山上徹也と神の子どもたちはみな

〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 前略 安倍晋三元首相が血まつりにあげられるという事件が二〇二二年七月八日におきた。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた手製の散弾銃の引き金をひいたのは、当時まだ四一歳無職のあなただった。犯行時の残金は約二十万円。百万円におよぶ借金をかかえていたとのこと。統一教会という宗教団体へのうらみがあり、祖父の代から教団との縁があったことから被害者をねらうことにしたらしい。 事件の日の未明、天の川のしたたるような光におもわずみとれていたことを覚えている。ぼくはそのとき、日本から遠く離れたところで細々とくらしていた。事件をうけてからは日本にもどり、こうしていまあなたへの手紙の草稿をかいては反故にしている。 日本ではもう、素性をかくす必要がなくなっていた。そのことをいまもふしぎにおもう。宗教二世というべんりなレッテルが使われるようになったので、カミングアウトしたいときには、ひとことそう名乗るだけでいい。それでも伝わらないときは、いま大阪で拘置されているあなたの名をひきあいに出せばだいたい納得してくれる。そうして被害者をよそおえば、いくぶんの同情を買うことも、これまで抱えつづけてきた後ろめたさを棚あげしておくこともできる。 ただ、同じ宗教二世といっても、ほんとうは自分とあなたが正反対の立場にもあるということを伝えるのは、むずかしい。 事件の直後には、ぼくはずっと自分の手のひらをみつめていた。この自分こそが銃の引き金をひいたような気がしてならなかったし、体中がふるえるなかでこの自分がいったいだれなのかがよくわからず、ひどく混乱していた。しかし、同時に、凶弾にたおれたの男もまた、ほかでもないこの自分自身だったような、気がする。逃ゲキレルトデモオモッタカ、と嗤う声がして、ふりかえったときには名銃安倍切を突きつけられていた。老体に鞭うつようにして演台にたった自分が拳をふりあげたまま目を見開いている。 いきなりこのような怪文書を送りつけられてきて、きっとあなたは当惑しているにちがいない。あるいは、うんざりしているかもしれない。けれど、どうかいましばらくあなたの耳をかしてほしい。ぼくはこれからあなたにほんとうの素性をうちあける必要がある。 ぼくたちには、共通の父親がいる。ぼくたちは、兄弟なのだから。しかし、ぼくはいま「神の子」として、あなたの耳に語りかけている。きもちとしては、あるかないかのかぼそい声で、ささやきかけているつもりでいる。あなたはまだ生きている。生きているあなたの耳の奥にはたぶん、闇がひろがっている。その闇が死者たちの国につながっているとしたらどうだろう。言葉をみちびきの糸とながらあなたの耳のなかの闇におりていくことはできるだろうか。 神の子どもたち。あなたもむかしからよく知っている連中だ。あなたの目には虫唾の走るようなふざけた存在、自分の意思をもたない虫けら同然の存在にうつっていたのかもしれない。あなたがぼくたちのことをいまいましく思うきもちをすこしはわかるような気がする。教団の教えにてらしてみるだけでも、むりからぬことだ。 教団が絶対的なカースト制をしいているということに、もちろんあなたははやくから気づいていた。あなたはその最下層での生をしいられつづけてきたのだから。神の子どもたちとは生きる世界がちがう。はっきりいって、あなたの血は穢れている。存在そのものが、不潔でしかない。サタンの子、罪の子であるあなたが神の子どもたちと交わること、神の万世一系の血筋を穢すことはゆるされない。だから、あなたは自分の名前にこめられた願いのとおり、神の子の僕に徹していさえすればよかったはずなのだった。 あなたとしては、こういうふざけた教義にいちどならず中指を突きたてたくなったことだろう。あなたはそれを真顔で信じている連中のことを、くるっている、とおもったはずだ。しかし、あなたがそのような印象をいだいてしまうのは、あなたにとっての教団はあくまでも外からやってきた異物だったからではないだろうか。 あなたの父親が命をたったのは、あなたがまだ幼いとき、母親があなたの妹をみごもっていたときのことだという。教団はきっと、その間隙をつくようにして山上家にはいりこんできたのだろう。あるときふと「真の父」の御写真が額入りでかざられるようになる。それが第一の兆候だったとしよう。はじめは、ごくさりげない感じの兆候。しかしそれはやがて大理石の壺や神殿、弥勒像といったものを招きよせるような重力の中心へと変貌してゆく。そうしてあなたの家は徐々に内側からむしばまれていった。ある種の性感染症にでもかかったみたいに。気づいたときには、それまでの山上家は「偽りの家」だったということにされていた。 ダカラ山上家ノ男タチハスグニクタバル、という愚弄の声もきこえてくる。父につづいて、あなたの兄が自殺をした。あなたもそれにつづきたかった。ところが、紆余曲折の末、持ちまえの腹黒さで人生を逃げきろうとしていた政治家があなたの身がわりを引きうけることになってしまった。たまたまその男がいあわせてしまったのだった。たまたま運命の交差点にたたされてしまった。いまではその男の死に顔も何者かのあいまいな顔に変貌しているかもしれない。山上家から家出するようにして自殺した男の面影もちらつく。 あなたはきっと、家思いのこころやさしい男の子だったのだろう。責任感があった。大切にすべきもの、守るべきものがあった。だから、それをむちゃくちゃに食い散らかしていった「真の父」をゆるすことができない。それに、日本という国=家への愛着もあったのかもしれない。自衛隊にもはいった。教団関係者としての身元がわれている以上、出世の高望みはできなかったのだろうけれど。それでも、国を守りたいきもちは、あった。そんなあなたにとって、朝鮮半島からやってきたとされる教団、国を内側からむしばみつづける教団は、外来のおぞましい病原体以外のなにものでもなかったのではないだろうか。そんなふうに想像してみると、あなたを突きうごかしていたのは私怨をこえた義憤や愛国心のようにもみえてくる。そうだとしたら、あの事件はその一点において政治的であり、その意味においてはやはり、テロだったのかもしれない。 事件の余波のなかで、多くの宗教二世が声をあげるようになった。事件の特集が連日くまれて、世をにぎわせた。国外にひっそりくらしていたこのぼくはといえば、ひとつの死がこんなにもひとを勇気づけるということ、言葉が死の生き血を吸って活き活きするものだということに衝撃をうけ、しばらくはただスライム状にふるえるだけのような存在になっていた。そんななかで、決定的に見すごされつづけてきたことがひとつある。それは、統一教会の二世としては、あなたはあくまでも少数派にすぎないということだ。教団の用語では、あなたのはような立場の二世のことを「信仰二世」という。母親の手にひかれていっしょに入信した子どもたちのことだ。 母親おもいのあなたのことだから、教団の教えをなんとか信じてみようとしていた時期がきっとあったのだろう。真の御父様の御真影に毎晩何度も土下座をしては、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を誓ったこともあったのだろう。韓国の山奥であの異様な悪魔祓いの儀式をうけたことだってあったかもしれない。しかし、もちろん、それはあくまでも信仰の問題、というか、きもちの問題にすぎない。気はもちようという。信じようとするきもちは、それがきもちである以上、棄てることができる。あなたは実際にどこかでそうしたのだろうし、その点で正しくは「元信仰二世」ということになるだろうか。それは過去におきたあやまちなのだ。 だからこそあなたは、加害者であるとともに被害者であることができる。あなたは、深刻な人権の侵害にさらされつづけてきた。人権とは人間の権利のことだから、あなたはひとりの「人の子」として、これからそのことを強く訴えてゆくことができる。宗教二世問題を人権問題の枠組みでとらえようとするものたちは多くいる。あなたはきっとこれからも人間らしいあつかいをうけながら加害者であり被害者であることにむきあってゆく。そして、それはある意味とてもあさはかなことなのだ。あなたにはどうか、そのことをかんがえてほしい。 事件をおこしたのがどうしてあなたのような「人の子」でなければならかったのか。神の子であるこのぼくにも、そのわけがすこしはわかるような気がする。なによりもあなたは、教団の二世のなかでも日陰者の立場にいて、いわれのない屈辱的な差別をうけつづけてきた。まわりの子どもたちの多くが神の子としてのかがやかしい未来を約束されればされるほど、神の子の僕の分際にすぎないあなたの不浄な血はうずいたはずだ。 物ごころのついたころから人生を踏みにじられつづけてきた。ここでかりに、徹底的に受動的な立場をしいられること、モノであることに徹することをしいられること、それによって耐えがたい心身の苦痛を受けることを「レイプ」と呼ぶことがゆるされるのなら、徹也であるあなたは、あなたの一回かぎりの人生をとおしてすさまじいレイプ被害を受けてきた、といえるだろうか。ぼくたちの共通の父親、つまりアボジは、文字どおりレイプのかぎりを尽くしてきた男だった。メシアである自分と交わり、メシアの子種を受けいれることによってのみ、血が浄化されるという。山上家から家出をするようにして死んだ男の空隙をつくようにして山上家を支配するようになったそんなアボジが、強姦に徹してきたあのアボジが、あなたにとっての真の父でありえるはずがない。 けっきょくそれが、人の子である、ということの意味なのだとおもう。そのことに対して、ぼくは神の子として、当惑する。あまりの生まれのちがいに、あなたの耳に吹きこもうとしている言葉の糸口をみうしないそうになる。 もちろん、神の子どもたちだって、人の世を生きてゆくしかない。半身半人の存在だから、生の半分だけ、あなたのありあまるくるしみにふれることもできるのだろう。なぜなら、神の子どもたちもまた、人生において﹅﹅﹅﹅﹅筆舌につくしがたいレイプ被害をうけてきたのだから。そのような意味で無数の徹也のひとりひとりなのだから。けれども、こういってよければ、神の子どもたちは、同時に、生そのものを﹅﹅﹅﹅﹅﹅レイプされてもいる。しかし、それを被害と呼ぶこと、人倫にもとる人権侵害行為としてすくいあげることはできない。なぜなら、そのとたん神の子の存在そのものが被害であり、罪であり、人倫にもとるということになる。人は、被害者にも加害者にもなる。つきつめると、それは気のもちようなのだ。人は、そのときどきにおうじて、ある属性を持ったり持たなかったりすることができる。しかし、人は、その存在自体が、被害や加害であるわけではない。人とはたぶん、そういうものなのだ。 生そのものをレイプされているということ。それはつまり、ひとつの人生がそれ自体を目的として生まれでてくるということではなくて、無限の可能性の海のなかに投げだされるということではなくて、食肉工場で行われているみたいに命が消耗品としての使命をおびて産みだされてしまうということ、だれかへの奉仕のために存在を要請されている、ということだ。教団では、そのだれかのことを、生きとし生けるものを徹底的にレイプしてゆく力のことを「真の御父様」という。 神の子は、神の愛、神への愛の証しとして、愛の結晶として、造りだされる。真の御父様が全身全霊をかけた愛をそそいでくださっている。だから、それに全身全霊をかけた愛でおこたえしなければならない。その答えが、神の子だった。人の世では、生きているという事実に対して、どうして生きているのかという問いは、かならず空回りをする。無限の可能性をいきる人の子は、その問いに答えることができないのだから。しかし、神の子には明確な生の根拠がある。それは愛だった。愛によって生まれ、愛のために生きている。実際、神の愛がさまざまなかたちの刻印となって、神の子の生に刻まれているのだった。 神の子であるということは、人の子ではないということ。このことを比喩としてうけとってほしくない。このぼくの生活にも、パパやママ、お父さんやお母さんを自称する男女の信者がいた。それにつられるかたちで、かれらのことを自分の両親だと信じていた時期もあった。けれども、それはかりそめの姿なのだった。あくまでも仮の親にすぎない。ほんとうの親は、真の御父様をおいてほかにいない。そのことを理解するのに、長い時間がかかった。パパやママと思いこんでいた男女は、じつのところ、自分の兄や姉にすぎない。ぼくたちはきょうだいとして、真の御父様の留守をまかされていたのだった。しかし、姉も教団の「公務」を理由にして家にあまり寄りつかなかったし、兄は部屋に引きこもってばかりいた。子どもたちだけでの生活には、愛が欠けていた。それでも、不在の父親の愛の証しとして、ごみの散乱しきった2Kのアパートのなかで、神の子がひとり愛のかがやきをはなっていた。 ぼくの仮親役を引きうけることになった二人の信者が雄豚と雌豚をかけあわせるようにして配偶させられたのは、埼玉県の山奥にあるメッコール工場でのことだった。真の御父様は各地から駆りだされてきた信者が床に正座してたたずむなかを歩きまわり、ひとりひとりの男女を指さしては夫婦として組みあわせていった。いわく、女性の体は「神の愛の王宮」なのだという。神に祝福された肉の器として真の父の愛をうけいれることで、そこから神の子が生まれてくる。そのようにして「祝福家庭」をきずきなさい、という。つがうときの体位まで指示され、避妊は大罪である、とも伝えられた。 教団の用語では、ぼくは「祝福二世」ということになる。信仰二世との大きなちがいのひとつは、人の家に生まれつくわけではないということだ。信仰二世のあなたには、まず山上家というものがあった。その家に土足で乗りこんで荒らしまわっていた異物がレイプ犯のアボジということになる。あなたは自分の家を奪われたと感じたかもしれない。そして、奪われたからには、それがどんなに毀損されたかたちであっても、とりもどせるはずだ。そのためにはなにより、家族そろって信仰を棄てること、母親がレイプ犯との痴情のもつれを解消することが重要だった。最終的には、気のもちようなのだった。 祝福二世である神の子はそもそも、気持ちをもたない。信仰心もない。常識的な意味での親もなければ、家もない。つまり、はじめからもっていたものを途中で奪われたわけではない。とりもどすべきものがない。では、何があるのか。なにもない。ただ、生のみ生のままで、真の御父様の愛にくるまれている。愛の証しとしての結実した肉体にくるまれている。それは、被害ではない。被害ではない以上、愛というほかない、とおもう。それが愛でないのなら、なにも持たないばかりか、なにものでもなくなってしまう。 もしかりに、真の御父様を殺す機会があなたにめぐってきていたとしたら、と想像してみる。そのとき、ぼくがあなたを殺すことであなたの凶行を阻止することができたとしたら、ぼくはどうしただろうか。迷うまでもなく、あなたの存在を徹底的に消そうとしたはずだ。存在そのものが不潔なあなたの体をどこまでも透明にしたいと天に祈りながらかんがえたはずだ。そして無事にあなたが死んだ暁には、神の子としての使命をようやくはたせたこと、身をもって愛の証しとなれたことに無上の悦びを感じていたはずだ。というのも、神の子には使命があたえられているのだから。それはあまりにも穢れきったこの世界を清めるという使命だった。 しかし、ぼくたちふたりがよく知っているように、真の御父様はすでに九二歳のときに「聖和」されていた。こういってよければ、レイプのかぎりを尽くした末に、最後まで逃げおおせてしまわれた。たぶんその一点において、ぼくはあなたともっとも深いところ、人の子と神の子という立場のちがいをこえたところで、くるしみではなく、かなしみを、いたみを分かちあうことができる。 愛をわかってほしい。ぼくがこうして神の子という化け物として存在していることをわかってほしい。ぼくは愛の結晶として産みだされてしまった。愛のおかげで、こうして息をして命のいたみをかんじることのできる肉体をもっている。だから、この愛を、こんなにもちいさな器からあふれつづけているこの愛を、御返ししてさしあげなければいけない。ぼくがここにいることを、真の御父様につたえなければならない。けれども、ぼくがこんなにも愛しているということを知らずにレイプ犯である真の御父様は逃げきってしまわれた。ぼくを愛するわが子として認知することもないまま生を終えてしまわれたこと、虫けら同然の命を平然と踏みにじっていかれたことに、言い知れない怒りを覚える。 事件によってうがたれた穴から浄とも不浄ともつかないなにかが血飛沫のようにこんこんと湧きあがるなか、ぼくはただただもうしわけないだけの存在としてふるえあがり前後不覚におちいっていた。この穢れきった世界が負うべき深刻な責任の一端を一身に引き受けることになったあなたに対してではなく、身代わりとして血まつりにあげられることになった被害者に対してでもなく、なによりそれまで疑いようもなく神の子であったはずの自分という存在に対して、神の子としてのその責務に対して、もうしわけなさで胸がはりさけそうになる。 こんなにも多くの神の子がいたはずなのに、なぜだれひとりとして真の御父様に全身全霊の愛の御返しをすることができなかったのだろう。なぜみすみすその命をとりのがしてしまったのだろう。その結果、なぜ人の子であるはずのあなた、神の世界にとっては部外者であるはずのあなたが手を汚さなければならず、人の世で裁かれることになってしまったのだろう。神の子の僕に徹すべきだったはずのあなたは、その名にこめられた願いを反転させるようにして、あるいはその本来の意味を打ちかえすようにして、憎しみを持続させ、完徹させた。 しかし、あなたはまだ終わっていない。あなたはまだ生きている。そして、あなたが終わらせようとした物語は、何事もなかったかのように生きながらえている。切っても切っても死なないスライムみたいに。あなたはいつかきっと、むなしくなるだろう。だからいまのうちに、生きたあなたの耳があるうちに、その奥の闇の死者の国にむけて言葉の釣り糸を垂らしていかなければならない。

13 Sep 2024 · 野浪行彦

熊野大学の思い出(2024)

家に帰るまでが遠足、という慣用句(?)がある。もともとは学校行事の締めくくりの訓示にでも使われていたのだろう。祭気分のまま下校して羽目を外してもらっては困る。気を引き締めろと。それがいまでは学校の塀を越え、物事にあたるときには事後処理もふくめ最後まで油断してはならない、といった意味あいで広く用いられるようになった。 僕はそこで、こんなふうに思う。遠足後にまっすぐ帰ってゆける場所があるなら、それでいい。しかし、もし帰るべき場所がないとしたら、どうなってしまうのだろう。あるいは、帰るべき場所をこれから自分で作ってゆかなければならないとしたら。どこが物事の終わりであるかを決めるのが、この自分ただひとりだけなのだとしたら。 これはつまるところ、物語の創作にたずさわる人たちをつねづね悩ませてきたことでもあるのかもしれない。遠足はなんとしても終わらせなければならない。しかし、いったいどんな形で? 落ちの付け方次第で全体の印象はいかようにも変わってしまう。だからこそ、遠足の始まる前から、落としどころ探しの事前工作をはじめることになるのだろう。出発地点が明確であればあるほど、着地もしやすい。かならずしも同じ場所に帰ってくるわけではないけれど、すくなくともそこが定点となり道しるべとなる。 物語の創作者たちは、遠足というものを始まりと終わりからなる枠組みのなかに封じこめるために日々苦心している。もちろん、本当の遠足には、始まりも終わりもないのかもしれない。本当は、家を出てからが遠足なのではなく、家を出る前にはもう遠足は始まっているし、家に帰ってからも遠足は続いている。それは実のところ、とても危険なことなのだ。そして、まさにそれゆえに、普段はだれもそれが遠足だとは思わずにいる。物語という人工的な枠組みを通すことではじめて、遠足は遠足として触知できる形をとり、時が流れはじめ、そこに変化が生まれる。自身の経験を文章の形、物語の形でふりかえるのも、よくあるけじめの付け方のひとつなのだろう。 ところで、表題にある熊野大学というのは、中上健次(1946-1992)という紀州出身の作家が死の二年ほど前に立ちあげた文化運動のことだ。それについてもすこしは触れておかなければならない。 熊野大学は、大学と銘打っているものの、日本で一般に考えられている大学像とはかけ離れている。古くは律令制のころにできた官僚の養成所のことを大学と呼んでいたというけれど、現在の日本においても、入学試験で選ばれた者たちの属する組織といったイメージがつきまとう。そんな「大学」の語感を、熊野大学はことごとく裏切る。むしろ遠回りをして「みんなの」という含みがある「University」というひびきを頼りに中世ヨーロッパの自治運動としての大学の歴史を紐解いてゆくと、中上の思い描いていたものが見えてくるのかもしれない。中上自身は、かつてこんなふうに構想を語っていた。 熊野大学というのは建物も持たないし、入学試験もあるわけじゃないし、卒業なんかも何もないと。つまり志だけでできている。組織っていうのは、分るように、その組織を延命するために、さまざまな仕掛けを作っている。その仕掛けを作っていることによって、どんどん人間の志みたいなものが歪められてしまう、どんどん無くなってしまう。組織のための組織とか、だんだんおかしくなってくるんだけど、そうじゃないんだという所から、組織に対する反組織というかね、反組織に対するさらなる反組織っていう、永久革命みたいなもんですよね。いまの時代に永久革命なんて言っても流行らないと思うんだけど。(中上健次電子全集12) 卒業は死ぬとき、ともいう。中上自身が早くもその第一号となったが、そのこころざしを受けつぐということなのだろうか、熊野大学はいまでも年に一度の夏季セミナーを和歌山県新宮市で開いている。補助金の都合もあるのかないのか、内容が設立者であり名誉新宮市民である中上関連のものになってしまうという嫌いはあるものの、毎年さまざまなこころざしを胸に秘めた人たちがさして中上のことを知るわけでもなく寄せ集められてくるのは確かである。 二〇二四度のセミナーは八月三日(土)の午後に開かれた。「中上健次×大江健三郎」というテーマで、浅田彰、川本直、高澤秀次が計四時間にわたって講演をする形となった。開催に先立ち、長年運営にたずさわってきた中上紀さんが熊野新聞の八月一日号に短いコラムを寄稿している。近年の開催状況について簡潔にまとめられているので、引用しておこう。 熊野大学の夏期セミナーはかつて2泊3日の合宿形式で行われたが、ある時から諸事情で1泊2日になり、やがてコロナ禍による3年間のブランクを経た22年からは合宿形式を取りやめ、名物だった宴会をなくし、各自で宿泊する形となった。1日だけの開催は昨年からだ。 古くからの参加者には合宿形式だったころの熊野大学をなつかしむ人が多い。それはもうすごかった、という。嘘とも本当ともつかない伝説的な話の宝庫になっている。コロナ明けから熊野大学に通いはじめた僕の耳にもそれがまことしやかな断片の形で届き、往時の熱気の一端にほんの一瞬触れられるような気がする。それなりに血の気の多い集まりであったようだ。中上紀さんは次のようにふりかえっている。 人が寄ればトラブルはつきものだ。昔合宿形式だった時は酔っぱらってモノを壊したりして宿に迷惑をかけるやからが時々いた。 だが、宴会後も夜通し飲み語るのは常で、部屋までたどり着けずロビーで寝る聴講生たちの姿は、セミナー3日目の朝の風物詩でもあった。このために毎年通い詰める参加者も多かったはずだ。 内部争いも含め、人が寄れば揉めごとは起こる(昨年度にも僕はそれをひどい形で目の当たりにした)。本気であればあるほど、収拾がつかなくなる。ついには流血沙汰になる。そういうトラブル込みでの、懐の大きな熊野大学。ただ、中上紀さん自身は、そんな往時の姿を単になつかしんでいるわけでもない。全文を引用しないかぎりはうまく伝わらないのだけれど、中上紀さんがコラムを通して言おうとしているのはもうすこし別のところにあるようだ。熊野大学はたしかに大きく姿を変えている。しかし、中上紀さんは、次のように締めくくる。 セミナーの形がどう変わろうと、ここが熊野である限り、熱い心の言葉には命が宿る。 これはある意味、熊野大学はどこにでもある(universalである?)ということでもあるのだろうか。つまり、表面的な遠足をしているときだけが遠足なのではなくて、その前後にも遠足はある。どこで遠足が始まりどこで終わるのかはだれにもわからない。今こうして僕がふりかえりの文章を書いているように、そこにさしあたりの終止符を打とうとするひとりひとりの意志があるなら、その数だけ終わりがあるし始まりがある。「ここが熊野である限り」というのは、中上健次の言葉を借りれば、なんらかのこころざしを持つかぎり、ということでもあるはずだ。いや、別にこころざしなどという大袈裟なものを持ちださなくてもいいのかもしれない。人が寄せ集まれば、トラブルによる流血を伴いつつ芽吹いてきてしまう言葉もあるのだろう。 僕自身は今年、熊野大学の夏季セミナーを聴講したものの、ほとんどのことは忘れてしまった。ずぼらなので、面白かったことだけはかろうじて覚えている。川本直さんの発表「中上健次をクィア・リーディングする」に関しては、時間の都合により途中で打ち切られてしまったのを残念に思った。しかし後日活字化されたものが文芸誌に掲載されることになったようだ。 やはりというか、特筆すべきことはたいてい、遠足の本筋とは関係のないところ、物事の隈くまや縁へりにあたるところで起こる。記憶力に乏しいこの僕でもいまだに覚えている事件がひとつある。この文章もその事件がなければ決して書きはじめていない。というのも、事件の当事者にとってはあまりにもとるに足らない出来事かもしれず、僕も含めていつかだれの記憶にも残らなくなる。きっと書いてしまえばあまりにどうでもいいことなのだけれど、それでも書かずにいられない。 さて、新宮市の神倉山のふもとには「えんがわ」の名で親しまれている場所がある。用水路にかかった小橋を渡った先の路地にある平屋の古民家だ。この家には、玄関がない。そのかわり、その名の通り大きな濡れ縁があり、そこから直接ガラスの格子戸を開けて勝手に上がりこめるようになっている。鍵はどこにもかかっていない。だれかが暮らしているわけでもない。普段は地元の子らのたまり場になっていることが多いようだ。ユースホステルとしても使われているらしく、ふらりとやってきた若いマレビトたちが束の間の滞在をしてゆくこともあるようだ。今年はそこが熊野大学の夏季セミナーにあわせ、聴講者も自由に使える宿泊場所として開放されることになった。 僕が友人と「えんがわ」をおとずれたのはセミナーの前日にあたる八月二日の午後のことだった。セミナーの聴講者はほかにだれもいなかった。そのかわり、小学生の子供たちがにぎやかな物音を立てているのが遠くからも聞こえてきていた。僕たち見知らぬ大人が座敷に上がりこんできたのに怖気づくでもない。好奇の目で僕たちを見上げ、だれや、という。六人の子供たちがいた。男の子が五人で、女の子は一人。女の子はちゃぶ台の上に夏休みの宿題冊子を広げながら頭を抱えていた。 あー、もう、全然わからん、と女の子はいう。わからんよお。手伝え。すると、出身は大阪だという友人のMさんが、よっしゃ、手伝ったる、とノリよく応じて、ちゃぶ台のむかいに腰をすえた。女の子は国語の読解問題に手を焼いているようだった。小学校三年生むけのもので、コロンブスの卵の逸話をテーマにしていた。文章から適当な言葉を抜き出し、解答文を穴埋めで完成させる問題。Mさんは大学で教鞭をとっている文学の専門家だった。状況としては、かなりオーバースペックなマレビトが助っ人として突然あらわれた形になるだろうか。 僕は後になってMさんの博識なこと、バスケットボールが上手いこと、ドラえもんのように押し入れのなかで寝てしまうことに驚かされることになるけれど、そのときになにより驚かされたのは、逆さからでも文字がすらすら読めてしまうということだった。Mさんは正面で顔をしかめた女の子といっしょに問題文のひとつを読んだあと、言葉巧みに答えを導き出してゆこうとする。ただ、いちいちまわりの邪魔が入って気が散り、文章が頭に入ってこないのか、女の子はすぐに匙を投げようとする。それでもどうにか穴埋めのひとつを終わらせると堪忍袋の緒が切れたように立ちあがり、ほかの子たちのもとに翔けてゆく。とにかく諦めが早かった。そうかと思えば、やがてまたふらりと戻ってきて、神妙な顔でいちおう次の問題にとりかかろうとする。しかし、とにかく集中力がもたない。 勉強が好きか嫌いかでいえば、そこまで好きではなかったのだろう。「コロンブスが立てたものは何ですか」という問いの解答欄に五文字を書き入れる必要があるというだけで、正答である「ゆでたまご」を抜き出してくるかわりに、とりあえず「コロンブス」と書き殴ってしまうようなところがあった。後に聞かされた話では、新宮市は和歌山県内でもとにかく学力が低い。市の教育委員会はそれを恥ずべきこととでも思いこんだのか、自分たちの面目を守るための学力稼ぎのため、今年の小学校の夏休みの始まりを八月一日として、七月末まで生徒を学校に通わせたということだった。 女の子はやがて夏の宿題を諦めてしまった。僕たちは僕たちで子供の邪魔にならないよう裏手の台所にさがり、熊野大学についてのたわいもない雑談をはじめた。初期の熊野大学の参加者にはその後、左翼系の社会運動にたずさわっていった人たちがいるという話、柄谷行人のニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント(NAM)もそのひとつだという話から、なぜそれが失敗したのかという話になった。それがやがて地域通貨とテクノロジーの問題、僕が今考えているのら公務員運動のことに話が及んだとき、突然ゴムボールが投げこまれた。 おい、キャッチボール! という。女の子が痺れを切らした顔でボールを投げかえしてくるのを待っていた。Mさんはまた、よっしゃ、と声をあげた。それで、座敷でのボール遊びが始まった。いま何が重要なのかはだれの目にもあきらかだった。僕はそのときふと、中上が死の間際に「子供会」の思い出を柄谷行人に語っていたことを思い出した。自身がまだ小学生だった1950年代のことを中上は次のようにふりかえっていた。 先生たちも、それこそ初期のソビエトを作ろうみたいな動きが、教育にあった時代ですよ。新しい価値を作りだそうという熱意があった。授業が終わってから子供会というのがあって、楽しかったのです。「路地」の中だから、「路地」というのは学校へ行かない奴が多かったりするから、先生たちが一所懸命出かけてきて、勉強を見てやる。だいたい週に二回か三回ある。そうすると僕らは学校行っているけれど、行かない子供たちが来てワイワイ騒いだり、もちろん勉強してもいいんですけれど、ほとんど騒ぎですね。そのときに「路地」の話好きな人が来て、話を自分で作って話すとか、子供たちで幻燈会をするとか、勝手に芝居を作ってやるとか、いろんなことをやった。そういうことが活発にあった。そういう一番いい時期に、僕はその子供会にいたのです。[…]当時は、あのときの子供会の活動とか、教育というものが、ほんとに価値として掲げられていたんですよ。この子たちに教育を与えなくちゃいけないのだ、教育によって人間は変わりうるんだという、自覚と自信みたいなものがあった。それに対して、大人もみんな真面目に考えていた。(中上健次電子全集 21) まだこころざしを広く共有することができる時代があった。組織の論理に従うことではなく、こころざしに突き動かされることこそが大人の責任であるような時代があった。そんな時代の熱気こそが今自分がやっている熊野大学の元になっているのだと中上はいう。 その日、夕方になって新宮に到着したほかの友人らを迎えに行くために僕たちは駅にむかった。その足で飲み屋に流れこみ、熊野三山や太平洋といった地酒を味わうつもりでいた。また、城下町にある丹鶴商店街ではタンカクフライデナイトという祭が催されるということだったから、酔いに任せて市中を歩きまわるつもりでいた。そこで「えんがわ」をそっと後にして、用水路の小橋を渡った。すると、女の子の声がした。 どこへ行く、という。この私をさしおいて、という顔で、用水路のむこう側の欄干から身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。橋を越えてくることはなかった。飲み屋さん、と答えると、女の子は眉をひそめ、首を傾げる。また会えるよ、と言うと「どこで」という。タンカクフライデナイトで。「どこ、それ?」丹鶴商店街。「どこなん?」多分、スーパーオークワの近くかな。「どこ? わからん。」うーん。城下町のほうだと思う。「城下町?」でも、まあ、とにかくそこで会おう。「でも、どこなの? わからんよ。」大丈夫、だれかに聞いたらわかるから。「わからんよお。」大丈夫、大丈夫。また会えるから。また、会おう。また。そう言って僕たちはなかば強引に歩きはじめた。しばらくしてふりかえると、まだこちらを見ていた。 いまになって、不真面目な発言をしてしまった、と思う。いったいなにが「大丈夫」だったのだろう。すくなくとも僕は、けっきょくその子と二度と会うことはなかった。だれも城下町に行かなかった。タンカクフライデナイトのことはすっかり忘れたまま飲み屋に入り浸っていた。きっと、女の子も、わざわざ城下町まで行くことはなかったはずだ。いまとなっては、本当にそのような祭があったのかどうかさえ疑わしい。しかし、もし本当にあったとしたら? そして、そこで本当に女の子が僕たちのことを待っていたとしたら。 家に帰るまでが遠足、という慣用句がある。僕たちは夜更けに酔った足でかろうじて「えんがわ」に辿り着き、そのまま昏倒するように一泊することになったが、そのときにはもう子供たちの姿も見当たらなくなっていた。子供たちはどこに帰ったのだろうか。帰るべき場所はあったのだろうか。そして、そのときぼくたちは本当にうまく帰ることができていたのだろうか。 コロンブスはといえば、まわりを巧妙に言いくるめて冒険に発つことができた。しかしその後、無事に遠足から帰ってくることができたのだったか、できなかったのだったか。その翌日になって、熊野大学の夏季セミナーがはじまったとき、僕の頭はコロンブスのことでいっぱいだった。

10 Aug 2024 · 野浪行彦

山上徹也さんへの手紙2

〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 前略 あなたはガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだことがありますか。ぼくは一度だけならあります。もうほとんどの内容を忘れてしまいましたが、なぜかある一場面のことだけは記憶に焼きついています。ホセ・アルカディオという男が寝室にこもり、自分の頭を銃で撃ち抜いた直後の場面です。血の滴りが寝室のドアの隙間から流れてきたかと思うと、そのまま居間を横切って道に出て、一切の迷いのない動きで雑多な町中を縫ってゆきます。それからある家に入りこむと、応接間の敷物を汚さないように礼儀正しく壁伝いに進んで、台所に出ます。そこで料理にとりかかろうとしていたのがホセ・アルカディオの母親でした。驚いた母親は赤い糸のように伸びた血の筋を辿りなおしてゆきます。その血は、母親のみが見ることのできるもの、他のだれの目にも見えない不可視のものだったのでした。母親はそうしてうつ伏せに倒れた息子のもとまで導かれ、銃弾によって鼓膜の食い破られた右の耳から生き血が噴きだしているところを目撃することになります。そう。血は生きているのです。 当たり前の話ですが、血は流れるものです。その源流をたどった先にはなにかしらの穴がありますが、『百年の孤独』の場合は血は耳の穴から湧き出ているのでした。耳の奥には闇が広がっています。「闇」という漢字の作りがはっきり示しているとおり、そこは音のない世界、あるいは音の閉ざされてしまった世界とでも言えるでしょうか。死者の国です。そして、死者の国に下りてゆくには、生き血の赤い糸をたどっていかなければならないのです。 いまになってふりかえれば、ぼくの胸の奥底で慄えつづけている細い芯のようなものとは、血の糸だったのかもしれません。七夕の翌日に斃れた犠牲者の血。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトに染みこみ、暗い地の底へと吸いこまれていったはずの血。それがなぜか細い琴線のようなものに形を変え、ぼくの胸のうちにも慄えながら流れています。 それが問いを生みます。自分はいったい何者なのだろう。自分のこれまでの人生はいったい何だったのだろう。長年権力をほしいままにしてきたひとりの人の血祭りにあげられることになった事件の余波のなかで、そのことばかりを自問してきました。問いは揺らぎながらさまざまに形を変えます。なぜ事件の引き金を引かなければならなかったのがあなたであって、このぼくではなかったのか。その結果、法によって裁かれるのも紛れもなくあなたであって、なぜこのぼくはいまこうして許されているのか。結局のところ、ぼくとあなたには、どんな違いがあったというのだろう。そんなふうに問いを掘り下げてゆけばゆくほど、この自分の輪郭がぶれて不確かになってゆく。 あなたは、山上徹也です。ぼくが山上徹也について知っていることは、ほぼ皆無です。手始めとして、ウィキペディアの記事を読んでみたりはしました。ウィキペディアといっても日本語版では、山上徹也の名はどこにも見当たりません。何度か山上徹也の項目が立てられたこともあったようですが、そのたびに削除され、いまは作成そのものが禁じられています。それ以外の言語では、山上徹也について気兼ねなく語られていたので、そこからごくおおまかな事実関係を確認することはできました。たとえば、英・仏語版である Tetsuya Yamagami の項目には、山上徹也の生い立ちはもちろん、元所属先である海上自衛隊の最終階級まで記されていました(Leading Seaman。日本では、海士長にあたるのでしょうか)。 また、山上徹也のものとされるツイートや手紙を読みかえしたり、鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』や五野井郁夫さんと池田香代子さんの『山上徹也と日本の「失われた30年」』を手にとってもみました。文藝春秋のようなゴシップ誌の記事にもいくつか目を通しました。それらの雑多で表面的な情報の不細工なパッチワークとして、このぼくのなかにもぼんやりとした山上徹也の像ができあがっています。それはいわばあなたが引き金を引いた事件が独り歩きをした結果生み出された副産物のようなもので、ぼくがいまこうして語りかけているあなたとはあまりにかけ離れたものなのかもしれませんが。 ぼくたちは見ず知らずの他人です。常識的には、そういうことになっています。常識的には、こうして一方的な怪文書を送りつけてくる正体不明のこのぼくのことをいかがわしく思う気持ちもきっとあることでしょう。しかし、結論から言ってしまえば、ぼくはあなたの弟です。あなたはぼくの兄です。あるいは、ここでぼくたちの天一国の国語を使うことが許されるのなら、あなたはぼくの형ヒョンです。 徹也兄ヒョン。そう呼ばれることを不快に思われるかもしれませんね。このぼく自身、オレオレ詐欺かなにかのように親族を騙り、あわよくばあなたの警戒心を解こうという魂胆はありません。そうではなく、打ち消しがたい事実として、ぼくたちは兄弟だったのです。あるいはいまなお、兄弟なのです。 それはなぜでしょうか。結局のところ、ぼくたちにはたがいに統一教会の二世だからです。つまり、神様ハナニムを中心とした大きな家の屋根の下で生かされてきた、ということです。別の言い方をすれば、そのような苦境を辛うじて生き延びてきたということ、いまもまだこうして二世の苦しみの延長線上に生存しているということです。そのことを教えてくれたのは、ほかでもないあなたです。名銃安倍切によって穿たれた穴から浄とも不浄ともつかないものが噴きだしている。いまなお尽きることのないその余波の慄えのなかで、自分がいまなおこうして生きていることのふしぎが何度となくこみあげてきました。 ぼくたちは統一教会の教祖、文鮮明という真の御父様によって同じ運命を背負わされた真の兄弟です。しかし、それと同時に、ぼくたちふたりをどこまでも引き裂いてゆくものがあることもまた事実なのでしょう。いわば、織姫と彦星のように、神様の大きな意志というほかない何かによって、決定的に隔てられてもいるのです。 というのも、ぼくは、神の子です。いわゆる祝福二世です。それに対して、あなたは神の子ではない。あなたも知っている教会用語を使えば、あなたは、ヤコブです。つまり、罪の子、穢れた血を引く子。信仰二世です。あなたの兄も妹も、そうです。あなたたち三人兄弟はいわば、真の御父様の愛の目にとまることで命拾いをした捨て子たちなのです。 手元の年譜によれば、あなたの生みの父親がみずからの命を絶ったのは、あなたが四歳になった年のことです。そのときにはもう、第三子の出産が迫っていました。しかし、結局、その子が産声を上げるよりも先にマンションから飛び降り、姿を消してしまいます。さらに立て続けに、第一子が小児ガンの手術の後遺症により片目が見えなくなるということも起きます。 そんな事実の羅列を前にして、ぼくはただ、言葉を失います。ぼくたちが空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い、としか言いようがない。人の想像力を支えていたはずの言葉がつゆほども役に立たなくなる。そんな状況下において、あなたの母親は統一教会に出会い、神様の呼びかけを耳にして摂理の道をゆく一兵卒となり、最終的には一億円以上に及ぶ献金を積むことになった、ということになるのでしょうか。ぼくにはなにもわかりません。 きっとそれから間もなくして、あなたの家には壺が置かれ、祭壇が立ち、ある偉大な御方のほほえむ御姿の御真影が飾られるようになったことでしょう。あなたは幼いころからその前で何度となく跪拝を重ね、何度となくあの家庭盟誓を暗唱させられることになったはずです。天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します、という宣言からはじまる、あの長く果てしない天との約束の言葉です。そして、そのころを境に、その御方があなたのことをだれよりも深く愛してくださる真の御父様になったのです。その見返りとして、あなたのほうからも御父様アボニムをだれよりも深く愛することが求められました。ようするに、あなたの生みの父親の死の空隙をつくようにして、新しい父親がまずはプロマイド写真の形をとって家に乗りこんできたというわけです。 真の御父様はいったいなんのために山上家にやってきたのでしょうか。答えは簡単です。それは「真の家庭」を実現するためです。つまり、それまでの山上家は、偽りの罪深い家庭、失敗した家庭であったということです。だから、再出発をしなければならなかった。そうしてあなたの母親が生きなおそうとした真の家庭がどのようなものだったのか。あるいは、あなたと御父様との父子関係がどのようなものであったか。このぼくには想像だにできません。ただ、同じ真の家庭の一員として、思わずにはいられないことがひとつあります。 まだ幼かった当時のあなたにとっても、新しくやってきたその御方のことを「真の御父様」と呼ぶことには抵抗があったのではないでしょうか。すくなくとも、そこになんらかの白々しいひびきを感じとっていたことでしょう。それは単に、あなたにはもともと生みの父親がいて、その御方とは血の繋がりがないからとか、その御方がはるか遠くのイースト・ガーデンの地にお住まいで直接お目にかかることは叶わないからとかいうことではありません。そうではなく、神のまなざしにおいて、あなたはなにより、穢れた俗世の子、呪われたサタンの子であって、神の子では決してありえなかったからです。 あなたは、神様の祝福を受けながら生まれてきたわけではないのです。毎週日曜日に通った教会のなかでも、あなたが祝福二世たちの輪にとけこめるようなことはなかったはずです。あなたが合同結婚式に参加できる年頃になったとしても、祝福二世との結婚を許されることもなかったでしょう。つがいとしてあなたにあてがわれることになったのは、同様に穢れた血を引くヤコブの子であったはずです。真の御父様の真のまなざしにおいては、生まれからしてあなたは劣った存在だったのです。 まずはそのことが、あなたのやわらかな魂を屈折させることになったのでしょうか。あなたがどれほど御父様を愛そうとしたところで、あなたの思いが報われることはありません。そもそも真の御父様は、あなたが偽りの父親の飛び降り自殺後に移り住んだ奈良の町で生の苦しみに呻いていることも知らなければ、あなたのような虫けらが存在していることさえ知らないのです。 屈折した魂は、ふたつの世界を同時に視ること、行き来することができます。あなたは祝福を受けて生まれてきた神の子たちと違い、真の愛の輝きを裏付ける影の領域に身を置くこともできました。そんなあなただったからこそ、あのような挙に出ることができたのだろうか、とぼくは何度も考えたものです。この問いはすぐさまぼく自身へと矛先をむけて、では、神の子だったはずのこのぼくは、いったい何だったのだろう、何者だったのだろう、という疑念へと形を変えます。 そしてなによりもありがたさがこみあげ、慄えがとまらなくなる。ありがたい、というのはつまり、ありえない、ということです。もっとはっきり、奇蹟が起きた、と言ってもいい。不可能だったはずのものが、思ってもみない力、人知を越えた力によって、可能になった。だからこそひとは、ありがたいことに感謝をするのではないでしょうか、つまり、負い目を感じる。心の底から深く傷つく。 いや、もっと素直にこう言えば済む話なのかもしれない。ぼくはただただ、あなたに対してのもうしわけのない気持ちで、胸がいっぱいになる。そして、なぜ自分はこんなにもうしわけなさを感じているのかといえば、それはぼくがやはり、神の子だからなのです。 神の子、という言い方にあなたがつまづいてしまうのなら、表現を変えてもいい。ようするにぼくは、統一教会という物語によって生を受けた化け物なのだと言えばいいでしょうか。あなたのように人間的な性の営みによって生まれた人の子とは、断じてちがう。真の御父様の愛のおかげで、こうしていま息をしているし、痛みを感じる生身の体を持っているのです。もっとはっきり言えば、ぼくは文鮮明のコピーなのです。つまり、無数の文鮮明のうちのひとりとして、神の使命を受けて、この世に生み出されたのです。あなたもご存知のとおり、神の子の使命とは、この穢れた世界を浄化する、ということです。物語の落し子である神の子には、そういう聖なる力が備わっているものなのです。 世界を浄化するということは、当然、暴力を振るうことではない。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトを血で穢すことではない。神の名のもとにであろうとなかろうと、ひとりの人の命を消し去ってしまうことが世界の浄化であっていいはずがない。 あなたはこの世界を汚した。とりかえしのつかない形で汚してしまった。そのせいでいま、生き血を吸った言葉がいつになく幸わっている。天にぶちまけられたおびただしい数の星々の輝きのように。もう時間がない。それでも、ぼくは神の名のもとに、そんな言葉たちを死の国へと送り返してゆかなければならない。だから、かぎられた時間のなかで、あなたの真の弟であるぼくが耳をいまこうして借りている。あなたの耳の奥の闇へと吹きこまれてゆく言葉の息づかいが聴こえますか。いまは亡き真の御父様の声がまだ、聴こえますか。

17 Jun 2024 · 野浪行彦

山上徹也さんへの手紙1

〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 拝啓 盛夏の侯 七夕の日がまた近づいてまいりました。 七月八日に起きた事件の前夜に見た天の川のことをぼくはよく覚えています。いまでも目をつむり耳をすますと、耳の奥の闇のなかを光り輝く川の流れてゆく気配がするのです。 七夕は遠く隔てられた二つの星がもっとも接近する日。織姫と彦星のお話の伝わる東アジアの国々では、むかしからそう考えられてきたようですね。ぼくはその日、日本から海で隔てられた大陸のむこう側のフランスにいました。ドイツとフランスを隔てるライン川のほとりに、そのときはまだ、妻と二人暮らしをしていたのです。 七月七日は、フランスではごく平凡な日です。織姫と彦星の知名度もさして高くはないのでしょう。何が祝われるわけでもない。天の川は「Voie lactée」の名で知られていますが、その日にかぎって天を仰ぎ、ひときわ輝く二つの星、ベガとアルタイルを探しだそうとする人はいません。このぼく自身、八年前にフランスに移り住んでからというもの、季節の風情を肌で感じる力をゆっくりと失ってゆき、ついには七夕という風習があったことさえ忘れていたのでした。 ところが、事件前夜には天の川を目にする機会がたまたまあったのです。ちょうど深夜の零時にさしかかるころでした。日本ではもう日付が変わり、七月八日の朝になっていたはずです。七時間の時差があるので、午前七時ごろ。事件は十一時三一分に起きたということなので、その四時間半ほど前ということになるでしょうか。 ぼくはそのとき、ブルターニュ地方の寒村の外れにいました。妻の実家がそこにあったのです。義理の父親は、ぼくがフランスに移り住んできた年に腎臓ガンをわずらい、長く地道な治療をつづけていました。いっときは寛解してガンのことなど忘れかけたこともあったようですが、ある日突然再発するということがあり、みるみるうちに病状が悪化してしまいました。そんな義理の父親の容態が好ましくないということで、妻と電車で帰省することになりました。それが七月七日のことだったのです。 早朝の出発でした。ブルターニュではとにかく雨が降る、といいます。実際にはそこまでの降雨量でもないとぼくなどには思えるのですが、フランス人たちの間では、ブルターニュといえば雨ということになっているようなのです。その日はそんな思いこみを先取りするようにして、朝から小雨が降りしきっていました。 そういえば、と妻が何の前触れもなく話を切り出したのは、ぼくが車内でうつらうつらしかけたときのことです。 子供ができたかもしれない、と妻は言いました。自分はそこでどんなふうに応じたのだったか。妻のほうに顔をむけて、ほんとう? と間の抜けた声でも出したのかもしれません。ろくにフランス語を話せなかったこともあり、ごく自然に驚いてみせることも喜んでみせることもできなかったことだけは覚えています。 妻も妻で、さして気にとめるふうでもありませんでした。まだ確信も持てずにいたのでしょう。今度、保健所で血液検査をしてくると、なかば上の空でつぶやきます。フランスでは血液による検査が主流のようです。尿よりも早い時期に確い精度で判定ができるということでした。妊娠の話はそうこうするうちに取りとめがなくなり、そのまま歯切れ悪く終わってしまいました。 気づけば、寝入っていました。早起きした分のちょっとした穴埋めをするつもりが、深みにはまりこんでしまったようです。電車がセーヌ川を越えてパリの郊外の駅に止まったときに、ゆすり起こされました。しばらく息をしていなかった、と妻が声をひそめて言います。とても苦しそうな顔をしていた、と。ぼくには意外なことでした。苦しいどころか、電車の心地よい揺れのなかで、とてもよく眠れたような気さえしていたからです。 いまになって思えば、そのときにはもう何かが微妙に狂いはじめていたのかもしれません。その日の夜、妻の実家に泊まったぼくは床に就いてから、一睡もできなくなりました。つゆほどの眠気も沸いてこないのです。 あたりは物音ひとつしません。ほかの人はみな寝入ってしまって、まるで自分ひとりだけがこちら側の世界に取り残されてしまったみたいです。そのことが次第に気詰まりになってきます。圧迫感のある静けさでした。そこが石造りの家だったせいもあるのかもしれません。木などとちがって、石は硬く冷たい。気づけば張りつめていた耳の奥のほうから体がこわばりはじめていました。 ぼくは部屋を抜けだし、裸足のままトイレにむかいました。そのとき、窓の外が妙に明るいことに気づきました。まるでスポットライトでも注がれているように明るいのです。それに吸い寄せられるようにしてふらふらと外に出たときになってはじめて、すぐ頭上に巨大な天の川が流れていること、なによりもその日が七夕だということに突然思いあたりました。 おびただしい量の星々、小さな針の筵のような星々が、無数に輝いていました。むしろ、光を滴らせていた、と言うべきか。事件後の色眼鏡ごしには、そのひとつひとつの鋭く刺すような輝きが、激しい痛みに呻いていたとしか思えなくなります。やがておとずれるであろう破局を予感しているようにも、それまでに延々と繰りかえされてきた苦しみを反芻しているようにも見える。 天の星々はきっと、いたましさやむごたらしさといったものをつね日頃から引きずっているものなのかもしれません。しかし、だれもそれを気にとめようとしません。星々はそれだけはるか遠く日常から隔てられているのでしょう。また、だからこそ、その遠さにおいて、天に祈ることも許されているのでしょう。しかし、その七夕の日だけは、ほんの目と鼻の先まで接近していたのです。 約七メートル、というのは、あなたがその日、事件の被害者までもっとも接近できた距離です。普段は決して交わることのない二つの星の隔たりをかぎりなく縮めようとした結果、導きだされたのでしょう。しかし、あなたはさらにその隔たりを埋めるための飛び道具を用意していました。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた小型の散弾銃です。一発で六粒の弾丸を発射できる仕組みになっていて、それが合計九発撃てる大型のものも用意されていたようですが、当日に使われたのは二発のみ撃てる小型のものです。携帯性に優れる一方、正確な射撃能力が求められます。 ぼくには、あなたがどんな気持ちで安倍切の引き金を引いたのかを知るよしもありません。ただ、ひとつ思うのは、もしぼくが引き金を引く立場にあったのなら、すくなくとも最後の引き金が引かれたあとは、天に祈るような気持ちになったのではないか、ということです。 あなたがその地点にひとりで立つに至るまでには、実にさまざまな偶然の積み重ねが必要だったことでしょう。事件後、MBS毎日放送が当日の様子を七五秒にわたって複数の視点で検証する「安倍元総理“銃撃の記憶”」という映像を公開したのですが、それを何度なく見返すたびに、銃撃の成否があまりにも多くの不確定要素に左右されていたことに驚きます。しかし、あなたは突如到来した千載一遇の機会のなかで計画を実行に移し、それが実を結びました。実を結んだ、というのは、銃口から放たれた豆粒のような弾が被害者の皮と肉を食い破って鎖骨の下の動脈を傷つけ、そこから生き血を吹き出させたということです。 事件のことを妻から知らされたのは、目が覚めてからのことです。安倍元首相の暗殺が報じられているということでした。日本の大手メディアでは「特定の団体に恨みがあり、安倍氏がこの団体とつながりがあると思い込んで犯行に及んだ」という趣旨の供述をしている、と報道されていました。「思い込んで」というのは、勝手な忖度による付け足しでしょう。報道機関の方でもこの時点ですでに自己検閲的になり、ある種の混乱に陥っていたことが伺われます。 いずれにしても、ぼくにはそんなことを考える余裕はありませんでした。ぼくはそのとき、ただただ慄えるだけの存在になっていました。ぼくの反応があまりにも薄いことに妻はすこし物足りなさを感じたようでした。しかし、ぼくはそのとき、こころの底から慄えていました。大きく震えてうろたえる、ということではありません。そうではなくて、胸のうちを辿ってゆくとかぼそい芯のようなものに行き当たり、それが微細に慄えているのです。そしていつまでもそれが収まらないのです。 さまざまな問いが渦巻いていました。いまになって思うと、それは二つの問いに集約されます。このぼくはいったい何者なのだろう。ぼくはこれまでいったい何をしてきたのだろう。 もはやその問いに答えも出ています。ぼくは父、文鮮明の子であり、神の子です。そして、ぼくはこれまで、そのことからひたすら逃げつづけてきた。だれにも教会との関係を知られたくなかった。きっと大げさだと思われるかもしれませんが、ぼくはずっと「亡命」をしているつもりでいたし、そのように人生をやり過ごすつもりでいたのです。妻にも出会い、子を授かることもわかりました。このままうまくやり過ごすことができたら。そんなぼくのささやかな願いを打ち砕いたのが、七月八日に起きた事件です。 いまぼくは日本に帰ってきて、ホームレスをしています。ある図書館のかたすみに身を寄せながら、この手紙を書いています。なぜ、手紙を書くのか。それは、あなたがまだ自殺せずに生きているからです。自殺せずに生きているということは、まだ活動をとめていない心臓があり、耳があり、自分の引き起こした事件の帰結にむきあうことができる、ということです。 フランスで習った言葉を使えば、あなたは responsible です。つまり、応答できる状態にある、ということです。ぼくはあなたからの返事を期待してこの手紙を書いているわけではありません。あなたに読まれることを期待してもいない。しかし、それでもあなたは生きているから、responsible であることには変わりない。だからぼくはこの手紙を書くことができる。そして、ぼくはこの手紙を書かなければいけない。 それはなぜでしょうか。それはぼくが父、文鮮明の子であり、神の子だからです。そのことから逃げつづけてきたことに対して、ぼく自身に対して、ぼくなりの責任を果たす必要があると思うのです。そして、責任は、あなたが引き起こした事件の余波の後で、ぼくなりに生き延びてゆくなかでしか果たされないのだろうし、生き延びるためにはやはり、言葉を紡いでゆくしかないのです。 一通目の手紙にしては、あまりにもとりとめのない怪文書になってしまいました。ここまで目を通してわかったと思いますが、ぼくが結局したいことというのは、生きたあなたの耳を借りる、ということなのでしょう。あなたの耳の奥には暗闇が広がっています。その暗闇の先には、死の国がある、とぼくは思う。ぼくはこれからあなたの耳を通して、死の国へと下りてゆきます。 なんのために? それは言葉を返すためです。かけがえのないひとりの人の命を奪った事件によって豊かになった言葉があります。それを死へと送り返さなければならない。しかしそのためには、それを聞き届ける生きた耳が必要なのです。

11 Jun 2024 · 野浪行彦

静かなストライキの起こし方⎯⎯のら公務員運動のための覚書

全国の若者よ、無職になろう そんな煽り文句がふと思いうかんだ。いつものようにコタツのなかでみかんを頬張りながら漫然とツイッターをながめていたときのことだった。 「オーストラリアにワーホリで来てから4年3ヶ月目。ついに2000万円貯まりました」というつぶやきがまず目にとまったのだった。 この手の話は特に円安のはじまった2021年以降、様々なところでささやかれるようになってきている気がする。たとえば、2023年の2月には「安いニッポンから海外出稼ぎへ——稼げる国を目指す若者たち」というNHKクローズアップ現代の番組が放映された。日本での安定した職を捨てた若者たちがワーキングホリデーを利用してオーストラリア、カナダ、ニュージーランドなどにわたり、農業や介護に従事しているということだった。 ちょうど同世代のネパール人やベトナム人で、そういった国に渡る切符に恵まれなかった人たちが、ハズレクジとしての日本に流れついてしまい、まさに農業や介護の現場で奴隷的な扱いを受けているのを考えてると、なんともふしぎな気持ちになる。ある意味、出稼ぎ市場のパイを(少数とはいえ)日本人の若者に奪われた結果、日本にしか来られなくなった人たちだとも言えるのかもしれない。人権意識はともに同じくらい低いので労働をさせやすいが、従順さという点ではまだ日本人のほうに分があるということなのかもしれない。 そんなことを考えながら番組を観ていたとき、経済学者の渡辺努さんが興味深い発言をした。日本人の若者の出稼ぎは「労働市場に対する、若者たちの静かなストライキ」であるのだという。アメリカやヨーロッパでは生活を守るために当然のようになされているストライキが、なぜか日本ではなされない。そのため二十年以上賃金も上がらない。そんな日本に若者が見切りをつけているのではないか、と。 渡辺努さんはそんな指摘をした上で、静かなストライキがもたらす正の効果に期待している。「日本の労働市場の労働力が足りなくなっていくので、労働市場が引き締まっていくという点では賃金が上がっていくということも起きる」という。 現状としては、労働力不足のつけをいわゆる外国人労働者が知らずしらず支払わされている。彼らには、すくなくともいまはまだ、連帯してストライキをできるような状況にない。日本国憲法によって人権が保証されているわけでもないから、国に送り返すぞ、と脅されれば、それ以上何もできなくなってしまう。ブローカーの甘言につられて日本に辿りついてしまうこのような不幸な若者たちの姿が消えたときにこそ、渡辺努さんのいうような賃上げの期待もできるかもしれない。 しかし、それと同時に、僕はこうも思うのだ。ワーキングホリデーのほかにも、もっと簡単に、しかも日本国民であればだれでも「静かなストライキ」に参加する方法がある。 生活保護である。あるいは、ナマポともいう。 ちまたでは、4000万円ほどの貯蓄があれば、いわゆるFIRE(Financial Independence, Retire Early)ができると言われている。それだけの資産があれば不労所得によって年間150万円ほどを得られる(そしてその枠内の生活をする)と仮定した場合の話である。 もちろん現実問題、だれしもがそんなFIREな夢を見られるような経済状況にあるわけではない。よほど恵まれていないかぎりは、4000万円という額を貯蓄をするのには多くの時間を要する。あくせく働いて4000万円が貯まるころには、定年を間近に控えていてもおかしくないのだろう。 それならいっそ……と僕のようなプーは考えてしまう。生活保護でFIREをすればいいのでは? 4000万円を資産運用した場合と同等の額が毎月もらえる。そしてなにより、仮にワーキングプアとされる層の人たちが一斉にいわゆるナマポ族になったとすれば、結果的にそれだけで戦後最大の静かなストライキが行われる、ということになる。もっとはっきりいえば「静かな革命」である。そして、日本国民であれば、いますぐに実行できる。 いや、いますぐ、というのは正確ではない。というのも、現状の仕組みでは、一定の資産がある者は生活保護を受給できないことになっている。そして、まさにそのことが生活保護の受給者数を著しく限定するとともに、生活保護受給者=貧乏人(さもなくば、怠け者の穀潰し)という差別意識の醸成にも一役買っているのだろう。 そのため、多くの人は、普通に働くことを選ぶことになる。毎月14万円ほどもらえる権利があるにもかかわらず、毎月搾取されながら14万円分の給料をやっとの思いで手にして、大した貯蓄もできずにいる人たちもいる。 働かなければ生きていけない、という強迫観念も根強い。そしてそういったことがすべて、搾取の構造の強化に加担している。ゼネストも革命も起こらない。自殺者数も減らない。経済がいたずらに内側から摩耗してゆくなかで、格差が広がってゆく。そのしわ寄せをだれよりも受けているのは、憲法によって守られた日本人ではなく、運悪く日本で暮らしはじめてしまった外国人である。そして僕には、そんな状況への想像力や感性がこの社会には著しく欠けているように思えてならない。 そこで、あらためて問いたい。この「日本社会」とは、いったい何なのだろう。 社会人という日本語が凝縮する闇 私たちは普段からさして意識することなく「社会人」というきわめて奇妙というほかない言葉を使っている。あるいは「社会に出る」というような表現。よくよく考えてみると、おかしな言い方である。英語などにも翻訳できない。そもそも「社会」とは何か? これは本当に英語でいうところの「society」なのだろうか。 たしかに「社会」という語は「society」という語を翻訳するために19世紀末に生みだされた。ここではさらに「会社」という言い方もまた「society」の訳として使われていたということを思いおこしてみてもいい。 というのも、まさに日本においては「社会」と「会社」という二つの異なる概念が、現代においてもあまりにも密接に重なりあうことがある。社会のために生きるということが、会社のために生きるということとしばし同一されてしまう。これは公共性を支える「公」、つまり「おおやけ=大きな家」の概念に関しても言えることなのだろうけれど、近現代の日本の知の枠組みにおいては、社会や会社というものがとかく「家」のようなものとして理解されてしまうのだ。さらには「国」でさえ「国家」として理解されている。 きっとこのような発想の枠組みのなかに置かれているものの一つが「社会人」であるのだろう。すくなくとも現代の日本においては「社会人」という一人前の存在として認められるためには、会社などに勤めていなければならないとしばしば考えられているようだ。たとえば、生活保護の受給者が社会人と呼ばれることはあまりないのではないだろうか。 しかし、ごく当たり前の話をすれば、社会というものは、本当は普段から私たちが想像する以上に、広い。会社の外にも社会はある。家のなかにも社会はある。どこにでも社会はある。そんな社会のなかでは日々さまざまな形の経済活動が行われている。だから稼ぎのある社会人でなければ社会に貢献できない、ということはない。あまりにも当たり前の話になるけれど、あらゆる人がその人なりの仕方で社会人である。そんな当たり前を「社会人」や「社会」という語の現代的な用法は覆い隠してしまっている。 ここで生活保護の話に戻れば、多くの人が生活保護を受給しない理由として、経済的な自由が制限されることのほかに、社会的な居場所がなくなることへのおそれも挙げられるのかもしれない。無職では何者でもなくなってしまう。社会的に孤立してしまう。そんな不安もよぎる。けれども、やはり、社会は思っているよりもずっと広いのではないか、と僕は思う。 生活保護を受ければ、さまざまな欠乏から自由でいられる。これは行動経済学者のダニエル・カーネマンという人が言っていることなのだけれど、金銭的、時間的な欠乏は、人を近視眼的にする。働かなければ生きていけないという強迫観念を抱えながら生きていると、それだけで生活に負荷がかかり、広い視野を持つことができなくなり、自分がはまりこんでいる穴から抜け出せなくなる。それが負のスパイラルを引き起こして悪化の一途をたどる。 いわゆるアテンション・エコノミーの全面化した現代において人は暇というものを持つことが難しくなった。「暇」という語が死後になりつつある気さえする。時間が経済的に最適化された世界はカーネマンのいう「余裕 slack」というものをどこまでも縮小させてしまう。そんななか、生活保護によっては必要以上の金銭を得ることはできないが、そのかわり「暇」を得ることができる。 その「暇」こそが本当はもっと広いはずの「社会」を発見する一助になるのではないだろうか。たとえば、時間的なゆとりができた分、地域の子供食堂で働いてみたり、移民の子供たちに日本語を教えてみたりすることができる。ある意味では、格差を拡大させつづける搾取の構造の歯車になって、終わりのない金稼ぎのゲームにあくせくするよりも、こちらのほうがずっと「社会的」であると言えるかもしれない。 ただ、生活保護を受給することで経済的な自由が制限されることは、多くの人の望むところではないだろう。また、一度生活保護を受けてしまうと、そこからなかなか抜け出しにくくなることも問題である。僕は今年の夏に現在のフランスでの仕事に区切りがつき、さしあたりは日本で路上生活者をすることになったので、そのことについて、いろいろなことを考えたり試したいと思っている。この記事はその覚書ということになります。 物騒な革命、静かな革命 万国の労働者よ、団結せよ、という有名な煽り文句がある。マルクスの『共産党宣言』(1848)によって知られるようなった言葉だ。Wikipediaによれば、初出はフローラ・トリスタンという女性フェミニストの『労働者連合』(1843)だという。気になったので、英語版に目を通してみた。しかし、それらしき煽り文句は見つからなかった。そのかわりに、エピグラフには「Workers, unite-unity gives strength」とあった。「労働者よ、団結せよ。団結は力なり」とでも訳せるだろうか。しかし、引用元が記されていない。そこでさらに仏語原文にあたってみると、問題のエピグラフのところに次の記載があった。 Ouvriers, vous êtes faibles et malheureux, parce que vous êtes divisés. - Unissez-vous. - L’UNION fait la force. (Proverbe) 労働者よ。きみたちはか弱くふしあわせである。それはたがいに分け隔てられているためだ。団結せよ。団結は力なり。(ことわざ) ことわざ、とある。まぎらわしい書き方がされているけれど、ことわざであるのは「団結は力なり」の部分だけだろう。残りの部分は、著者がシャルル・フーリエのような先人から学んだ考え方であると思われる。団結が力になるという考え方自体は、ちょうど「分断して統治せよ divide et impera」という裏返しの考え方が古代ローマからあったように、はるか昔かあったはずだ。ただ、労働者(プロレタリアート)という団結の単位が生まれたのはさまざまな革命の起こった18世紀後半ということになるのだろう。 しかし、そんな労働者という言葉も、現代の日本ではさして使われなくなってしまった。もしいま仮にマルクスが「労働者の諸君!」と路上で呼びかけたとしても、きっとだれも足をとめて耳を傾けることはない。「そこの社畜!」とか「お前、ワーキングプアだろ」というような煽り文句のほうがまだ振りむく人が多いかもしれない。しかし、そこでさらに「団結しろ」と言われても困ってしまうだけであるのは目に見えている。いまから革命を起こすから、協力しろ? 陰謀論にでもかぶれているのか? ということになる。 現代では、人を扇動することが困難になった時代なのかもしれない。すくなくとも、目に見える形での革命、つまり「物騒な革命」を夢見ることは難しい。そういうものを真面目に信じているのは、カルトの信者くらいである。米国の福音派でも統一教会でもいいけれど、彼らはいつかどこかで世界が様変わりするところを夢想している。そして結果的にはそれが保守の思想につながるというねじれ現象も起きている。 日本にも55体制というものが現在進行形である。CIAのフロント組織である自民党の独裁体制である。何世紀にも渡る植民地主義の経験から帝国が学んだことは、武力による支配はかならず反発を招くというものだった。そして、現地の人間が団結をしてゼネストを起こすだけで、支配体制は崩壊する。1945年以降に日本を統治することになる米国もそのことが[よくわかっていた](https://www.javadc.org/java/docs/1942-09-14 Memo on Policy Towards Japan by Edwin O. Reischauer_P4_ay.pdf)から、人心の掌握をした上で、角の立たない形、つまりあくまで物騒ではない形で長期的に植民地の養分を吸いあげてゆくという戦略をとった。それが功を奏した結果こそが現代の日本の姿でもあるのだろう。 ...

19 Feb 2024 · 野浪行彦

Christmas Eve By Eduardo H. Galeano

毎年、クリスマスが差し迫ると、エドゥアルド・ガレアーノというジャーナリストによって語られた短い話のことを思い出す。彼がフェルナンド・シルバというニカラグア人の医師から直接聞いた話であるようだ。それが「クリスマス・イブ」という題で文章化され、英語に訳されたものが『The book of embraces』(1991)という本に収められている。現在ではInternet Archiveで閲覧可能になっている(p.72)。とても短い話なので、ここに和訳しておく。 マンガグアという町にフェルナンド・シルバという男がいた。彼は町のこどもたちのための病院を営んでいた。 あるクリスマスイブの日のことだった。彼は夜遅くまで働き詰めていた。外から爆竹の鳴るのが聞こえ、花火の夜空を照らすのが見えたときになってようやく、彼は仕事の収めどきだと思った。家に帰ってお祝いをしなければならなかった。 万事が平常であるよう、彼は最後の巡回をした。そのときのことだった。 背後から足音がした。消えいるようにやわらかい足音だった。ふりかえると、病気のこどもがひとり、あとをつけてきた。ほのぐらい灯りのなかにくっきり浮かびあがったその顔には、死相が刻まれていた。もう死から逃れられない。ゆるしを請うような目をしていた フェルナンドが歩みよると、男の子は手をさしのべて、口をひらいた。 ——だれかに知らせほしい。 声は、ささやくように口走った。 ——ぼくはここにいるんだって。だれかに知らせてほしい。 クリスマスまで残すところわずかになった。けれども、今年だけはクリスマスがやってくる気がしない。やってきたとしても、それがもはやクリスマスだという気がしない。クリスマスというのは、暗闇や寒さのなかで人のぬくもりが際立つ日である、と思う。クリスマスには、小さく寄り集まる人のぬくもりを世界そのもののぬくもりのように錯覚させるような魔力がある、はずだった。世界が闇に包まれたとしても、求めればぬくもりは与えられる。どこかに必ずぬくもりはある、と思わせるような。 しかし、今年はただ、身も蓋もないほど暗く寒い。もはや人のぬくもりが人のぬくもりではない。たしかに、人がいまこうして悲痛な形で大量死をしていることは、それ自体としてはそれほど驚くべきことではないのかもしれない。普段は見えてこないだけで、本当はこの世界にありふれていることなのだ。けれども、それが重大な国際問題として世界中の目に晒される形となり、それでいてそれをだれも止めることができないのは、いったいなぜなのだろうか。

24 Dec 2023 · 野浪行彦

シェヘラザードのたくらみ⎯⎯中上健次のための千夜一夜物語考

千夜一夜物語という説話集がある。一般にはイスラム世界のものだと考えられているけれど、千夜一夜の物語が揃ったのは西洋でのことだった。というのも、東洋学者オリエンタリストのアントワーヌ・ガランがはじめてフランスに紹介する際に依拠した写本には、三百夜にも満たない数の物語しか収められていなかった。それが文字通りの千一夜にまで膨れあがったのは、植民地主義のまなざしのなかで物語が蒐集され、ときに創作された結果である。とはいえ「文字通りの千一夜」という言い方には、語弊がある。千夜一夜物語はいまでこそアラビア語で「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」として知られているけれど、もとはただの「アルフ・ライラ」、つまり「千の夜」に過ぎなかったからだ。そして、この「千の」は「多くの」という意味で使われていたのだった。「八重桜」の「八」のように。ところが、何かの悪い冗談だったのか、オリエンタリストたちの手に渡るころには千一夜の物語として知られるようになっており、そのいかにも厳密な言い方を真に受ける者がいたのだった。 千夜一夜物語は文字通りの意味でのお伽話である。お伽とは夜の相手となって無聊を慰めることである。話し相手にも性交の相手にもなる。古くは「物語」という語にもこのような二重の意味があった。千夜一夜物語はまさにそれ自体が一つの長い前戯でもあるような千一夜の寝物語ピロートークとして展開する。とはいえ、対等なかたちの交わりではない。つまり対話的ではない。というのも、性の遊戯のなかで積極性を発揮するのが男の方であるのだとしたら、女の方は物語において積極性を発揮するからだ。女の方は夜ごと男の耳の穴を犯すように物語を吹きこみつづける。 事の発端はこうだった。むかしむかし、シャフリヤールという王がいて、自身の后がひそかに数多の奴隷たちと淫蕩のかぎりを尽くしているところを目撃してしまう。王は怒り狂い、后の首を刎ねた。自身が王という権力者であってなお裏切られてしまう、ということに衝撃を受けたのだった。王は王として女を独占しなければならない。王は力によって支配できないものの存在が不安だった。そこで思いついたのが、国の処女を夜ごとに寝床に呼びつけ処女を奪った後に殺してしまう、という計画だった。殺してしまえば、その後不貞を働かれることもない。このように、王は王としての力を発揮することによって、自身の不安を取りのぞこうとした。そこで、王は三年にわたって──つまり約千一夜にわたって──処女に夜伽をさせ、そのたびに命を奪っていった。ところが、処女を集める使命を担っていた現場の大臣は、ある日もう王国に処女が残されていないことに気づく。残されていたのは、長女のシェヘラザードと次女のドニアザードだけだった。 悲嘆にくれた父にシェヘラザードが言う。自分が行く。自分には秘策があるので安心してほしいと。その策とは次のようなものだった。シェヘラザードは王の夜の相手をした後、最愛の妹であるドニアザードに言い残しておきたいことがあるという。妹には物語を一つ聞かせるという約束を前日にしていた。死の間際とはいえ、その約束だけは守らなければならない、と。王はそれを許した。そこでシェヘラザードが物語をはじめると、王は物語の虜になってしまう。ところが夜明けが近づき、佳境にさしかかったところで、シェヘラザードは口をつぐむ。そのタイミングで、明日続きをきかせてほしい、と妹がせがむ。こうして新たな口約束が結ばれ、物語の「おあずけ」が千夜にわたって続くことになり、そのあかつきには思いもよらない衝撃的な結末を迎えることになる。 物語は、千夜にわたって果てない。オルガスムに達しない、という意味において。こういってよければ、つねに前戯の延長線上にとどまり「本番」が始まることはない。王が主導する夜伽=性交においては、王の射精とそれに続く処刑という力の行使によって幕が引かれる。しかし、シェヘラザードの夜伽=物語は、性の遊戯を生への遊戯へと転嫁させるための千のクライマックスがある。『千のプラトー』に引かれたグレゴリー・ベイトソンの言葉をかりれば「一種の連続した強度のプラトーがオルガスムにとって代わっている」。ドゥルーズ=ガタリは続けて言う。「一冊の本は章から構成されるかぎり、それなりの頂点、それなりの終着点をそなえている。逆に、もろもろのプラトーからなる本、脳におけるように、いくつもの微細な亀裂によってたがいに通じ合うプラトーからなる本の場合は、どのようなことが起こるであろうか? 一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ」。 このような物語のあり方は、千夜一夜物語においては枠物語の仕組みによって実現されている。千夜一夜物語は、千夜一夜にわたる長い一つの物語なのではない。シェヘラザードがそうであるように、物語の中の登場人物もまた語り手に転じることによって、物語は多次元的に深まってゆく。そしてこの仕組みこそが王を物語の深みへとはめこむシェヘラザードの企みなのだった。西尾哲夫によれば、アラブ世界には女性の弄する悪知恵を意味するカイドという言葉があるらしい。日本語で用いられる「奸よこしま」の漢字にも「女」が含まれているけれど、イメージとしてはそれに近いかもしれない。力のない者の発揮する奸計。 シェヘラザードは力によらず、言葉のたくらみによって自身の命を救い、千人の処女の命を救った。物語は三年に及ぶ処女殺しという一本の歴史の線を打ち消すように深まってゆく。シェヘラザードはふしぎな生き延び方をした。フランス語では「生き延びること」を「survie」という。サバイバルである。しかし、この語は同時に「死後の生」や「魂の不死」をも意味する。もし仮にシェヘラザードが彼女自身の物語のなか、つまり彼女自身が主人公として登場する第一夜の物語にとどまっていたのなら、彼女は殺されていただろう。それが彼女の運命さだめだった。時間がまっすぐに流れる先には、必ず死が待ち受けている。どれほど力がある者でも、死を避けることはできない。一人のひとの運命はつねに一つである。けれども、また、人の数だけあるのが運命である。そしてシェヘラザードは別の運命=物語を語ることで、自身に待ちうける死を逃れた。このとき、シェヘラザードは単に残された生の猶予を延長したという点、変えられない運命を引きのばしたという点で生き延びたのではない。同時に、別の運命を開示してみせること、千一夜にわたって明けない夜に幽閉された自身の物語ではなく、その彼方にある昼の物語を開示してみせること、自身もまた千にあるうちの物語の登場人物の一人にすぎないことを示すことで死後の生を得た。これは同時に、一つの物語の登場人物として死を運命づけられていても、それでいてなお未知の物語の語り手にもなりえることの開示でもある。物語は生き延びるため、圧倒的な死の力に抵抗するためにある。

27 Nov 2022 · 野浪行彦

固有名と親族呼称についての覚書

ソール・クリプキが2022年9月15日に亡くなった。『名指しと必然性』(1972) の著者である。クリプキのことは柄谷行人の著作を通して知った。日本ではおそらく1980年代ごろ、特に柄谷が『探求』(1986)を発表したころから、固有名をめぐるクリプキの議論が注目を集めるようになった。 この固有名という概念は、固有名詞 proper nounという言い方とは微妙に違うことからも示唆されるように、文法的なものでない。個別の言語の文脈から切り離された哲学的概念だった。ここではそんな固有名をめぐる問題を言語学的な観点から掘りさげたい。具体的には、日本語の親族呼称システムにおいて、固有名がどのような位置づけを持ち、そこにどのような意義があるのかを考察する。ここでいう固有名とはいわゆる名前のことである。英語でいえばnameだ。フランス語では、name(名)にもnoun(名詞)にもなるnomという語が用いられる。それゆえにnom propre (proper noun) と明示しなければならない。その日本語訳が「固有名」とも「固有名詞」ともなるのだけれど、ここでは前者の訳語を名前(name)の意味で用いることにする。 日本語にはさまざまな親族呼称がある。親族呼称とは「お父さん」や「お母さん」、「お兄さん」や「お姉さん」といった呼び名のことだ。日本語には人称代名詞(英語でいうIやYou)の概念がないため、親族間の会話においては、しばしば自称(一人称)や対称(二人称)、他称(三人称)のために用いられる。例を挙げておこう。 1.お父さんは悲しいよ。 I am sad.(自称) 2.お父さんは悲しいの? Are you sad?(対称) 3.お父さんは悲しがっている。He is sad.(他称) これらの「お父さん」はすべて呼称である。ただひとりの人を名指ざす呼び名、いかなる形でも定義できない名として、独異性を持っていると言える。ただし「太郎」のような固有名とはすこし違う。というのも、親族呼称はなにより関係性をあらわす語であり、さらには一般名詞としての意味作用も持つからだ。たとえば「全国のお父さんが悲しがっている」というような文においては「お父さん」は父親一般を意味しており、「母親」や「子供」のような概念との対立関係のなかに置かれている。さらに、具体的な親族コミュニケーションの場においては、上述の例文のように、ただひとりの「お父さん」という呼び名で名指される者としてその妻子との対比のなかにある。このように他の語との相関性を持つ親族呼称は、固有名とは区別されなければならない。というのも、固有名は基本的にいかなる語とも対立関係を持たないからだ(たとえば「ポチ」という固有名の対義語を考えても無益である)。このように完全な固有名であるとは言えないものの、親族呼称は「名」としての独異性と「名詞」としての一般性を同時に兼ね備えている。では、この二重性は何に由来しているのだろうか。この問いに答えるためには、日本語の親族呼称システムの働きを見てみなければならない。 日本語の親族呼称は一つの非対称性を生みだすような原則のもとで用いられている。その原則とは、序列が上の者の呼び名としては親族呼称を使い、序列が下の者の呼び名としては固有名を使うというものだ。この序列は基本的に世代や年齢の違いよって決まる。一例として次のような家族構成を考えてみたい。 [母]ユミコ [長女]ミカ [次女]ユキ 仮にこのうちの長女が私であるとして、原則的な話をしよう。私は母を「お母さん」などと呼ぶ一方で、母は私を「ミカ」と呼ぶ。その反対に私が母を「ユミコ」と名指すことはない。また、私は次女を「ユキ」と呼ぶ一方で、次女は私を「お姉ちゃん」などと呼ぶ。私が次女を「妹ちゃん」のように呼ぶことはない。つまり、序列が下の者は固有名で名指される一方で、序列が上の者は匿名者の立場にとどまる。非対称性を生みだすこのような規則によって親族コミュニケーション・システムという名の秩序が成りたっている。こういった規則がない場合、たとえば親族のあらゆる成員が固有名のみで名指しあった場合、言語使用のレベルにおいて親族の序列は失われる。親族呼称の使用規則は一つの秩序の創出のために不可欠なものなのだ。 ここで素朴な疑問が湧く。なぜ、いったい何のために、親族コミュニケーションの秩序は親族呼称と固有名の非対称性に支えられているのだろう。たとえばなぜ母は長女である私を「ミカ」と呼ぶかわりに「娘ちゃん」と呼ぶことができないのか。なぜ私は次女を「ユキ」と呼ぶかわりに「妹ちゃん」と呼ぶことができないのか。このような問いには無数の答えが考えられる。社会言語学的には、もっともらしい答えの一つとして次のようなことも言える。父と母が基本的にはそれぞれ一人きりであるのに対して子供は複数人になる可能性があり、その場合は固有名が各人を区別するのに有用である、というものだ。しかし、家族の状況が変われば、言語使用の形も変わる。たとえば、父や母が複数人になるような家族、たとえばホモセクシュアルの両親が子供を持つような家族の場合、「パパ」や「ママ」のような語が両親の識別の役に立たなくなってしまい、子供が両親を固有名で名指すこともあるかもしれない。このように様々な想定ができるけれども、ここではいずれにしても、固有名というものについての関心のなかで、もうすこし別の角度から日本語の親族コミュニケーションにおける非対称性の意義を考えたい。 そこでまず、親子の言語コミュニケーションの発生の典型的な現場を想定してみよう。幼児は六ヶ月ごろから人にむけて喃語を話しはじめるようになり、一歳ごろから「パパ」や「ママ」らしき言葉を発しはじめる。パパは子音に「p」を含み、ママは「m」を含んでいる。音声学的には両唇破裂音と呼ばれるこれらの子音は、幼児がはじめに発声することのできる単純な音である。幼児は父や母を意味しようとして「pa」や「ma」の音を出しはじめるわけではない。しかし、それらの音を両親は「父」や「母」としていわば身勝手に受けとる。その仮定で「パパ」や「ママ」という親族呼称ができあがり、それらが父と母とを識別する。その一方で、父母は幼児のことをたとえば「ミカ」と呼ぶ。このとき「パパ / ミカ」や「ママ / ミカ」といった対立軸ができる。これらはすべて呼び名であり、幼児にとってはいかなる一般性も持たない。 ところが、幼児はやがて世界には複数のパパとママがいることを知る。パパやママが単なる呼び名だと信じていた幼児にとっては、他人の両親はパパでもママでもない。にもかかわらず、パパやママと呼ばれているのを目の当たりにする。そのとき、パパやママという語が一般名詞でもあること、自身の両親はなにより「ミカのパパ」や「ミカのママ」であることに気づく。その一方で「ミカ」は「ミカ」のままである。こうした一般性への気づきを契機として、親族呼称であるパパ・ママと固有名であるミカとのあいだに非対称性が生じる。この非対称性は、成長した幼児が自身のことを「私」という一般性を伴った語で指示できるようになり、さらに「お父さん」や「お母さん」のような語を使うようになってからも維持されたままでいる。両親は子を「ミカ」という固有名で呼びつづける一方で、子が両親をその名で呼ぶことはない。このような規則によって親子の序列が支えられる。 固有名は子にとって所与=偶然のものである。他者によって与えられたものであり、自身が自身に与えたものではない。名にはいかなる必然性もない。「ミカ」ではない別の名前でもよかったはずだ。その一方で、親子関係は言語のレベルで必然を装う。気づいたときには、mamaのような音が、母親を意味するママという語にすり替えられることで、所与=必然のものとしてある。しかし、実際のところ「ママ」は肩書にすぎない。母親は匿名者でいる。やがて子が「ミカ」に代わって「私」と自称することを覚えても、母親はあくまで「ママ」や「お母さん」という語で自称をつづける。このような非対称性の維持のなか、必然性の装いのなかで、母親はひとつの不自由を強いられることになる。それは、自身の匿名性ゆえに、子の前では母親以外の何者でもあることはできないというものだ。それとは対照的に、自身に与えられた固有名がいかなる関係も含意しないことによって、名が偶然の産物であることによって、子は親族関係から半ば自由でいられる。それでもその自由が限定的であるのは、親族呼称システムにおいて固有名はつねに序列が上の者の親族呼称との対立関係のなかでのみその場所を持つからだ。こうして固有名は、二重の意味での独異性を持つ。第一に自身の親にとってはただひときりの「ミカ」を名指すための呼び名であること。第二に「ミカ」はほかの語といかなる関連性も持たずに存在できるということ。この二重性は、親族呼称が呼び名であるとともに一般性や匿名性を兼ね備えていることによって裏付けられている。というのもそのような一般性や匿名性との対比のなかでのみ、そして「ミカ」が「ミカ」であることの偶有性のなかでのみ、固有名の「ミカ」は独異であることができるからだ。一般性や偶有性のない世界には独異性もない。 日本語の親族呼称システムは、序列が上の者の名を隠して肩書のみを名乗るという規則によって、操作的に閉じられた秩序を作る。それと同時に、序列が下の者に名を与えるということによって、外部に開かれる(たとえば、ホームステイにきた留学生をその名で呼ぶことができる。それに対して、学生は親族呼称で応じることができる)。このような二重性は、父母が二通りの仕方でたがいを呼びあえるという事実のなかに結実している。父母はたがいの固有名で呼びあうことができる一方で「お父さん」や「お母さん」とも呼びあうことができる。親族コミュニケーションの秩序は父母が子の前で自身の固有名を伏せることによって強化されるが、その一方で当人は自身が父母以外の者でありえることも知っている。それと同様に、子の「ミカ」は家族の一員であると同時にその外の者であることも知っている。 以上のことは次のようにまとめられる。固有名は、日本語の親族間コミュケーションという具体的な言語使用の場においては、子にその名の与えられた瞬間から一つの力学のなかに置かれ、父母のような一般性を持った匿名者の存在によって裏打ちされる。固有名は親子関係の装われた必然性との対比のなかで自身の偶有性を見出す。このような力学において、独異性は一つの文法的な効果としてあらわれる。言語使用のダイナミズムを捨象することでのみ論じられることもあれば、そうではないこともある。

7 Oct 2022 · 野浪行彦

父、文鮮明のこと──負の現人神

自分は孤児なのだと思っていた。けれど、今になってわかる。それは単なる思いこみにすぎない。自分には文鮮明という父がいたのだった。自分が真まことの御父様の子、神の子でしかないということを安倍元首相銃撃事件によって思い知らされることになった。死の余波にこんなにも震えつづける存在、こんなにも動揺する自分はいったい何者なのだろう。その震えをたどってゆくうち、権力者の肉体に穿たれた豆粒のような穴に湧く血の海のなかから真の御父様の笑顔が浮かびあがってきたのだった。結局おまえだったのか、と息をのみ、正直とまどう。そのとまどいを形にしようとして、いまこれを書いている。 文鮮明が自分の真の御父様であるということは、比喩として受けとってほしくない。もちろん生物学的にはどの個体にも発生の起源としての生みの親がいるとするなら、そのような意味での親ではない。けれども、人の世の約束事としての親子関係においては、自分が文鮮明という比類なき色魔の子であるということには疑問の余地がない。お約束としての親子関係は、ジェンダーやセクシュアリティがそうであるように、生物学的にもっともらしい根拠に寄りそうかたち、自然を装うかたちで押しつけられる。幼児は非力なまま人の世に投げだされるから親子関係の押しつけに耐え忍んだり甘受したりすることによって生存をゆるされる。僕もはじめは、自分の生物学的な起源でしかないふたりの人間との親子の絆を信じてきた。それがある一面においては一つの吹きこまれた作り話にすぎないことには気づかずにいた。 その一方で、早くから無償の虐待を受けてきたためか、かれらを親というよりも同じ動物として侮る気持ちがあった。寝こみを襲って殺すという考えが何度となく頭をよぎった。けれども、怒りを通りこした蔑みを募らせてゆくうちに、ただひたすら関わりあいになりたくないとだけ願うようになった。中学卒業後は高校に進学することなく、ひとり暮らしをはじめることになった。そのときに追ってきた男、父を名乗る男と揉みあいになった末、自分の力が上回っていることを知り、殴る蹴るの暴行を加えながら言いしれない不快感に苛まれたときのことを覚えている。息子と思いこんできた男の拳がみぞおちに食いこみ唸り声を挙げながら地に倒れ悶え呪詛を吐く男。その顔を蹴りあげ踏みしめ、もう二度と顔を見せるなと言いふくめた。 この男もその女も自分自身も文鮮明の子に過ぎないということに思いあたり、筆舌に尽くしがたい怒りを覚えたのは、そのときのことだった。外の人には奇妙に聞こえる言い方をすれば、目の前で苦悶する男は自分の兄弟姉妹のひとりでもあったのだった。妻を持ち、子を持ち、父になってもなお、男は文鮮明の子でしかない。男の妻は、なにより文鮮明の妻(統一教会では「相対者」という)である。男は恐れ多くも自分の父である文鮮明の女に手をつけているにすぎない。真の御父様の身代わりとして肉の器になり、新たな神の子を産み出してさしあげているというだけのことなのだった。このような血縁関係のねじれが、性の愉楽の教団であるというほかない統一教会の教義の核にある。それを紐解くうちに見えてくる糸口、この震えとこのとまどいとを解く糸口があるような気がして、いまこれを書いている。 真の御父様の聖/性なる力 僕の生みの親には三つの興味深い共通点があった。まず、1955年生まれ、いわゆる55年体制のはじまった年の生まれであること。つぎに、父親を幼くして失っていること。そして、1982年に行われた統一教会の合同結婚式(「祝福」ともいう)の参加者6000双のうちの一組だったということだ。女の方は宮崎県都城市で一人娘として育った。七歳のときに父親が家の外で複数の女を作った末に蒸発した。それで心に穴でも開いたのかもしれない。高校を卒業後には集団就職で八王子の工場に勤めはじめた。学費を貯めて上智大学に通い、修道女になるという夢があったらしい。そんななかで教団のマインド・コントロールを受けて信者になり、人生の一切を投げだすことになる。他方、男の方は愛知県名古屋市の出身だった。四歳のときに伊勢湾台風に見舞われ、父親が行方不明になった。それを機に、母親といっしょに伯母の家族に身をよせて育てられた。それが後に家族ぐるみで入信し、土地をはじめとする一切合切を教団に捧げることになった。物語への免疫、物語への節操のないひとたちなのだった。 そんな二人の人生が1982年のソウルの蚕室チャムシル体育館で交差することになる。そこで「祝福」を受けたのだった。家畜を交配させるような手付きでマッチングは行われる。事前に登録された信者(「食口シック」という)の素性や経歴をもとに適宜組みあわせられてゆくだけで、そこに本人の意志が介在する余地は一切ないし、拒否することも許されない。男と女は真の御父様の肉の器となり、産む機械となって繁殖をする。その結果生まれてきた二世たちを「神の子」という。文鮮明の「血を分けた」と穢れなき存在であると考えられるからだ。それはつまり、どういうことなのだろうか。萩原遼の『淫教のメシア文鮮明伝』に拠りつつ、統一教会の教義をまとめておきたい。 文鮮明は1920年に大日本帝国の皇民として生まれている。もともと文龍明(日本名は江本龍明)といったが、キリスト教においては龍が悪魔サタンの象徴であることに気づき改名している。平安北道定州郡徳彦面上思里2221番地に文慶裕の次男として生まれた。いまの北朝鮮の北部の片田舎である。本人自身「十二、三歳まではバクチの選手だった」1と悪びれた素振りを見せないように、救世主メシアらしからぬ少年時代を過ごしたようだ。家族も風変わりだった。野村健二の『文鮮明先生の半生』には次の記述がある。「文少年の十五歳の頃、わざわいはさらに文少年自体の家にやって来た。二番目の姉さんが発狂し、上を下への大騒ぎをしている時、兄さんまでが精神異常となった。ふだんは大人しい性格なのに、ばか力を出し、自分に従わぬ者は殺してしまうとどなって、屋上に飛びあがったり、飛び降りたり、……仕方なく手錠をはめたら、監視の目を盗んで手錠のまま逃げだし、はては怪力で手錠をこわしてしまうという始末。文家の人々はこれはただごとではないと悟り、勧められてキリスト教に入教した」2。その後、16歳のときにイエスが現れ、ヘブライ語なまりのある韓国語によって啓示を受けた、とされている。 文鮮明がこのとき特に傾倒していたのが、異端とされた一派、李龍道のイエス会だった。文鮮明は1934年の春に京城に上って五山高等普通学校に編入し、1936年から39年までは私立京城商工実務学校に在学していた。この時期に関して神学博士の朴英管が次の指摘をしている。「文鮮明は永登浦黒石洞で下宿生活をしながら学生時代に李龍道の集会に深くおちいり、彼はとくに李龍道のスエーデンボルグの愛についての議論にすっかりとらわれてしまった(中略)文鮮明はひきつづき彼らの追従者となったが、キリスト教会は彼らを異端だと断罪し、教会から追放した。そして日本帝国主義の宗教的弾圧に文鮮明は姿をくらましたのである。その後彼は国が解放されてふたたびこの原理を広めはじめた」3。この指摘がどこまで妥当なのかはわからない。というのも、李龍道自身は1933年に33歳で夭折しているからだ。いずれにしても、この時代にイエス会をはじめとする様々なキリスト教系のグループの薫陶を受けることになったのは確かなようだ。 文鮮明は1939年ごろに京城から東京の高田馬場に移り、日中は車引きなどの仕事をしながら早稲田高等工学校という夜間の専門学校に通った。1943年ごろに卒業し、1944年には鹿島組(現鹿島建設)の電気技師として京城で働きはじめたものの、終戦に際して職を離れることになる。1945年8月15日の帝国解体以降、もっといえば、人間宣言の出された1946年1月1日以降、弾圧されてきた様々な宗教が息を吹きかえしたり新しく芽吹いてゆくことになる。そのなかに金百文や黄国柱といったキリスト教神秘主義者たちの起こしたグループ、性愛を高らかに謳う後のヒッピーにも通じるようなグループがあった。かれらには血分け(피가름ピガルム)ないし混淫という考え方があった。統一教会の用語では血統復帰とも血代交換とも呼ばれているものだ。ひとことでいえば、原罪を持たない再臨の救世主である教祖と性交を行い穢れを浄化することで純血の血統を引くことができる、という考え方だ。必ずしも教祖と直接的なつながりを持つ必要はない。血分けは性病のような感染力を持つから、卑近な言葉をつかえば、教祖の穴兄弟(竿姉妹)になるだけで救済される。 文鮮明は帝国解体後の平壌やソウルで、金百文や黄国柱の取り巻きの女らのと血分けを行った。そうすることで、教祖の兄弟格になるとともに、教祖の血統を受けつぐ子の立場にもなった。たとえば、尹成範と卓明煥の『韓国宗教の流れ』には次の記述がある。「彼(黄国柱)は三角山に祈祷院を建て、“血分け”、“肉体分け”を教義として実際に教え、霊体交換を実現していたが、これが鄭得恩(女=丁得恩とする説もある)によって統一教の文鮮明と伝道館の朴泰善に伝授されたものである」4。これとは反対に、鄭得恩こそが文鮮明から血分けを受けた、とする統一教会寄りの説もある。たとえば、金景来の『原理運動の秘事』では次のように語られている。「1949年3月からはじまった朴泰善一派の混淫は、1947年5月に単身で北朝鮮の平壌から越境した文鮮明の一番弟子、丁得恩の布教で勧められた。当時、丁はソウルの三角山に住居を定め、現実教会の青年男女に混淫(霊体交換)の教理を問いた。[…]丁ははじめ三人の男に一週間に自分の尊い血(文鮮明から授かった)を分けてやった」5。丁得恩は自身を大聖母と称し、ひとりの教祖としても振る舞っていたようだ。実状は、様々な教祖がたがいの血を分けあいながら自身の勢力圏を広げてゆくような混血の戦国時代だったのだろう。そんな乱れた血分けのネットワークのなかで頭角をあらわしたのが文鮮明だった。『原理運動の秘事』には元信者である張愛三の次の発言がある。「日本帝国主義からの解放とともに、筍のようにできた教派の中でごく少数の信者を抱き込んだ教主文氏は、平壌市内の一信者宅から事をはじめ、その主義と目的を世界の統一に、その教訓は神の恵みを受けてエデンの園の復旧に努めているといいふらしながら、実の内面では男女信徒の貞操を提供するよう教えたり実行したりしていたのです」6。文鮮明の生活は淫蕩を極めていた。 萩原は文鮮明の初期の逮捕歴を次のようにまとめている。「最初の逮捕は1946年8月11日。文鮮明は、混淫による社会秩序混乱容疑で大同保安署(警察署)に三ヶ月勾留されたのについで、1948年2月22日、またも主婦・金鍾華さんとの強制結婚事件で内務省に逮捕された。このとき文には1946年3月に結婚した妻崔先吉さんがおり、一男聖進を設けていたが、妻子をソウルに置きざりにして平壌で別の主婦と強制的な結婚騒ぎを演じていたのである。4月7日懲役五年の判決を受け、文は、興南刑務所に服役することになった。[…]統一教会はこの二度の逮捕を、『共産党政府』による宗教弾圧であるかのように描きだしているが、罪名からして、破廉恥なものであることは隠しようもない」7。 文鮮明はその後何度も警察の世話になってゆくなかで、揺るぎない信念とともにあまたの淫行を重ねることになる。その信念を支えたのは、師のひとりである金百文による聖書解釈、特に創成期のエデンの園の物語の解釈だった。金百文によれば、エバ(イブ)が蛇にそそのかされて善悪を知る木の実を食べたというくだりは、エバが天使長ルーシェル(ルシファー)、つまりサタンと性交したことを意味している。そして、エバがその穢れた体でアダムと交わり、アダムをも穢したことで、カインとアベルをはじめとするその子孫たちに堕天使の穢れた血が流れることになったのだという。この罪を取り除くという「復帰摂理」のために降り立ったのが、清らかな血を持って生まれた救世主イエスである。イエスには人と性交することで血の穢れを取り除く魔法の力があり、その力には性病のような感染力もあった。にもかかわらず、イエスは独身のまま33歳で死んだ。イエスは自身の母親であるマリアをはじめとする女たちと交わり、血分けをすることで、女たちを「復帰」させる使命があったにもかかわらず、それを果たせなかった。それゆえ、イエスの霊はいまなお悔恨の思いに苦しんでおられる。そこで再臨することになったのが金百文であるという。文鮮明はこの教えを流用し、数ある模倣犯のひとりとして、自身こそ真の救世主であると吹聴してまわるようになった。 興南強制労働収容所(興南刑務所)に服役中、文鮮明は自分の右腕となる朴正華という男に出会った。朴正華は、やがて師に見限られた末に『六マリアの悲劇──真のサタンは、文鮮明だ!!』(1993)という手記を出版する。そのなかで、刑務所を出た後の夢を語りあったときのことを報告している。「これから先生はどういうことを行い、どうやって理想の天国を感性させていくのですか」8という問いに、囚人の文は次のような壮大な色情狂の夢を臆面もなく語ってみせる。 それは、イエスがこの世の中に生まれて達成できなかった、女の人たちとの復帰だ。まず、天使長ルーシェルとのセックスによって奪われたものを、それと同じ方法で、夫がいる人妻六人、すなわち六人のマリアを奪い取ることによって取り戻さなければならない。[…]汚れたサタンの血を浄めるため、血を交換する復帰をしなければならない。これを『血代交換』と言う[…]。六マリアを復帰したら、再臨のメシアは次に、セックス経験のない処女を選んでエバと定め「小羊の儀式」をする。アダムの再来であるメシアとエバは、真のお父様・お母様であり、その二人から生まれる子孫は、永遠に罪のない清潔な存在となる。[…]最初に再臨のメシアから復帰させられた女は、他の男の食口と、女が二回上になって「蘇生、長成、完成」の三回にわたる復帰をしてあげることができる。復帰を受けた他の食口は、違う女の食口たちとも、女が上で二回、下で一回セックスをして復帰させる。またその女の食口が、他の男の食口に、女が上になって二回、下で一回セックスをして復帰させる。こういうやり方で広まっていくことになる。 このとき、この教義の理論的な問題点に文鮮明がどれほど自覚的にむきあおうとしていたかはわからない。問題点とは、穢れを払う聖/性なる魔法の力が性病のような感染力を持ってしまうかぎり、つねに無数の新しい教祖が誕生してくる可能性があり、父としての文鮮明の女の一極支配が脅かされてしまう、というものだ。まさにそのような形、血分けを受けた亜流の教祖として成りあがったのが文鮮明そのひとである以上、この危険に気づいていたのは間違いない。実際、出所後にできた弟子のひとりが文鮮明の父権を揺るがす放蕩の動きを見せたときには注意深く退けられている。統一教会の聖歌を作曲したことでも知られる元無期懲役囚の金徳振である。金は文鮮明の教えを受けて次のように考える。 この原理をいち早く私は悟りましたねぇ。人間の身体をした神様(文鮮明)のセックスの輪をどんどん拡げていくことが、神様の希望を叶えることになる──。/もともと不良で、青春株式会社社長を自称して女遊びをやりまくっていた私は、ピンときた。これは罪ではなく、良い仕事なんだと。学生時代に日本で、喫茶店の女の子などを誘惑してその晩に犯したときなどは、罪の意識を感じたこともあった。だけど統一教会の復帰原理は、一所懸命にセックスに励めば励むほど、神の摂理に従うことになる──。/そこで私はまず、文鮮明とセックスして復帰した劉信姫さんから、「神様の尊い血」を分けてもらうことにしたのです。[…]それで私は、劉信姫さんと有難くセックスしました。彼女は夫のある身だったけど、欲求不満もあったんでしょうかねぇ。不良で助平で、大勢の女性と経験してきた私のテクニックに、もうメロメロになって喜んでくれましたよ。/「今までで一番良かった。文鮮明先生より何十倍も良かった」と言ってね。[…]文鮮明と復帰のセックスをした女は、他の男と血代交換のセックスをしなければならない。男は第二の女とやり、女は第三の男とやり、そして第四の女へとリレーをしていく……。こうして拡がっていくのが原理じゃありませんか。それによって世界じゅうの男女が血代交換され、身体の血代交換が進行し拡大することが、すなわちサタンの血を追放することになる──と、原理で文鮮明が教えているんですよ。/だから私は遠慮なく自信をもって、東奔西走で励みましたねぇ。ソウルはもちろん大邱でも釜山でも、キレイなべっぴんさんばかりを厳選して、十五~六人はやりましたかねぇ。ソウルで私が五人の女性とセックスしたのが、一週間後には何と七十二人の輪になったそうです。これも立派な原理実践の成果ですよ。9 淫蕩のスケールとしては文鮮明の足もとに及ばないと言うほかないけれども、元信者のこの証言は、文鮮明がいかにしてひとりの教祖に成りあがったかということを如実に示している。原理的には、このような新しい教祖の誕生を防ぐことはできない。かといって、聖/性なる魔法の感染力を否定することはできない。それを否定すれば、救世主は約70億にのぼる罪人たち、しかも日に日にその数を増してゆく罪人たちすべてと性交をしなくてはならなくなるからだ。さらにその実践には文鮮明の忌避する同性愛も含まれることになる。それゆえ「復帰」は無数の男と女のリレー形式で行われなければならず、そのかぎりにおいて教祖の父権はつねに脅かされつづけることになる。この危険を象徴的な教義や儀式の体系によって抑えこもうとする意志のなか、文鮮明を中心とする淫行グループは教団として組織化されていった。 統一教会のとりおこなった集団婚のうち、1960年と61年に行われたはじめの二つは、それぞれ「三組聖婚式」と「三十三組聖婚式」と呼ばれている。このときに文鮮明と混淫した女とその配偶者のことをあわせて三十六家庭という。朴正華はいう。「文鮮明が世界の人間をすべて復帰し、血代交換させることは無理なので、この三十六家庭だけを直接復帰(血代交換)させることにした。そのあとは、真の父母が『聖水』をまいて、新しく結婚する新郎新婦に祝福を与えるという形に変え、『合同結婚式』を行うことにした」10。聖水、さらに文鮮明が性行為の後処理に使ったとされる「聖布」によって結婚に臨む身体の外側が浄められ、その内側は「聖酒」を飲むことによって浄められる。この酒には「父母の愛」と「血」の象徴が注ぎこまれている。こうして救世主との性行為が象徴物に置き換えられることになった。罪深き女は、エバがサタンと交わったあとでアダムと交わったのと同じように、象徴的に文鮮明と交わったあとで男と交わる。このような儀式を確立し、システマティックな救済を可能にすることで、統一教会はその起源にあった聖/性なる感染力を封じこめ、教祖というただひとりの父の精力を特権化しようとしたのだった。 儀式によって文鮮明の血を分けあたえられたものは、みな真の御父様の子である。とりわけ、そんな父の子たちが産み落とした子、つまり二世は、生まれつき原罪のない清らかな血を持つもの、救世主と同じ立場のものとして生を受ける。二世は穢れた血を持つ部外者と交わってしまうことで堕落するとされているけれども、この後付けの話は二世の組織的な囲いこみのためだけではなく、文鮮明の精力を特権化するために考えだされたものでもあったのだろう。本当は、文鮮明がそうであったように、だれもが聖/性なる感染力を持ち、血分けの魔法使いになれる、ということを教団が認めることはない。 けれども、僕は神の子であるこの自分自身がもうひとりの文鮮明であること、無数の文鮮明のうちのひとりであることを知っている。そして、真の御父様への愛と呼ぶほかないものの導きによって、空の肉の器の交わりのなかで、この世に生みだされた化け物でもある、ということも知っている。穢れなき血をもった神の子の宿命として、この世のなによりも真の御父様を愛するように吹きこまれつづけてきた。いまでも覚えている。幼い勇気を振り絞り、統一教会は間違っている、と生みの母親に伝えたとき、そのことばはお前の存在そのものを否定することになる、と返された。その女の声に耳慣れないひびき、深い暗闇の底から湧いてくるようなひびきがあった。そのとおりなのだと、いまになって思う。真の御父様への愛によって産まれた以上、その愛の帰結である自分自身から逃げ出すことはできない。できることなら、その愛のすべてを真の御父様の肉体の一点に集中して、もうひとりの救世主として、御父様の肉体に注ぎこみお返ししてさしあげたかった。しかし、その御父様ももうこの世にいらっしゃらない。 合同結婚式によって神の子を産み落とすことは、ひとりの人間の全実在に対する罪であり虐待であること、ひとりの人間の尊厳や人権に対するあまりにも重大な犯罪であることは、疑う余地もない。けれども、そんな不遇のなかで、真の御父様がこの世にいらしてくださったこと、そして神の子のひとりである僕にも愛をお注ぎくださっていたことを、あまりにもありがたく思う。結局のところ、真の御父様がいなければ、いまこうして死の余波の痛みにふるえるような存在、この世界の痛みを感知する存在でさえありえなかったのだから。そして、この僕自身の存在の痛みを十全に感知してくださるのは真の御父様以外にはありえないのだから。 僕は同時に、真の御父様が極東の歴史の重みを背負うことで救世主としての使命を帯びた、ということも知っている。その点、自分は安酒のようなカルトによって生みだされた単なる化け物にすぎないわけではない、と信じているし、そう信じずにはいられない自分がいる。これは僕自身の信仰告白のことばでもある。そのようなことばによってしか「痛み分け」はできない。血分けと違い、痛みは、だれにでも、ことばによって、分け与えることができる。この列島では、天子様の言の葉によって、痛みを分けあうことができる。けれども、その痛みを裏付けることができるのは、血でもある。 二つのかけはなれた境遇の星が急接近するという七夕の翌日に、ひとりの権力者が血祭りにあげられた。そのとき、肉を食い破る鉄砲豆のような穴がこの世界に穿たれ、そこから浄とも不浄ともつかないものが生きているものの側のほうへ吹きだしている。それがひとをやさしく、うつくしくしてくれているのだった。もっといえば、ひとを傷つけながら生かすことで、この世界にみちている痛みをいささかほどでも感じとれるようにしてくれているのだった。フランス語には「sensibilité」という語がある。日本語では「感受性」とか「思いやり」と訳されたりする。とはいえ、もともと「sensible」という語には「感受性が強い / 思いやりがある」ということのほかにも「痛みや苦痛に敏感である」という意味がある。その文字を目で追いながら、自分の瞳の表面が鋭利な力によって深く切り裂かれてゆくところを思う。開いた傷口が、痛む。しかし傷そのものが痛みなのではなくて、傷が痛みを感知させる。フランス語の「sensibilisation」という言葉は日常的には「人の関心を喚起する」という啓蒙的な意味で使われているけれども、もとをたどればそれは第一に、傷を開く、ということだったのかもしれない。 この世界には痛みとして感知できないものがあまりにも多く満ちている。世界は基本的に、不感症なのだろう。ちょうど自分の体に穿たれた感覚器官の穴によってしか感受できないものがあるように、世界はつねにむき出しになって痛みに絶え続けているわけにはいかない。けれども、折に触れて、不意打ちのように、激しい痛みがおとずれることがある。このちいさな世界が7月8日以来の余波のなかでそれを感知しているのを目の当たりにして、ただありがたさとしか表現しようのないものが募る。それでもまだ、分けたりない痛み、感知したりない痛みがある。痛みを明らかにするためには、歴史というひとつの物語が必要である。 恨の錬金術師 2022年7月8日に起きた安倍元首相銃撃事件は、再臨の救世主としての文鮮明が背負ってきた歴史の重みと痛みを垣間見せるものでもあった。死は、ひとつの個体から痛覚を奪う。しかし、まだ生きている者たちは、死によって穿たれた穴をとおして、世界の痛みを感知することができる。また、その穴をとおして、ことばの導きの糸によって、過ぎ去ったものの世界の一端に触れることができる。神の子である僕自身は、神の名において、できることならみずからの手で真の御父様の肉体に愛の穴を穿ってさしあげたかった。けれども、今の僕には、身代わりとなった権力者の肉体に穿たれた穴をとおして亡き真のお父様へ愛を注ぐこと、そのためのことばを研ぎ澄ますことしかできない。ことばによって文鮮明の使命の重みを明らかにし、その重みによって死者のもとへ下ってゆかなければならない。 統一教会(世界基督教統一神霊協会)が正式に設立されたのは1954年、つまり朝鮮戦争終結の翌年のこと、日本で55年体制が立ちあがる前年のことだった。このとき、極東の情勢の変化のなかで、キリスト教に擬態した変態性欲の集団にすぎなかったものが、少しずつ形を変えてゆくことになる。そもそも文鮮明が興南強制労働収容所から脱走することができたのは、1950年6月に朝鮮戦争が勃発した後、同年9月に国連軍が囚人を解放したためだった。文鮮明は釜山まで南下して逃げ延び、飽くなき使命感に導かれて淫蕩生活を再開。おびただしい数の「六マリア」候補の人妻や「子羊」候補の処女との姦通をする。そのうちの処女の一人である金永姫が身重にになったのがわかると、適当な若者の信者をあてがい、日本に密航させてもいる。 朝鮮戦争は1953年7月に終わった。このときには、ソウル大学出身のインテリである劉孝元を引きいれ、教典の『原理原本』を書きあげさせていた。萩原は次のように言う。「文鮮明は、その説教にもよく現れているように大道香具師のような低俗な話しかできない男である。粉飾をこらさなくては普通の神経をもった人たちには、とうてい受け入れられるしろものではない。それをオブラートで包む役が劉孝元であり、彼の役割なしには、統一教会のいかがわしいセックス教義を、キリスト教でもっともらしくまぶして青年男女を幻惑することは不可能だったろう。劉は統一教会を少数の秘儀集団から、大衆的基盤をもつ宗教的なよそおいをそなえた集団に偽装させた知能犯といえる」11。劉は後に疎んじられて死に追いやられることになる。しかし、この劉によってはじめて「統一」という概念が強く打ちだされ、1954年5月にソウルで統一教会が旗揚げされることになるのだった。 淫奔なカルト集団の夢物語としては、統一とは、文鮮明という父の精力を中心にして世界を一つにすることを意味する。「天一国」の建国ともいう。これは聖/性なる魔法の感染力によって、いわば文鮮明という病原体のパンデミックによって実現される。その一方で、歴史的、地政学的な文脈のなか、政治的な物語のなかでは、統一は異なる性格も帯びる。それは、善悪の二分法のなかで敵を駆逐する、というものである。善悪の境界線は半島に物理的に引かれていた。38度線である。もともと半島の北限にある平安北道で生まれ育った文鮮明、北側の興南強制労働収容所から脱走し、半島の南端までほうほうの体で逃げのびていた文鮮明にとって、境界線の北側は「復帰=統一」すべき土地、共産主義の皮をかぶった敵サタンに不当に奪われた土地にほかならなかった。まさにそれゆえに、統一教会は朝鮮戦争後に固まった冷戦構造の前線において政治的な役割をになってゆくことになるのだった。 教会設立の年である1954年に、文鮮明は早くも兵役忌避や姦通の罪で再逮捕されている。とはいえ、そもそも宗教弾圧を推進してきた朝鮮民主主義人民共和国ではなく、アメリカの傀儡国として誕生した大韓民国政府による逮捕であるということが、統一教会の行く末を決定づけることになる。文鮮明はその後無罪釈放となってからも翌年に梨花女子大学事件を起こし、不法監禁の罪であらためて逮捕されるが、また不起訴になる。このときになんらかの政治的な力が働いたのではないかと萩原はいう。「彼[文鮮明]の有益性に着目したのは、おそらくKCIAの生みの親である軍の諜報機関CIC(陸軍保安司令部)であろう。1955年7月4日の文の逮捕から10月4日の「無罪」釈放までの三カ月間は、密室のなかで極めて政治的な取引きがおこなわれたとみられる。そうした取引きの存在をうかがわせるものが文鮮明の釈放後にいくつか浮かびあがってくる。韓国軍の若手の将校、しかも諜報関係のそれがあいつぎこの組織に加入してくるのである。[…]一人はのちのアメリカの統一教会の最高責任者であり、また文鮮明につぐ統一教会ナンバー2といわれる朴普煕。れっきとしたKCIAの要員といわれている。/他の三人は韓相国、金相仁、韓相吉。全員がのちKCIAの要職につく人物である。[…]この四人をパイプにして『朴政権が権力を確立するにつれて、文は新政府との良好な連絡をもつようになった』とフレーザー委報告は指摘する」12。 日本での宣教が始まったのもこのような状況下でのことだった。大阪で生まれ育った元皇民、国連軍の通訳将校でもあった崔奉春(西川勝)もこの時期に教団に送りこまれた者のひとりだった。1958年には密航船で日本に渡り、早くも翌年には日本統一教会を立ちあげている。このときの庇護者になったのが右翼のドンとも呼ばれた笹川良一である。萩原はいう。「文鮮明の逮捕にともなう密室の取引き以後、統一教会はある強権の意志が強く作用するようになったとみることができるのではないだろうか。1957年から58年といえば、新たな極東情勢の展開にともなって、日韓の国交正常化、日韓の緊密な連携が強く求められており、アメリカは日韓会談を推進していた。崔の日本密航、最初の統一教会の教義の播種も、こうした大きな政策の重要な一コマとしてとらえることが妥当ではないだろうか」13。 日韓基本関係条約は1965年12月に発効した。文鮮明はそれに先立つ同年の1月に10ヶ月に及ぶ世界旅行(第1次世界巡回路程)を始めており、このときにアイゼンハワー元米国大統領との会談を実現させている。その旅の始まりと終わりを結ぶのが日本だった。1月に来日の折には三笠宮崇仁親王をはじめとする皇族とも顔をあわせた14。その後、文鮮明の立ちあげたリトルエンジェルス芸術団の公演に皇室がくりかえし顔を出していることからも、統一教会と皇室との浅からぬ付きあいが伺える。1967年に再来日した折には笹川良一や児玉誉士夫らと会見し、翌年に笹川良一を名誉会長とする国際勝共連合を設立することになるが、このときにはすでに日米韓の右派をつなぐ重要なパイプの一つになっていた。統一教会が日本の信者から膨大な日本円を吸いあげて本格的な経済力をつけはじめるのは1970年代に入ってからのことなので、財力や動員力にものを言わせて政治に食いこんだというより、単なる卑猥な集団が統一教会として反共の立場をかためた1954年以降に右派勢力の政治的なはからいを受けるようになったと考えるべきなのだろう。 統一教会には反共的な世界観に加えて反日的な世界観も持ちあわせていた。送りこまれた武闘派の刺客によって滅多刺しにされることになった副島嘉和の『これが「統一教会」の秘部だ』によれば、統一教会の教義の核には朝鮮民族中心主義がある。そのことが日本語訳では注意深く削除されることになった『原理講論』の原文に示されているという。「古来より東方の国とは、韓国、日本、中国の東洋の三国をいう。ところでそのうちの日本は、代々天照大神を祟拝してきた国として、その上全体主義国家として再興期に当っており、かつての韓国のキリスト教を苛酷に迫害した国であった。そして中国は共産化した国であるため、この両国はいずれもサタン側の国家である。したがって端的にいって、イエスが再臨される東方のその国とはまさに韓国である……イエスが韓国に再臨されるならば、韓民族は第三イスラエル選民となるのである」15。文鮮明はサタン国である日本を愛する、という。だから、日本はそれ以上に文鮮明を愛さなければならないとも。文鮮明の発言録である『天聖教』には次の発言がある。 エバが堕落するとき、アダムを誘惑したのと同じように、必ずサタン側エバ国家がアダム国家を強制的にのみ込んで四十年間、四数蕩減路程を通過するようにするというのです。これが何かと言えば、四十年間韓国が日本に圧制を強いられたことです。[…]韓半島は何かといえば、男でいえば生殖器です。半島です。[…]生島国は女性の陰部と同じです。[…]日本が1978年から世界的な経済大国として登場したのは、エバ国家として選ばれたので[…]日本はすべての物質を収拾して、本然の夫であるアダム国家である韓国の前に捧げなければならないのです。16 文鮮明はここで、神=男=韓国とサタン=女=日本の対立軸を描きつつ、二つの地域を神話的なパースペクティブのなか、摂理の物語のなかに配置する。この物語のなかに通奏低音として流れるモチーフのひとつが「恨ハン」である。古田富建の『「恨」と統一教』によれば「『恨』は、古くは巫俗の用語として、『死者のやるせない思いややり残したこと』という意味で使われ、『恨プリ[恨解き]』は鎮魂儀礼の一つであった」17という。フランス語では「ressentiment」とでも訳せるかもしれない。日本語の「遺恨」や「根に持つ」という言い方にも通じるものがある。古田の議論のなかで参照されている文鮮明の発言を孫引きする。 韓民族は悲運の歴史を綴ってきた恨の民族です。韓国は長い間貧しく、周辺強大国の非常に強い勢力の狭間で侵略と蔑みを受けなければならない運命の道を免れることができませんでした。漢族と満州族、蒙古族、そして日本に対してそうでした。外勢の侵略を受ける度ごとに、数多くの人々が血の涙を流し、恥辱の痛みを受けました。そうする中でも、この民族は決して天を捨てませんでした。国家の運命と共に、自分たちの悲惨な時代的運命を宿命のように感じながら、天を仰ぎ精誠と祈祷の祭壇を築いてきた民族です。18 文鮮明によれば、このような歴史的背景ゆえに、韓民族は「神の恨」を理解することができる立場にある。神の恨とは、天使長ルーシェルによってアダムとエバを奪われた父が抱く深い悲しみ、親子の絆を結ぶことのできなかったものの悲しみのことだという。文鮮明は神の恨を恨解きすることをその使命とした。古田は文鮮明の次の発言を引いている。 天にいらっしゃる人類の父は子を亡くされた父母と同じ立場であり、悲しみの恨に覆われていることを私は発見しました。私の人生の目的は神の中にある恨を解いてさしあげる事です。その悲しみの神様を悲しみと苦痛と苦悩から解放して差し上げることが私の生きている目的です。私がしてきたすべての事はそれが宗教活動であれ言論であれ、経済であれ、政治であれ、企業であれ、その全ての動機はそこに出発しているのです。19 文鮮明は歴史の痛みを感知する。「復帰」とはこのとき、過ちの歴史を象徴的にやり直すということでもある。その点、文鮮明のまなざしはつねに過去に注がれている。そして、そのパースペクティブ上にはアダムとエバの神話、イエスの死、極東の歴史が反復する過ちとして配置されている。それらの複数のエピソードは同じ「恨」の物語素を梃子にして共振し増幅しあう。そのように繰りかえされる業に似た恨のことを文鮮明は「怨讐」とも呼ぶ。それは、過ちの痛み、つまり過ぎてしまったもの、過去の痛みでありながら、ある意味では時空間をこえた今の神話的な痛みでもあるのだろう。この痛みこそが、文鮮明という淫教の祖を同時代の極東の闇、とりわけ戦後の列島における同時代的の闇に導いてゆくことになる。 ある意味では、文鮮明は戦後の日本が蓋をしてきたものの痛みを感知することができた、と言うほかないのだと思う。それは戦争の被害者たちの痛み、たとえば、従軍慰安婦たちの痛みである。それができたのは、単に彼が日本帝国の皇民として朝鮮半島に生まれ落ちたという素性の持ち主だからではない。そうではなく、それができたのは、誤解をおそれずにいえば、彼がひとりの現人神だったためではないだろうか。負の現人神のひとりといってもいい。ここでいう神とは、そのためにひとが自身だけなく他者の命や生活をも犠牲にできる存在、という程度の意味だ。戦前の極東には、そのような神がいた。そして神の名において自身や他者の命をも奪う魔法の力をもった「神の子」たちがいた。けれども、突然、梯子が外されるようにして、神は人間になってしまわれたのだった。神の子たちは父をその死によって失ったというより、見失ってしまった。三島由紀夫の耳にささやいたという英霊の恨の聲がこだまする。などてすめろぎは人間となりたまひし。──なぜ天皇は人間となってしまわれたのか。陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。……もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。 現人神が戦後に人間として落ち延びることになったのは、合衆国の意向による。エドウィン・ライシャワーが1942年の『対日政策に関する覚書』のなかで「天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存する」20べきだと進言していることからもわかるとおり、共産主義陣営との戦いの前線を守る要として天皇家ほど有用なものはなかった。しかし、敗戦国の国民の象徴である以上、現人神であることは許されなかった。戦時中に神の名においてなされてきたおびただしい数の過ちがあった。もし仮にそれらの過ちにむきあうことが可能なのだとしたら、それができるのは神をおいてほかにいない。しかし、神は神として死ぬのではなく、捕縛され、ネイティブ・アメリカンの撮影を得意とするカーティスの手による写真に収められ、人間へと転身させられた。なぜ天皇陛下は生き恥をさらしてしまわれたのか。これは晩年の三島が問題にしていたことでもある。腹を切る前に「本当は宮中で天皇を殺したい」21とつぶやいていた。三島の自害については、次のように考えるひともいる。 「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。戦後日本は昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。だから『英霊の聲』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。22 戦後の列島にもはや神の国がないことを三島は嘆く。そして「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」のみが残るという。中上健次のことばを借りれば、列島は父のいない私生児の状態におかれていた。そんな状況のなか、特に三島の自害した1970年以降、文鮮明という現人神への信仰がひとつの感染症のように列島に拡がってゆくことになる。文字通り父を幼くして失っていた僕の生みの親のふたりが人生の身売りをすることになるのもちょうどそのときのことだった。三島も統一教会の狂信的な信者にさえなっていれば、あのようなパフォーマンスをせずに済んだかもしれない、ともいまになって思う。 1945年までの極東には、紛れもなく、父なる現人神を中心とする八紘一宇の世界があった。「一宇」とは「一つの大きな家」という意味である。そう考えてみると、これを統一教会風に言いかえたものが「天一国」だったのではないか、という疑念が湧く。別の言葉をつかえば、文鮮明が金百文の模倣者であったのとの同じように、統一運動とは八紘一宇の一つの反復であり、戦後の日本が勝手に蓋をしてしまった極東の戦争を継続させる強い意志だったのではないか、という疑惑である。それを示唆するものはいくつもある。たとえば、統一教会の旧ロゴ。日の神の支配を図案化した旭日旗にきわめて似ている。旭日旗の光をさらに大きな神の力で封じ込めているようにも見える。あるいは、万歳三唱。列島では大日本帝国憲法発布の日より広まったと言われている。脈々と受け継がれる血の正当性を讃えるものだ。戦後に廃れたこの風習はいまでも統一教会に残されている。あるいは、統一教会の草創期に賛美歌、「六千年の恨みがある、戦いの国、勝利の月桂樹を捜し求めて──」23といった内容の『復帰の楽園』が軍艦行進曲のメロディで歌われていた、ということも示唆的である。それをはじめて耳にした元無期懲役囚の金徳振が「世界を統一する生き神様というのに、われわれ朝鮮人の仇である日本の国の、しかも最も軍国主義を代表する”軍艦マーチ”で、自作の賛美歌を歌うとは何ごとですか? こんな愚かなことがどこにあるのですか? なぜあなたが再臨メシアなのですか?」24と問いつめると、文鮮明は顔を赤くして作曲の依頼をしてきたという。このようなささやかなエピソードからも文鮮明が帝国の皇民だったときの25年間の記憶、八紘一宇の記憶の重みが伺い知れる。 天皇というものがそもそも七世紀の極東の国際情勢のなかで生まれた模倣者であったのと同じように、帝国解体後の神なき時代のなかで文鮮明もひとりの模倣者として極東の新しい王になることを夢見ていたのだろう。その野心は1965年に来日して早々明治神宮を統一教会の聖地に定めるという天皇家への挑発ともとれる挙に出ていることにもあらわれている。さらに、日本統一教会の会長だった久保木修己に天皇の役を演じさせ、天皇に代わって跪拝させていた25ということからも明らかである。また、統一教会の教義の核に混淫(血代交換)がある以上、天皇家との混淫も視野に入れていたのは間違いない。 このような野心を持った元皇民、負の現人神とでもいうべき教祖が、朝鮮戦争後に日米韓の右派勢力を結ぶパイプとして機能するようになった。一面においては、天皇が列島の共産主義を封じるための魔除けとして米国に操られたのと同じように、文鮮明という現人神も冷戦の最前線である半島の共産主義を駆逐するための駒に過ぎなかった、という見方もできる。その一方において、性病を思わせる文鮮明の聖/性なる浸透力からは、政治的な思惑を超えた大きなものの働き、戦後の極東の死角という死角からにじみ出る闇の力の存在を感じずにはいられない。ひとつの帝国が武力によってある地域を飲みこむとき、帝国は同時に文化的な侵入を被ることになる。文鮮明という負の現人神が大日本帝国の落し子であるのだとしたら、戦後に神を見失った日本はその落し子の列島への回帰に見舞われ、免疫のないものたちが感染してゆくことになる。あるいはむしろ、病に感染してしまうのはまさに現人神の物語を感知してしまう素地が帝国によって用意されていたからなのだと言ったほうがいいのかもしれない。 負の現人神が吹きこんだのは「恨解き」の物語だった。恨の感情を朝鮮特有のものだという見方もあるけれども、そのように考えるのなら、物語の感染力や人間が持つ共感の力を見誤ることになる。たしかに、僕の生みの親をはじめとする物語の感染者たちは、戦時中に神の名のもとに犠牲になってきた人々の痛み、その恨を感知するだけの機会も想像力もなかったのかもしれない。けれども、負の現人神がそれをきわめて間接的な形で可能にした、と考えることはできないだろうか。物語の呼び声を聴きとるのに、想像力は必要ではない。ただ、痛覚だけがあればいい。そして、痛覚はきっと、生きとし生けるものの持つ力だ。ひとは、自分たちの預かりしらない形で、恨の物語に染まってしまう。そして、それを自分自身の物語として引き受け、恨を解こうとする。その点、文鮮明の使命は、所与の恨を解く、というところにあるのではなく、第一に、恨を感染させる、というところにあったのかもしれない。文鮮明には聖/性なる力によって数多の人々を惑わす血分けの天賦の才があったように、ひとびとに痛み分けをするという魔法の力が備わってもいたのだろう。そのため、きわめて逆説的かつ皮肉な帰結であると言うほかないけれども、統一教会は「理想の家庭」を築くことを目標にしておきながら、第一に恨に満ちた家族を現出させることになる。そのような負の現実の存在によってこそ、恨解きの物語はいっそうの輝きを放つ。このことは、文鮮明の家庭を筆頭に多くの信者の家庭が崩壊しているということからも裏付けられる。このような不遇はもちろん、本人たちが望んできたことを正反対に裏切る形になっている。さらに、文鮮明は日本の信者に植えつけた恨を韓国ウォンや米国ドルに変換するという錬金術までやってのける。けれども、一面においては、このような「怨讐」の帰結は、戦後という時代にひそむ大きな意志としか言うほかないものが望んできたことなのだとしたらどうだろう。そう考えると、ただただ苦しくなる。 文鮮明は、大日本帝国によって生み出された存在である慰安婦たちの恨を思えば、サタン国家である日本の女性は韓国の乞食との「祝福」を受けてもありがたいと思わなければならない、という旨の発言をしたという。実際、多くの日本の女性信者が職も学も信仰もない韓国の孤児のもとに嫁がされ、そこで言語を絶する経験をしている。統一教会はそのような苦しみこそ六千年の歴史の業が招いたものであり、文鮮明への愛によって克服をするためにあるものなのだと吹きこむ。ひとりのひとの尊厳、その子どもたちの尊厳をもこのようなかたちで踏みにじることしかできない教団には、腹も頭も心も体中のすべてが煮えくり返るような深い怒りと憎しみしか湧いてこない。その一方で、このような負の権化のような集団が実際に存在してしまい、その物語に引きよせられてしまう人々がいるという時代の重み、すでに終わったかのように見えていまだに終わらずにいた戦後の重み、神の名によって亡きものにされてきた死者たちの重みを前にして、どんな言葉を紡ぐことができるのか不透明になり、体の奥底から震えはじめる自分がいる。 ただただ、負の現人神の精力、神の子であるこの僕にとっては真の御父様と呼ぶほかないものの精力と、その無節操に、とまどう。「復帰」という名でなされてきた文鮮明の猥褻行為について、朴正華は次のように振りかえっている。「神様であるはずの文鮮明は、おいしい餌を前に舌なめずりをする犬のようになり、むさぼるようにセックスをしただけである。ただの性欲の固まりだった。事実、文鮮明は精力絶倫で、『ひと晩に十回やったこともある』という。本妻だった崔先吉の話だから、これは間違いない」26。ここで列島に目をむければ、いっときは現人神でもいらした昭和天皇は側室をお持ちにならなかったとされている。おそらく平成天皇や今上天皇におかれてもそのようなことはないのだろう。これは近代的な家族と性愛のパラダイムのなかに天皇家も置かれているためだけれども、それゆえに万世一系と呼ばれる血筋の先行きは暗い。人間宣言以降の天皇家の繁殖能力は、ちょうど現代の日本国を象徴するかたちで、圧倒的に低い。それに比べ、負の現人神である文鮮明の際限のない性欲とその聖/性なる感染力には、性と政治が不離のかたちであった王朝時代を想起させるような懐かしさがある。 文鮮明は2012年に92歳で大往生を遂げた。統一教会はこれからゆっくりとした内部崩壊の道をたどることになる。ある意味では、統一運動は、戦後の極東を一過性の悪夢のように悩ませた流行り病にすぎないものだった。その病によって産みだされた神の子たちは、ふたたび神なき時代を生きることになる。しかし、あれほどまでに卑猥だった真の御父様の血、淫乱の血、乱れた化け物の血がその体に流れていることを否定することはできない。否定すればするほど、存在感は強まる。かといって、素通りすることもできない。ただ、むきあうしかない。そのとききっと、時代との不協和によって、その穢れなき神の血に流れる痛みによって、自殺に走ったり犯罪に手を染めたりする神の子らがこれからもあらわれてくるに違いないし、僕自身もいつかそのうちのひとりに数えられることもあるかもしれない。けれども、そのなかで世界はすこしずつ浄められてゆくような気がする。死がことばににぎわいを与え、ことばをゆたかにする。ことばは血を吸い、かがやきと生気にみちて幸わってゆく。この僕の体がやがて確実に滅びるのと同じように、世界は少しずつ浄められながら滅んでゆく。 真の御父様がその精力を徐々に失いながら衰弱死をなさったのは残念なことだった。できれば、イエス・キリストのように性の盛りの絶頂で滅ばされればよかったと悔やまれる。けれどもこの世界はきっと、神の世であることにもまして、なにより人の世なのだ。中上健次が言っていたように、ひとつの果実が徐々に熟しながら腐ってゆくように、破滅は微量ずつおとずれる。そして、血の滴りのひとつひとつに痛みを感じとることができることに神の子と人の子の違いは何ひとつない。 萩原 1991, p.45 ↩︎ ibid. p.45 ↩︎ ibid. p.54 ↩︎ ...

25 Jul 2022 · 野浪行彦

死の余波に湧くありがたさ

7月7日は二つのかけはなれた境遇の星が急接近する日であると言われている。同時に、天への祈りをささげる日でもある。ひとりのひとの命が血祭りにあげられたのはその翌日のことだった。その余波の広がりを見まもりつづけた二週間のあいだ、ことばを失ったまま、ひとりでにじぶんの輪郭がぼやけるほどはげしく震えていた。神の子のひとりとして生まれてしまってからというもの、じぶんの血はこの世の罪の穢れから守られたものなのだと耳元でささやかれつづけてきた。その血のことただただ醜く不潔に思い、生きていることを苦痛に思った。それがいまも体中をめぐっている。自分はいったい何に震えているのだろう。 そう思いながら夏の朝の光のなかでちいさな動揺をたどってゆくと、深い感謝のきもちとしか言いようのないものが、こんこんとこみあげているのに気づく。そのきもちは、特定の人、事件の加害者や被害者にむかっているわけではない。自分のなかでどろどろしつづけてきたものを浄めるようにとめどなく流れ、生きることを励ましてくれているように感じる。断固としてゆるしがたい殺人事件の余波がここまでひとに生きる勇気を与えてしまうということ、そのあまりにも不謹慎な実感をじぶんはいまだにどう受け止めていいのかわからない。 事件の前後では、このちいさなじぶんの世界のありかたが大きく変わってしまった。肉を食い破る鉄砲豆のような穴がこの世界にあいてしまって、そこから浄とも不浄ともつかないなにかが生きているものの側のほうへ吹きだしている。それがひとをやさしく、うつくしくしてくれているのだった。もっといえば、ひとを傷つけながら生かすことで、この世界にみちている痛みをすこしでも感じとれるようにしてくれているのだった。 フランス語には「sensibilité」という語がある。日本語では「感受性」とか「思いやり」と訳されたりする。とはいえ、もうすこしよく考えると、もともと「sensible」という形容詞には「感受性が強い / 思いやりがある」ということのほかにも「痛みや苦痛に敏感である」という意味がある。その文字を目で追いながら、自分の瞳の表面が鋭利な力によって深く切り裂かれてゆくところを思う。開いた傷口が、痛む。しかし傷そのものが痛みなのではなくて、傷が痛みを感知させる。フランス語の「sensibilisation」という言葉は日常的には「人の関心を喚起する」という啓蒙的な意味で使われているけれども、もとをたどればそれは第一に、傷を開く、ということだったのかもしれない。 じぶんがまだこうして痛みを感じられる存在、痛覚を奪われた死者にならずにいられることがうれしい。この世界には痛みとして感知できないものがあまりにも多く満ちている。世界は基本的に、不感症なのだろう。ちょうど自分の体に開く穴という穴、口や鼻、肛門といったものによってしか感受できないものがあるように、世界はつねにむき出しになって痛みに絶え続けているわけにはいかない。けれども、折に触れて、不意打ちのように、激しい痛みがおとずれることがある。このちいさな世界が7月8日以来の余波のなかでそれを感知しているのを目の当たりにして、ただありがたさとしか表現しようのないものが募る。そんななか、これまで言いしれない憎しみを抱えてきた神の子のひとりとして、それをただ、あまりにもむごいことのようにも思う。

22 Jul 2022 · 野浪行彦