで首の折れたアポロン像の頭部だった。さらに歩きつづけ、ライオンや男根の像が立ちならんでいるのを通り過ぎると、やがて小さな聖所にたどり着いた。伝説によればそこがアポロンの生まれた場所だというところに。そこでポラロイドカメラをかまえてシャッターを切った。ところが滑りでてきた写真には、奇妙なことに何も写っていなかった。立ち位置を変えてもう一度試してみる。だが何も写っていない。まっさらなネガの写真。目がおかしくなってしまったみたいだった。何度写真を撮っても、どれも同じ空っぽの四角形。真暗闇だった。やがてこの風景を見捨てるように日が海に沈んでいった。自分も闇の中に沈んでゆくのだと思った」(『ユリシーズの瞳』)。 闇という字はうつくしい。よく見ると、門のなかに音が閉ざされている。まるで耳のなかの暗やみのように。内耳 1 にひらかれた迷宮がしじまに包まれている。まるでクリプタ2のように。暗号化された死者の記憶のように。耳の経験が、目の経験のなかに書きこまれている。双方の経験の間を取りもつこの沈黙、このイメージ、闇という象形文字は、迷宮の入り口、記憶の入り口のようでもあり、夢の世界につづく洞口のようでもある。それともこういってよければ、象形文字というものそれ自体が一つの夢なのだろうか。その夢はいつまでも謎めいたまま、どんな真理も教えてはくれないのだろうか。あるいは剥きだしのイメージとして、すでに自分自身をあますところなく呈示しているということ、それが一つの真理なのだろうか。ハイデガーにならって言えば、それは認識や言表の正しさ、見ることの正しさとしての真理、オルトテースを語るのか、それともそれ自体がすでに存在の隠れなさとしての真理、アレーテイアなのか。——要するに、それはコンスタティヴな真理なのか、パフォーマティヴな真理なのか。——こうした真理の二義性をプラトンは洞窟の譬喩のなかで語った。そして、アレーテイアの方は「イデアの軛の下」につながれて棄却され、「それ以来、見ること及び見方の正しさという意味での『真理』〔オルトテース〕を求める努力」が西洋の形而上学においてなされてきた、とハイデガーはいう。それは存在忘却なのだ、と。こうしてハイデガーはアレーテイアという「隠れなさ」unverborgenheit をめぐる存在の問いへとむかう(『真理の本質について』)。 しかしもともとこのギリシア語には、忘却(レーテ)の否定、「忘れないこと」の意味がある。隠されていないこと、つまりいまやヴェールをはがされて明白であること。そして忘れないこと。この二つにはやはりいくらかの違いがある。とりわけ、たとえ隠されていても忘れられないことがあるのだとすれば。たとえば、クリプト記憶 cryptomnesia のように。人は過去の体験を忘れていながら、まるで初めてのことであるかのように同じことを繰り返すことがある。晩年をむかえた作家が幼いころに読んで忘れるがままになっていた本と同じ内容のことを、ときには一語一句たがわず、それがまるで自分の新しい着想であるかのように書き記すことがある3。あるいは、記憶の古層にうもれた幼少期の体験を前世の出来事ととりちがえて語る人もいる。忘れていながら覚えていること。それがまるで他人事のように、この世界の出来事ではないもののように感じられたのだろうか。記憶はきっとそんなふうにしてこの世界の単一性を幽霊のように脅かす。 ここでは記憶の問題に賭け金がおかれている。イデア論と並んで有名な「想起説」の方を思い起こしてもいい。『メノン』のなかでプラトンはソクラテスにこう語らせている。「人間の魂は不死であり、 われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、 すでにあらゆるものを学んで知ってしまっている。 だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、 じつは、『学ぶ』とか『探求する』とか呼ばれているのは、 すでに獲得しながら忘れていた知識を想い起すこと anamnesis にほかならないのである。」古代ギリシアのころには輪廻転生が信じられていた。肉体が滅び、魂が黄泉の洞窟に行くと、レーテ、つまり忘却という名の川の水を飲まされ、前世の記憶を失ってしまう(この川は眠りの神、ヒュプノスの眠る洞窟を流れているという)。そしてまさに人は記憶喪失者として生まれかわる。だから、想い起こすのだ、忘れていた知識を、とプラトンが真理というものにかこつけて——まるであたらしい詐欺の手口のように、しかも腹話術師のようにソクラテスの口をとおして——言うことができたのだった。レーテはまた、忘却の女神の名でもあった。だとすれば、アレーテイアとはいわばこの女神を殺害する試みだったのだろうか。そうすれば、まるで夢から覚めたときのように、今まで忘れていたはずの思い出がすぐそばに満ちあふれていることに突然気づく、ということだったのだろうか。前世というものがもはや前世ではなくなるほどに。 なんであれ、ここでは記憶の問題に賭け金が置かれている。思い出すということ。忘れないということ。こうしたことを真理ではなくイメージをめぐる別種の問題としてとらえなおすことはできるだろうか。プラトンが『国家』のなかで述べたような洞窟と天上界との形而上学的なコントラストの中ではなく、淡い翳りの中でもなお思い出せるものや忘れられるものがあるのだとしたら、それをどのように語ることができるだろうか。たとえばしかし、無意識の潜在的な記憶、忘れていたようでどこかで忘れずにいたような記憶が意識の方へ再来してくるというような、そんな情報処理のありさまについて精神分析的に語るというのでもない。そうではなく、イメージという沈黙のなか、意識と無意識の二項対立が宙づりになるような目の経験のなかで、記憶というものの反義語について語ることはできるだろうか。 プラトンは、洞窟を出るように言ったのだった。幻影にみちた洞窟を抜けだし、太陽というもろもろを照らす唯一の光源に目を「向けかえる」ように言った。そして哲学者の務めとは、この向けかえという陶冶(パイデイア)によって洞窟にとどまっている人々を導きだすということだという。それ以来、哲学にはどこかしら盲目というものが付きまとうようになったのだとしたらどうだろう。まるで盲者にこそ見えるものがあるといったように。哲学はこうして転倒したのだろうか。それとも、こういってよければ、天上へと墜落したのだろうか4。プラトンのこの声が、プラトン自身の目を閉ざした。見えないものを見て、見えるものを見ないというこの向けかえ。それは目から口への移行でもある。プラトンのいう「イデア」はもともと「見られたもの」を意味していた。見る idein ということ。プラトンが潰したのは、その目だったかもしれない。いわば目ではなく口によって、つまり言葉によって見ることのできるもの。それがイデアであるとプラトンは考えた。イデアを想起するには、目を瞑らなければいけない。ここでは、一見は百聞に如かず5、というわけにもいかない。哲学はきっとこのときから声への愛 philophonia として、その終わりない口唇期に踏み出してゆくことになる。何ごとかを語れば語るほど哲学の口唇期は深まってゆく。いくたびも吃りながら。 それにしても、語りえないことについては沈黙すべきだろうか。たしかにその通り、と頷くこともできるかもしれない。しかし、だからといって、もちろん目まで閉じるべきではない。口ではなく目によって思考する可能性の残っているかぎり。たとえば象形文字の沈黙のなかでしか語れないことがあるように6。つまり、声(パロール)という単一性 linearity のなか、ニュース番組や映画といったひとつづきの運動のなかではなく、むしろ象形文字やニュースペーパー、マンガといった静かな平面の広がりのなかでしか理解されないもの、つまりデザインというものがあるように。このパノプティコン的な「視力」——あらゆるものをエクリチュールの表面に併置する夢のようなヒエログリフ性。正確にいえば、それは布置 constellation の力、星座のような位置関係の力、音声言語による説明をこえた暗示的な謎めく力である。たとえばその具体的なかたちをディディ=ユベルマンの「アトラス展」に見ることもできるだろう。2011年にマドリード、ハンブルクとつづけて開催されたもので、アビ・ヴァールブルクの仕事「ムネモシュネ」をひきついだこの催しには、膨大な数のイメージ、とりわけマトリクスのような、マインドマップのようなモンタージュ群が展示された。パネル平面にひしめく夢のように多種多様なイメージは、「視覚知」として、謎めくインフォグラフィックとして、あるいは生けるアーカイヴとして、それぞれの布置が時間や空間やできごとを再構成し、単一的でひとつづきだと考えられてきた「歴史」を脱臼=脱記憶 dismember する。床に就くたび、ひとつづきだと考えられてきた意識がほつれ、夢の時制のなかでふたたび息を吹きかえすときのように。イメージは幽霊のような時間を——つまりは死後生=生き延び survie を7——生きて、残存しつづけるものなのだから。そしてそれぞれのイメージやその布置はモンタージュ的な衝突を繰り返し、ハイパーリンクのように相互参照しあうアナクロニックな空間の広がりを見せ、弁証法的な葛藤に引き裂かれ、錯乱しながらも、静止している。ベンヤミンの『パサージュ論』から言葉を借りれば、「形象の中でこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの状況 konstellation を作りあげるのである。言い換えれば、形象は静止状態の弁証法である。(中略)それは時間的な性質のものではなく、形象的な性質のものである。」 このような布置の力、こういってよければ視覚言語の力には、とても月並みな側面がある。レストランのメニューであれ、ウェブサイトであれ、漫画であれ、新聞であれ、レイアウトのあるもの、デザインされたものにはすべて布置の力が働いている。当たりまえといえば当たりまえのことだし、極論をいえば布置とは区別された空間そのもの、場面そのもののことなのだ。だからといって単に通俗化されるべきものでもない。視覚言語はまさにそれ自身について語る口を持たない。まさにそのために音声言語がそのことについて語らなければならないのだから。その一方で——そして結局は同じことを言うわけだけれども——視覚言語は決して神秘化されるべきものでもない。たとえばまさに「布置」というものに重きを置いていたユングがしばしばオカルトの誹りを受けてきたように。なぜなら神秘があるとすればそれは単に、英語と日本語がちがうという以上に、音声言語と視覚言語のあいだの埋めがたい不一致のことでしかないからだ。音声言語で語りえないものが、視覚言語でもまた語りえないとはかぎらないし、それは何よりコンスタティヴな言表を超えたところにもまた力を持つ。欲望やイデオロギーの力を精神分析がなおざりにしないのと同じように、この力を単なる神秘として片付けるべきではない。その上、さらに立ち止まって考えるべきことがあるとすれば、こうしたパノプティコン的なヴィジョンは、ナチズムとの関わり、ひいては西洋の形而上学システムを支えてきた表象そのものの問題との関わりも深い、ということに触れておくべきなのかもしれない。やや長い引用になるが、ジャン=リュック・ナンシーはこう言っている。「ナチズムが表象を、いかにあらゆる角度から涵養し利用したかは周知のとおりである。それはモニュメントとしての芸術やパレードという角度から、だがまた同じように、『世界の表象』(Weltanschauung『世界観』)という側面からもなされており、このテーマをめぐってはヒトラー自身が、『わが闘争』で、哲学的な言説にとどまることなく大衆にも呈示可能であるような「展望 vision」が政治的に優れた重要性をもつと論じている。たしかに、メディアの有効性が問題になっているのではある。だがそれ以上に問題となっているのは、一望の下に置かれうる世界、その全体性、真理、運命が現前している世界、したがって断層も、深淵も、退隠した不可視性もない世界である。感性的表示〔hypotypose〕としての表象、一望の下に置くこととしての、演出することとしての、現前している〔in praesentia〕真理を産出することとしての表象が、人種、ヨーロッパ、人類の再生についての展望という枠組みにおいて、あらゆる店で決定的な役割を果たしているのである」(『イメージの奥底で』)。もちろんこの指摘をそのままユベルマンやヴァールブルクの試みに当てはめていいわけではない。とはいえ、まるで意味深な陰影をそえるように大戦のころの記憶が兆してもいる。ハイデガーの亡霊もちらつかせながら。表象それ自身の語らないところに。 実際、ユダヤ系ドイツ人だったヴァールブルクその人は1929年に没しているが、彼の仕事を引きついだヴァールブルク研究所はそれから四年後、ナチスによる迫害を逃れ、ビルトアトラスと呼ばれるモンタージュ群とともにロンドンへと移転している。キリスト教の迫害をおそれた異教徒たちのように。さもなくばナチスはこのコレクションを——この記憶力 recollection を——焼き尽くしたことだろう。たしかに似ているのだから。モンタージュによる一望のシステムと、ナチスの世界観とは。イメージによる記憶と(再)現前化。こうした試みを突きうごかす欲望の所在もまた問われなければならない。あるいはなぜ人は忘却を拒むのか、ということも。そもそもヴァールブルクの試み、「ムネモシュネ」は、その字面からアナムネーシスという言葉が思い起こされるように、記憶の女神の名前のことだった。あるいは、オルフェウス教においては、レーテ川のすぐそばに位置する泉の名前でもある。死んだときにレーテの水ではなく、この泉の水を飲めば、すべてを記憶しておくことができるという。そうして全知のまま生まれかわるのだろうか。自分が自分であるという同一性を保ったまま。眠りからさめてもまだ自分は今までの自分のままなのだと堅く信じる人のように。オルフェウスをはじめペルセポネーやディオニソスのように、黄泉に下ってもなお還ってくることのできたものたち、つまり文字どおりよみがえったものたちのように8。 イメージはどうしてあんなにも静かで、不穏なのだろう。写真を、とりわけ人の顔の写りこんだ写真を見るたび、どこか不吉な気持ちになる。フォト−グラフという光の痕跡。その平板なデスマスクは、みずからを過去のものとして不在を告げしらせる。たとえば古代ギリシアのブタデスという娘が戦地に赴く恋人の影をなぞったのがポートレイトの起源とされているけれども、影をなぞるためには実物の恋人からはかならず目をそむけなければいけない。ごく普通の肖像画を描くときでさえもモデルではなくカンバスの方に目をむけなければならないのと同じように。ここにはすでに、不在が、ある種の盲目が、そして戦地に赴く恋人の死が予告されている。盲目の予言者テイレシアスはナルキッソスが生まれたとき、その母親にむけて「この子は自分自身の姿を見ないかぎり長生きするだろう」と予告した。ナルキッソスはみずからのうつくしさに魅せられたあまりに溺死するが、なにより自分自身のイメージを見るということが、すでに一つの死の予告だったのだろう。また、オルフェウスが黄泉の洞窟に下ったのは妻エウリュディケを連れもどすためだったけれども、彼女といっしょに地上へ抜けでるときに「決して後ろを振り返って妻の姿を見てはならない」「さもなくば妻を連れ帰ることはできない」と念を押されながらも、最後の最後でとうとう後ろを振りかえり、結局最愛の人を死の世界にとどめることになった。「見るなのタブー」として広く知られるほかの様々な類型と同じように、ここにもまた見ることと死ぬこと、離別することの、避けがたい喪の悲しみにも似た結びつきがある。決してオルフェウスが軽率だったわけではない。結局のところ、それがイメージというものの定めでもあるのだ。開眼であるとともに一つの失明であるような——そして死であるとともに一つの記念でもあるような——この去勢的=脱記憶的な二義性はどんなイメージにも避けがたく付きまとっている。イメージが不穏なのは、単にそれが不在に満ちているからではなく、同時にある種の生々しい潜勢力を保持しつづけながらつねに現在に関わるからだ。現前と不在のあわいを移ろうこの幽霊的な力、痕跡としてのイメージの力は、遺影のように思い出すこと remember のよすがとなりながらも、記憶を錯乱 dismember させる9。 しかしいずれにしても、イメージは記憶そのものではない。少なくとも、頭のどこかに貯蔵されたデータベースとしての記憶ではないし、そもそも記憶や無意識なるものが実体としてどこかにあるというわけでもない。記憶は一般的に、re-member、re-call 、re-mind、re-collect、re-minisce といった言葉が教えてくれるように、反復や回帰といった運動のなかにはじめて見いだされる。それは精神分析的な情報処理一般の問題、ディスクールという交通の問題に送り返される。ディスクールは時間を必要とするかぎりにおいて、表音文字であれ表語文字であれ、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』だろうとウィキペディアだろうと、あらゆる音声文字言語で書かれたものと同様、どこかしら単線的 linear で、クロノロジカルである。 ここで記憶に関する範例的なエピソードの一つとして、フロイトの報告したあの「いないいない遊び」をあげることもできるだろう。生後一年半をむかえたフロイトの孫エルンストは、母ゾフィーの不在のなかで、何を思ったのか、木製の糸巻きを手にとり、それをベッドの影に投げこむと、オーオーオー(ない、ない、ない)と舌足らずにも嬉々とした声を上げた(彼は fort と正しく発音することがまだできないのだった)。すると今度は糸巻きの糸をひきよせて——まるでアリアドネの糸巻き10の、その糸をたぐり寄せるテセウスのようにひきよせて——、ダー(あった)と満足げにいった。ごくごく単純なこの再会の物語、ベッドの影にかくれた糸巻きを再び見いだすという、ただそれだけのふしぎな喜びに満ちたこのエピソードは、ディルクールというもの、つまり「物語り」というものそれ自体のはじまりの寓話でもある。糸巻きの不在を、ひいては母親の不在を「オー」という声によって引き受けること。このことをラカンは「物の殺害」と呼び、言葉の世界、つまり象徴界への参入の契機と見なした。言いかえれば、幼児期の沈黙をこえてディスクールというクロノロジーを獲得するということ。こうしたことを説明する上であまりにもよくできたこのエピソードはまた、ベッドの影を無意識になぞらえれば、意識と無意識の交通のはじまりの寓話にもなる。糸巻きという思い出が見え隠れするなかで、一歳半の男の子は、記憶というものの喜びを知る。つまり、糸巻きが完全に消え去ったのではなく、ベッドの影のなかにとどまりつづけているということの喜びを。なぜなら彼はしっかりとその糸を握りしめているのだから。未分化だった声(フォネー)が「ダー」や「オー」といった語に分節=去勢されたのに対して、糸は断たれずにいるままだ。糸というこの交通の回路が——それは糸電話のふるえる糸のようだ——記憶を、再会を、可能にする。まるで母のような、アテナのような、アリアドネのような、ベアトリーチェのような糸が導いてくれるので、彼は決して迷宮で迷子にならない11。 ある種の盲目というものが暗に差しはさまれたのは、まさにこのときだったのだろうか。エルンストは、幼児期の沈黙をこえて言葉の世界に参入した。まるで目から口への移行を果たしたプラトンのように。しかし単にそれだけでなく、糸という導きを得た。たとえ迷宮のなかで目が見えなくとも、それを握りしめてさえいればやがて出口を見つけられることができるかもしれない。指先を、つまり触覚を使って、いわば歩くすべを彼は覚えた。記憶をたぐり寄せるということもまた、まさに暗やみのなかでの手探りの作業ではなかっただろうか。暗室のなかで写真を現像するときのように。感光材に焼きついた光の痕跡を、潜像を、現像液にひたして再び翳らせるときのように。 ところで、というべきか、ユジェン・バフチャルという写真家は、はじめから盲目だったわけではなかった。まずはじめに一本の枝が左目に刺さって光を奪った。そうして数ヶ月のあいだ片目で過ごしているうちに、今度は地雷のせいで右目に重傷を負った。しかしすぐに視力が失われたわけではなく、徐々に風景の色彩は退いていったが、まだ辛うじて世界を見ることができた。彼の目が完全に見えなくなるまでには数ヶ月の猶予が残されていた。「だからそのあいだ中、引きかえすことのできない旅立ちの御伴に、美しいものだとか、本とか、色とか、空の様子をいそいで記憶にとどめなければならなかった」(Le voyeur absolu.)と彼はいう12。そして十二才のころに何も見えなくなった。はじめてカメラを手にしたのはそれから四年後のことで、それは単に、思いを寄せていた女の子のスナップショットを撮るためだった。バフチャルはこう回想している。「そのとき感じた喜びは、自分のものではないものを盗みとってフィルムにおさめたことから来ていた。見ることのできないものを所有できるのだということをひそかに発見したのだった。」彼はこうしてその後も写真を撮りつづけた。しかしもちろん「カメラで撮られた像のなめらかな表面が何かを訴えかけてくることはない。自分にはかつて見たり会ったりした風景や人々の物理的な痕跡しか残されていないのだから。そういうわけで、他人の見たその写真の亡霊的なまぼろし simulacre を通してしか自分のまなざしは存在しない。自分はこの大いなる無用さをうれしく思う。自分の内部でイメージを息づかせる他人のまなざしこそ自分は必要としているのだから。」 バフチャルにとってシャッターを切ることは、盲目とともに盲目のなかでたしかに生きられていたはずの世界を——声や触感や匂いにみちた時間を——切りとり、写真という沈黙のなかに送り返すことに似ている。あとにはつるつるとした写真の手触りのむなしさしか残らない。まるですべての写真が露出過多によってのっぺらぼうのような明るい静けさに満ちてゆくように、シャッターを切るたび時間がどこか手の届かないところに埋葬されてゆく。まるでなにかを聖化するときのように、けれども見届けることはできないまま。と、そんなふうに想像をめぐらせることもできる。しかし彼にとって写真を撮ることは必ずしもそういうものではなかった。 第一に、彼が彼自身の写真を見ることはできなくとも、他人はそれを見ることができる。他人が彼の写真を見て、彼に彼自身の写真について語ることで、フィルムに切りとられたイメージは新たに息を吹きかえす。他人によってもたらされた言葉が、意味が、彼のなかでイメージへと受肉する。第二に、身も蓋もないといえばそれまでだけれども、彼はそもそもこの現実を記録するためではなく、自分が頭のなかで思い描いたものを現実化するためのシャッターを切る。たとえ頭のなかのイメージと現実との不一致こそが、きっと彼の作品の魅力となっているにしても。彼ははっきりとこう述べている。「写真を現実の『切りとり』として捉えるのではなく、むしろコンセプチュアルな構造物として、視覚言語という統合的な形態として、マレーヴィチの黒い正方形のようなシュプレマティスト的イメージとして捉えるような立場に、とても親近感をおぼえる。」まるで、ユベルマンの試みのように。彼のイメージは一つの言語なのだった(実際、奇妙なことにもというべきか、彼はカメラを口元にかまえるという)。イメージにはこのとき、言葉の盲目が——シニフィアンという指示性という盲目、ブタデスの描いたポートレイトのように自分ではない別のものを指さすような盲目が——染みわたっている。そしてイメージもまた言葉に生彩と翳りを与える。言葉はイメージへ移ろい、イメージは言葉に移ろう。言葉のあるところにはイメージがあり、イメージのあるところには言葉がある。そしてバフチャルにおいては彼の盲目こそがイメージと言葉の触れあう交通空間となる。あるいはまた、イメージを眼差す他者が彼にむけてイメージを言語化する余地の所在となる。しかし、バフチャルにかぎらず、誰しもが少なからず盲目なのだ。イメージを伴わない言葉も、言葉を伴わないイメージもない。それぞれが互いを汚染しあっている。こうした汚染の余地、あるいは閾とでもいうべきところに、夕方のような暗やみがある。ひとつの神秘として。息をひそめて耳をすましつづける名もない動物の、そのしずかな息遣いように。 それでもやはり忘れてはならないのはむしろ、ユジェン・バフチャルという写真家ははじめから盲目だったわけではなかったということだ。彼が失明するまでに見た光景のすべては、故郷スロヴェニアにあった。故郷だけが、明るい。それ以外の場所、失明後におとずれたどの町も決して輝きに翳ることはなかった。「自分の幼少期の世界は、光であり永遠だった。すべてがそこからやってくる」と彼自身が言うように。まるでオプトグラムのようでもある。殺人事件の被害者が最後に見た光景。それが網膜に焼きついているという探偵小説的な迷信。生と死のはざまにある最後の光学的な痕跡。まるでそんなような光の痕跡、亡霊のような光のノスタルジアが、彼のヴィジョンを支えている。故郷の光、光の記憶がひとつの永遠として、最初のまなざし、失われたまなざしとして、つねにそこにあるからこそ、彼はシャッターを切ってイメージを暗やみへと送りかえすこと、記憶の光を埋葬することができる。ドン・キホーテを自称するこの盲目の写真家が仮にもナルキッソスのように死ぬことがあるとすれば、それはこの光のなかにおいてでしかない。晴眼者であれば目を閉じることができる。しかし彼にはそれができない。悪夢を振りはらおうとするあまり、真夜中に寝覚めてしまう、ということさえない。瞼のない魚たち、まるで夢うつつの魚たちのように、夢も思い出もすぐそばにある。まるで暗やみに触れることのできる光のように。まるで光というものが触れることのできる一本の糸であったかのように。 バフチャルのことを知ることができたのはそもそも、ある人がこの写真家の作品を何枚かメールに添えてくれたからだった。バフチャルの作品はとても美しい、と彼女はあるとき言った13。「どこかヌードデッサンを思わせるようなところもある。あなたがヌードデッサンを今まで一度でもしてみたことがあるかどうかはわからないけれども14、わたしからすれば人が経験できることのなかでもこれ以上面白いものもそうそうない。以前は何度もヌードデッサンをしていたのに、ここ数年はなかなか時間がとれずにいた。けれどつい最近になってようやくその機会がめぐってきた。ヌードを描くのと、ヌードになって描かれるのと。それがどれほど素晴らしかっただろう。なによりヌードデッサンは——それとも、どんな絵だろうと何かを描くということは——盲人が写真を撮るのに通じるところがある。結局、視力だけではなく他の感覚も必要なのだから。たとえ体のごく一部を描くときでさえ、あらかじめ肌や筋肉や骨を感じとらなければならない。じかに手で触れるように。意識と無意識のつながりをずらしてゆくなかで、ものの見方を変えて、『肉そのもの』に集中しながら。」 ある種の暗やみのなかでこそ、この共感覚的な視覚と触覚の交わりがはたされる。そしてなにかを描くということが手探りの作業であるのなら、書くことも読むこともまた盲目になるということだった。象形文字のような視覚言語とちがって、音声言語は布置のかわりに声を伝える。表語文字であれ点字であれ、朗読されたものであれ、この原則は変わらない。たとえば、かつては黙読というものがそこまで一般的でなかったという。黙読ができるというだけで、アレクサンドロスやカエサルは部下や政敵を困惑させた。アウグスティヌスでさえも、黙読する人の姿を見かけて「彼は決して声を出して読書することがなかったのである」と素朴な驚きとともに告白している。さらに時代を遡ればなおさらのことだった。アルベルト・マングウェルは『読書の歴史』のなかでこう言っている。「シュメール人による初期の銘板以来、書き言葉は、もともと朗唱されるのを意図して記されたものであった。文字という記号は、まるでそれが筆者たちの魂であるかのように深い意味があり、ある特別な音を発するものとされていたのである。古典古代には、よく『書かれたものは残り、話されたものは空中に消えていく』という言い方をしていたが、これは実際には、全く反対のことを言わんとしたものである。つまり、朗唱される言葉は、動きのない、いわば死んだ書き言葉とは違って、翼を持ち空を飛ぶこともできるということを賞賛した表現なのである。」読書は目ではなく第一に耳によって行われていた。ジュリアン・ジェインズはまた次のように述べている。「紀元前三〇〇〇年の頃の読書法は、楔形文字を聞く、つまり、今日我々がやるように音節を視覚的にとらえて読んでいくのではなく、絵で抽象的に示されたものを見て、そこから発せられる言葉を、幻覚のようなものとして聞いていたのではないか」(The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind....

31 Oct 2012 · のなみゆきひこ