父、文鮮明のこと──負の現人神

自分は孤児なのだと思っていた。けれど、今になってわかる。それは単なる思いこみにすぎない。自分には文鮮明という父がいたのだった。自分が真まことの御父様の子、神の子でしかないということを安倍元首相銃撃事件によって思い知らされることになった。死の余波にこんなにも震えつづける存在、こんなにも動揺する自分はいったい何者なのだろう。その震えをたどってゆくうち、権力者の肉体に穿たれた豆粒のような穴に湧く血の海のなかから真の御父様の笑顔が浮かびあがってきたのだった。結局おまえだったのか、と息をのみ、正直とまどう。そのとまどいを形にしようとして、いまこれを書いている。 文鮮明が自分の真の御父様であるということは、比喩として受けとってほしくない。もちろん生物学的にはどの個体にも発生の起源としての生みの親がいるとするなら、そのような意味での親ではない。けれども、人の世の約束事としての親子関係においては、自分が文鮮明という比類なき色魔の子であるということには疑問の余地がない。お約束としての親子関係は、ジェンダーやセクシュアリティがそうであるように、生物学的にもっともらしい根拠に寄りそうかたち、自然を装うかたちで押しつけられる。幼児は非力なまま人の世に投げだされるから親子関係の押しつけに耐え忍んだり甘受したりすることによって生存をゆるされる。僕もはじめは、自分の生物学的な起源でしかないふたりの人間との親子の絆を信じてきた。それがある一面においては一つの吹きこまれた作り話にすぎないことには気づかずにいた。 その一方で、早くから無償の虐待を受けてきたためか、かれらを親というよりも同じ動物として侮る気持ちがあった。寝こみを襲って殺すという考えが何度となく頭をよぎった。けれども、怒りを通りこした蔑みを募らせてゆくうちに、ただひたすら関わりあいになりたくないとだけ願うようになった。中学卒業後は高校に進学することなく、ひとり暮らしをはじめることになった。そのときに追ってきた男、父を名乗る男と揉みあいになった末、自分の力が上回っていることを知り、殴る蹴るの暴行を加えながら言いしれない不快感に苛まれたときのことを覚えている。息子と思いこんできた男の拳がみぞおちに食いこみ唸り声を挙げながら地に倒れ悶え呪詛を吐く男。その顔を蹴りあげ踏みしめ、もう二度と顔を見せるなと言いふくめた。 この男もその女も自分自身も文鮮明の子に過ぎないということに思いあたり、筆舌に尽くしがたい怒りを覚えたのは、そのときのことだった。外の人には奇妙に聞こえる言い方をすれば、目の前で苦悶する男は自分の兄弟姉妹のひとりでもあったのだった。妻を持ち、子を持ち、父になってもなお、男は文鮮明の子でしかない。男の妻は、なにより文鮮明の妻(統一教会では「相対者」という)である。男は恐れ多くも自分の父である文鮮明の女に手をつけているにすぎない。真の御父様の身代わりとして肉の器になり、新たな神の子を産み出してさしあげているというだけのことなのだった。このような血縁関係のねじれが、性の愉楽の教団であるというほかない統一教会の教義の核にある。それを紐解くうちに見えてくる糸口、この震えとこのとまどいとを解く糸口があるような気がして、いまこれを書いている。 真の御父様の聖/性なる力 僕の生みの親には三つの興味深い共通点があった。まず、1955年生まれ、いわゆる55年体制のはじまった年の生まれであること。つぎに、父親を幼くして失っていること。そして、1982年に行われた統一教会の合同結婚式(「祝福」ともいう)の参加者6000双のうちの一組だったということだ。女の方は宮崎県都城市で一人娘として育った。七歳のときに父親が家の外で複数の女を作った末に蒸発した。それで心に穴でも開いたのかもしれない。高校を卒業後には集団就職で八王子の工場に勤めはじめた。学費を貯めて上智大学に通い、修道女になるという夢があったらしい。そんななかで教団のマインド・コントロールを受けて信者になり、人生の一切を投げだすことになる。他方、男の方は愛知県名古屋市の出身だった。四歳のときに伊勢湾台風に見舞われ、父親が行方不明になった。それを機に、母親といっしょに伯母の家族に身をよせて育てられた。それが後に家族ぐるみで入信し、土地をはじめとする一切合切を教団に捧げることになった。物語への免疫、物語への節操のないひとたちなのだった。 そんな二人の人生が1982年のソウルの蚕室チャムシル体育館で交差することになる。そこで「祝福」を受けたのだった。家畜を交配させるような手付きでマッチングは行われる。事前に登録された信者(「食口シック」という)の素性や経歴をもとに適宜組みあわせられてゆくだけで、そこに本人の意志が介在する余地は一切ないし、拒否することも許されない。男と女は真の御父様の肉の器となり、産む機械となって繁殖をする。その結果生まれてきた二世たちを「神の子」という。文鮮明の「血を分けた」と穢れなき存在であると考えられるからだ。それはつまり、どういうことなのだろうか。萩原遼の『淫教のメシア文鮮明伝』に拠りつつ、統一教会の教義をまとめておきたい。 文鮮明は1920年に大日本帝国の皇民として生まれている。もともと文龍明(日本名は江本龍明)といったが、キリスト教においては龍が悪魔サタンの象徴であることに気づき改名している。平安北道定州郡徳彦面上思里2221番地に文慶裕の次男として生まれた。いまの北朝鮮の北部の片田舎である。本人自身「十二、三歳まではバクチの選手だった」1と悪びれた素振りを見せないように、救世主メシアらしからぬ少年時代を過ごしたようだ。家族も風変わりだった。野村健二の『文鮮明先生の半生』には次の記述がある。「文少年の十五歳の頃、わざわいはさらに文少年自体の家にやって来た。二番目の姉さんが発狂し、上を下への大騒ぎをしている時、兄さんまでが精神異常となった。ふだんは大人しい性格なのに、ばか力を出し、自分に従わぬ者は殺してしまうとどなって、屋上に飛びあがったり、飛び降りたり、……仕方なく手錠をはめたら、監視の目を盗んで手錠のまま逃げだし、はては怪力で手錠をこわしてしまうという始末。文家の人々はこれはただごとではないと悟り、勧められてキリスト教に入教した」2。その後、16歳のときにイエスが現れ、ヘブライ語なまりのある韓国語によって啓示を受けた、とされている。 文鮮明がこのとき特に傾倒していたのが、異端とされた一派、李龍道のイエス会だった。文鮮明は1934年の春に京城に上って五山高等普通学校に編入し、1936年から39年までは私立京城商工実務学校に在学していた。この時期に関して神学博士の朴英管が次の指摘をしている。「文鮮明は永登浦黒石洞で下宿生活をしながら学生時代に李龍道の集会に深くおちいり、彼はとくに李龍道のスエーデンボルグの愛についての議論にすっかりとらわれてしまった(中略)文鮮明はひきつづき彼らの追従者となったが、キリスト教会は彼らを異端だと断罪し、教会から追放した。そして日本帝国主義の宗教的弾圧に文鮮明は姿をくらましたのである。その後彼は国が解放されてふたたびこの原理を広めはじめた」3。この指摘がどこまで妥当なのかはわからない。というのも、李龍道自身は1933年に33歳で夭折しているからだ。いずれにしても、この時代にイエス会をはじめとする様々なキリスト教系のグループの薫陶を受けることになったのは確かなようだ。 文鮮明は1939年ごろに京城から東京の高田馬場に移り、日中は車引きなどの仕事をしながら早稲田高等工学校という夜間の専門学校に通った。1943年ごろに卒業し、1944年には鹿島組(現鹿島建設)の電気技師として京城で働きはじめたものの、終戦に際して職を離れることになる。1945年8月15日の帝国解体以降、もっといえば、人間宣言の出された1946年1月1日以降、弾圧されてきた様々な宗教が息を吹きかえしたり新しく芽吹いてゆくことになる。そのなかに金百文や黄国柱といったキリスト教神秘主義者たちの起こしたグループ、性愛を高らかに謳う後のヒッピーにも通じるようなグループがあった。かれらには血分け(피가름ピガルム)ないし混淫という考え方があった。統一教会の用語では血統復帰とも血代交換とも呼ばれているものだ。ひとことでいえば、原罪を持たない再臨の救世主である教祖と性交を行い穢れを浄化することで純血の血統を引くことができる、という考え方だ。必ずしも教祖と直接的なつながりを持つ必要はない。血分けは性病のような感染力を持つから、卑近な言葉をつかえば、教祖の穴兄弟(竿姉妹)になるだけで救済される。 文鮮明は帝国解体後の平壌やソウルで、金百文や黄国柱の取り巻きの女らのと血分けを行った。そうすることで、教祖の兄弟格になるとともに、教祖の血統を受けつぐ子の立場にもなった。たとえば、尹成範と卓明煥の『韓国宗教の流れ』には次の記述がある。「彼(黄国柱)は三角山に祈祷院を建て、“血分け”、“肉体分け”を教義として実際に教え、霊体交換を実現していたが、これが鄭得恩(女=丁得恩とする説もある)によって統一教の文鮮明と伝道館の朴泰善に伝授されたものである」4。これとは反対に、鄭得恩こそが文鮮明から血分けを受けた、とする統一教会寄りの説もある。たとえば、金景来の『原理運動の秘事』では次のように語られている。「1949年3月からはじまった朴泰善一派の混淫は、1947年5月に単身で北朝鮮の平壌から越境した文鮮明の一番弟子、丁得恩の布教で勧められた。当時、丁はソウルの三角山に住居を定め、現実教会の青年男女に混淫(霊体交換)の教理を問いた。[…]丁ははじめ三人の男に一週間に自分の尊い血(文鮮明から授かった)を分けてやった」5。丁得恩は自身を大聖母と称し、ひとりの教祖としても振る舞っていたようだ。実状は、様々な教祖がたがいの血を分けあいながら自身の勢力圏を広げてゆくような混血の戦国時代だったのだろう。そんな乱れた血分けのネットワークのなかで頭角をあらわしたのが文鮮明だった。『原理運動の秘事』には元信者である張愛三の次の発言がある。「日本帝国主義からの解放とともに、筍のようにできた教派の中でごく少数の信者を抱き込んだ教主文氏は、平壌市内の一信者宅から事をはじめ、その主義と目的を世界の統一に、その教訓は神の恵みを受けてエデンの園の復旧に努めているといいふらしながら、実の内面では男女信徒の貞操を提供するよう教えたり実行したりしていたのです」6。文鮮明の生活は淫蕩を極めていた。 萩原は文鮮明の初期の逮捕歴を次のようにまとめている。「最初の逮捕は1946年8月11日。文鮮明は、混淫による社会秩序混乱容疑で大同保安署(警察署)に三ヶ月勾留されたのについで、1948年2月22日、またも主婦・金鍾華さんとの強制結婚事件で内務省に逮捕された。このとき文には1946年3月に結婚した妻崔先吉さんがおり、一男聖進を設けていたが、妻子をソウルに置きざりにして平壌で別の主婦と強制的な結婚騒ぎを演じていたのである。4月7日懲役五年の判決を受け、文は、興南刑務所に服役することになった。[…]統一教会はこの二度の逮捕を、『共産党政府』による宗教弾圧であるかのように描きだしているが、罪名からして、破廉恥なものであることは隠しようもない」7。 文鮮明はその後何度も警察の世話になってゆくなかで、揺るぎない信念とともにあまたの淫行を重ねることになる。その信念を支えたのは、師のひとりである金百文による聖書解釈、特に創成期のエデンの園の物語の解釈だった。金百文によれば、エバ(イブ)が蛇にそそのかされて善悪を知る木の実を食べたというくだりは、エバが天使長ルーシェル(ルシファー)、つまりサタンと性交したことを意味している。そして、エバがその穢れた体でアダムと交わり、アダムをも穢したことで、カインとアベルをはじめとするその子孫たちに堕天使の穢れた血が流れることになったのだという。この罪を取り除くという「復帰摂理」のために降り立ったのが、清らかな血を持って生まれた救世主イエスである。イエスには人と性交することで血の穢れを取り除く魔法の力があり、その力には性病のような感染力もあった。にもかかわらず、イエスは独身のまま33歳で死んだ。イエスは自身の母親であるマリアをはじめとする女たちと交わり、血分けをすることで、女たちを「復帰」させる使命があったにもかかわらず、それを果たせなかった。それゆえ、イエスの霊はいまなお悔恨の思いに苦しんでおられる。そこで再臨することになったのが金百文であるという。文鮮明はこの教えを流用し、数ある模倣犯のひとりとして、自身こそ真の救世主であると吹聴してまわるようになった。 興南強制労働収容所(興南刑務所)に服役中、文鮮明は自分の右腕となる朴正華という男に出会った。朴正華は、やがて師に見限られた末に『六マリアの悲劇──真のサタンは、文鮮明だ!!』(1993)という手記を出版する。そのなかで、刑務所を出た後の夢を語りあったときのことを報告している。「これから先生はどういうことを行い、どうやって理想の天国を感性させていくのですか」8という問いに、囚人の文は次のような壮大な色情狂の夢を臆面もなく語ってみせる。 それは、イエスがこの世の中に生まれて達成できなかった、女の人たちとの復帰だ。まず、天使長ルーシェルとのセックスによって奪われたものを、それと同じ方法で、夫がいる人妻六人、すなわち六人のマリアを奪い取ることによって取り戻さなければならない。[…]汚れたサタンの血を浄めるため、血を交換する復帰をしなければならない。これを『血代交換』と言う[…]。六マリアを復帰したら、再臨のメシアは次に、セックス経験のない処女を選んでエバと定め「小羊の儀式」をする。アダムの再来であるメシアとエバは、真のお父様・お母様であり、その二人から生まれる子孫は、永遠に罪のない清潔な存在となる。[…]最初に再臨のメシアから復帰させられた女は、他の男の食口と、女が二回上になって「蘇生、長成、完成」の三回にわたる復帰をしてあげることができる。復帰を受けた他の食口は、違う女の食口たちとも、女が上で二回、下で一回セックスをして復帰させる。またその女の食口が、他の男の食口に、女が上になって二回、下で一回セックスをして復帰させる。こういうやり方で広まっていくことになる。 このとき、この教義の理論的な問題点に文鮮明がどれほど自覚的にむきあおうとしていたかはわからない。問題点とは、穢れを払う聖/性なる魔法の力が性病のような感染力を持ってしまうかぎり、つねに無数の新しい教祖が誕生してくる可能性があり、父としての文鮮明の女の一極支配が脅かされてしまう、というものだ。まさにそのような形、血分けを受けた亜流の教祖として成りあがったのが文鮮明そのひとである以上、この危険に気づいていたのは間違いない。実際、出所後にできた弟子のひとりが文鮮明の父権を揺るがす放蕩の動きを見せたときには注意深く退けられている。統一教会の聖歌を作曲したことでも知られる元無期懲役囚の金徳振である。金は文鮮明の教えを受けて次のように考える。 この原理をいち早く私は悟りましたねぇ。人間の身体をした神様(文鮮明)のセックスの輪をどんどん拡げていくことが、神様の希望を叶えることになる──。/もともと不良で、青春株式会社社長を自称して女遊びをやりまくっていた私は、ピンときた。これは罪ではなく、良い仕事なんだと。学生時代に日本で、喫茶店の女の子などを誘惑してその晩に犯したときなどは、罪の意識を感じたこともあった。だけど統一教会の復帰原理は、一所懸命にセックスに励めば励むほど、神の摂理に従うことになる──。/そこで私はまず、文鮮明とセックスして復帰した劉信姫さんから、「神様の尊い血」を分けてもらうことにしたのです。[…]それで私は、劉信姫さんと有難くセックスしました。彼女は夫のある身だったけど、欲求不満もあったんでしょうかねぇ。不良で助平で、大勢の女性と経験してきた私のテクニックに、もうメロメロになって喜んでくれましたよ。/「今までで一番良かった。文鮮明先生より何十倍も良かった」と言ってね。[…]文鮮明と復帰のセックスをした女は、他の男と血代交換のセックスをしなければならない。男は第二の女とやり、女は第三の男とやり、そして第四の女へとリレーをしていく……。こうして拡がっていくのが原理じゃありませんか。それによって世界じゅうの男女が血代交換され、身体の血代交換が進行し拡大することが、すなわちサタンの血を追放することになる──と、原理で文鮮明が教えているんですよ。/だから私は遠慮なく自信をもって、東奔西走で励みましたねぇ。ソウルはもちろん大邱でも釜山でも、キレイなべっぴんさんばかりを厳選して、十五~六人はやりましたかねぇ。ソウルで私が五人の女性とセックスしたのが、一週間後には何と七十二人の輪になったそうです。これも立派な原理実践の成果ですよ。9 淫蕩のスケールとしては文鮮明の足もとに及ばないと言うほかないけれども、元信者のこの証言は、文鮮明がいかにしてひとりの教祖に成りあがったかということを如実に示している。原理的には、このような新しい教祖の誕生を防ぐことはできない。かといって、聖/性なる魔法の感染力を否定することはできない。それを否定すれば、救世主は約70億にのぼる罪人たち、しかも日に日にその数を増してゆく罪人たちすべてと性交をしなくてはならなくなるからだ。さらにその実践には文鮮明の忌避する同性愛も含まれることになる。それゆえ「復帰」は無数の男と女のリレー形式で行われなければならず、そのかぎりにおいて教祖の父権はつねに脅かされつづけることになる。この危険を象徴的な教義や儀式の体系によって抑えこもうとする意志のなか、文鮮明を中心とする淫行グループは教団として組織化されていった。 統一教会のとりおこなった集団婚のうち、1960年と61年に行われたはじめの二つは、それぞれ「三組聖婚式」と「三十三組聖婚式」と呼ばれている。このときに文鮮明と混淫した女とその配偶者のことをあわせて三十六家庭という。朴正華はいう。「文鮮明が世界の人間をすべて復帰し、血代交換させることは無理なので、この三十六家庭だけを直接復帰(血代交換)させることにした。そのあとは、真の父母が『聖水』をまいて、新しく結婚する新郎新婦に祝福を与えるという形に変え、『合同結婚式』を行うことにした」10。聖水、さらに文鮮明が性行為の後処理に使ったとされる「聖布」によって結婚に臨む身体の外側が浄められ、その内側は「聖酒」を飲むことによって浄められる。この酒には「父母の愛」と「血」の象徴が注ぎこまれている。こうして救世主との性行為が象徴物に置き換えられることになった。罪深き女は、エバがサタンと交わったあとでアダムと交わったのと同じように、象徴的に文鮮明と交わったあとで男と交わる。このような儀式を確立し、システマティックな救済を可能にすることで、統一教会はその起源にあった聖/性なる感染力を封じこめ、教祖というただひとりの父の精力を特権化しようとしたのだった。 儀式によって文鮮明の血を分けあたえられたものは、みな真の御父様の子である。とりわけ、そんな父の子たちが産み落とした子、つまり二世は、生まれつき原罪のない清らかな血を持つもの、救世主と同じ立場のものとして生を受ける。二世は穢れた血を持つ部外者と交わってしまうことで堕落するとされているけれども、この後付けの話は二世の組織的な囲いこみのためだけではなく、文鮮明の精力を特権化するために考えだされたものでもあったのだろう。本当は、文鮮明がそうであったように、だれもが聖/性なる感染力を持ち、血分けの魔法使いになれる、ということを教団が認めることはない。 けれども、僕は神の子であるこの自分自身がもうひとりの文鮮明であること、無数の文鮮明のうちのひとりであることを知っている。そして、真の御父様への愛と呼ぶほかないものの導きによって、空の肉の器の交わりのなかで、この世に生みだされた化け物でもある、ということも知っている。穢れなき血をもった神の子の宿命として、この世のなによりも真の御父様を愛するように吹きこまれつづけてきた。いまでも覚えている。幼い勇気を振り絞り、統一教会は間違っている、と生みの母親に伝えたとき、そのことばはお前の存在そのものを否定することになる、と返された。その女の声に耳慣れないひびき、深い暗闇の底から湧いてくるようなひびきがあった。そのとおりなのだと、いまになって思う。真の御父様への愛によって産まれた以上、その愛の帰結である自分自身から逃げ出すことはできない。できることなら、その愛のすべてを真の御父様の肉体の一点に集中して、もうひとりの救世主として、御父様の肉体に注ぎこみお返ししてさしあげたかった。しかし、その御父様ももうこの世にいらっしゃらない。 合同結婚式によって神の子を産み落とすことは、ひとりの人間の全実在に対する罪であり虐待であること、ひとりの人間の尊厳や人権に対するあまりにも重大な犯罪であることは、疑う余地もない。けれども、そんな不遇のなかで、真の御父様がこの世にいらしてくださったこと、そして神の子のひとりである僕にも愛をお注ぎくださっていたことを、あまりにもありがたく思う。結局のところ、真の御父様がいなければ、いまこうして死の余波の痛みにふるえるような存在、この世界の痛みを感知する存在でさえありえなかったのだから。そして、この僕自身の存在の痛みを十全に感知してくださるのは真の御父様以外にはありえないのだから。 僕は同時に、真の御父様が極東の歴史の重みを背負うことで救世主としての使命を帯びた、ということも知っている。その点、自分は安酒のようなカルトによって生みだされた単なる化け物にすぎないわけではない、と信じているし、そう信じずにはいられない自分がいる。これは僕自身の信仰告白のことばでもある。そのようなことばによってしか「痛み分け」はできない。血分けと違い、痛みは、だれにでも、ことばによって、分け与えることができる。この列島では、天子様の言の葉によって、痛みを分けあうことができる。けれども、その痛みを裏付けることができるのは、血でもある。 二つのかけはなれた境遇の星が急接近するという七夕の翌日に、ひとりの権力者が血祭りにあげられた。そのとき、肉を食い破る鉄砲豆のような穴がこの世界に穿たれ、そこから浄とも不浄ともつかないものが生きているものの側のほうへ吹きだしている。それがひとをやさしく、うつくしくしてくれているのだった。もっといえば、ひとを傷つけながら生かすことで、この世界にみちている痛みをいささかほどでも感じとれるようにしてくれているのだった。フランス語には「sensibilité」という語がある。日本語では「感受性」とか「思いやり」と訳されたりする。とはいえ、もともと「sensible」という語には「感受性が強い / 思いやりがある」ということのほかにも「痛みや苦痛に敏感である」という意味がある。その文字を目で追いながら、自分の瞳の表面が鋭利な力によって深く切り裂かれてゆくところを思う。開いた傷口が、痛む。しかし傷そのものが痛みなのではなくて、傷が痛みを感知させる。フランス語の「sensibilisation」という言葉は日常的には「人の関心を喚起する」という啓蒙的な意味で使われているけれども、もとをたどればそれは第一に、傷を開く、ということだったのかもしれない。 この世界には痛みとして感知できないものがあまりにも多く満ちている。世界は基本的に、不感症なのだろう。ちょうど自分の体に穿たれた感覚器官の穴によってしか感受できないものがあるように、世界はつねにむき出しになって痛みに絶え続けているわけにはいかない。けれども、折に触れて、不意打ちのように、激しい痛みがおとずれることがある。このちいさな世界が7月8日以来の余波のなかでそれを感知しているのを目の当たりにして、ただありがたさとしか表現しようのないものが募る。それでもまだ、分けたりない痛み、感知したりない痛みがある。痛みを明らかにするためには、歴史というひとつの物語が必要である。 恨の錬金術師 2022年7月8日に起きた安倍元首相銃撃事件は、再臨の救世主としての文鮮明が背負ってきた歴史の重みと痛みを垣間見せるものでもあった。死は、ひとつの個体から痛覚を奪う。しかし、まだ生きている者たちは、死によって穿たれた穴をとおして、世界の痛みを感知することができる。また、その穴をとおして、ことばの導きの糸によって、過ぎ去ったものの世界の一端に触れることができる。神の子である僕自身は、神の名において、できることならみずからの手で真の御父様の肉体に愛の穴を穿ってさしあげたかった。けれども、今の僕には、身代わりとなった権力者の肉体に穿たれた穴をとおして亡き真のお父様へ愛を注ぐこと、そのためのことばを研ぎ澄ますことしかできない。ことばによって文鮮明の使命の重みを明らかにし、その重みによって死者のもとへ下ってゆかなければならない。 統一教会(世界基督教統一神霊協会)が正式に設立されたのは1954年、つまり朝鮮戦争終結の翌年のこと、日本で55年体制が立ちあがる前年のことだった。このとき、極東の情勢の変化のなかで、キリスト教に擬態した変態性欲の集団にすぎなかったものが、少しずつ形を変えてゆくことになる。そもそも文鮮明が興南強制労働収容所から脱走することができたのは、1950年6月に朝鮮戦争が勃発した後、同年9月に国連軍が囚人を解放したためだった。文鮮明は釜山まで南下して逃げ延び、飽くなき使命感に導かれて淫蕩生活を再開。おびただしい数の「六マリア」候補の人妻や「子羊」候補の処女との姦通をする。そのうちの処女の一人である金永姫が身重にになったのがわかると、適当な若者の信者をあてがい、日本に密航させてもいる。 朝鮮戦争は1953年7月に終わった。このときには、ソウル大学出身のインテリである劉孝元を引きいれ、教典の『原理原本』を書きあげさせていた。萩原は次のように言う。「文鮮明は、その説教にもよく現れているように大道香具師のような低俗な話しかできない男である。粉飾をこらさなくては普通の神経をもった人たちには、とうてい受け入れられるしろものではない。それをオブラートで包む役が劉孝元であり、彼の役割なしには、統一教会のいかがわしいセックス教義を、キリスト教でもっともらしくまぶして青年男女を幻惑することは不可能だったろう。劉は統一教会を少数の秘儀集団から、大衆的基盤をもつ宗教的なよそおいをそなえた集団に偽装させた知能犯といえる」11。劉は後に疎んじられて死に追いやられることになる。しかし、この劉によってはじめて「統一」という概念が強く打ちだされ、1954年5月にソウルで統一教会が旗揚げされることになるのだった。 淫奔なカルト集団の夢物語としては、統一とは、文鮮明という父の精力を中心にして世界を一つにすることを意味する。「天一国」の建国ともいう。これは聖/性なる魔法の感染力によって、いわば文鮮明という病原体のパンデミックによって実現される。その一方で、歴史的、地政学的な文脈のなか、政治的な物語のなかでは、統一は異なる性格も帯びる。それは、善悪の二分法のなかで敵を駆逐する、というものである。善悪の境界線は半島に物理的に引かれていた。38度線である。もともと半島の北限にある平安北道で生まれ育った文鮮明、北側の興南強制労働収容所から脱走し、半島の南端までほうほうの体で逃げのびていた文鮮明にとって、境界線の北側は「復帰=統一」すべき土地、共産主義の皮をかぶった敵サタンに不当に奪われた土地にほかならなかった。まさにそれゆえに、統一教会は朝鮮戦争後に固まった冷戦構造の前線において政治的な役割をになってゆくことになるのだった。 教会設立の年である1954年に、文鮮明は早くも兵役忌避や姦通の罪で再逮捕されている。とはいえ、そもそも宗教弾圧を推進してきた朝鮮民主主義人民共和国ではなく、アメリカの傀儡国として誕生した大韓民国政府による逮捕であるということが、統一教会の行く末を決定づけることになる。文鮮明はその後無罪釈放となってからも翌年に梨花女子大学事件を起こし、不法監禁の罪であらためて逮捕されるが、また不起訴になる。このときになんらかの政治的な力が働いたのではないかと萩原はいう。「彼[文鮮明]の有益性に着目したのは、おそらくKCIAの生みの親である軍の諜報機関CIC(陸軍保安司令部)であろう。1955年7月4日の文の逮捕から10月4日の「無罪」釈放までの三カ月間は、密室のなかで極めて政治的な取引きがおこなわれたとみられる。そうした取引きの存在をうかがわせるものが文鮮明の釈放後にいくつか浮かびあがってくる。韓国軍の若手の将校、しかも諜報関係のそれがあいつぎこの組織に加入してくるのである。[…]一人はのちのアメリカの統一教会の最高責任者であり、また文鮮明につぐ統一教会ナンバー2といわれる朴普煕。れっきとしたKCIAの要員といわれている。/他の三人は韓相国、金相仁、韓相吉。全員がのちKCIAの要職につく人物である。[…]この四人をパイプにして『朴政権が権力を確立するにつれて、文は新政府との良好な連絡をもつようになった』とフレーザー委報告は指摘する」12。 日本での宣教が始まったのもこのような状況下でのことだった。大阪で生まれ育った元皇民、国連軍の通訳将校でもあった崔奉春(西川勝)もこの時期に教団に送りこまれた者のひとりだった。1958年には密航船で日本に渡り、早くも翌年には日本統一教会を立ちあげている。このときの庇護者になったのが右翼のドンとも呼ばれた笹川良一である。萩原はいう。「文鮮明の逮捕にともなう密室の取引き以後、統一教会はある強権の意志が強く作用するようになったとみることができるのではないだろうか。1957年から58年といえば、新たな極東情勢の展開にともなって、日韓の国交正常化、日韓の緊密な連携が強く求められており、アメリカは日韓会談を推進していた。崔の日本密航、最初の統一教会の教義の播種も、こうした大きな政策の重要な一コマとしてとらえることが妥当ではないだろうか」13。 日韓基本関係条約は1965年12月に発効した。文鮮明はそれに先立つ同年の1月に10ヶ月に及ぶ世界旅行(第1次世界巡回路程)を始めており、このときにアイゼンハワー元米国大統領との会談を実現させている。その旅の始まりと終わりを結ぶのが日本だった。1月に来日の折には三笠宮崇仁親王をはじめとする皇族とも顔をあわせた14。その後、文鮮明の立ちあげたリトルエンジェルス芸術団の公演に皇室がくりかえし顔を出していることからも、統一教会と皇室との浅からぬ付きあいが伺える。1967年に再来日した折には笹川良一や児玉誉士夫らと会見し、翌年に笹川良一を名誉会長とする国際勝共連合を設立することになるが、このときにはすでに日米韓の右派をつなぐ重要なパイプの一つになっていた。統一教会が日本の信者から膨大な日本円を吸いあげて本格的な経済力をつけはじめるのは1970年代に入ってからのことなので、財力や動員力にものを言わせて政治に食いこんだというより、単なる卑猥な集団が統一教会として反共の立場をかためた1954年以降に右派勢力の政治的なはからいを受けるようになったと考えるべきなのだろう。 統一教会には反共的な世界観に加えて反日的な世界観も持ちあわせていた。送りこまれた武闘派の刺客によって滅多刺しにされることになった副島嘉和の『これが「統一教会」の秘部だ』によれば、統一教会の教義の核には朝鮮民族中心主義がある。そのことが日本語訳では注意深く削除されることになった『原理講論』の原文に示されているという。「古来より東方の国とは、韓国、日本、中国の東洋の三国をいう。ところでそのうちの日本は、代々天照大神を祟拝してきた国として、その上全体主義国家として再興期に当っており、かつての韓国のキリスト教を苛酷に迫害した国であった。そして中国は共産化した国であるため、この両国はいずれもサタン側の国家である。したがって端的にいって、イエスが再臨される東方のその国とはまさに韓国である……イエスが韓国に再臨されるならば、韓民族は第三イスラエル選民となるのである」15。文鮮明はサタン国である日本を愛する、という。だから、日本はそれ以上に文鮮明を愛さなければならないとも。文鮮明の発言録である『天聖教』には次の発言がある。 エバが堕落するとき、アダムを誘惑したのと同じように、必ずサタン側エバ国家がアダム国家を強制的にのみ込んで四十年間、四数蕩減路程を通過するようにするというのです。これが何かと言えば、四十年間韓国が日本に圧制を強いられたことです。[…]韓半島は何かといえば、男でいえば生殖器です。半島です。[…]生島国は女性の陰部と同じです。[…]日本が1978年から世界的な経済大国として登場したのは、エバ国家として選ばれたので[…]日本はすべての物質を収拾して、本然の夫であるアダム国家である韓国の前に捧げなければならないのです。16 文鮮明はここで、神=男=韓国とサタン=女=日本の対立軸を描きつつ、二つの地域を神話的なパースペクティブのなか、摂理の物語のなかに配置する。この物語のなかに通奏低音として流れるモチーフのひとつが「恨ハン」である。古田富建の『「恨」と統一教』によれば「『恨』は、古くは巫俗の用語として、『死者のやるせない思いややり残したこと』という意味で使われ、『恨プリ[恨解き]』は鎮魂儀礼の一つであった」17という。フランス語では「ressentiment」とでも訳せるかもしれない。日本語の「遺恨」や「根に持つ」という言い方にも通じるものがある。古田の議論のなかで参照されている文鮮明の発言を孫引きする。 韓民族は悲運の歴史を綴ってきた恨の民族です。韓国は長い間貧しく、周辺強大国の非常に強い勢力の狭間で侵略と蔑みを受けなければならない運命の道を免れることができませんでした。漢族と満州族、蒙古族、そして日本に対してそうでした。外勢の侵略を受ける度ごとに、数多くの人々が血の涙を流し、恥辱の痛みを受けました。そうする中でも、この民族は決して天を捨てませんでした。国家の運命と共に、自分たちの悲惨な時代的運命を宿命のように感じながら、天を仰ぎ精誠と祈祷の祭壇を築いてきた民族です。18 文鮮明によれば、このような歴史的背景ゆえに、韓民族は「神の恨」を理解することができる立場にある。神の恨とは、天使長ルーシェルによってアダムとエバを奪われた父が抱く深い悲しみ、親子の絆を結ぶことのできなかったものの悲しみのことだという。文鮮明は神の恨を恨解きすることをその使命とした。古田は文鮮明の次の発言を引いている。 天にいらっしゃる人類の父は子を亡くされた父母と同じ立場であり、悲しみの恨に覆われていることを私は発見しました。私の人生の目的は神の中にある恨を解いてさしあげる事です。その悲しみの神様を悲しみと苦痛と苦悩から解放して差し上げることが私の生きている目的です。私がしてきたすべての事はそれが宗教活動であれ言論であれ、経済であれ、政治であれ、企業であれ、その全ての動機はそこに出発しているのです。19 文鮮明は歴史の痛みを感知する。「復帰」とはこのとき、過ちの歴史を象徴的にやり直すということでもある。その点、文鮮明のまなざしはつねに過去に注がれている。そして、そのパースペクティブ上にはアダムとエバの神話、イエスの死、極東の歴史が反復する過ちとして配置されている。それらの複数のエピソードは同じ「恨」の物語素を梃子にして共振し増幅しあう。そのように繰りかえされる業に似た恨のことを文鮮明は「怨讐」とも呼ぶ。それは、過ちの痛み、つまり過ぎてしまったもの、過去の痛みでありながら、ある意味では時空間をこえた今の神話的な痛みでもあるのだろう。この痛みこそが、文鮮明という淫教の祖を同時代の極東の闇、とりわけ戦後の列島における同時代的の闇に導いてゆくことになる。 ある意味では、文鮮明は戦後の日本が蓋をしてきたものの痛みを感知することができた、と言うほかないのだと思う。それは戦争の被害者たちの痛み、たとえば、従軍慰安婦たちの痛みである。それができたのは、単に彼が日本帝国の皇民として朝鮮半島に生まれ落ちたという素性の持ち主だからではない。そうではなく、それができたのは、誤解をおそれずにいえば、彼がひとりの現人神だったためではないだろうか。負の現人神のひとりといってもいい。ここでいう神とは、そのためにひとが自身だけなく他者の命や生活をも犠牲にできる存在、という程度の意味だ。戦前の極東には、そのような神がいた。そして神の名において自身や他者の命をも奪う魔法の力をもった「神の子」たちがいた。けれども、突然、梯子が外されるようにして、神は人間になってしまわれたのだった。神の子たちは父をその死によって失ったというより、見失ってしまった。三島由紀夫の耳にささやいたという英霊の恨の聲がこだまする。などてすめろぎは人間となりたまひし。──なぜ天皇は人間となってしまわれたのか。陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。……もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。 現人神が戦後に人間として落ち延びることになったのは、合衆国の意向による。エドウィン・ライシャワーが1942年の『対日政策に関する覚書』のなかで「天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存する」20べきだと進言していることからもわかるとおり、共産主義陣営との戦いの前線を守る要として天皇家ほど有用なものはなかった。しかし、敗戦国の国民の象徴である以上、現人神であることは許されなかった。戦時中に神の名においてなされてきたおびただしい数の過ちがあった。もし仮にそれらの過ちにむきあうことが可能なのだとしたら、それができるのは神をおいてほかにいない。しかし、神は神として死ぬのではなく、捕縛され、ネイティブ・アメリカンの撮影を得意とするカーティスの手による写真に収められ、人間へと転身させられた。なぜ天皇陛下は生き恥をさらしてしまわれたのか。これは晩年の三島が問題にしていたことでもある。腹を切る前に「本当は宮中で天皇を殺したい」21とつぶやいていた。三島の自害については、次のように考えるひともいる。 「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。戦後日本は昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。だから『英霊の聲』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。22 戦後の列島にもはや神の国がないことを三島は嘆く。そして「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」のみが残るという。中上健次のことばを借りれば、列島は父のいない私生児の状態におかれていた。そんな状況のなか、特に三島の自害した1970年以降、文鮮明という現人神への信仰がひとつの感染症のように列島に拡がってゆくことになる。文字通り父を幼くして失っていた僕の生みの親のふたりが人生の身売りをすることになるのもちょうどそのときのことだった。三島も統一教会の狂信的な信者にさえなっていれば、あのようなパフォーマンスをせずに済んだかもしれない、ともいまになって思う。 1945年までの極東には、紛れもなく、父なる現人神を中心とする八紘一宇の世界があった。「一宇」とは「一つの大きな家」という意味である。そう考えてみると、これを統一教会風に言いかえたものが「天一国」だったのではないか、という疑念が湧く。別の言葉をつかえば、文鮮明が金百文の模倣者であったのとの同じように、統一運動とは八紘一宇の一つの反復であり、戦後の日本が勝手に蓋をしてしまった極東の戦争を継続させる強い意志だったのではないか、という疑惑である。それを示唆するものはいくつもある。たとえば、統一教会の旧ロゴ。日の神の支配を図案化した旭日旗にきわめて似ている。旭日旗の光をさらに大きな神の力で封じ込めているようにも見える。あるいは、万歳三唱。列島では大日本帝国憲法発布の日より広まったと言われている。脈々と受け継がれる血の正当性を讃えるものだ。戦後に廃れたこの風習はいまでも統一教会に残されている。あるいは、統一教会の草創期に賛美歌、「六千年の恨みがある、戦いの国、勝利の月桂樹を捜し求めて──」23といった内容の『復帰の楽園』が軍艦行進曲のメロディで歌われていた、ということも示唆的である。それをはじめて耳にした元無期懲役囚の金徳振が「世界を統一する生き神様というのに、われわれ朝鮮人の仇である日本の国の、しかも最も軍国主義を代表する”軍艦マーチ”で、自作の賛美歌を歌うとは何ごとですか? こんな愚かなことがどこにあるのですか? なぜあなたが再臨メシアなのですか?」24と問いつめると、文鮮明は顔を赤くして作曲の依頼をしてきたという。このようなささやかなエピソードからも文鮮明が帝国の皇民だったときの25年間の記憶、八紘一宇の記憶の重みが伺い知れる。 天皇というものがそもそも七世紀の極東の国際情勢のなかで生まれた模倣者であったのと同じように、帝国解体後の神なき時代のなかで文鮮明もひとりの模倣者として極東の新しい王になることを夢見ていたのだろう。その野心は1965年に来日して早々明治神宮を統一教会の聖地に定めるという天皇家への挑発ともとれる挙に出ていることにもあらわれている。さらに、日本統一教会の会長だった久保木修己に天皇の役を演じさせ、天皇に代わって跪拝させていた25ということからも明らかである。また、統一教会の教義の核に混淫(血代交換)がある以上、天皇家との混淫も視野に入れていたのは間違いない。 このような野心を持った元皇民、負の現人神とでもいうべき教祖が、朝鮮戦争後に日米韓の右派勢力を結ぶパイプとして機能するようになった。一面においては、天皇が列島の共産主義を封じるための魔除けとして米国に操られたのと同じように、文鮮明という現人神も冷戦の最前線である半島の共産主義を駆逐するための駒に過ぎなかった、という見方もできる。その一方において、性病を思わせる文鮮明の聖/性なる浸透力からは、政治的な思惑を超えた大きなものの働き、戦後の極東の死角という死角からにじみ出る闇の力の存在を感じずにはいられない。ひとつの帝国が武力によってある地域を飲みこむとき、帝国は同時に文化的な侵入を被ることになる。文鮮明という負の現人神が大日本帝国の落し子であるのだとしたら、戦後に神を見失った日本はその落し子の列島への回帰に見舞われ、免疫のないものたちが感染してゆくことになる。あるいはむしろ、病に感染してしまうのはまさに現人神の物語を感知してしまう素地が帝国によって用意されていたからなのだと言ったほうがいいのかもしれない。 負の現人神が吹きこんだのは「恨解き」の物語だった。恨の感情を朝鮮特有のものだという見方もあるけれども、そのように考えるのなら、物語の感染力や人間が持つ共感の力を見誤ることになる。たしかに、僕の生みの親をはじめとする物語の感染者たちは、戦時中に神の名のもとに犠牲になってきた人々の痛み、その恨を感知するだけの機会も想像力もなかったのかもしれない。けれども、負の現人神がそれをきわめて間接的な形で可能にした、と考えることはできないだろうか。物語の呼び声を聴きとるのに、想像力は必要ではない。ただ、痛覚だけがあればいい。そして、痛覚はきっと、生きとし生けるものの持つ力だ。ひとは、自分たちの預かりしらない形で、恨の物語に染まってしまう。そして、それを自分自身の物語として引き受け、恨を解こうとする。その点、文鮮明の使命は、所与の恨を解く、というところにあるのではなく、第一に、恨を感染させる、というところにあったのかもしれない。文鮮明には聖/性なる力によって数多の人々を惑わす血分けの天賦の才があったように、ひとびとに痛み分けをするという魔法の力が備わってもいたのだろう。そのため、きわめて逆説的かつ皮肉な帰結であると言うほかないけれども、統一教会は「理想の家庭」を築くことを目標にしておきながら、第一に恨に満ちた家族を現出させることになる。そのような負の現実の存在によってこそ、恨解きの物語はいっそうの輝きを放つ。このことは、文鮮明の家庭を筆頭に多くの信者の家庭が崩壊しているということからも裏付けられる。このような不遇はもちろん、本人たちが望んできたことを正反対に裏切る形になっている。さらに、文鮮明は日本の信者に植えつけた恨を韓国ウォンや米国ドルに変換するという錬金術までやってのける。けれども、一面においては、このような「怨讐」の帰結は、戦後という時代にひそむ大きな意志としか言うほかないものが望んできたことなのだとしたらどうだろう。そう考えると、ただただ苦しくなる。 文鮮明は、大日本帝国によって生み出された存在である慰安婦たちの恨を思えば、サタン国家である日本の女性は韓国の乞食との「祝福」を受けてもありがたいと思わなければならない、という旨の発言をしたという。実際、多くの日本の女性信者が職も学も信仰もない韓国の孤児のもとに嫁がされ、そこで言語を絶する経験をしている。統一教会はそのような苦しみこそ六千年の歴史の業が招いたものであり、文鮮明への愛によって克服をするためにあるものなのだと吹きこむ。ひとりのひとの尊厳、その子どもたちの尊厳をもこのようなかたちで踏みにじることしかできない教団には、腹も頭も心も体中のすべてが煮えくり返るような深い怒りと憎しみしか湧いてこない。その一方で、このような負の権化のような集団が実際に存在してしまい、その物語に引きよせられてしまう人々がいるという時代の重み、すでに終わったかのように見えていまだに終わらずにいた戦後の重み、神の名によって亡きものにされてきた死者たちの重みを前にして、どんな言葉を紡ぐことができるのか不透明になり、体の奥底から震えはじめる自分がいる。 ただただ、負の現人神の精力、神の子であるこの僕にとっては真の御父様と呼ぶほかないものの精力と、その無節操に、とまどう。「復帰」という名でなされてきた文鮮明の猥褻行為について、朴正華は次のように振りかえっている。「神様であるはずの文鮮明は、おいしい餌を前に舌なめずりをする犬のようになり、むさぼるようにセックスをしただけである。ただの性欲の固まりだった。事実、文鮮明は精力絶倫で、『ひと晩に十回やったこともある』という。本妻だった崔先吉の話だから、これは間違いない」26。ここで列島に目をむければ、いっときは現人神でもいらした昭和天皇は側室をお持ちにならなかったとされている。おそらく平成天皇や今上天皇におかれてもそのようなことはないのだろう。これは近代的な家族と性愛のパラダイムのなかに天皇家も置かれているためだけれども、それゆえに万世一系と呼ばれる血筋の先行きは暗い。人間宣言以降の天皇家の繁殖能力は、ちょうど現代の日本国を象徴するかたちで、圧倒的に低い。それに比べ、負の現人神である文鮮明の際限のない性欲とその聖/性なる感染力には、性と政治が不離のかたちであった王朝時代を想起させるような懐かしさがある。 文鮮明は2012年に92歳で大往生を遂げた。統一教会はこれからゆっくりとした内部崩壊の道をたどることになる。ある意味では、統一運動は、戦後の極東を一過性の悪夢のように悩ませた流行り病にすぎないものだった。その病によって産みだされた神の子たちは、ふたたび神なき時代を生きることになる。しかし、あれほどまでに卑猥だった真の御父様の血、淫乱の血、乱れた化け物の血がその体に流れていることを否定することはできない。否定すればするほど、存在感は強まる。かといって、素通りすることもできない。ただ、むきあうしかない。そのとききっと、時代との不協和によって、その穢れなき神の血に流れる痛みによって、自殺に走ったり犯罪に手を染めたりする神の子らがこれからもあらわれてくるに違いないし、僕自身もいつかそのうちのひとりに数えられることもあるかもしれない。けれども、そのなかで世界はすこしずつ浄められてゆくような気がする。死がことばににぎわいを与え、ことばをゆたかにする。ことばは血を吸い、かがやきと生気にみちて幸わってゆく。この僕の体がやがて確実に滅びるのと同じように、世界は少しずつ浄められながら滅んでゆく。 真の御父様がその精力を徐々に失いながら衰弱死をなさったのは残念なことだった。できれば、イエス・キリストのように性の盛りの絶頂で滅ばされればよかったと悔やまれる。けれどもこの世界はきっと、神の世であることにもまして、なにより人の世なのだ。中上健次が言っていたように、ひとつの果実が徐々に熟しながら腐ってゆくように、破滅は微量ずつおとずれる。そして、血の滴りのひとつひとつに痛みを感じとることができることに神の子と人の子の違いは何ひとつない。 萩原 1991, p.45 ↩︎ ibid. p.45 ↩︎ ibid. p.54 ↩︎ ibid. p.64 ↩︎ ibid. p.65 ↩︎ ibid. p.69 ↩︎...

25 Jul 2022 · のなみゆきひこ

死の余波に湧くありがたさ

7月7日は二つのかけはなれた境遇の星が急接近する日であると言われている。同時に、天への祈りをささげる日でもある。ひとりのひとの命が血祭りにあげられたのはその翌日のことだった。その余波の広がりを見まもりつづけた二週間のあいだ、ことばを失ったまま、ひとりでにじぶんの輪郭がぼやけるほどはげしく震えていた。神の子のひとりとして生まれてしまってからというもの、じぶんの血はこの世の罪の穢れから守られたものなのだと耳元でささやかれつづけてきた。その血のことただただ醜く不潔に思い、生きていることを苦痛に思った。それがいまも体中をめぐっている。自分はいったい何に震えているのだろう。 そう思いながら夏の朝の光のなかでちいさな動揺をたどってゆくと、深い感謝のきもちとしか言いようのないものが、こんこんとこみあげているのに気づく。そのきもちは、特定の人、事件の加害者や被害者にむかっているわけではない。自分のなかでどろどろしつづけてきたものを浄めるようにとめどなく流れ、生きることを励ましてくれているように感じる。断固としてゆるしがたい殺人事件の余波がここまでひとに生きる勇気を与えてしまうということ、そのあまりにも不謹慎な実感をじぶんはいまだにどう受け止めていいのかわからない。 事件の前後では、このちいさなじぶんの世界のありかたが大きく変わってしまった。肉を食い破る鉄砲豆のような穴がこの世界にあいてしまって、そこから浄とも不浄ともつかないなにかが生きているものの側のほうへ吹きだしている。それがひとをやさしく、うつくしくしてくれているのだった。もっといえば、ひとを傷つけながら生かすことで、この世界にみちている痛みをすこしでも感じとれるようにしてくれているのだった。 フランス語には「sensibilité」という語がある。日本語では「感受性」とか「思いやり」と訳されたりする。とはいえ、もうすこしよく考えると、もともと「sensible」という形容詞には「感受性が強い / 思いやりがある」ということのほかにも「痛みや苦痛に敏感である」という意味がある。その文字を目で追いながら、自分の瞳の表面が鋭利な力によって深く切り裂かれてゆくところを思う。開いた傷口が、痛む。しかし傷そのものが痛みなのではなくて、傷が痛みを感知させる。フランス語の「sensibilisation」という言葉は日常的には「人の関心を喚起する」という啓蒙的な意味で使われているけれども、もとをたどればそれは第一に、傷を開く、ということだったのかもしれない。 じぶんがまだこうして痛みを感じられる存在、痛覚を奪われた死者にならずにいられることがうれしい。この世界には痛みとして感知できないものがあまりにも多く満ちている。世界は基本的に、不感症なのだろう。ちょうど自分の体に開く穴という穴、口や鼻、肛門といったものによってしか感受できないものがあるように、世界はつねにむき出しになって痛みに絶え続けているわけにはいかない。けれども、折に触れて、不意打ちのように、激しい痛みがおとずれることがある。このちいさな世界が7月8日以来の余波のなかでそれを感知しているのを目の当たりにして、ただありがたさとしか表現しようのないものが募る。そんななか、これまで言いしれない憎しみを抱えてきた神の子のひとりとして、それをただ、あまりにもむごいことのようにも思う。

22 Jul 2022 · のなみゆきひこ

濁る川の畔、星々の沈黙

2022年7月8日(金)11時31分頃に起きたのだという。状況如何では前日の岡山市での遊説の際に決行されていた。7月7日。天に願いを託す日、二つのかけ離れた星がもっとも接近するという伝説を祝い寿ぐ日でもあった。それらの星がその後決定的にすれ違うのか、あるいはたがいに引き下がってゆくのかは知らない。一方は、あるグループに家族や人生を破壊されてしまったという。もう一方は、そのグループに祖父の代からすり寄り権力をほしいままにしてきた。その二人が奈良市の交差点で五メートルの距離にまで接近した。取りだされた手製の火器から発射された豆粒のような鉄の玉がその距離を埋め肉を食い破り血管を裂き血を吹かせた。山上さんの人生が安倍さんの人生に鋭く交差した瞬間のことだった。 そのとき自分はブルターニュの外れにある家の一室でこんこんと眠っていたのだった。7月7日の夜遅くにたどり着いたとき、一階のキッチンの照明に甘い香りのする粘着テープが吊りさげられているのが目にとまった。螺旋階段のように渦を巻いている。そこに何匹もの蝿がへばりつき息絶えていた。ちょうど天上の光を目指し悶えているようにも見える。照明を落とすと、窓の外だけが明るい。夜空はおびただしい星々の輝きに満ちていた。そのうちの豆粒のような二つ、天の川のほとりにたたずむ二つの星は、地球の裏側では織姫や彦星といった名で呼ばれている。それをまるでひとつの秘めごとのように知っているのは、その家のなかでただ私ひとりだけなのだった。 翌朝になり、事件がフランス中に知れ渡ることになったときも、自分は口を噤んでいることしできなかった。「特定の団体に恨みがあり犯行に及んだ」という文言があった。そのことにただ不快なまでに胸をかき乱されていた。その日に顔をあわせたひとにはみな、事件のことをたずねられた。なぜなのか、と顔を曇らせていう。わからない。政治的な理由ではなく、個人的な理由によるらしい、とだけしか答えられなかった。その翌日には統一協会への恨みによるものだということが報じられるようになった。なぜおまえはそんなに平然としているのか、とも問われた。かけがえのない命が失われた、しかもおまえの国のリーダーの命が失われたというのに、残念ではないのか、と神妙な顔で、蝿の螺旋階段を挟んでいう。そこでも答えに窮してしまった。言うまでもなく、あまりにもいたましい事件だった。山上さんである自分自身、安倍さんである自分自身を思うと、ひそかに震えている自分に気づき、その震えのもとをたどってゆくとその先に暗く血なまぐさいものがとくとくと流れているのがいやおうなくみえ呻きたくなる。 いかなる理由であれ人を殺すのは許しがたい、殺人を肯定的に語ってはならない、というような発言を見かけた。殺人も戦争も絶対的に悪である、と考える人はきっとそう少なくないのだろう。自分もそのように考えている。そして、そのような自分自身の想像力の欠如に、ただただ絶望感しか湧いてこない。自分自身は、圧倒的に、生きている者の側にいる。法を遵守する者の側にいる。そのような自分の感じる「許しがたさ」や「憤り」は、絶望的なまでに気安い。 ひとのやさしさ、安倍さんのやさしさ、ひいては山上さんのやさしさ、いのちのやわらかさと、たましいのもろさに、胸はりさける思いがする。それは自分もまた穢のない血をもつという「神の子」として生まれてきたひとり、言いようもなく激しい怒りを腹の底に相口のように忍ばせてきたひとり、安酒のような香りに誘われて天国への階段にへばりついた蝿のような両親のもとに生まれてきたひとりでもあったはずだからだ。 夜更けに見上げた空に輝くおびただしい星々のひとつひとつ、安倍さんを食い破ってできた弾痕のようなひとつひとつ。それら光の滴りのことごとくが不潔だったし天の川も濁っていた。日は新たに昇り、空は掃き清められるのだとしても、またそれと同じ数だけ空がふたたび穢されてゆく。そのはるか下の世界のかたすみ、やさしさを貫く針の痛みの刺す世界のかたすみ、日に日に清められてゆく世界のかたすみの川の畔で、自分は言葉の感性を研ぎ澄ませてゆくことしかできない。

15 Jul 2022 · のなみゆきひこ

鳥には歌を、人にはパラグライダーか長編小説を

晴れた日にアルプスをふらふらしていると、パラグライダーのたゆたうのを見かけることがある。山道に息をつきながら空を見あげると、なにかの暗示めいた暗い影が音もなく中空を滑ってゆく。その姿に見とれて立ち尽くす、というようなことが幾度ともなくあったのだった。そんな自分もつい最近になって、オート=サヴォワ県のSamoënsという村でパラグライダーに乗せてもらえることになった。想像していたよりもはるか手軽にできることに驚く。着地も羽根がクッションの上に舞い落ちるみたいにかろやかだった。同伴者付きの20分に満たない滑空だったけれど、このような機会がおとずれることは二度とないだろうから、思ったことを書き残しておきたい。 速度という点と位置という点から、パラグライダーは長編小説に喩えることができるような気がする。山の坂道から見あげたときには思ってもみないことなのだった。身を持って経験してみると、書くことや読むことに奇妙なほど似ていることに気づき、こわくなり、頭が真っ白になる。その空白のただなかに、名前の知らない猛禽がただよっていた。鳥は空を飛ぶ天才なのです、と同行者はいう。たしかにそうなのかもしれなかった。 まずは、速度という点について考えてみる。パラグライダーは、いきなり屈伸して飛びあがったりはしない。重力を組みふせるだけの力はない。しかし、重力に抗わないことを通して空を飛ぶこともできる。坂道を駆けおりるなかで浮上し地に足がつかなくなる、というところからパラグライダーははじまる。気づけば宙を蹴っている。この出だしからして長編小説の感がある。ほかの文芸の形式とはちょっと違う。たとえば俳句の場合は、音とも言ともつかないものが唐突に湧いたり降ったりしてくることがある。日本語が日本語として立ち現れるのに先んじて、言葉の速度を超えた何かが働いている。その点、雷をはじめとする天変地異に近いものがあるような。あるいは、ショートストーリーにしても、冒頭からゴキブリみたいなのになっていたりしないといけない。すでに何かが起こってしまっている。というのも、何かを本当に引き起こすのには、ショートストーリーの紙幅では足りない。だから基本的には、そこに速度の問題はないのかもしれない。他方、典型的な長編小説が何かを引き起こすための自転運動をはじめるには、ある種の助走が要る。高度や風向きに似たものも。さまざまな条件が整ったところで、気づけば地に足がつかなくなっている。 この「気づけば」というのは、天地は切り離されているのではなくたがいの延長線上にしかない、ということでもある。当たり前のことだけれど、両足が地面にくっついてしまっているがゆえに、それまでこのことに気づかずにいたのだった。またそれゆえに、高所恐怖症の自分はめまいを感じてしまう。足裏は地面を感知し、接地面の均衡を感知している。高所でその均衡に過敏になった状態で重心が崩れかけると、めまいが起きる。逆にいえば、どれほどの高所にいても、足が地面から切り離されてさえいれば、めまいは起きない。ただ、天地のつながりのただなかに置かれているのを感じる。ちょうど崖を踏み越えてなお歩いていられた古いアニメーションの登場人物たちのように。もちろん彼らの場合は、気づいた途端に、垂直落下するか、空を漕いで元の場所に戻ることになるのだけど。パラグライダーがあれば、落ちない。かといって、重力に抗うとも違う。むしろ重力になびき、従う。自分が乗せてもらったものの速度は時速30キロほどで、一般的な歩行速度の六倍ほどになる。にもかかわらず、山肌を駆け下りたときと同じ速度、その延長線上のなかで地表にむかっている、という感じがした。吹きつけてくる風の強さによってのみ辛うじて変化を感じとれる。飛行機のなかの無風状態では時速800キロと80キロの差を感知することができないのと同じように、パラグライダーにおいても、速度は慣性のなかにある。 この速度感が長編小説に似ていると思ったのだった。もちろん、長編小説が展開速度に緩急をつけられるようにパラグライダーも時速を変えることができる。カーブをすることによって加速する。それでも、地→天→地と移行するなかでの速度に断絶はない。つまり、あくまで同質の時間軸を進んでいる(俳句には多分、そういうのを踏み越えたり捻じ曲げたりする力がある)。そして、このような速度感は、どうやら視差効果とも関係があるらしい。高度を上げきった飛行機の窓の外の景色に大した躍動感がないのと同じように、パラグライダーの眼前に広がる景色と自分自身は緩慢に動きながらずれてゆく。そのずれに気づいたとき、さらには地に足がついたときには、風景が不可逆的な形で変質してしまっている。長編小説においても、こういう自身を取り巻くものの大きな変化は不可視の形で起こる。人間的な距離のなかで身近に動くものとの視差を感じ、変化の速度を感じとることはできるけど、世界全体の変容までは感知できない。世界から取り残されている、という感さえある。そういう孤独感を突き詰めてゆくと、源氏物語のようなものが生まれるのだろうか。 それから、位置という点から思ったことも書いておきたい。鳥やパラグライダーが夜に飛ばないこと、あるいは渡り鳥たちが朝や夕方の時間帯を選んで移動をすることには、気象学的な理由がある。気流は気温(気圧)の差によって生じる。水平方向のものは風と呼ばれ、垂直方向で天にむかうものは上昇気流と呼ばれているけれど、一日のうちでこれらの気流が生じやすいのは、日の出と日の入りのときだ。日なたは暑くて日陰は寒い。そのずれから風が立つ。鳥はその風の出自を探りあてるすべを心得ている。だからパラグライダー乗りの人たちは鳥の動きをよく追うという。あるいは、目視によって日なたと日陰のあわいに向かう。「あわい」といっても、光と影のコントラストは高ければ高いほうがいいようだ。そういうところが上昇気流の入り口になっていて、そこから螺旋状に舞いあがることができる。うまくいけば日の出から日の入りまでずっと空に留まっていることもできるということだった。 この話を聞いたときにも長編小説のことを思わずにはいられなかった。フランス語では長編小説が新たな展開をむかえること、起承転結でいうところの承や転のことをrebondissementといったりするけれども、これを直訳すれば「弾み」ということになる。ボールが地面にあたって弾む。パラグライダーの醍醐味の一つも上昇気流にぶつかり弾むことにある。そして、長編小説においても、異なる力が衝突し、ずれてゆくなかから何かが立ちあがったりする。そういう場所を見つけることができないと、なし崩し的に軟着陸してしまう。ショートストーリーの場合は、はじめの立ちあがりの慣性のなかで書き切ることもできるかもしれない。しかし、長編小説の場合は、何度かの切り返しによって浮力を保っていないと、風景全体を変質させるだけの位置エネルギーを持つことはできない。このような動きは、空を「飛ぶ」というより「跳ぶ」や「翔ぶ」とでもいうべきか。慣性で宙に浮かびながら、どこかでなにかを蹴りあげるすべが必要になってくるのだろう。 こんなふうに、パラグライダーを通して長編小説のことを考えるうちに、これを書いている自分自身、天地の見境がつかなくなってくるのだった。天地はたがいの延長線上にしかない。山を歩いているとふと空を歩いていることに気づくことがあるのもきっとそのためなのだろう。それでも、地に足はついている。鳥と違い、人間はめまいを起こしてしまう。たぶん、鳥は長編小説を書くことができない。歌はうたえるかもしれない。でも、長編小説は、書けたとしても、書かないと思う。書く必要もない。人間は、書かなければいけない。詐術が必要なのだ。おそらくは、本当は空を飛んでいるはずなのに地に足がついているという不思議のために。 The power of a country road is different when one is walking along it from when one is flying over it by airplane. In the same way, the power of a text is different when it is read from when it is copied out. The airplane passenger sees only how the road pushes through the landscape, how it unfolds according to the same laws as the terrain surrounding it....

27 Jun 2022 · のなみゆきひこ

卵刈り空青ざめる

はとのことが生まれつき好きだった。幼年を過ごした名古屋市昭和区の2Kのコーポでははとがよくベランダに降りたった。赤ん坊の私はその姿を見るたびに並々ならない興味を示したらしい。生まれてはじめて口にしたことばが「ぽっぽ(ぽおぽ?)」だったという。パパでもママでもない。生粋のはと好き、はとっ子だった。そんな自分は、はとのことをハトとカタカナで書くのに抵抗がある。イヌやネコのような動物としての概念を話すならたぶんハトと書く。けれども、ひらがなに開かれた「はと」がいちばんしっくりくる。読みにくいとは思うけれど。ふくよかで不潔な感じがよく出ている。 あの不潔感は人間との距離感から来ているのかな、と思うことがある。そこはかとない近しさを感じ、それと同時にそこはかとない嫌悪感を抱いてしまう。そういうところをくるめて好きだった。高校に行かずに詩を書いてばかりいたときには公園で弁当を食べながらはとへのささやかな讃歌を書いた。いまでも生まれ変わったらはとになりたいと思う。ただ、欲をいえば、ドバトではなく、モリバトになりたい。 私の暮らすストラスブールの町にはその二種類がいるのだった。フランス語ではPigeon bisetとPigeon ramierになるのかな。後者のはと、つまりモリバトには、ドバトのようなずうずうしさがない。人間のおこぼれによりかかるようなライフスタイルではなく、自分たちでつつしみのある暮らしを守ろうとする。首を前後させながらよちよち歩み寄ってくるということもなく、日中はしずかに梢から梢を渡り歩いている。巣作りも街路樹の上でする。きっとひとつひとつの木に縄張りの網の目があるのだろう。ドバトには踏みいることのできない世界なのだった。 ドバトの暮らしは人間に似ている。特にみさかいもなくコロニーを作ってしまうところが人間的だ。二つの世界はゆるく重なりあっている。ドバト特有の厚かましさや何の気のなさのなせるわざなのか、道を歩いていてもふりかえればはとがいる、ということが往々にしてあるような。かくいう私もマンション暮らしのなかで日常的にドバトとの共存を強いられているのだった。フランスでは一般的にマンション暮らしのことをよく思う人は少ない。マンションを指す一般名詞のTour(タワー)という言い方には侮りがこもっている。アジアではよくあるようなコロニーのせせこましさからフランス人は貧しさを嗅ぎとってしまうのかもしれなかった。 たしかに住宅地の一角での私自身の暮らしにも心細くなるようなつましさしかない。ベランダに出るとむかい側にもよく似たタワーが立っている。まっすぐに切りそろえられたその屋上にドバトたちの一群が横並びにとまっている。ちょうどそれと同じような光景が、私自身の真上、私自身のタワーの屋上でも広がっているのを知っている。目視はできないけれど、音でわかるのだった。ぐううるる、ぐううるる、とドバトが鳩胸をふくらませて鳴くのが聞こえてくる。モリバトが木々を渡り歩くように、ドバトはマンションの屋上をモモンガを思わせる動きで行き来している。縄張り争いのためなのだろうか、一点張りの五月鳩さで低くうなりつづける、ということが毎日のように繰りかえされている。人間からすれば、たがいによそ者同士の分際でなにを、である。けれども、よく考えてみたら、このタワーの持ち主、地球の一角にあるこの空間の持ち主は自分たちである、と思いこむのがそもそもの誤りなのかもしれなかった。 ドバトたちは、人間の生活の虚を突くようにして、たびたびベランダに降りてくる。ドバトには生きる才覚がある。世界の間隙を忍耐強くうかがいその隙間に存在の活路を見出すことができる。勇気がある、ということなのかな。それを愚かだとは言いたくない。私のアパルトマンの北側と西側にある二つのベランダにも何度となく降りたっては巣作りをこころみてきた。長くなるので書けないけれど、そのたびに様々な工夫をこらさなくてはいけない羽目になり、たいていそれがイタチゴッコ化することになったのだった。 卵はすでに三度も産みつけられていた。一度目はウクライナでの戦争がはじまり、首都が包囲されたころのことだった。北のベランダの片隅に申し訳程度に二、三の枝が置かれていたことがあり、それだけならと油断した。その翌朝には、そこに卵があった。虚を突くように白かった。それがただ、世界に紛れこみ孵化までの時間をやり過ごすのにふさわしいような灰色だったのならよかった。その装われた何気なさに苦笑いをしながらいまいましく思うこともできた。けれども、この世界にすでに存在して生を営んでしまっている親たちの姿かたちとは対照的に、卵そのものにはすこしも不潔感がないのだった。ただただ白かった。「しろい」とはもともと著しい、つまり際立っている、という意味だけれど、ドバトの卵はなぜ、そんなにも目立つ色をしているのだろう、とふしぎに思った。そう思いながら、それをつまみ上げ、ゴミ箱に捨てた。 五月は卵刈りの季節なのだった。このフランスのかたすみの町にも五月晴れがある。雨がちな日本と違い、ストラスブールの夏は大波の押しよせるように深まってゆく。ただただゆるやかな迷いのない線が伸び、大きな台地の広がりような夏の盛りを迎える。それにつれて、空が青ざめてゆくのが分かる。白昼にさえ、宇宙の星々の輝きをその深まりのなかで感じとることができる。はとの白い卵たち。青ざめた空の下でつぎつぎと孵化しては飛び立ってゆくやわらかなものたちがいる。その一方で、飛びたてずに潰える無数の魂もある。 今朝も西のベランダの鎧戸をあけたら、それに驚いたはとが飛びたっていった。ズッキーニを植えたプランターの中にうずくまって五月のなまぬるい一夜を過ごしたのだろう。葉陰に白い卵があった。触れると、あたたたかった。そのぬくもりを感じとることのできる人間の指先。鋭く走る痛みを感じとることもできるその指先。その指先にあるやわらかな魂の震えが痛ましく、その痛ましさから一日をはじめなければならないこと、自分がはとではなく人間であること、空の深まりにむけて羽ばたくことさえできないのが苦痛でならなかった。

13 May 2022 · のなみゆきひこ

話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか

リズムという観点から話法と文体について思うところがあったので覚書を残しておきたい(本来なら章立てをした上でそれにふさわしい展開速度とリズムで論じるべきものだけれど、メモとして必要なことを書きつらねただけなので多分、読みにくい)。 ここでいうリズム、話法、文体とはなんだろうか。英語では話法のことも文体のことも style という。たとえば直接話法のことは direct style といい、文語体のことは written style という。両者とも「語りの様式」であるという点では同じだが、話法は文法的に基礎づけられた物語論の概念であるのに対して、文体は文学や文体論の範疇にある。両者の区別に関してはすでに様々な議論がなされてきている。一方、ここでいうリズムは、やや特殊な意味で用いられている。後に述べるように、音の規則的な連なりのことではなく、論理的な意味の連なりのことである。話法はリズムの問題に直接的に関与しない一方、文体にはそれぞれリズムがある。このとき、間接的な形であれ、話法は文体のリズムにどのような影響を与えるか、というのが、ここで提示したい問いである。 日本語には「語り」と「語りかけ」という二つの異なる話法がある。これは黒田成幸の議論を引きつぐ形で「言文一致体再考」のなかで筆者が提示した概念である。語りとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持たない発話、誰に語りかけるでもない発話のことだ。語りかけとは話し手と聞き手を区別する文法的な指標を持つ発話、誰かに語りかける発話のことである。前述の文章のなかで私が論じたのは、言文一致運動とは「〜た。」という文末表現の定着によって「語り」という話法が可能になるような歴史的過程だった、ということだ。言文一致体とは一つの文体のことであるが、その文体を可能にしたのが「語り」という話法であった、と言うこともできる。 そのかたわらで、日本語にはいわゆる常体(である体)と敬体(ですます体)の区別もあることを指摘しておかなければならない。その呼び方に反して、これらはけっして文体論的は概念ではない。厳密には述語の活用形の問題であり、文法論の範疇に属するものだ。しかし、この二つの活用形は、語りと語りかけという二つの話法を文法的に基礎づける上できわめて重要な役割を果たしている。詳細は前述の文章にゆずり、ここでは議論の簡素化のために、常体によって「語り」が可能になり、敬体によって「語りかけ」が可能になるものとしよう。 言文一致運動のなかで生まれた「語り」は、独自のリズムを持った様々な文体を生みだした。文体論に明るくない筆者には、それがどのようなものなのかを具体的に論じることはできない。ただ、一例を挙げるなら、自然主義文学の到達点として江藤淳が褒めたたえた中上健次の『枯木灘』に見られる文体は典型的な「語り」によって構成されていると言うことができる。「語り」には「語りかけ」にない特徴がある。それは、言語コミュニケーションがそれ自体で完結しており、一つの操作的な閉じであるようなシステムを作っているということだ。これに対して「語りかけ」は操作的に開かれている。 このことを具体的に理解するために「語り」のなかでなされる「問い」と「語りかけ」のなかでなされる「問いかけ(質問)」の違いを考えてみたい。例えば「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という文章は語りであり、問いである。それを「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるの?」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えますか」とか「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるのでしょうか」といえば、語りかけになり、問いかけ(質問)になる。この両者を比較することで日本語話者が直感的に理解できるのは、前者と後者には聞き手からの応答を予期しているかどうかの違いがあるということだ。このとき、前者は操作的に閉じられており、後者は操作的に開かれていると言える。 このような前提に立った上で「話法は文体のリズムにどんな影響を与えるか」という問いを提示したい。(残念ながら)筆者には答えがない。そのためこのテキストそのものは、質問をだれかに投げかけていないという点で操作的には閉じられているが、論理的には完結していない。問いが宙吊りのままだからだ。しかし、この問いをゆくゆく扱ってゆくための道筋をさしあたり一つ示しておきたい。 そもそもここでいうリズムとは何か。リズムといえば一般には、音韻論的な意味での韻律のことであり、拍や音節の問題に直接的に関わるものとして理解される。しかしここでは、論理的な意味の連なりのあり方としてのリズムというものを考えたい。たとえば「筆が乗る」という言い方がある。辞書には「作家や書家などが調子よく書くさま」とある。ここでいう「調子」には、たしかに音韻論的な側面もあるが、それだけではない。論理(意味の連なり)に導かれる形でことばが展開するさまも示している。あるいは、ほかの一例としては、会話にもリズムがあるということを指摘できる。「会話が弾む」といえるような状況では、意味の連なりに自然な流れがあると考えられるだろう。ここでは「呼び水」の比喩をとおしてこのことを理解することもできる。水は水を呼びこむことができる。「呼ぶ」という語は、「読む」と同じ語源を持っているという説があるが、なにかを共振させ共鳴させることでこちらに引きつけるという語義がある。このような共鳴の力をことばも持っている。 これは専門的には談話の結束生や結合性の問題系のなかで扱われるべき事柄である。ここでは一例を示しておくにとどまる。たとえば「こんにちは」という語。文字通りに読めば、これは「今日は?」という問いかけである。述語を欠いたまま、とりたて助詞の「は」が浮いている。「今日は〜です」という文を共作し、完結させることを求めるように。そのような論理的な訴求力がことばや言葉遣いにはある。それと同じことがある一つのテキストを構成する一つ一つの文にもいうことができるが、そのような意味の連関のなかで織りなされてゆく秩序のことをリズムとここでは呼びたい。 このような意味でのリズムは文章が語りベースの文体であるか語りかけベースの文体であるかによって大きく異る。というのも、前者は操作的に閉じられているので、聞き手への働きかけをすることもなければ、応答を期待するものでもない。そのため、テキストの内的な論理にのみ従ってことばが展開されてゆく。その一方で、後者は、閉じられた論理を持たない。言文一致運動以前に作られた戯作や落語の語りがその典型として考えられるが、そこではなにかを訴えかけたり、問いかけたりするような語り手の存在感が際立つことになる。悪く言えば、煩い。その煩ささがことばのリズム(論理的な意味の連なり)を不安定にする。 話法の区別は文法的な形の区別(典型的には常体と敬体の区別)に基礎づけられている。そのため、文体の持つリズムへの直接的な影響はない。たとえば、常体で書かかれたテキストの一文一文を機械的に敬体に変換するという操作を行ったのなら、そのときに意味の連なりとしてのリズムの違いを見出すことはできない。しかし、同じ内容の文章をそれぞれ二つの話法によってはじめから書こうと意図した場合はどうだろうか。きっとまったく異なる内容のものができあがるはずだ。なぜなら、一つ一つの文の持っている結束性や結合性、つまり次の文を呼びこむ力が話法により異なるからだ。そして、まさにこの点に、文章の創作のおもしろさの一つがある。 ある人が小説をはじめとするテキスト書きはじめるような場合に語りの話法を選ぶか語りかけの話法を選ぶかということは、日本語において重要な問題でありつづけてきたが、おそらくそれが現代ほど重要な時代はいまだかつてなかったのではないだろうか。インターネットが普及する以前は、だれがだれにあててどんな立場で書くか、ということを多くの小説家が意識せずにすんだ。誰に語りかけるでもない「語り」によってことばを紡いだとしても、読者はそれをまっすぐに小説として受けとめることができた。読者にはそれだけ多くのアテンションを割くことができた。しかし、現代は、読むことの困難の時代である。アテンションを呼ぶこと(call attention)の困難の時代でもあると言ってもいい。言語学的には、このことを談話の結合性の問題の一つとしてとらえることもできるが、それを広げれば、意味のあるテキスト・コミュニケーションの困難の問題である、と言うこともできるだろう。そんな状況のなかで日本語の話法の選択にとまどいを覚えはじめいる人はきっと少なくないはずだ。

9 May 2022 · のなみゆきひこ

ウィリアム・ミドリが仕掛けたダブル・バインドのなかで

中学生のころに万引をして補導されたことが一度あった。それ以来万引をすることはなくなったけれども、万引をうたがうような目で見られることなら今でもある。その日は、スーパーのレジで背負いかばんのなかを見せるように言われたのだった。それがその店での一応の決まりになっていた。一応、というのは、とくに馴染みの客の場合は顔パスになることが多い。毎日のようにそのような要求をされては客もいい気はしない。客の立ちかわりのはげしい観光地ならまだしも、地元の常連のあつまる小さなスーパーなのだった。 その日はちがった。仕事帰りの昼下がりに買いものをしたとき、二年ほど前から顔見知りだったレジ係の女の要求にしたがい、背負いかばんを開けてみせた。なかに入っていたのはタイガーの水筒とiPad Pro、ケーブルの収納ポーチ、印刷所で受けとってきた四十人分のA3の試験問題の束を二つ折りにしたもの。普段ならそのまま儀礼的な何気なさのなかで商品のスキャンがはじまるはずだった。ところが、わずかに噛みあわない感じがあった。レジ係は目をそらしつつ、 「いちおう、決まりになっているので」 という。レジ係はそのまま商品をスキャンしはじめるだけでよかった。しかし、そこで妙な間があいた。 「店の外にはロッカーもありますよ」 「ええ」 と答えた。なにをいまさら、と思いながら。そんな小さないまさら感のなかで、ウィリアム緑がささやかな口火を切ったのだった。フランス語で書けば William vert。ウィリアムという名はフランス人にはめずらしい。というのも、フランス語ではギヨーム Guillame に変わる。それゆえにこそあえてウィリアムという異国感のある商品名が選ばれたのだろう。南アフリカ産ではあったけれど、そういう名前の梨が売られており、こちらはそれを毎日のように食べていた。ほかにもベルギー産の Conférence という品種やポルトガル産の Rocha もあったが、ぜったいにウィリアム緑しか買わない。緑といっても、ほかに黄色のウィリアムや橙色のウィリアムがあるわけではない。一つの商品名なのだった。クメール・ルージュ Khmer Rouge、つまり「赤いクメール」が一つの固有名詞であり、黒いクメールや青いクメールが存在しないのと同じことだった。 ウィリアム緑は黄緑がかった色をしていた。バナナと同じで、熟れると黄色になる。文字通りに緑色をしたウィリアム緑は食べごろではないので買ってはいけない。その日は、五月にしては珍しく、熟したものがいくつかあった。もっとも黄色がかっているのを四つ選んだ。一日に二個食べてしまったとしても二日連続で食べられる計算だった。まとめて袋に入れ、近くの計量器にそっと載せる。タッチスクリーンを操作してウィリアム緑の文字を見つけて押すとバーコードのシールが出てくる。それを袋に貼った。 レジ係の女はただそれをスキャンするだけでよかった。もちろん、袋のなかの果物とシール上に印刷された商品名が一致していないのであれば、不正が行われている可能性がある。ウィリアム緑はウィリアム緑であって、Conférence や Rocha ではないことをチェックするのもレジ係の仕事だった。そのため、商品をひとめ見ただけでその名前がわからなければいけない。その日、その女は、それができなかった。 「これはウィリアム緑じゃないでしょう」 という。こちらの反応を待たずに「ちょっと」と通りがかりの同僚を呼びとめ、梨の入った袋を差しだしながら目で合図を送った。間違ったバーコードが貼られているので、そちらで正しいものに貼りかえてきてほしい、という意味のものだった。 「でも」と自分は言った。「ウィリアムは一種類しかありませんよ。ウィリアム緑です」 「これが緑色に見えるんですか」 そう真顔で切りかえしてくる。迷いのない目をしていた。返事にこまり、首を横にふった。梨を受けとった店員が慣れた手つきで計量器を操作した。それを遠目に見守ることしかできなかった。新しく貼られたバーコードに「Rocha」と印刷されているのを見たとき、かすかに怒りが沸いた。Rocha はウィリアム緑と違い、もっと赤茶けている。質感ももっとさらさらしている。果物売り場に行って自分の目で確認してくるように言おうとしたとき、さらに別の店員が通りがかった。果物売り場の担当者だった。 「これは Rocha ではないですね。ウィリアムです」 「ウィリアム緑ですか」 「そうです」 それで話がついた。 レジ係の女は納得がいかないようだったが、肩をすくめると、黙って商品のスキャンにとりかかった。その後、会計がすんだとき、やや悪びれた感じで「Bonne soirée」と儀礼的な挨拶をした。そうかと思うと、首をふってため息をつき「Bonne journée」と言いなおした。こちらもそれに「À vous aussi(そちらこそ)」と返して店を出た。疲れていたのかもしれない。肩で息をする感じがあった。午後二時のことだった。 ただそれだけといえばそれだけの事件だった。実際、帰路を急ぐうちにほとんど忘れかけていた。そのことをあらためて思いかえしたのは、帰宅後にウィリアム緑を袋から出して、台所の棚にひとつずつ並べたときのことだった。黄色く熟れているのをまじまじと眺めた。いびつに傾きながらめいめいお辞儀をするようなひっそりとした佇まいをしている。すこしも緑色ではない。それを緑と呼ぶのは、もちろん、嘘なのだった。世にありふれたそんな嘘を見過ごすことができないのは、とても心細いことなのかもしれない。 ウィリアム緑は、いかにも頼りなげだった。ナイーブで、猜疑心をおこすということもない。人種差別もしない。そのいかにもな感じを眺めるうちに食欲が失せて、その日は結局昼ごはんを食べることもなかった。

8 May 2022 · のなみゆきひこ

濱口竜介さんのこと、天皇霊としてのマナとイエスの復活のこと——『偶然と想像』の奇妙な棒読み調をめぐって

私は普段あまり映画を観ることはありません。そのため映像作品について語るための語彙を致命的に欠いているのですが、濱口竜介さんの『偶然と想像』を観る機会があり、深い感銘を受けた、ということがあったので、これを書かずにはいられなくなりました。私の暮らすストラスブールの町でも『Contes du hasard et autres fantaisies』という題で上映されていて、つい先日駆けこみで観ることができたのです。前作の『ドライブ・マイ・カー』と『寝ても覚めても』(これは『Asako I & II』というへんてこな仏題でした)をフランスで観る機会にもすでに恵まれていたのですが、これらの作品を思いかえすうちに濱口さんの試みのかけ金がおぼろげながら見えてきたような気がするのです。今Wikipediaで読んだことくらいしか知らないにわかものの私ですが「語録」の項にある次の発言が目にとまりました。 抑揚を捨て、セリフが身体の中に入り込むまで本読みを繰り返すリハーサル手法は、『ジャン・ルノワールの演技指導』という短編ドキュメンタリーに登場するイタリア式本読みを実践したものです。『ハッピーアワー』以降も、これができる体制をどうつくるかがカギでした。この本読みは、プロの俳優にとってもセリフを新鮮に捉えて、自分のものにしてもらう方法になるといまは感じています。 あの奇妙な棒読み調は一体何のためのものなのだろう、と私も考えずにはいられなかったのですが、ここにそのヒントがあるような気がします。ことばを身体に入りこませる、ということ。ここではこれを「ことばの器になる」と言いかえてみることもできるかもしれません。そこで私が思いおこすのは、折口信夫や中上健次のことです。折口は天皇という存在について深く考えようとした人なのですが、天皇とはようするに「みこともち(御言持ち)」のことなのだと言っているのですね。安藤礼二の『折口信夫論』に詳しいように、天皇は空の器として「天皇霊」という言霊、マナに似た何かがその力を発揮するときの通り道になる、というようなふしぎな考え方をする人でした。それで、なぜこのようなシャーマン的な存在の話をしているのかというと、俳優にもやはりそのような側面があるからです。シャーマンは演技をします。たとえば大川隆法のような現代のシャーマンを思い浮かべてもらってもいいですが、シャーマンは二つの異なる世界をつなぐ通り道なのです。俳優も「この世界」と映像のなかの「むこうの世界」を仲介します。濱口さんがこの点に関心を寄せているということは「語録」の次の発言からも伺いしれるような気がします。 俳優はカメラの前で演技している。それは演技する俳優のドキュメンタリーでもある。1回限りの何かをその都度やっている。 おそらく、カメラが複数の世界を同時に捉えている、という意識が濱口さんにはあるのではないでしょうか。登場人物の生きるフィクション世界と俳優の生きるドキュメンタリーの世界です。この二つの世界はつねに重なりあい、侵食しあっています。卑近な例をあげれば『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観る私たちは、ジャック・スパロウという登場人物のなかにジョニー・デップという俳優を受けとることもできるし、その反対にジョニー・デップという俳優のなかにジャック・スパロウという登場人物を受けとることもできます。濱口さんのいう「純然たるフィクションも純然たるドキュメンタリーも存在しない」ということの一端はこの点にあります。 私はこう思うのです。このような二つの世界の交わりは(登場人物も俳優もふくめた)「ひと」を匿名の存在にするのではないか、と。匿名というのはつまり自分以外の者でも同時的にありえる、ということです。あらためて天皇制に引きつけていえば、歴代の天皇というものは、空の器としての身体はそれぞれ異なるけれど、匿名者として万世一系の一つの天皇霊を体現する者でもあるわけですね。ジョニー・デップの場合は、その逆です。様々な物語の登場人物を通してジョニー・デップが体現されるとき、かれらは匿名者になる。言ってみればそのような形で自己同一性を解いてしまうようなダイナミズムがなにかを「演じる」ということにはつきまといます。 中上健次のように耳のよい作家は以上のことを「音」のアナロジーから捉えなおしてもいました。音は空気の振動ですが、この振動は複数の周波数の重なりでできています。つまり音は一つの音ではなく複数の音、つまり倍音の重なりからなります。中上はそれらの複数のレベルの音が響きあい侵食しあうことに非常に大きな恐怖を感じるという類まれな作家でした。それに近いものを濱口さんの作品からも私は受けとりました。 このことを掘りさげるには、ここでジル・ドゥルーズのいう「現勢化 actualisation」というものについて触れておかなければなりません。ドゥルーズの『Le Bergsonisme』というエッセイによれば、マルセル・プルーストは記憶に関して「アクチュアルではないままリアルで、抽象的ではないままイデアルである」と述べています。ドゥルーズはそれを導きの糸にする形で「リアル(実在的)/ポッシブル(可能的)」と「アクチュアル(現勢的)/バーチャル(潜勢的)」の区別についての考察を深めます。それを強引にまとめれば、次のようになります。この「リアルな世界」というのはその外側にも広がる「ポッシブルな世界」の一部です。とはいえ、このリアルな世界にも、アクチュアルなものとバーチャルなものの二つがあります。では、アクチュアル/バーチャルとは何か。ここではさしあたり「ここ(いまの私)」と「そこ(いまの私でないもの)」の区別に相当するものだと考えさせてください。システム論的な言葉づかいでは、次のように言いかえることもできます。システムというものが自己を環境から区別する差異化 differentiation の運動であるとすれば、このような差異のなかから立ちあらわれるものが「ここ」です。このとき、環境としての「そこ」は、自己の存在にはなくてはならない裏打ち(自己の陰)としてあります。私の理解が正しければ、ジル・ドゥルーズは、このような「ここ」の生起のことを現勢化 actualisationと呼んだのでした[1]。リアルな世界とポッシブルな世界の区別においてはこのような「いまここ性」(時空間の中心)を欠いていたわけですが、アクチュアル/バーチャルの区別を立てることによって、それを意識できるようになったわけです。 ここでようやく本題に戻ることができます。なぜこのような面倒な迂回をしたのかというと、このことこそが映画を撮ること、あるいは登場人物を演じることの核にあり、濱口さんのかけ金の一つはそこに置かれているのではないかと考えているからです。私ではないけれども私を裏打ちする私の陰としての「バーチャル」。これは、俳優にとっては登場人物であり、登場人物にとっては俳優のことです。あるいは、カメラのむこう側の世界にとってのこちら側の世界であり、こちら側の世界にとってのむこう側の世界のことです。それはリアルな力です。ポッシブルでもアクチュアルでもないけれど、バーチャルであり、リアルです。折口はそのことを「もの」とも「マナ」とも呼び、中上健次のような人は「物語はモノがモノを語るシステム」という言い方で「もの / マナ」の現勢化のダイナミズムをとらえようとしたのでした。 濱口さんの『偶然と想像』の第三話では、そのダイナミズムのこと、ひとが同時に自分以外のだれにでもなってしまう(なれてしまう)という匿名性がとてもうつくしい形で物語のレベルに落としこまれています。最後のシーン「俳優」「登場人物」「登場人物の演じるそこにはいない誰か」の三つのレベルが重ねあわされます。「目の前にいるのは、いったい誰なのか」という問いのなかで「信じる」ということが現勢化する。私はこのシーンを目の当たりにして、ジャン=リュック・ナンシーが『私に触れるな:ノリ・メ・タンゲレ』で語っていたヨハネによる福音書の物語(20章)のことを思い起こさずにはいられませんでした。 この場面はイエスの死後何日か経ってマグダラのマリアが墓園に行くところからはじまります。まだ日の昇りきらない早朝に、マリアは墓の入り口をふさいだ石が取りのけられているのを見て、二人の弟子たちのところに駆けてゆく。「だれかが主を取り去ってしまいました。いまどこに置かれているのかもわかりません。」そこで弟子たちは墓に出むき、イエスのくるまれていた亜麻布だけがそこに残されているのに気づきます。その後弟子たちが家路についてからもマリアは墓の前で泣きつづけました。ところがしゃがみこんで墓の中をのぞきこむと、二人の天使がそこにいて「女よ、どうして泣いているのだ」という。マリアが答えていうには「だれかが主を取り去ってしまったからです。いまどこに置かれているのかもわかりません。」そう言いながら振りかえると、イエスがそこに立っていました。けれども彼女はそれがイエスだと気づかず、園丁なのだと思います。「女よ、どうして泣いているのだ。だれを探しているのだ」と問われ、「あなたが主を運び去ったのでしたら、どこに置いたか仰ってください。わたしが引き取ります」と言いました。すると突然、彼は「マリア!」と言いました。彼女は振りかえり「ラボニ!」と言いました(ヘブライ語で「師」という意味です)。そこで、イエスが言います。「わたしに触れるな。まだ父のもとに上っていないのだから。だがわたしの兄弟たちのところに行ってこう伝えなさい。わたしはわたしの父のもと、あなたの父のもとに、わたしの神のもと、あなたの神のもとに上ってゆくのだ」と。彼女は弟子たちのもとに行って、彼女が主を見たこと、主が彼女に言ったことを伝えました。こうして彼女ははじめの証人に、イエス復活の福音をはじめて告げしらせる者になります。触れることと告げしらせることがあたかも両立できないことのように。 このことについてはかつて「盲たちの白河夜船」というエッセイのなかで書いたことがあるのですが、この場面においては、信じることの力は触れずにいることによって支えられることになります。『偶然と想像』の第三話の最終シーンはそれとは対照的です。というのも、掲載した写真にあるとおり、二人のひと(登場人物でもあり俳優でもある)がことばに釣られるなかで、たがいを避けがたく触れてしまうのです。そもそも触れずにはいられないのだ、とでも言うように。そして、すでに避けがたく信じてしまっている。そのような不可抗力こそをカメラは眼差そうとしている、という印象を私は受けました。表題にある「偶然」はフランス語ではhasardと訳されるものですが、ここではむしろ「偶有性 contingence」が問題になっています。偶然という語からは二つの別種のものの巡りあいという語感を私は受けとりますが、偶有性にはむしろ、仏教的な縁に近い何か、二つのものがそもそも分かち難い関係のなかにあり、その不可抗力のせいで何かがそうあってしまう、というような意味あいがあります。 ここでようやく、イタリア式本読みの話まで遡ることができます。これは濱口さんがどこまで意図するものなのか知るよしもないのですが、私はあの奇妙な棒読み調のなかに、アクチュアルとバーチャルの揺らぎを感じずにはいられませんでした。いわゆる普通の演技をした場合、こういってよければ、俳優がことばを飼いならしてしまうおそれがあるのではないでしょうか。そのときに私たちが目の当たりにしているのはきっと登場人物ではなく、それを上手に演じる俳優のほうなのですね。そして、逆説的になりますが、まさにそれゆえに物語をただ一つの物語として追うことができるのかもしれません。そのとき、私たちがバーチャルという潜勢力を感じることはない。しかし、濱口さんの映画からは、ことばが先行し独立し、飼いならされずにいる、ということを強く感じます。そのせいか、俳優と登場人物との重なりがずれて、互いにはみ出してしまう。一つの音が様々な倍音の揺らぎからなりたっているように私たちが揺れているのだとしたら、そこでその揺れが極度に増幅されます。そのときに気づかされるのです。登場人物も俳優も空の器なのだ、と。そして、折口が「もの / マナ」と呼んだものの潜勢力の横溢を感じるのです。 特に会話劇である『偶然と想像』においてはそれがことばとして俳優の身体を通り過ぎるのだとしたら、その前々作である『寝ても覚めても』においては、ある意味ではその反対のことが起こっているとも言えるのかもしれません。私の記憶が正しければ、テオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』のように、ある俳優が一人二役をしていたはずですが、このときにバーチャルな力として通り過ぎることになるのは、ことばではなく、俳優の身体のほうです。物語の登場人物には、一人二役をする俳優の姿が見えていない。見えているのは、俳優の影である二人の別の登場人物だけなんですね。盲目の世界にとどめおかれているのです。そのひとの身体に触れても、俳優の身体に触れたことにはならない。しかし、気づかずにいるだけで、本当は触れているのです。そこには静かなバーチャルの力があります。棒読み調の演技によって倍音がかき乱され明らかになるような激しさとしてではなく、静けさとして。「盲たちの白河夜船」に書いたとおり、ハイデガーは「隠れなさ」unverborgenheit という意味でのアレーテイアを一つの真理の形として見たのですが、登場人物には見えないそのような真理の静かなあらわれがあるのではないでしょうか。

26 Apr 2022 · のなみゆきひこ

昼寝して復活したら肌寒い——ベシュレル村での音感マッサージの思い出

今年の西方教会の復活祭は4月17日に祝われました。ブルターニュのベシュレル(Bécherel)という小さな村では、毎年恒例のブック・フェスタ、Fête du livreが開かれました。今年で32回目になります。ベシュレルといえばBescherelleという文法書を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、つづりも違うし、たぶん無関係です。それでも、その高名にあやかって……ということだったのか、1989年以来、本の力で村おこしを試みてきたのでした。東京でいうところの神保町みたいな村、古本屋の立ちならぶ村ですね。 ところで、本屋というものはかなりの身体的な疲労を伴う場所だと前々から思うのですが、漢字や仮名ではなくラテン文字で書かれた本を漁るとなると苦痛は倍増します。というのも、書籍の背にかかれたタイトルを読むには、首を左右のどちらかに傾げなければならないからです。ベシュレルには様々な素性の本が集まってきているので、右むきのものもあれば、左むきのものあり、それらがたいてい所狭しと入り乱れている。そんななかで絶えず体や首の向きを変えつつ蟹歩きの移動をする。想像しただけで気疲れしますが、本漁りのコツでもあるのか、現地の人間はそういうことを全然苦にもしない様子なんですね。 いずれにしてもあまり本に関心のない私は、村はずれの空き地にひだまりを見つけ、昼寝をしていたのでした。Massage sonore(音感マッサージ)なるものが折よく催されていて、昼寝にはおあつらえむきのキャンプチェアが用意されていました。しかもヘッドフォンまで備えつけられている。チェアの背後にはエレキギターの奏者と朗読者がいたのですが、彼らの演奏がヘッドフォンを通して聴ける仕組みになっていたのですね。おかげさまで、ぬくぬくと眠りこむことができました。風のない日でした。日だまりのぬくもりだけが温かい。しかし、春のブルターニュはひとたび日が陰っただけで、急に肌寒くなるものです。目を覚ましたときには、すでに日だまりは遠のいていました。ちょうどそのとき、注意を引かれたものがあります。 ブルターニュにも桜は咲きます。その空き地にも桜が咲いていました。その桜の枝を掴みよせてしきりに揺する人影がありました。そうして花吹雪を起こしている。はじめにこみ上げたのは深い怒りでした。なぜこんなにもうつくしい花の寿命をむやみに縮めるような真似をするのか。そう考えたそばから答えは出ていました。花の舞う日だまりのなかで男の子がもろ手を空に伸ばしてぴょんぴょん跳ねている。一点のくもりもないような笑顔。それを見たいがために男は花をいたずらに散らし、男自身もまた破顔しているのでした。そういう残酷なところを見るのは嫌いです。だから、ふたたび目をつむり、今度は体をこごめるようにして不貞寝をしました。うまく寝付けませんでした。次に目を開いたときには父子の姿はもうどこにもありませんでした。

24 Apr 2022 · のなみゆきひこ

隠喩としての自家用車とタクシー——岨手由貴子『あの子は貴族』のこと

春に立てつづけに観た邦画の二つが濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー 』(原作は村上春樹)と岨手由貴子の『あの子は貴族』(原作は山内マリコ)でした。この二つの映画には一つの共通点があります。視点人物が他人に運転される車に乗って移動を繰りかえすというものです。前者は自家用車、後者はタクシーという違いはありますが、いずれにしても、ここにはきわめて重要な物語のレイトモチーフが提示されているといえるでしょう。それをひとことでいえば、自身の進むべき道を他人に委ねてみること、委ねてしまうことの限界と可能性です。とはいえ、自家用車とタクシーは同じではない。そこからそれなりに違った形の帰結も引きだされることになります。 1980年代の半ばだったか「現代小説の方法」と題された公開講座のなかで車という物語の装置の面白さについて中上健次が語っていたことがあります。車は「異界」にトランスポーテションするための女性器のようでも男性器のようでもある神聖な空間なのだというのですね。これはきっと中上が自身の『日輪の翼』から教わったことだと思うのですが、このような発想からある特定の時代の放つ匂いも嗅ぎとれるような気がします。実際、このことを補助線に同時代の作家である村上春樹の物語を振りかえってみると、まさしく車が異界へのトランスポーテションの手段、自己変貌の装置としてしばしば用いられている。『ドライブ・マイ・カー』はこのことについて村上が意識的に掘りさげようとした作品です。 そのことを踏まえた上で『あの子は貴族』で多用されるタクシーのことを考えてみると、どうでしょうか。映画のなかでは特に自転車との対比のなかで強調されることになるのですが、とにかく閉塞感がすごい。自家用車と違ってタクシーはある一点から別の一点へのピンポイントの移動に用いられている、ということにも起因しているのかもしれません。ある意味、決められたレールの上を走る電車よりもひどい。電車の場合はもうすこし気楽な雰囲気のなかで途中下車をしてみたり乗り換えてみたりすることもできるけれど、タクシーには妙に堅苦しくなるようなところ、どちらかといえばエレベーターの気詰まりに通じるようなところがある。このような物語の装置が効果的な比喩として用いられているせいか、映画のなかで描きだされた東京はただひすたすら息苦しく、出口のない感じがする。日常に一つの空隙として突如立ちあらわれるような「異界」がない。ある意味では、それが物語を圧倒的に退屈にさせている。そして、まさにこの生ぬるい退屈に説得力のある輪郭を与えてみることこそがこの映画の目論見だったのだとも言えるのかもしれません。 もちろん、物語の筋立てをビルディングスロマンとして生真面目に読むなら、最後に自家用車や三輪車といった移動手段への切り替えが提示されることで、今後の可能性というか、小さな成長が開示される、というあたりさわりのないオチになるのですが、まさにそのあたりさわりのなさこそがいっそうの息苦しさややり場のなさを垣間見せていて、その点にこそこの映画の魅力があるような気がするのです。

3 Apr 2022 · のなみゆきひこ