宗教二世がフランスで考えた
中上健次と社会物語学のこと

 

問題の所在をめぐって

1.1. 中上健次のいう物語って何なんだろう

1.1.1. 中上と僕自身のこと、フランスのこと

 フランスで中上健次について研究しようと思っているのです、とある日本の文学研究者の方に打ち明けたところ、どうしてわざわざ海外でそんな古風なことをするのか、と訝しまれ、悲観されたことがあった。この日本でさえ、よほどの硬派でなければ中上健次なんてやらないのに。1980年代ごろにはあんなに持てはやされた作家だったけれど、昭和が終わって間もないころに唐突に早死してしまってからは、あまり顧みられなくなってしまった。まあ、それを言ったら、いわゆる純文学というか、文壇そのものが、いまではオワコンっていうの? すっかり地方都市のシャッター街のようになってしまったけどね。それにしても、なぜいまさらになって中上健次を? よりによって、国外で。そう怪しまれ、なぜだろうと、僕自身、言葉に困ってしまった。いまになって振り返れば、そのときの僕はすくなくとも二つのことに対してほとんど病的といっていいほどにわだかまる思いを抱えこんでいたことはたしかである。

 一つ目は、自分自身の素性に関することだった。2022年の七夕の翌日に起きた安倍元首相銃撃事件によって統一教会という教団が世間の注目を集めたけれど、僕はこの教団がなければこの世に生を受けていなかった。というのも、1978年に教団が埼玉県上川村にあるメッコールの工場に1610組もの信徒を集めて夫婦の縁組をしたのだけど、そうして「真の家庭」を築くと誓わされた男女のもとに神の清らかな血を引く「神の子」として生まれたのが僕だった。安倍元首相の死をきっかけに宗教二世をめぐる問題が広く認知されてからは、自分の素性を隠すことをやめ、できるだけ胸を張って生きていこうと思ったけれど、それまではずっと自分が神の子であることをだれにも打ち明けられずにいた。組織的なマインドコントロールの果てに生まれきてしまった自分のことが化け物のように思えてならなかった。

 二つ目は、日本語や日本国に関することだった。あるときふと、どうして自分は日本語を話しているんだろう、と思った。一度そういう思いがよぎると、それが呼び水となって様々な疑問が湧きはじめる。日本語を話しているこの自分は何なんだろうか。自分は日本人なんだろうか。自分の「母語」であるはずの日本語がふと、借りものめいて見えた。なぜなだろう。僕は神の子でもあったから、本来は統一教会のいう「天一国トンイルグク」の国民でもあり、天一国の「国語クゴ」である朝鮮語を話せるのでなければならなかった。それを馬鹿げた妄想として一蹴するのは簡単だけれど、それをいったら日本語や日本国だって似たような妄想に過ぎない気がして、日本語を話している自分に対して奇妙な居心地の悪さを覚えてしまった。

 そんな二つのわだかまりを抱えていた当時の僕の目を引いた作家のひとりが、中上健次だった。中上はいわゆる被差別部落の生まれで、18歳のころに上京してからも故郷への屈折した思いを抱えていたようだけれど、31歳のころからある種のライフワークのように部落差別の問題に取りくみはじめるようになる。それがどれほど勇気の要るものだったのか僕にはわからない。ただ一つ言えるのは、中上にとって言葉に真摯に向きあうことはそのまま自身の素性に向きあうということもであったということだ。それで1977年に紀伊半島に点在する被差別部落をめぐる取材旅行をして『紀州』というルポルタージュ集を出すのだけど、それを読んだときに受けた衝撃はいまも忘れずにいる。

 中上にとっては、言葉に向きあうということはそのまま日本語に向きあうということだった。『紀州』においても、部落差別の問題を扱うなかで日本語への異様な執着を見せている。日本語への敵意というか愛憎半ばする感情を中上ほどあらわにした作家を僕はほかに知らないのだけど、ある種のコンプレックスの裏返しだったのだろうという気がする。中上はたとえば、ドイツ語での創作もする多和田葉子のように複数の言語を操れるわけでもない。アテネ・フランセという語学学校で仏語を学ぼうとしたり、アメリカで英語の小説を書こうとしたことがあったようだけれど、ことごとく挫折して、結局は日本語という元の鞘に収まってしまう。『地球に散りばめられて』で古事記の読みなおしを試みた多和田のようなディアスポラ作家とちがい、結局は熊野や日本語を拠点にしてしまう。まさにそれゆえなのか、自分とは切っても切りはなせない日本語に不快感を表明しつづけた作家だった。

 このような中上の問題意識というかコンプレックスが当時の僕自身の抱えていたわだかまりと重なりあう部分があったのだろう。僕は教団の操り人形のようになった家族のしがらみから解放されたい気持ちもあり、さまざまな紆余曲折の末にフランスで暮らすことになったのだけれど、ちょうどそのときに日本から持ち出したのが集英社版の『中上健次全集』のうちの数巻で、特にエッセイや対談、講演などをまとめたものだった。それを折に触れて読むうちにいつか中上について語ってみたいと思うようになった。

 そして、奇遇なことにというほかないのだけど、『中上健次全集』を読むうちにわかってきたのは、僕がたまたまこの問題に取りくむことになったフランスの地と中上健次にはそれなりの因縁があるということだった。それはフランス現代思想というものがいわゆるニューアカデミズムの界隈で持てはやされた80年代という時代柄とも関係がある。特に中上は柄谷行人や蓮實重彦、山口昌男、浅田彰、四方田犬彦といった知識人との交流を通して、レヴィ・ストロースやミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ロラン・バルトといった20世紀のフランスの思想家たちに学び、大いに触発されていた。

 また、これもいまになって振りかえればということになるのだけど、フランスの側から見てみると、1980年代はいわゆる日本文学というものへの興味がもっとも強かった時代だったのかもしれない。前述のフランスの知識人もしきりに日本に招聘されるということがあり、日仏の知的交流が主に人文学の分野で最も盛んだった時期とも重なるが、中上健次は1985年にファイヤール社のピエール・オブリに見出されて以降たびたびフランスを訪れ、ジャック・デリダとの公開対談をしたり、コレージュ・ド・フランスでの講演をするなどしている。フランスにおける日本文学の研究者の間でも中上健次は1980年代を代表する作家だと見なされているが(Gottlieb 1995, Struve 2008)、当時の中上本人としては、柿本人麻呂あたりの時代から続く日本文学の歴史を背負う作家だといういくぶん誇大な自負さえあった。1985年3月の『Le magazine littéraire』誌上でのインタビュー記事では、他の日本の同時代の作家に対してどのように自分を位置づけるのかという問いに対して、次のように答えている。

僕は日本の最も伝統的な作家と見なされていて、来日したデリダが西洋の影響からは無縁な作家に会いたいという所望をしたときも、僕の名が挙げられることになったわけです。(Nakagami 1985, 拙訳)

 この記事が「中上にとっての伝統(La tradition selon Nakagami)」と題されていることからもわかるように、中上は日本の伝統というものにこだわり、自分をその本流の継承者として売り出そうとしていたようだ。もうすこし別の言い方をすれば、自分が日本語作家であるということにこだわった。現代のフランスにおいても、日本語作家というものは往々にして日本という文脈のなかで語られることが多い。ノーベル賞を取った川端康成にしても大江健三郎にしてもそうである。日本というレッテルからある程度自由な形で読まれているのは、村上春樹や小川洋子といったごく一部の作家である。

 80年代当時のフランスで暮らしていた宮林寛(1991)や大浦康介(1992)といった研究者は、現地ではどうしても日本という枠組みの内部で中上が読まれてしまうということに対して憤りを表明していた。特に部落の生まれという出自がいたずらな脚光を浴びて一面的な受けとられ方をしてしまうことに警鐘をならしていた。たとえば、モンド紙の東京支局長だったフィリップ・ポンズは「中上は現代日本文学のなかで別格の作家である。文体の強度や物語の密度においてもそう言えるが[…]作家自身の生においてもそう言える。かつて賤民が集住していたということでいまなお差別を受ける世界の荒波のなかに中上は生まれたのだ」(Pons 1989, 拙訳)と述べている。日本においては中上の作品が部落というフィルターを通して読まれるのはむしろ稀なことだったのだけれど、フランスにおいては新奇なものへのエキゾティスムが発揮されてしまい、それがイメージどまりにすぎない日本という観念を呼びこみ、読みを偏向させてしまう。宮林寛や大浦康介はそういう温度差を感じとったのだろう。

 ただ、その上で僕が思うのは、日本という枠組みのなかで読まれることは中上本人が望んでいたことでもあったのではないか、ということである。中上は自身があくまでも日本語作家であることにこだわり、その意味を考えようとした作家だった。もうすこし抽象的にいえば、中上は自分がどうしてもなんらかの枠組みの内部に置かれてしまうということを自覚した上で、外部の視点ではなくあくまでも内部からその意味を掘りさげようとした作家だった。そして、かつても同じ枠組みの内部にいた先達たちがいて、その後に続く者としての責任をつねに引き受けようとしていた。蓮實重彦(Œ20)の言葉を借りればとても「礼儀正しい」作家なのである。中上が「伝統」というとき、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった作家がこれまでにいて、自身こそがその後継者である、ということを強く意識している。実際「Nakagami, romancier des ruelles(路地の作家、中上)」というドキュメンタリー番組が1989年のフランスで放映されたときには「三島由紀夫以降の日本語文学の世界のなかで最も際立った存在」として自身を紹介させている。

 おそらくこのときにはもうノーベル賞を取るつもりでいたのかもしれない。少なくとも1991年には次にノーベル賞の御鉢が回ってくることになる日本語作家として中上が有力視されているという噂が流れていたことは、その年に行われた新宮市の市長との対談(『中上健次電子全集』12巻、以下Œ12と記載)でも伺い知れる。中上自身、そこで「ノーベル賞に値するような、いい作品を書きたい」と述べている。結局のところ、中上の死から二年後の1994年に大江健三郎にノーベル文学賞が与えられることになるのだけれど。俳人の夏石番矢は、もし中上が生きながらえていたのなら中上が受賞していただろうという(夏石 2006)。とはいえ、生前に日本語以外の言語に訳されていた中上の単著が『岬』(1986年、オランダ語)、『千年の愉楽』(1988年、フランス語)、『枯木灘』(1989年、フランス語)の三つしかなかったことを考えると、世界的な知名度はきわめて限定的だったと言わざるをえない。それでノーベル賞が取れていたとは思えない。しかしいずれにしても、中上が「世界に対する商売の拠点」(Œ12)であるパリから日本を代表する作家として世界の読者を見すえていたことだけはたしかである。

 中上の死後、フランスにおいては、1994年に『日輪の翼』、1995年に『讃歌』、2000年に『地の果て至上の時』の翻訳がファイヤール社より出版されている。また、1998年に『岬』、2004年に『奇跡』の翻訳がフィリップ・ピケ社によっても出版されている。『奇跡』の翻訳出版の際には、作家のフィリップ・フォレストが『artpress』誌上で次のように中上を紹介している。

『奇蹟』はすでに七つ目に翻訳された中上健次の作品になる。ところが、フランスの読者が現代日本語文学に関心を持つようになってきたとはいえ、この作家の名がそれなりの重みを持つようになったと考えるには、残念ながらまだ時期尚早のようだ。1992年(46歳の年)に夭折するまでのあいだに中上は実の多くの画期的な作品を残している。しかし(ごく少数ではあるが)西洋での相応の評価を受けている日本語作家のなかにしかるべき場所を持てずにいる。二十世紀の(漱石から、谷崎、川端を経て三島にいたるような)古典作家にも数えられないし、十年ほど前から大衆的な支持を得るようになった(村上龍や春樹、吉本ばななや小川洋子のような)新世代の現代作家にも数えられない。それでも、戦後生まれの作家のなかでは唯一中上の作品こそが1994年のノーベル賞作家である大江健三郎に様々な点で匹敵するし、それだけの共通点もある。中上の作品がさして知られずにいるのはその奇抜さのせいでもあるのだろう。スケールや野心の大きさ、暴力性、猥褻性といったものは、精緻だったり、遠回しだったり、簡素だったり、みやびだったりするような日本の小説のステレオタイプにそぐわないのだ。 (Forest 2004, 拙訳)

 死後になっても中上健次のフランスでの位置付けは微妙に定まらずにいる。基本的にはマイナーな作家にすぎないといってさしつかえはないが、ときによってはフィリップ・フォレストのように高く買うひともいる。僕の実感としては、日本における中上の位置付けに関しても、ある程度同様のことが言える気がする。すくなくとも一昔前までは、若い人のあいだでもコアな文学オタクにかぎって中上健次の名前を出したりするものだった。今のことは、僕にもうわからないけれど。いまさらになってどうして中上健次を、という呆れたようなため息がそこかしこから聞こえてくる。

1.1.2. 中上は本当に小説家なんだろうか

 中上健次についてひとつ大事なことを言い忘れていた。それは中上健次は基本的に小説家として高く評価されてきたということだ。中上の死と純文学の衰退を重ねあわせるむきさえあった。たとえば、作家の佐藤友哉(Œ3)や文芸評論家の渡部直己(Œ19)は、祀りあげられた「最後の文士」としての姿を中上に見ているし、批評家の蓮實重彦も「中上健次は小説家として、おそらく文壇から出た最後の人でしょう。その意味では非常に文士的なところがあって[…]保守本流の最後の人でしょう。そのあとあんな人は出てきてません」(柄谷 1997)と述べている。このように生前からすでにある種の古めかしさというか、硬派な匂いというか、滅びゆくものの持つ哀愁のようなものを漂わせていたらしい。そして実際、文士という肩書に恥じないだけの名作、文学史に刻まれるに値するような名作を中上はきっと残してきたのだろう。かくいう僕自身は、中上健次の小説をさして読みこんでいるわけではない。おすすめの中上健次の小説は? と問われたら、ちょっと言葉に詰まってしまう。ただ、その程度の知識しかない僕もこれまでに様々な人が小説家としての中上健次について多くのことを語ってきたことくらいは理解している。

 中上は死後になって日本語文学のカノンに本格的に組みこまれてゆくことになる。1997年には柄谷行人らの尽力によって全15巻の『中上健次全集』が集英社より出版された。2014年には全10巻の『中上健次集』がインスクリプト社より出版された。さらに2017年には全21巻の『中上健次電子全集』が小学館より出版された(フランス在住の僕はもっぱらこの電子全集のKindle版を通して中上の作品に親しむようになった)。

 文芸の界隈においては、至文堂の『国文学』(1985-3, 1991-12, 1993-別冊、2006-12)、青土社の『ユリイカ』(2008-10)や河出書房新社の『文藝別冊』(2011)、平凡社の『別冊太陽』(2012)、集英社の『kotoba』(2016-冬号)といった文芸誌も折に触れて中上特集を組んできた。また、柄谷行人(2006)や、蓮實重彦(1989, 1995)、渡部直己(1996, 1999, 2013)、四方田犬彦(1996)、守安敏司(2003)、河中郁男(2014, 2015, 2016)、浅田彰(1996)をはじめとする批評家たちが相当数のまとまった文芸評論の仕事をしている。また、日本においては、学問としての文学と文芸の世界はあいまいに重なりあっているが、長年にわたってその橋渡しをしてきた中上健次研究の第一人者は、高澤秀次である。これまでに出版された数ある全集や選集の編纂や監修に関わったり、新宮市にある中上健次資料収集室や熊野大学の運営にも携わってきた高澤は、中上の評伝をはじめ、年表や事典、発言目録を作っている。本稿もその多くを高澤の仕事に負っている。

 学問としての文学の世界では、僕の知るかぎり、渡邊英理や浅野麗や石川真知子、亀有碧、松田樹といった研究者が中上を論じているが、なかでも渡邊英理が2022年に出版した『中上健次論』は、これまでの長きに渡る中上研究において最も重要な仕事のひとつに数えられる大著であることは間違いない。ちなみに、フランス語圏においては、Jacques Lévy(1997)やAnne Bayard-Sakai(2010)、Maxime Brisset(2012)らが中上の作品の分析を行っている。英語圏では、中上のコロンビア大学での教え子でもあったEve Zimmerman(2008)やAnne Macknight(2011)が単著としてのまとまった仕事を発表しているほか、Alan Tansman(1998)やNina Cornyetz(1999)などの仕事がある。また、ノルウェーのAnne Thelleの仕事が英訳(2010)されてもいる。

 このように数々の名前をざっと列挙してみるだけでも、中上の死から三十年の時が経つなかでじつに様々な人が中上に関心を寄せてきたことがわかる。ただ、もう一度繰り返せば、基本的には、小説家としての中上健次に。というのも、あまりに自明なことだけれども、中上の本業はなにより小説を書くことだったからだ。あるいは、晩年に本人が好んでいた言葉を使えば、中上はなにより物語者、つまり物語を紡ぐ者であり、物語という日本の伝統を継ぐ者でもあった。ようするに、フランスにかぎらず日本においても、中上は基本的にいわゆる文学という畑のなか、とりわけ日本文学という畑のなかに留めおかれているということだ。中上の署名付きのテクストがその外に連れ出されることは、めったにない。外に連れ出したところで、多分あまり関心を引かない。

 文学業界においては日常的なことなのかもしれないが、これはそれなりに問題含みの事態であるように僕の目には映る。中上本人が文学や小説といった枠組みを問題にしつづけてきたこと、もっといえば自分が日本語作家以外の何者でもありえないことを問題にしつづけてきたことを考えると、口惜しい感じがする。なにより中上は、文学の枠に収まらないテクストを膨大に残している。たとえば、全21巻からなる『中上健次電子全集』(小学館)の内訳を見てみると、そのうちの12巻(Œ1, 2, 3, 5, 6, 9, 10, 11, 13, 14, 15, 18)が文芸作品を収録している。劇や漫画の原作を収めた巻(Œ6)を含めると、全集の六割近くが物語としてのテクストが占めていることになる。その一方で、残りの四割の内訳はエッセイやルポルタージュ、評論が4巻(Œ4, 7, 8, 17)、講演が2巻(Œ12, 16)、対談が3巻(Œ19, 20, 21)となっていて、物語の創作以外にも中上が相当量の仕事をしていることがわかる。全6巻に及ぶ第三文明社の『中上健次発言集成』(1995)や作品社の『中上健次未収録対論集成』(2005)が出版されていることからもその重要性が伺い知れる。

 昨今ではすっかり廃れてしまった言葉をここであえて使えば、生前の中上は数々の人文系の「知識人」の仲間に囲まれる中で、彼らへのコンプレックスやライバル意識を抱えつつ、文学や文芸という枠組みを超えたところにある自分なりの知識人としてのあり方を模索していた。実際、中上は1970年代の後半から「部落青年文化会」や「隈ノ會」、「熊野大学」といった懐の広い知的交流の組織を立ちあげ、じつに多様な立場の人とのつながりを持とうとしてきた。しかし、これらの仕事は文士としての中上の際立ちと輝きのなかにともすると埋もれてしまう。あるいは、こういってよければ、文士としての中上健次という一つのテクストの全体のなかに回収され、それ自体としてはあまり光が当てられずにいるような嫌いがある。

 ここでひとつの疑問が湧く。中上のことを本当に小説家と言い切ってしまっていいのだろうか。中上から小説というものをさし引いたとして、そのとき何が残るのだろうか。この問いに答えるのは容易ではない。しかし『時代が終わり、時代が始まる』というエッセイ集の後記に書かれていることが一つのヒントにはなるかもしれない。

小説家である私は様々なメッセイジを発したい。核実験、核兵器所有に反対である。原発にも反対である。南アフリカの人種かく離アパルトヘイトにも反対である。在日外国人の指紋押捺にも反対である。だが小説家として、それをどう伝えよう。私は一切の現実的方法を持たない。行動はとっくに断念した。考えるしかない。しかし、考えるから、孤立する。エッセイが小説家に有効性をもつのはこのような時である。(Œ17)

 一見さらりと書かれているように見えるけれど、周到に練られた密度のある文章である。中上は小説家である。それでも、小説の形では発信することのできないメッセイジを抱えてしまう。しかし、中上は行動する知識人ではない。一切の現実的方法を持たない小説家である。だから、エッセイを書くしかない、という。では、そのメッセイジとは何なのか。中上が例示しているように、ある種の政治的な立場の表明のことなのか。そう思って中上の残したエッセイの目次をざっと眺めていると、テーマがじつに多岐にわたっていることがわかる。たとえば、1968年の永山則夫連続射殺事件のこと。サックス奏者のアルバート・アイラーのこと。演歌歌手の都はるみのこと。アメリカや韓国での暮らしのこと。ランダというバリ島の魔女のこと。説経節のこと。レゲエの祖であるボブ・マーリーの死のこと。例を挙げれば切りがない。しかし、僕は同時にあることに興味を引かれた。

 それは「物語」という語が目次のなかに頻出しているということだ。たとえば、次のような見出しが目に飛びこんでくる。「物語星」人の血が騒ぐ。物語ることを断念した物語。物語が輪舞する。物語の系譜。物語・反物語をめぐる150冊。神話から物語へ。物語=資本。ワープする物語の魅力。物語の定形。写真の物語力。反物語を今読む。物語の定形ということ。制度としての物語。物語について。アンチ・アンチ物語。物語の源泉。物語の復権。マルチ物語論。物語とは何か。……などなど。これらのテクストを実際に読んでみると、中上が「物語」という語への異様な執着を見せていることがわかる。しかも、上述の差別や日本語の問題を密接な関わりがあるらしい。ただし、よく意味がわからない。書き方が不親切なせいもあるけれど、なによりあまりに形而上学的で、本人の頭のなかでもうまく整理されていないというか、つねに思索の途上にあるような印象を受ける。たとえば1988年の講演での次のような発言。

物語ってのは、こういうことなんです。単に日本で物語というと、いろんな思想的なレベルってあるんだけど、 いつも、物語はメタである。だからどこでも浸透する。[…]すべてのものと対立項にならない、すべてのものを超えてしまうのが、 物語である。その物語を、僕はしゃべりたいわけです。(吉本 1988)

 いったい何の話をしているのか、よくわからない。それは中上がこのとき言葉を重ねて論じているとしている箇所を[…]で僕が説明の便宜上省略しているからではない。中上の説明が下手だからでもない。これから次第にはっきりしてゆくように、中上の議論には根本的に、結局何が言いたいんだ、と言いたくなるようなところがある。ひとつの像をうまい具合にわかりやすく結んでくれない。実際、当該の講演の質疑応答では「ぜんぶわかんない」(ibid.)と聴講者からの苦情も受けている。中上の議論はともするとどこまでも抽象的になってゆく。本人が認めているように、中上にはある種の「神学」(Œ8)を語っているという自覚はあった。別のところでは、物語の根源にある「ヴァイブレーション」をはっきり「神と呼んでもいい」(Œ16)とさえ言っている。一見、非常に胡散臭い。よほどのもの好きでなければここでさじを投げてもおかしくない。

 僕もずっとこの調子でいられたら困ってしまうと思った。これは単なる一時の気の迷いなのか。それとも終始この調子なのか。そうだとした、いつから? 僕はこころみにKindleの単語検索機能を使ってみることにした。小学館の『中上電子全集』のうち文芸作品以外のものを収めた9巻 (Œ4, 7, 8, 12, 16, 17, 19, 20, 21)を並べ、いったいどれだけ「物語」という語が使われているのかを確認したところ、4634件に及ぶヒット数になった。そして、作家としての本格デビューを果たした1975年ごろから晩年の1990年ごろまでの約15年間に渡って、ことあるごとに物語についてのまとまった発言をしていることがわかった。検索の内訳は以下のとおりである。

 

 僕はとりあえず、ここに書かれていることをひととおり読んでみて、結局中上が物語という語を通して何が言いたいのかを確かめてみようと思った。ほかにも関連性の高そうなテクストがあれば、それらもコーパスの一部として読解の対象とする。また、ほかの著者のものでも中上を理解する一助になるようであれば、迷わずに用いる。とりわけ「物語・反物語をめぐる150冊」(Œ8)として挙げられている著作は中上が1984年の時点で物語について考える際の参考図書としていたものなので、積極的に読解の補助線として参照することにする。そのようにして、中上のいう物語って何だろう、という疑問に、僕なりの問いを出してみることにした。

 結局、僕がずぼらなこともあり、自分がコーパスとして定めたものの読解には二年もかかってしまった。そして読んだあとになって、何の読解の方針もないまま読むことの危うさに気づいてしまった。というのも、中上の思考のあり方には非常に特徴的なところがあって、それをあらかじめ理解した上で向きあわないと、苛立ちが爆発して付きあいきれなくなってしまう。そして、あとになって気づいたのだけど、それはなにも中上ひとりにかぎった問題ではなく、日本語の思考一般にもある程度あてはまる。次節で詳しく説明するように、日本語話者であるかぎりどうしても陥ってしまう思考の罠があり、なかでも中上健次はそんな陥穽におそろしく深くはまりこんでいた。

 ただ、中上の面白いところは、まさにそれゆえにこそ日本語の罠をある種の豊かさへと転化する特殊能力を持っていたということだ。そして、まさにそのことについての思索を深めた作家でもあり、それが中上の物語論を構成する柱のひとつにもなっている。やや遠回りをする形になってしまうのだけど、いきなり徒手で意味不明のテクストに立ちむかい、いたずらにアリ地獄のような場所に滑落してゆくのを未然に防ぐためにも、まずはこのような日本語の罠についての理解を深め、その上で読解の見通しを立てることにしたい。それなりに見晴らしのよい距離からでなければ、中上健次をうまく読むことはできない。

1.2. 中上健次対策室

1.2.1. 日本語ならではの問題

 前回は、中上健次とフランスの関係に触れつつつ、中上のいう物語って何だろうという問いを立てた。また、自分が日本語話者であるということ、日本語文学の「もっとも伝統的な作家」(Nakagami 1985)であるということへの中上自身のこだわりに触れた上で、中上は日本語話者ならではのある種の思考の罠におそろしく深くはまりこんだ作家であると述べた。ここでは比較言語学的な手続きを通して、その罠について詳しく見ていきたい。やや小難しい話になってしまうけれど、中上の物語論ほど抽象的ではないと思うから、ちょっと我慢して付きあってほしい。中上には申し訳ないけれど、ここでだめなら中上もろとも諦めてもらうしかない。

 さて、日本語には中上健次を含めた僕たち日本語話者の思考を根本的に条件づけるような特徴がいくつもある。そのうちのひとつが、日本語は英語や仏語とちがって現実のモノゴトを指す名詞と観念イデア にとどまる名詞の区別をつけることができない、というものだ。現実と観念イデア……? そんな古代ギリシア風の区別を英語話者や仏語話者は本当につけているのか、と疑問に思われるかもしれない。が、文法的にはそうであるとしか言いようがないし、そもそもあの有名なプラトンのイデア論もある種の文法論として読むことができる。

 このことは冠詞というものの使用にかかわる。冠詞というのは英語でいう「the」や「a」のこと。定冠詞と不定冠詞。僕も学校で教わったときはそんな些事にかかずらっていられるかとせせら笑ったものだった。冠詞がなくてもだいたい意味は通じる。現に日本語にはそんなものはないではないか、と。たしかにそのとおりだと今も思う。たしかに意味は通じる。しかし場合によっては、意味は通じても何について話しているのかがよくわからないという事態に陥ることがある。よくよく立ちどまって考えれば考えるほど、そのような印象が強くなる。ちょうど中上健次の議論のように。ある種の文学や哲学の言葉のように。で、結局、何が言いたかったのだろう? という感想が思わずこぼれる。現実のモノゴトと観念の区別のない世界では、ともするとそのようなことが起こるのである。

 冠詞があれば、そのような問題は避けられていたかもしれない。そのことを明らかにするために、ギヨーム・ギュスターヴ(Gustave 1964)というフランスの言語学者が考えたことを紹介しておきたい。ギュスターブによれば、冠詞には名詞を「現働化」する働きがある、という。今風のカタカナ語を使えば、アクティベートする、とでも言えるだろうか。不活性だったものを活性化させる、という程度の意味の言葉だ。名詞はそのように現働化されることではじめて、観念であることをやめ、現実のモノゴトを指示しはじめるとギュスターブは考えた。そして、それを「現働態」と呼んだ。その反対に、冠詞のない名詞は現働化されていないということになるので「潜在態」という。

 一例として、さくらんぼを意味する「cherry」という名詞のことを考えてみよう。冠詞のない潜在態の「cherry」は、ただの観念にすぎず、いかなる具体的な指示対象を持たない。それが「a cherry」という現働態になることではじめて、ひとつのモノとしてのさくらんぼを指示できるようになる。冠詞にはこのように現実のモノゴトと観念イデアとの橋渡しをする働きがあるのだ。もちろんこれはあくまでも文法的な区別であり、日本語のようにこのような区別を持たない言語はいくらでもある。そしてそれゆえに、困ることもあれば、面白くもなる。

 たとえば「さくらんぼと平仮名書けてさくらんぼ」という富安風生の俳句。ここには二つのさくらんぼが登場する。一つ目のほうは『さくらんぼ』のように鉤括弧に入れることもできる。書かれた文字としてのさくらんぼである。けれども、二つ目はちがう。文字ではなく、ブツである。ご褒美の味がするほうのさくらんぼである。一つ目とは違って具体的な指示対象を持っており、英語に訳せば必ず「a cherry」として現働化された形をとる。しかし、日本語はそのような区別を文法的に示すことができない。だからこそ、この俳句は面白い。英語には翻訳不可能な面白さがある。

 究極的には、中上がしているのもそういうことなのだということが、これから徐々に明らかになってゆくだろう。僕自身は中上の議論を仏語に翻訳するうちにはじめてそのことに思いあたった。中上はモノゴトとしての物語と概念や観念としての物語とをはっきり区別することがなかった。そしてそのことが中上の議論に奇妙なダイナミズムを与えることになる。

 やや専門的な言葉遣いをすれば、ここまでの議論は名詞の「特定性」の観点から捉えなおすことができるかもしれない。特定性というのは、ある語が特定的か(複数のモノゴトのうちの具体的なひとつを指示しているか)総称的か(概念一般を指示しているか)ということである。冠詞というものはそもそも、語の定性﹅﹅(指示対象のイメージのはっきりしたものなのか、イメージを伴わない任意のものなのか)を設定するものなのだけれど、同時に特定性﹅﹅﹅も左右する。たとえば、不定冠詞のついた「a monogatari」は、語が不定的である(イメージを伴わない)ことを示すだけでなく、同時に特定的である(具体的な一つのモノゴトである)ことを示してもいる。つまり、概念として物語を指示しておらず、総称的ではない。なぜなら、概念としての物語はつねに「the monogatari」として指示されなければならない。概念はモノゴトと違って、複数あるうちの任意の一つとしてとらえることはできないからだ。現実のさくらんぼはブツとして複数個あるが、概念としてのさくらんぼはつねに唯一無二なのである。

 ただし、このような総称的な概念としての「the monogatari」(定的かつ総称的)のほかにも、一つのモノゴトとしての具体的なイメージを持った「the monogatari」(定的かつ特定的)もあり、この二つの異なる次元を区別する文法的な指標を英語も仏語も持ちあわせていないので、若干面倒くさいことになる。このことも踏まえつつ、ここまでの議論を次のように整理しておこう。

現働性 定性 特定性
Monogatari 潜在態:指示対象がない
A monogatari 現働態:指示対象がある 不定的:指示対象の具体的なイメージはない 特定的:一つのモノゴトとしての物語を指示する
The monogatari 定的:指示対象の具体的なイメージがある 特定的:一つのモノゴトとしての物語を指示する
総称的:概念としての物語を指示する

 冠詞を持たない日本語話者の僕たちは、ほかの様々な文法的な仕組みに頼ったり表現の工夫を凝らすなどして、定性や特定性をはっきりさせようとする。たとえば、総称的に物語概念を語りたいのであれば、「物語というもの」という言い方をすればいい。さらに、それが新奇なコンセプトであるのだとすれば、「物語」や〈物語〉のように括弧でくくってみたり、いっそ「ナラティブ」のような外来語に置きかえてみたり、そのようなふりがなを従来の語に当ててみたりすることもできる。そうして言葉遣いになんらかの新鮮味を与えることで、いつもとは違う話をしていることを示すことができる。少なくとも外見上は新奇な話をしているつもりでいることができる。あるいはその反対に、わからないのにわかったつもりでいることができる。ところが、中上は基本的にそのような工夫の手続きは踏まない。ただ、物語を物語としてのみ語り、その曖昧さゆえの揺れ幅を思考のバネにする。すると、読者としてはその分文意が掴みにくくなるという問題が起きる。

 そこにさらに別の問題が積み重なる。中上は日本語に名詞というものと名前(固有名)というものの文法的に明確な区別が存在しないこと、両者とも究極的には「名」でしかないということの上にも、彼独自のやり方であぐらをかく。両者の区別は、英語や仏語の場合、冠詞の有無によって簡単につく。単に「Apple」といえば、それは名前である。あるいは、観念である。その一方で「an apple」や「the apple」といえば、語が現働化されて一般名詞となり、モノゴトや概念を指示しはじめる。日本語にはそのような文法的な仕組みがない。その結果、中上の議論においてどのようなことが起こるかというと、中上のいう物語は、モノゴトや概念としての物語を指示するだけではなく、固有名としての「Monogatari」として奇妙なふるまいを見せはじめることになる。

 意味論的には、換称というメトニミーの一種として「物語」が用いられることになると言える。換称というのはようするに、一般名詞が固有名のように扱われたり、その逆に固有名が一般名詞のように扱われたりすることをいう。たとえば「a pentagon」と書けば、数ある五角形のうちのひとつしか差さない。しかし「(the) Pentagon」と書けば、それが米国国防総省の建物の名前となり、さらには米国国防総省そのものを指す。中上はこのような換喩表現を多用というか、乱用する。ときには戦略的に。本人の言葉を使えば、中上は語を「換用」(Œ12)する。語の換用とはようするに、語を別の意味に読みかえるということだ。そのために用いられる語の典型が「物語」であるようだということが中上の議論を追うちに僕にもわかってきた。

 たとえば、中上は「法としての物語」や「差別としての物語」という言い方をする。僕ははじめ「物語とは一種の法や一種の差別である」ということを中上は言いたいのだろう、と理解した。世界には法や差別というモノゴトが様々な形であって、物語はその一例(a law、a discrimination)であるのだろう、と。実際、物語には文法がある。一定の決まりごとに沿ってできている。中上もそのことをしきりに問題にしてもいたし、現在一般に考えられている物語論ナラトロジーというものも、物語を支配する法の記述を目指す。だから、何も驚くには値しない。

 また、物語が一種の差別であるということも、常識の範疇でなんとか理解できる。なぜなら、物語とは「こちら」側の視点と「あちら」側の視点を分かつものであるとも考えようによっては言えるからだ。主人公プロタゴニストである僕たちと、その敵役アンタゴニストであるあいつら、というように。そして、これまでに紡がれてきた物語の多くのが、そのような形でなんらかの差別に加担してきたことは疑いようがない。たとえば、オールロマンス事件。1951年10月に発行された『オール・ロマンス』という雑誌に「特殊部落」という小説が掲載されたが、それがいわゆる部落への差別意識を煽るものとして部落解放委員会に糾弾されるという事件が起きた。このように、一種の差別のあらわれとして物語というものを理解することができる。そして、ただそれだけの話をしているなら、中上の議論はさして面白くもなかっただろう。しかし、話はそこで終わらない。

 中上は同時に、物語法や差別であるだけでなく、物語法や差別であるということについても考えてしまう。このことは、法や差別(the law、the discrimination)とは物語である、とも裏返して言いかえられる。物語という語はそのとき、法や差別という語の換称としてふるまいはじめる。物語=法=差別は、世界の法則ロゴスそのものを思わせるような抽象的な様相を帯びることになり、辞書的な定義から完全に逸脱する。英語では「Monogatari」と大文字で表記されてもおかしくない。仮に「narrative」という訳語があてられていたとしたらおそらくは「the narrative」や「the Narrative」のように斜体で表記されることになっていただろう。日本語の場合は、鉤括弧をつけるような表記上の工夫が必要になる。さもなくば、たやすく他の次元の物語と混同されてしまう。中上はまさにそのような日本語の曖昧さを利用して、彼が換用と呼ぶレトリックを弄してゆく。それなりに無意識かつ戦略的に。

 では、いったい何のためにそのような真似をするのか。これは、そもそも何のために中上は物語について語るのか、ということを明らかにする上でも決定的な問いである。これらの問いに答えるには、中上の議論を実際に追ってみるしかない。ただ、現時点でひとつ言えるのは、中上はこれまで見てきたような日本語の特徴を利用することで「換用のネットワーク」とでも名づけられるような連想の輪を拡張することができた、ということだ。語の辞書的な意味にとらわれず、別の語の言いかえとして使うことで、中上は様々な概念を結びつけてゆく。「物語」、「法」、「差別」だけではなく、ほかにも「天皇」や「言葉」、「差異」をはじめとする様々なパワーワードをなかば強引に関連づけることで、中上は継ぎはぎ細工のように自身の物語論の組みあげてゆくことになる。

 とはいえ、このときある特定の語が換用のネットワークの中心的なハブになるわけではない。「物語」という語も例外ではない。中上はことさらに物語というものについて﹅﹅﹅﹅思考を垂直に掘りさげたわけわけではなかった。彼が哲学者だったのであれば、鍵となるような概念を議論の核に据えることもできたかもしれないが、そうではなかった。中上はむしろ、物語をとおして﹅﹅﹅﹅として﹅﹅﹅同時に別のことを考えることで、水平方向に思考を展開させようとする。物語はそのとき、いわばプリズムのように意味を分光しはじめる。物語というフィルターごしには差別や法といった一見なんでもない言葉たちが違った輝きを放ちはじめる。物語をふくめたそれらすべての語の意味はいったん宙吊りになって決定不可能な状態に置かれる。物語はそのとき、それ自体の中心的な意味を失い、ほかの語との境界が定かではなくなる。このような中上の思考の特徴がこれから徐々に明らかになってくるだろう。

 そして、このことをこそ読解に先立って踏まえておかなければならない。僕たちの読解の目的は「中上のいう物語とは何なのか」という問いに答えることだった。しかし、ただいたずらに物語という語に注目しながらテクストを追うだけでは、議論の核として何が言いたいのかが判然としないまま中上の思考に引きずられてしまうことになる。実際に中上の議論をひととおり読んでみて、僕はそう思った。中上の物語論の輪郭がどこまでもぼやけてゆくなかで、途方にくれた。物語という語を読解のためのひとつの定点に設定することはできない。そのかわりに、読解の支えとなるような自分なりの視座をあらかじめ用意した上で中上のテクストにむきあいなおさなければならないと思った。そこで僕が頭を抱えてうなされた末に思いついたのが「マナ語」の働きを追うということだった。

1.2.2. マナ語の働きを追う

 中上健次は日本語には冠詞のような文法的な仕組みがないのをいいことに、かなり身勝手に物語といった語を用いて「換用のネットワーク」を拡張し、語の意味を宙吊りにする。というか、意味不明にする。はっきりいって面倒臭いとしか言いようがないそのような事態のことを「匿名性」の観点から捉えなおしたい。ここでいう「匿名」とは、英語の「anonym」の原義通り「名無し」であったり「仮の名」であるがゆえの正体不明の状態を指すこととする。日本語の字面的には「名前を秘匿する」というところに焦点が置かれるが、その点はここでは問題にならない。そのかわりむしろ、名無しであったり仮名であるがゆえに「何かがそれと同定されないまま、そこに潜在的にある」という点に注意をむけたい。いわば、不特定の人々の影が重なりあいながら揺れ動くような状態。ひとつひとつの影をうまく切り離すことができず、だれがだれと言えない。

 中上の換用のネットワークもそのような揺れ動きの状態としてイメージできる。物語をはじめとする語がほかの語の「仮名かな anonym」としてふるまうことで輪郭を失い、同定可能な意味を失う、と考えてみることができる。ただ、こうして「仮名」や「匿名」という鉤括弧つきの概念を提示しても紛らわしいだけだし、中上と同じ轍を踏むことにしかならないので、もうすこし別の言い方はないものかと僕は考えた。

 そこで、以上のような意味での匿名性を帯びた語のことを、ロラン・バルトというフランスの批評家にならって「マナ語」(Barthes 1975)と呼ぶことにしたい。このような奇妙な語を使うのにはそれなりのわけがある。バルトによれば、マナ語というものは「多様な形を持ち、掴みがたく、不可侵とも思える意味作用を持っていて、それによって何にでも答えられるような錯覚を起こさせる。中心的とも脱中心的ともつかない。不動でありながら浮遊し、枠にはまらず、つねにアトピックで(どんなトピックにも収斂されない)、残余であるとともに代補であり、あらゆるシニフィエに対応するシニフィアン」(ibid., 拙訳)であるということらしい。意味はよくわからないし、わかる必要もない。バルト自身もこの造語をふと気まぐれに思いついて書き残してみただけで、本格的にそれをどうしたわけでもない。

 ここでただひとつ重要なのは、マナ語の「マナ」の部分である。というのも、このマナというコンセプトこそ中上のレトリックとそれなりの距離感を持って付きあう上、ひいては中上のいう物語を理解する上で、きわめて有用な手立てになるからだ。

 マナとは、何だろうか。そこはかとない胡散臭さの漂う言葉である。僕には幼いころから馴染みがあった。というのも、統一教会は関連会社の一和イルファ製薬を通して高麗人参のエキスを高額で信者に売りつけていたのだけれど、それが「マナ」ということになっていた。僕の家にも常備されていた。天から賜った食物の意味だという。出典は「出エジプト記」。もともとエジプトから逃れてきたイスラエルの民の腹を満たすために神が天から降らせたもののようだ。正体不明のその食物を見た人々は「これは何か」と口にしあった。一説によれば、それをアラム語かなにかにすると「マナ」ということになるらしい。

 とはいえ、バルトのいうマナは「出エジプト記」とは関係がない。実は、もうひとつ別のマナがある。アラム語ではなく、メラネシア語のマナである。意味は「力」。この意味でのマナはファンタジー系の作り話のなかで流用されているのを時折見かける。僕も子供のときにカードゲームやビデオゲームを通してこちらのマナのことを知ったが、まさか高麗人参のほうのマナとは違う由来があるとは知らなかった。

 いずれにしても、このマナというメラネシア語。調べてみると、その胡散臭さによらず、主に文化人類学の分野で古くから学術的な関心が寄せられてきたものでもあるようだ。ためしに『日本国語大辞典』を引いてみると「未開社会の宗教における、非人格的な神秘的・超自然的力。人間、霊魂、動植物、無生物にこもり、転移性と伝染性を特色とする」とある。

 英語圏では、ロバート・コドリントンの『メラネシア人』(1891)によって広く知られるようになったらしい。また、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の第二版(1900)などでも扱われたという。フランス語圏では、エミール・デュルケームや『宗教生活の基本形態』(1912)や、その甥であるマルセル・モースの『エスキモー社会』(1902)や『贈与論』(1923)でも取りあげられた。『日本国語大辞典』による説明はおそらくこれらの議論に基づいているのだろう。しかし残念なことに、その後に登場したクロード・レヴィ=ストロースの議論までは追えていない。

 レヴィ=ストロースは『社会学と人類学』というマルセル・モースの論文集(Mauss 1950)に「マルセル・モースの仕事の紹介」という序文を寄せている。そして、そこでモースによって仏語圏に広められたマナの概念に触れながら、マナやそれに類するものを「神秘的な力」と捉えることを断固として拒む。そのかわりに、マナやそれに類する語そのものの意味論的な働きを文化人類学ではなく記号学の枠組みのなかで把握しなおそうとする。レヴィ=ストロースによれば、マナのような語は「不確定な意味をあらわすものであり、それ自体、意味を持たない。したがって、どんな意味の受け皿にもなりえる」(ibid., 拙訳)。レヴィ=ストロースの引くアルゴキン族の古老の言葉を借りれば「未知のもの、まだ一般名詞を持たないあらゆるものを指す」。そのような語は、現代の仏語にもごく普通にある、とレヴィ=ストロースはいう。たとえば「truc」や「machine」といった語である。

仏語の「truc」や「machin」は知らない物や、使い道のわかりにくい物、意表をつくような物を呼ぶのに使われる。「machin」は「機械 machine」から来ているが、その原義をたどれば「力」という意味がある。「truc」の語源は、なんらかの腕前や運に左右される遊戯において「物怪の幸い coup heureux」を意味する中世の語に由来しているという説がある。(ibid., 拙訳)

 これはフランスで暮らす僕にも馴染みぶかい言葉だ。仏語の語彙の非常に貧しい僕は、言葉に詰まるたびに「le truc」という。「あれだよ、例のあれ」というときの「あれ」である。「マナ」もそのような意味合いで使われているのだ、とレヴィ=ストロースはいう。しかし、日本語話者の僕から言わせれば「truc」や「machin」、ひいては「マナ」に相当する日本語が「あれ」のほかにもある。「あれだよ、あれ。ほら、困ったときによく使うもの(使うの)」というときの「モノ」である。「特定の事柄が思い出せなかったり、わざとはっきりと言わないようにしたりするとき、また、具体的な事柄を指示できないとき、問われて返答に窮したときなどに仮にいう語」(日本国語大辞典)という意味でのモノ。英語の「one」に相当するだろうか。

 モノとマナはひびきの上でもよく似ている。Mono。Mana。もしかすると、遠い親戚なのかもしれない。たとえば「世話」という日本語と「Service」という英語が同じインド由来のように。実は語源が同じだったということも考えられる。そこで、レヴィ=ストロースも参照しているアーサー・カペルの「マナという語についての言語学的考察」(Capell 1938)に当たってみたところ、それなりに気になる記述があった。インドネシアのスラウェシ島で話されるパモナ語ではマナという語の変種と考えられるモノという語があるという。「霊 spirit」や「者 person」を意味するらしい。モノクは「この者=私」。モノムは「その者=お前」。モノニャは「あの者=彼」。テモは「生き者」。いかにもそれらしいが、僕の知るかぎりまだ語源的な裏付けはまだなされていない。

 いずれにしても、調べているうちにわかったのは、日本語のモノとマナとの意味論的な比較研究はすでにそれなりになされているということだ。文化人類学者の小松和彦(1982)や文学者の中西進(2011)、言語学者の井原奉明(2012)らが、モノはすなわちマナであるとする説を唱えている。たとえば、小松は前述のレヴィ=ストロースの議論を受けながら、マナ=モノについて次のように述べていた。

「もの」という概念は、物質的存在と非物質的存在のすべてを含む無限定的概念であって、その実体はほとんど不明であり、裏を返せば、「もの」という概念は、明確な対象を指示しえない、実体を欠いた、つまり意味されたものをもたない、カラッポの言葉なのである。[…]レヴィ=ストロースの考えに従うならば、日本の「もの」とポリネシアの「マナ」とは変換可能な概念であり、その役割は同一であるということになるであろう。(小松 1982)

 このような無限定的な性質ゆえに、モノはまさにある種の「マナ」へとも転嫁する、とういうことなのか。たとえば、ひとつ前の引用文で用いた「物怪の幸い」という慣用表現だけでなく「物の弾み」という言い方にもあらわれているように、モノはなにかが物質ブツとして形をとる前の不定形の状態、なにかがそれとして同定可能になる前の状態、アリストテレス的な意味での潜勢ピュイサンスを含意する。その点において、まさしく「マナ」であるのかもしれない。さらにそれが転じて「神仏、妖怪、怨霊など、恐怖・畏怖の対象」(日本国語大辞典)や「物の怪による病」(ibid.)をも意味するようになる。あるいは「物々しい」という形容詞のことを考えてみてもいい。よくわからないが、まさによくわからないがゆえに、ただならない力を感じる。

 モノという語が発揮するこのような意味論的な力は、日本語には定冠詞のような文法的な仕組みがないということとも無縁ではないのかもしれない。冠詞による縛りがないからこそ、モノという語は、潜在性と現働性、定性と不定性、特定性と総称性の間をたやすく揺れる。モノという語はのままでは、潜在的であり、不定的であり、総称的である。それがなんらかの表現のなかに場所を持つことで現働化する。

 たとえば「物を言う」という表現。これには「口を利く」と「力を発揮する」の二つの意味があるけれど、いずれにしても、ここでのモノは動詞と結びつくことでなんらかの意味を担っているという点で現働的であると言える。とはいえ、指示対象は漠然としていて、不定的かつ総称的なモノ(マナ)にとどまっている。しかし、ひとたびなんらかの限定詞を伴うことで定性や特定性を帯びるようになる。たとえば「食べ物」という言い方。食用にするものの総称にとどまるが「物を言う」のモノとちがい物質的であり、具体的である。それにさらに「この食べ物」というように限定を重ねることで定性や特定性が増す。このようにモノという語は指示対象の正体が不明なだけに、複数の次元を媒介することができる。具体的なイメージとともに特定された「物」や「者」にもなれば、そのような形をとる以前の不定的で総称的で潜在的な「マナ」でもありえる。レヴィ=ストロースはこのような語のことを「浮遊するシニフィアン」と呼んだ。そしてまさにこのように複数の次元を媒介することがその働きであると考えた。

 シニフィアンとは「意味するモノ」=表現のことで、その片割れであるシニフィエという「意味されるモノ」=内容との対になっていると考えられる。記号学では、両者の相互補完的な統一体のことを「記号」と呼ぶ。たとえば「かなしい」という表現は普通、それにふさしい感情と一致している。「かなしい」という言葉を目にしたり耳にしたりして、普通それを奇妙に思ったりはしない。が、物の弾みに両者がずれてしまい、違和が生まれることがある。そして、まさにそのずれを埋めるためにこそ浮遊するシニフィアンが必要なのであるという。

[浮遊するシニフィアンの働きは]シニフィアンとシニフィエのずれを埋めるということにある。もっと正確に言えば、そのような状況やそのような表現の現れにおいて、それまで過不足のない補完関係にあったはずのシニフィアンとシニフィエが不一致をきたしたことを示すということ。(ibid., 拙訳)

 このことは「ものがなしい」や「ものすごい」といった語を例にとってみてもわかる。これらの表現は「かなしい」や「すごい」という言い方とは異なり、特定の「かなしさ」や「すごさ」として同定できる感情を表すのではなく、そこからずれたところで漠然としている。その原因もわからない。感情(シニフィエ)とぴったりと対応するような表現(シニフィアン)が見つからない。なにかが、違う。そういうずれをモノがたっている。ちょうど「おかしい」というルビの振り方に違和を感じてしまうのと同じように。

 中上健次の言葉遣いにふれるなかでも、そういう違和に出会う瞬間がたびたびある。中上のいう物語という語を追っていると、なにかが違う、なにかがずれている、という違和がこみあげてくる。何のルビも振られていない。そのせいか、妙に匿名的な感じがする。物語や差別、法といったそのほかもろもろの一般名詞は、日常の用法においては安定した意味を持っているはずである。しかし、中上健次の紡ぐ換用のネットワークのなかでは、意味が不確かになって相互に代替可能になる。そうしてマナ語としての匿名性を強めてゆく。

 このように考えてみることで「中上健次のいう物語は何か」という当初の素朴な問いがそもそも問題含みだったということがはっきりする。常識的には、何か、という問いは、その何かを定義することによって答えられる。定義とは、その何かの内包(属性)や外延(具体例)を記述することである。しかし、これまでの議論から明らかなのは、そのような手続きによっては、マナ語として意味の揺らめく「物語」という語を捉えることはできないということだ。そこで、次のように読解の方針を立てることにした。

 単に物語という語が何を意味するのかということに囚われるのは不毛である。それと同時に問わなければならないのは、そもそもどうして(つまり、なぜ、どのようにして)物語という語が用いられるのか、ということである。別の言い方をすれば、物語の内在的な意味ではなく、その働きに注目するということである。物語という語は、マナ=力それ自体ではないにしても、マナ語としてなんらかの力を発揮する。その働きとは何か。あるいは、物語とは何なのか、と問うかわりに、物語という語はどんな意味作用をするのか、と言いかえてもいい。そして、この問いは、そもそも中上はなぜ物語論を語るのか、という問いも呼びこむ。あるいは、なぜ「差別」や「法」といったものを「物語」として、あるいは「物語」をとおして語るのか、という問いにも形を変える。すでにヒントは出ている。マナ語はレヴィ=ストロースのいう浮遊するシニフィアンとして、特定性や定性をはじめとする様々な次元を仲介する。しかし、それはつまるところ、何のためなのか。

 これらの問いに説得力のある具体的な答えを与えるために、そもそも中上健次の物語論が、どのような状況下で何のために展開されていたのかということを検討していくことにする。まず、どのような状況下で、という問いに答えるにあたり、中上が物語について語った1970-80年代の日本においてどのような物語についての議論があったのか、中上の物語論はそれらとどう違ったのかという点に関心を寄せることにする。続いて、何のために、という問いに答えるにあたっては、とりわけ部落差別問題との関わりのなかで中上にどのような目論見があったのかということを探っていきたい。やや遠回りをする形になるが、このような手続きによって中上の議論の外堀を埋めることで、中上の物語論が格段に読みやすくなるはずだ。

1.3. 中上の物語論の位置付け

 前回は、日本語話者ならではの思考のあり方として、中上健次が「換用のネットワーク」とでも呼べるような連想の輪を広げるということを見た。そして、その過程で意味の不明になった語を「匿名性(何かがそれと同定されないまま潜在していること)」という点から「マナ語」と呼び、それらの意味論的な働きを追うということを読解の基本的な方針とした。ここでは、さらに読解のための足場固めをするために、中上の物語論の成りたちについてあらかじめ確認しておこう。

 中上が1970-80年代の日本で打ちだした物語の概念は、型破りなものだった。実際、あのような物語論は中上以外の誰にも決して語ることはできなかっただろう。中上は日本語話者であり、小説家であり、部落出身であり、いわゆるニューアカデミズムの寵児でもあるけれど、それらことごとくの点が中上の物語論の展開に寄与している。中上は本当に稀有な存在だった。しかし、それらの点さえ押さえておけば中上のいう物語のおおよそが掴めるのまた事実である。ここでは特に中上のいう物語の元ネタとなったものについて概観しておくことにしよう。

 ひとことで言ってしまえば、中上の物語論は構造主義というものをベースにしている。構造主義という呼称自体は日本では1960年代ごろからレヴィ=ストロースらによって知られるようになった。とはいえ、すくなくとも19世紀の後半にはすでに同様の考え方がドイツやフランスを中心にしてなされるようになっていた。すでに言及したジェームズ・フレイザーやエミール・デュルケーム、マルセル・モースの民俗学的、社会学的な仕事も広義には同じ構造主義の流れを汲んでいると言ってよい。ほかにも有名所としては、言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールの名が挙げられるし、フランスの物語論ナラトロジーの祖とも言われるジェラール・ジュネットや、記号論というものについて論じたロラン・バルトやジュリア・クリステヴァの名を付け加えてもいいだろう。構造主義は実に様々な人文学の分野にまたがるものだが、その特徴を強引にまとめてしまえば、なんらかのシステムというものを想定して、そこに内在するロジックに着目するというものだ。別の観点から言いかえれば、構造主義は、世界やコミュニケーションの超越的な起源となるような不可分な単位=個(in-dividual)、典型的にはデカルトのいう「自我」やサルトルのいう「実存」のようなものを議論の出発点として想定しない。

 中上の議論はこのような構造主義の流れを汲んだフランスの思想家の1960-70年代の仕事からの間接的な影響を強く受けていた(当時はありとあらゆるものが「ポスト◯◯」ということになっていたので、彼らも例にもれず「ポスト構造主義者」と呼ばれていた)。具体的には、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン=フランソワ・リオタール、ルイ・アルチュセールといった論者で、中上は柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰、吉本隆明、山口昌男らとのなによりも個人的な付きあいを通して、同時代のフランスの思想に触れることになった。なかでもパリで学んできた蓮實がポスト・モダンな雰囲気をまとって物語について論じはじめると、中上はそれに強い衝撃と刺激を受けるとともに危機感を募らせるようになる。

 中上は彼なりの物語論のあり方を模索した。そこで目にとめたのが折口信夫の仕事だった。折口は20世紀の前半に歌人や民俗学者、国学者として活動していたが、柳田國男の弟子筋だったこともあり、上述した広義の構造主義的な考え方にも触れていた。そしてまさに民俗学との関係から日本でもっとも早く「物語」というそれまでは国学のなかでしか論じられてこなかったものを構造主義的な手つきで扱ったのだった。中上はそんな折口の物語論を再発見しつつ、物語という日本語の持つ懐の広さに助けられる形、そして部落差別の問題と物語概念とを結びつける形で、フランス的な物語概念との距離をとろうとした。

 その結果、中上はいわば「社会物語学的」とでも形容できるような物語論を練りあげた、というのが僕がここでいちばん言いたいことである。社会物語学というのは、アーサー・フランクというカナダの社会学者の仕事によって2010年代から広まりはじめた考え方である。広い意味ではこれも構造主義の一種であり、中上の議論ともひびきあうところが多いにある。とはいえ、中上とフランクの議論には根本的に隔たっているところもあるので、まさにその点について考察することで中上の物語論にはっきりとした輪郭と位置を与えることができるのではないか、と僕は考えている。

 以上のような見取り図を踏まえた上で、中上の物語論をまずは外側から囲いこみ、その他もろもろの議論との位置関係をはかるための指標となるような三つの杭を打っておきたい。それらの杭は三つの問いとして表現できる。第一に、折口信夫のいう物語とは何か。第二に、蓮實重彦のいう物語とは何か。第三に、アーサー・フランクのいう物語とは何か。これら三つの問いに答えていくこととしよう。

1.3.1. 折口信夫のいう物語とは何だろうか

 中上健次のいう物語とは何だろうか。この問いに答えるためには、そもそも一般的にも専門的にも物語というものがこれまでどのように考えられてきたのか、ということを押さえた上で、それらと照らしあわせてみなければならない。とはいえ、何の方針もないままいたずらに比較検討しているだけでは論点が曖昧になる。そのためここでは言語学の枠組みのなかで物語という語の意味を分析しつつ、中上のいう物語やその他の論者のいう物語の違いを明らかにしていこうと思う。

 物語という日本語は、とても古くから使われてきた言葉である。すくなくとも『万葉集』の編纂された七世紀の後半にはすでに使われていたようだ。『万葉集』第7巻1287番には次の歌が収められている。

原文:青角髪 依網原 人相鴨 石走 淡海縣 物語為 訓読:青みづら依網《よさみ》の原に人も逢はぬかも石走る淡海県《あふみあがた》の物語せむ

 依網とは「川波と海の波とが寄せ合うところ」という意味で、かつてその名で知られた土地があったらしい。所在についてはよくわからないが、三河国にある河口の町のひとつだったのではないかという説もある。近江(淡海)からそこに赴いていった柿本人麻呂が詠んだ歌とも考えられているようだ。とにかく、そんな依網の地で人にばったり出逢わないかな、と歌はいう。その人に近江(淡海)の物語ができるのに、と。依網の冠する「あおみずら」という枕詞が「おうみ(あわうみ)」と言葉遊びのようにひびきあっているから、きっと近江への懐かしさとともにそんな音の面白さを詠んだ歌なのだろう。いずれにしてもこれが「物語」という語の使用が確認できる最も古い文献になる。「為(せむ)」とともに使われていることから「ものをかたる」のではなく「ものがたり」という名詞形として用いられていると考えてよいだろう。ただ、そこにこめられた意味が現代の用法とどこまで解離しているのかまではわからない。

 では、現代においては、そもそも「物語」はどのような意味で使われているのだろうか。僕の手元にある小学館の『日本国語大辞典』には、以下の八つの定義が挙げられていた。

1.(-する)種々の話題について話すこと。語り合うこと。四方山の話をすること。また、その話。 2.(-する)特に男女が相かたらうこと。男女が契りをかわしたことを婉曲にいう。 3.(-する)幼児が片言やわけのわからないことを言うこと。 4.(-する)特定の事柄について、その一部始終を話すこと。また、その話。特に口承的な伝承、また、それを語ることをいうことがある。 5.日本の文学形態の一つ。作者の見聞または想像をもととし、人物・事件について人に語る形で叙述した散文の文学作品。狭義には平安時代の作り物語・歌物語をいい、鎌倉・南北朝時代のその模倣作品を含める。広義には歴史物語、説話物語、軍記物語などもいう。作り物語は、伝記物語、写実物語などに分ける。ものがたりぶみ。 6.浄瑠璃・歌舞伎で、時代物の主役が、過去の事件、思い出、心境の述懐などを物語る部分。また、その演出。「実盛物語」や「一谷嫩軍記」の熊谷の物語などが名高い。 7.江戸時代、家々の門に立ち古戦物語などの素読をして金品を乞うた者。 8.近代文学で、ノベル(小説)に対し、一貫した筋を持つストーリーという概念にあてた語。また、……について述べたもの、の意で、題名に添えられることが多い。

 ここにはあまり現代的ではない用法もいくつか紛れこんでいるようだ。一つ目と四つ目、五つ目、八つ目は、たしかに現在でも使われている。しかし、その他の用法はどうだろう。二つ目については、むかし古文の授業で習った覚えが僕にもかろうじてあった。三つ目と六つ目、七つ目のことは、知らない。よくわからない。が、いずれにしても、中上のいう物語もいくら奇抜なものとはいえ、基本的にはこれらの定義をベースにしていると思われる。そこでひとまずここに列挙された定義を眺めているうちに思ったことが一つある。物語はなんら小難しい抽象的なものではなく、むしろかなり具体的なモノゴトであるということだ。ところが、中上はそれをどこまで抽象化して突き詰め、ついには「神」とさえ呼ぶようになる。「ここに神がいるのです。恐ろしい気がしませんか」(Œ16)と。

 そんな中上の思考の道筋を追うために、ここではあることに着目してみたい。それははじめの四つの定義からも明らかであるとおり、物語はモノであると同時にコトでもあるということだ。もうすこし別の言い方をすると、物語は「発話行為」であるとともに「発話内容」でもある。これはきっと、物語という語が動作性名詞としての側面を持っていることによるのだろう。物語は「する」や「せむ」を伴うことで、発話という動作を指示することができる。しかし、それと同時に、発話行為という動作の結果生みだされたモノとしての物語を指示することができる。

 この二面性は、よくよく考えてみると、尋常ではないことなのかもしれない。すくなくとも、非常に厄介なのは間違いない。というのも、日本語話者である中上はモノゴトと概念の次元の区別をつけないということはすでに見たけれど、それどころかモノとコトの次元の区別さえ曖昧になることを意味するからだ。中上が英語話者や仏語話者だったのであれば、そのような問題は生じなかったのではないか。たとえば「story」や「tale」、「narrative」といった英語は、どれもモノとしての物語のみをもっぱら指示する。コトとしての物語について話したければ「tell / telling」や「narrate / narration」のように言わなければならない。英語や仏語では、このように複数の語が使い分けられることによってモノとコトの次元が区別されている。他方、日本語においては、物語という語がモノとコトの両面を一身に引きうけてしまっている。

 なぜなのだろう? それはきっと、物語という日本語が二つの語の組みあわせによってできているということとも無縁ではない。『日本国語大辞典』では残念ながら言葉の成りたちについて触れられていないものの、物語は読んで字のごとく「モノ」と「カタリ」の二つの和語からなり、それぞれに「物」と「語」の漢字があてられている。左右に併置されたこの両者について考えることで見えてくるものがあるかもしれない。そこで調べてみてわかったのは、両者が相互にどのような関係にあるのかということについては諸説あり、専門家の間でも意見が分かれているということだ。

藤井貞和の議論

 現代の物語研究の第一人者でもある藤井貞和(1997、2004)によれば、これまでの物語に関する議論には主に二つのアプローチがあったという。一方は物語とはモノによる﹅﹅﹅カタリと考え、モノに着目するというもの。もう一方はモノについての﹅﹅﹅﹅についてのカタリと考え、カタリに着目するというものである。ようするに、モノカタルのか。モノカタルのか。主格(いわゆる主語)なのか、対格(いわゆる直接目的語)なのか。このような格関係の曖昧さが物語という語にはある。

 では、第一に、モノによるカタリとは何か。これは折口信夫の説いた立場であり、その流れを汲んだものとして三谷栄一(『物語文学史論』1965)の説があるようだ。藤井(2004)によれば、モノを「霊魂」と考え「ものがたりとは『もの』の『かたり』、つまり霊魂のあらわれてする語りだ、としたのが折口の学説であった」という。折口のいうモノはいわば「者」として特定できる人格のことではなく、「物」としての物質的な対象物でもない。もっと漠然とした力である。藤井は次のような折口の説を紹介する。「もののべのものが、霊魂であることには疑問はない。更にわれわれが言おうとする物語——叙事詩——なるが、やはり霊魂の感染であるらしい」(『日本文学の発生——その基礎論』1932)。「ものとは、霊の義である。霊界の存在が、人の口に託して、かたるが故に、ものがたりなのだ」(『大和時代の文学』1933)ということらしい。意味は、僕にもよくわからない。藤井自身の立場としても、このようなモノガタリ=霊語説には懐疑的だ。というのも、モノ=霊魂説を裏付けるだけの文献学的な資料がそもそも乏しく、あくまで折口独自の強引な解釈にすぎないとも考えられるからだ。折口の説については、すこし保留しておこう。

 藤井が支持しているのは、物語とはモノについてのカタリであるという第二の説のほうである。霊界の存在ではなく、特定の人格がモノをカタル。そのように考える立場の代表として、藤井は土橋寛(『歌と物語の交渉』1965、『記紀物語の性格と方法』1967)の仕事を挙げている。藤井はまず、「答える」「説明する」「解説する」といったものがカタリの語義だとする土橋寛の説を紹介する。その上で文献資料の再検討を行い、土橋の議論を補う形で、むしろ「説得し、問いかけ、申し出、懇請し、相手を求め、相談し、そして反乱に使嗾する」といった積極的な働きかけをするのがカタリであるとする。そして、このような性格を持ったカタリと対比させることによってはじめてその差異からモノガタリ意味が見えてくる、という。

 藤井(2004)は両者を比較した結果、次のように結論する。モノガタリとは「かたりというほどではないかたり」、「二流のかたり」である、と。この説は、すでに見た『日本国語大辞典』の定義のなかにあった「四方山の話」としての物語にも近い考え方である。また、モノという語がなにかを漠然と指示するだけではなく、接頭辞として「形容詞、形容動詞、または状態を示す動詞の上に付いて、なんとなく、そこはかとなく、そのような状態である意を表わす」(『日本国語大辞典』)ことに鑑みても、納得がいく。たとえば「ものがなしい」などというときのモノ。必ずしも「かなしい」と断定できるわけではない。それでも、漠然とかなしい。そのような意味合いでのモノである。まったく妥当な考え方である。

 ただ、ここではもうすこしカタリとモノガタリの違いに踏みこんでみてもいいかもしれない。カタリとはカタルの名詞形である。現代の用法におけるカタルとは「物事を順序だてて話して聞かせる。物事をことばで述べて相手に伝える。話す」(ibid.)ということであるらしい。「発言行為一般をさす『いふ』、文字によって固定された物を声に出す『よむ』に対して『かたる』はまとまりの叙事の伝達が中心となる」(ibid.)とのことだ。語源については、コト(言/事)から転じたものであるという説もあれば、カタ(形)の動詞形であるという説、カタドルを意味するという説などがあるようだ。それがカタリとして名詞化されてモノと組みあわせられると、いわゆる連濁という現象がおきてモノガタリとなる、と。そのようなことを調べているうちに『日本国語大辞典』には「語史」の項があり、そこに興味深い記述があることに気づいた。いわく、モノガタリはモノガタルの名詞形として成立したわけではない。モノガタリの動詞形として中世以降に成立したのがモノガタルであって、その逆ではない。

 そこで僕はふと思った。カタルの名詞形であるカタリはある種の発話行為をあらわす。それがどういう行為なのかについては、藤井が詳しく検討したとおりであるのだろう。しかし、すくなくとも現代の用法においては、カタリがその結果としての発話内容=モノを意味することはないのではないだろうか。たとえば「モノガタリ/カタリを聞く」ということはできるかもしれない。これはそのような発話行為=コトに接するということである。しかし「モノガタリを読む/作る」といった言い方はできても「カタリを読む/作る」と言うことはできない。このことから考えられるのは、カタリはモノとしての形をとらないということである。実際、カタリを「story」や「tale」などと訳すのには無理がある。これはモノガタリという語とは決定的に異なる点ではないだろうか。このことは、カタリを「語り」と表記することができるが「語」とすることはできないのに対して、モノガタリには「物語り」と「物語」という二つの表記があることにも示唆されている。

 僕はこう考えた。藤井が「二流の語り」とするモノガタリはあくまでも「物語り」というコトとしてのみ理解されなければならない。その一方で、後者の「物語」はコトだけではなくモノとしての側面も同時に備えている。このことから、物語という語を構成するモノという語は単に「なんとなく」を意味する接頭語であったり、カタリの対象物を指示するだけではなく、まさにモノガタリがモノであるという側面の指標にもなっていると考えられるだろう。その点を捨象することで見失れるモノがある。そして、そんなモノについての考察を深めたのがまさに折口信夫だったのではないか。

折口信夫のモノ概念

 あらためて折口の説に戻ろう。折口による「ものとは、霊の義である」という説に疑問を呈するにあたり、藤井はモノという語がそのような意味で用いられることを裏付けるような文献がそれほどないという指摘をしたことはすでに見た。いくつかのケースによっては、モノはたしかに「鬼=亡霊や霊魂を意味することがある。けれどもそれらの前提だって、本来的にけっして断定できることでなかった」と藤井(2004)はいう。その通りなのだろう。というのも、すでに見たとおり、モノとはそもそも「物質的存在と非物質的存在のすべてを含む無限定的概念であって、その実体はほとんど不明」(小松 1982)であるからだ。

 折口信夫のいう「霊」とは、霊魂としての実態を持つのではなく、まさしく本来的に断定不可能なもの、意味の不明なものとして理解されなければならない。もっとはっきりいえば、折口のいう霊とは、マナのことである。折口こそが日本におけるモノ=マナ説の第一人者である。折口のいう「霊」はマナというメラネシア語の和訳として用いられている。安藤礼二(2014)によれば、マナの概念について論じたジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の第三版(1906-1915)を折口は読んでいた。そしてフレイザーのいうマナを「外来魂」として和訳し、自身の民俗学の理論のなかに組みこもうとした。実際、1928年の講演「神様と採物」の原稿には「われわれの人間の身体にマナ(外来魂)がやってきてくっつく」と書かれており、この講演はフレイザーがライフ・インデックスと呼ぶものに関する議論を下敷きにしたものであると星野直彦(1987)によっても指摘されている。また、同じ1928年に「大嘗祭の本義」と題された講演もなされたが、そのなかで折口は天皇の肉体に宿る外来魂として「天皇霊」という概念についても語っている。折口のいう「『天皇霊』とは言葉であるとともに霊魂である。『もの』であるとともに力である」と安藤(2014)は結論しているが、安藤のいうこの「力」にメラネシア語でまさに力を意味するマナというふりがなをあててもいい。あるいは「ものとは、霊の義である」と折口がいうときの「霊」にマナというふりがなをあて「物語」のかわりに、いっそ「マナ語」といってもいい。

 レヴィ=ストロースがマナをある種の「神秘的な力」として捉えることを拒み、あくまでもマナという記号それ自体の意味論的な働きに着目し、それを浮遊するシニフィアンと名付けたことはすでに見た。折口自身にこのような記号学的な発想があったかどうかはわからない。いずれにしても、折口がなにより人間の身体に付着、感染、憑依する霊的、神秘的な存在としてモノ=マナを捉えていたのは確かだが、そのような力の存在論的なあり方はここでの関心の対象にはならない。その一方で同時に確かなのは、折口がモノ=マナに見出していたのは「物」とは無縁な非物質性であり、同時に「者」とも無縁な種の非人格性であるということでもある。それは言語学の枠組みで定義可能なマナ=モノという語そのものの性質でもある。それを何かが同定されずにそこにあるという意味での「匿名性」と言いかえてもいいし、潜在性や不定性、不特定性の観点から捉えなおすこともできるだろう。

物語の内部構造

 以上のことを踏まえることで、折口による霊語説を言語学的な枠組みから再検討できるようになる。手はじめとして、次の定式を用意しておこう。折口のいう物語とは匿名のモノ=マナが特定のモノ(者/物)をカタルということである。この定式の狙いの一つは、モノというものがすくなくとも二つの異なる次元に渡っているということを明示することにある。モノは、匿名のモノにもなれば、特定のモノ(者/物)にもなる。なぜそれが重要なのかといえば、まさにこのような多層性こそが折口だけでなく中上の物語概念を特徴づけるものでもあるからだ。実際、中上は折口に感化されつつ次のように言っている。物語とは「がまさにを語るによって出来るシステム」(Œ8、傍点筆者)である、と。中上はここで少なくとも二つのモノと一つのコトという三つの側面を区別している。

 では、それらの側面は相互にどのように関連しているのだろうか。まず、中上の説を一見したかぎりで言えるのは、カタルコトという事態が、主格と対格をなす二つのモノの組みあわせによって成り立っているということである。すでに見た藤井の議論においては、モノカタルのか、モノカタルのかということが問題になっていたが、折口=中上は、モノがモノを語るという。これはあまりにも自明なことのようにも思われる。物語であるからには、何者かが何かを語らなければならない。しかし、まさにその何者かとは何かということについての問いが折口=中上にはある。

 そこで「行為項モデル」という考え方を使って、語ったり語られたりするモノとは何かということをはっきりさせておこう。ここでいう行為項モデルとは、動詞のひとつひとつが文法的に必要とする格の組みあわせのことである。たとえば「歩く」という動詞は、モノ歩くという行為項モデルを内包していると考えられる。あるいは「食べる」であれば、モノモノ食べる。そして「物語」は、モノモノモノ物語るという形をとる。英語の授業で習った「文型」のようなものである。「Walk」であれば「SV」、「Eat」であれば「SVO」。そう教わった覚えが僕にもある。ただ、あらかじめ決められた型に個々の動詞を当てはめるということではなく、そもそも個々の動詞がそのような型をそれぞれ内包し、要請しているという点がここでは重要である。

 行為項モデルは、カタル、ひいてはモノガタルという動詞が二つの可能なボイスを持っていることからも説明できる。態とは「能動態」や「受動態」というときの態である。たとえば、タベルという語形は能動性を表し、タベラレルは受動性を表す。このように「食べる」という動詞には二つの異なる可能な態がある。このことは、アルク/アルカレルというような語形変化のペアを持たない「歩く」とは異なり、「食べる」という動詞がタベルモノとタベラレルモノという二つのモノの主格と対格の関係性をあらかじめ内包していることを意味している。では「物語」の場合は、どうか。「物語」にも能動態と受動態の区別があり、モノガタルモノとモノガタラレルモノとを前提とする。そして、それらが主格(が)、対格(を)、与格(に)の三者による行為項モデルを構成すると言えるだろう。

 中上によれば、物語とは「物がまさに物を語る事によって出来るシステムであり、語られる物、語り手、語ってもらう者(聞く者、読む者)という三つのレベルに分解される」(Œ8)。それら三つのレベルが、物語という語が要請する格関係を構成する。しかし、ただそれらの格関係だけでは、物語は実現されない。それらはあくまでも物語におけるモノとしての局面でしかないからだ。物語は同時に「語る事」(ibid.)でもなくてはならない。

 では、物語がコトであるというのは、どういうことだろうか。ここではさしあたり、コトとは動詞の内包する行為項モデルが実現するという出来事であると考えてみよう。このことはアスペクトの観点から基礎づけられる。ここでいうアスペクトとは、なんらかの動作の内部プロセスにおけるひとつひとつの局面のことである。たとえば、現在進行形や完了形といった語形によって示される局面だ。これは、過去、未来、現在といった時制テンスの問題とはまったく関係がない。アスペクトは、なんらかのプロセスの内部の局面をもっぱら問題とする。たとえば、モノガタルという語形。これは、物語というプロセスがいまだ実現していないことを表している。その反対にモノガタッタという語形は、物語がすでに実現したことを表している。ここでは、この二つの形をそれぞれ潜在態と現働態とでも呼ぶことにしよう(詳しくは、僕が2022年に論じた「言文一致体再考」を参照)。

 言語学者の定延利之(2004)にならえば、潜在態とは「知識」にすぎないものであるということもできる。それはこの世界のどこにも場所を持たない匿名のなにかである。ちょうど冠詞を欠いた名詞のように、観念にとどまる。他方、現働態のほうはつねに特定の「体験」であり、総称的な概念ではなく具体的なイメージを持っている。そして、それはかならず誰かの体験でなければならない。たとえば、アルクのような観念と違い、アルイタの場合は、特定の誰かが歩いたことを意味する。さらに、タベタと言えば、特定の誰かが具体的な何かを食べたことを意味する。そして、モノガタッタの場合は、特定の誰かが、特定の何かを、特定の誰かに物語った、ということになる。このように、現働態は語が内包する行為項モデルを特定のモノたちが実現することを要請する。だから、まさにそれゆえにこそ、現働態としての物語はコトとしての側面とモトとしての側面をつねにあわせ持っている。観念ではない以上、モノのみであったり、コトのみであったりすることはない。つねに、モノの組みあわせの出来事、つまりモノゴトとしてあらわれると言えるだろう。

 物語という語をめぐる言語学的な議論はひとまずここで終わりにしよう。以上のことを踏まえると、物語という語が内包する態(語形変化の可能性)の観点から、物語という語が持つモノとしての側面とコトとしての側面を次のように位置づけることができる。

物語 物語るコト(潜在態)
物語ったモノゴト(現働態)
= 物語
物語るモノ(能動態)
= 語り手(主格)
物語られるモノ(受動態)
= 語られる物(対格)
= 語ってもらう者(与格)

 ここで注意しなければならないことが一つある。この図はあくまで物語という語の意味論的なレベルの内部構造のみを示したものであるということだ。たしかに、物語として認知されるひとつひとつの特定のモノゴトの働きを理解する上でのモデルとして用いることもできるだろう。しかし、両者はまったく異なる二つの次元のものとして区別されなければならない。あらためてギヨーム・ギュスターヴにならって言えば、「Monogatari」という語が表す物語という観念と、冠詞によって現働化された特定のモノゴトとしての「a/the monogatari」とは違う。ここまで検討してきたのはもっぱら語の意味である。レヴィ=ストロースがマナというものを扱うにあたり、記号学の対象となる語としてのマナと、民俗学の対象となる神秘的な力としてのマナを区別したように、両者の次元は区別されなければならない。さもなくば、何の話をしているのかがわからなくなる。中上や折口の議論は、わからない話の典型である。

 とはいえ、中上や折口が複数の次元の混乱のなかで混乱した思考を進めている以上、その混乱をそのまま受けとることのできる視座を設定する必要がある。両者の次元を峻別しつつも同じひとつの枠組みのなかで統一的に扱う、ということだ。それができなければ、片手落ちの一面的な理解になってしまうおそれがある。幸いなことに、そのような視座を設定することは、さして難しいことではない。意味作用という観点からは、語としての物語もモノゴトとしての物語も同じ図式に収めることができるからだ。

意味作用としての物語

 意味作用とは、何だろうか。意味は一般に、記号によって表されると考えられている。記号とは、表現シニフィアン=意味するモノと内容シニフィエ=意味されるモノが表裏一体となったものであるとされる。たとえば「さくらんぼ」という記号。これがなんらかの意味のあらわれとして感知されるとしたら、それは表現シニフィアン内容シニフィエとがたがいに結びついているためである。このような結びつきという出来事のことを、意味作用という。これまでの議論を踏まえれば、この出来事は意味するモノと意味されるモノという行為項モデルの現働化であると考えることもできる。

 このような記号論的な発想は、フランスにおける物語論ナラトロジーの祖でもあるジェラール・ジュネットの議論のベースにもなっている。仏語話者のジュネット(Genette 1972)は、モノとコトという日本語ならではの文法的な区別を持っていたわけでもなかったし、いまこうして日本語で論じることができるような広い意味での「物語」の概念を持ってもいなかった。そのかわり、物語という日本語の下位概念にあたるものを三つの仏語に分けて考えていた。それをあらためて和訳すれば、物語行為 narration(物語るコト)、物語言説 récit(物語るモノ)、物語内容 histoire(物語られるモノ)となる。ジュネットの議論も参考にしつつ、これまで論じてきた物語というものを意味作用の一つとして次のようにまとめなおしてみよう。

意味作用
– 物語
意味するコト
– 物語るコト(潜在態)
 = 物語行為
意味したモノゴト = 記号
– 物語ったモノゴト(現働態)
 = 物語
意味するモノ = シニフィアン
– 物語るモノ(能動態)
 = 語り手(者)
 = 物語言説(物)
意味されるモノ = シニフィエ
– 物語られるモノ(受動態)
 = 聞き手(者)
 = 物語内容(物)

 記号の一種である物語という語には「意味する」という働きがある。その具体的な意味についてはすでに言語学の枠組みにおいて見たとおりである。その一方で、特定のモノゴトとしての物語は実際に「物語る」という出来事であるが、つまるところ、この出来事も意味作用の一つであると言えるだろう。記号というものが表現と内容から成り立っているように、物語も具体的な表現と内容の結びつきによってできている。

 この結びつきを実現するモノに関しては、それぞれ二通りの次元を示した。第一の次元には物語言説と物語内容のペアがある。両者は物語というモノゴトの実現が要請するモノの「物」としての側面を構成している(たとえば、テクストのような物質)。内在的次元とでも呼べるかもしれない。その反対に、第二の次元のほうは語り手と聞き手のペアからなる外在的次元とでも呼べるだろう。この次元は、両者は物語というモノゴトの実現が要請するモノの「者」としての側面を構成していると言える。

 やや遠回りする形になってしまったが、このように整理することで、物語というものがうちに孕む複数の次元を峻別しつつ統一的に扱うことができる。そしてこの枠組みを使うことで、さきほどから問題になっていた折口の説、物語とはモノ=マナによるカタリであるというあの奇妙な説にようやくむきあうことができる。

折口=中上の物語概念

 物語はモノ=マナによるカタリであるとする折口の説は、一般的な物語の定義から外れるばかりか、藤井貞和やジェラール・ジュネットといった専門家が考えるような物語とも根本的にずれている。ジュネットによれば、物語とは「語り手という者」が「物語言説という物」をとおして「物語内容という物」を「聞き手という者」に伝える「物語行為」である。ここではこのように特定の人格による行為として理解された物語概念を「人格的なコミュニケーションモデル」のひとつとして考えておこう。このモデルを図式化すれば[者:語り手]が[物:表現]を通して[物:内容]を[者:聞き手]に伝えるという行為項モデルとして表現できるだろう。二者の人格が物を媒介にしてやりとりをするというこのような発想は、直感的にもそれなりに納得がいくのではないだろうか。しかし、折口は直感に反するような発想をする。「霊界の存在が、人の口に託して、かたる」という言い回しや、マナとは語り手の肉体に憑依、感染する力であるいう説からは、むしろ[モノ=マナ]が[者:語り手]を通して[物:内容]を[者:聞き手]に伝えると考えられているように思われる。

 あいかわらず、よくわからない。が、ここではあらためてカタルということの意味を掘りさげることで見えてくるものがあるかもしれない。そこで、ここでは「モノをカタル」という言い方には二通りの読み方があるという事実に着目したい。「物を語る」とも読めるし「者を騙る」とも読めるのだ。後者は、特定のモノになりすます、という意味である。もっと正確に言えば、特定のモノの形をとるということだろう。これがカタルの原義であり、物を語ることも、者を騙ることも、究極的には同じ一つのことしか言っていないということのだろうか。いっそ英語で「information」と訳してみると、わかりやすいかもしれない。「inform」という動詞には、情報を与えるという意味のほかにも、形(form)を与えるという意味もある。「information」は、形のないものが形をとってあらわれるプロセスでもある。  まさしくそのような意味で、モノはカタル。形をとる。不定形と定形の間を揺れる。モノという語は「不確定な意味をあらわすものであり、それ自体、意味を持たない。したがって、どんな意味の受け皿にもなりえる」。そのような匿名性を持っているがゆえに、特定のさまざまな者/物を騙ることができる。英語でいうところの「anyone」にもなれば「someone」にも「the one」にもなる。この点を踏まえることで「匿名のモノ=マナが特定のモノ(者/物)をカタル」というすでにあげておいた定式を次のように読みかえられる。

 匿名のモノ=マナは、特定の者/物として形をとる。このように考えることで、これまでに組みあげてきた記号論の枠組みで折口の説を捉えなおすことができる。物語とはモノガタルという匿名の潜在態が特定のモノの組みあわせの形をとって現働化する意味作用のプロセスであるということはすでに見た。折口もちょうどそのような匿名性から特定性への移行の動きを想定していたのではないか、と想像してみることもできる。

 それでも、結局モノ=マナとは何なのか、という問いは残る。そもそもそれは本当にモノなのか。むしろコトなのではないか。あるいは、その中間にあって複数の次元を媒介するようなモノゴトなのではないか。そのような疑問も湧く。なにより、物語がなんらかの現働化のプロセスであるとして、その結果として語り手が語り手としての形をとるということは、どういう事態なのか。

 ここではそれらの問い答えることはできない。現時点でひとつ言えるのは、まさにそれらの問いこそ、中上が彼なりの物語論の枠組みで具体的な答えを見出そうとしていたものだったということだ。すでに二度にわたって参照した中上の説をもうすこし正確に引きなおしておくと、中上のいう物語とは「物語という物﹅﹅﹅﹅﹅﹅がまさに物を語る事によって出来るシステムであり、語られる物、語り手、語ってもらう者(聞く者、読む者)という三つのレベルに分解される」。ようするに、ここで中上は「物語が物語る」と言っている。その結果として生まれるモノが語り手であるという。

 常識には、反している。ただ、物語は「システム」であると述べていることに鑑みると、さして驚くには当たらないのかもしれない。ある種のシステム論的な枠組みにおいては、筋が通っているとも考えられる。すくなくともニクラス・ルーマンという社会学者のいうシステム概念に照らしあわせて考えれば、システムとしての物語の定義としては、なんら不思議なところはない。ルーマン(Luhmann 2013)によれば、システムとは自己を自己創出する働きである。システムは自己を非自己から区別することで自己を打ちたてる差異化のプロセスであるということもできる。

 システムという字面からは複雑な組織のイメージが思い浮かんでくるが、むしろその反対に、ここでいうシステムには単純な二項対立しかない。たとえば「ここ/そこ」という二つの表現からなる意味作用もシステムのひとつである。「ここ」とは「そこではない」ということだ。「ここ」が「ここ」であるためには「そこ」に裏付けられなければならない。コインの表が表であるためには、裏が要る。これまでに意味作用のひとつとして理解してきた物語の働きに関しても、同様のことが言える。能動態と受動態のペアや、潜在態と現働態のペアについてすでに検討したが、それぞれの二項はたがいに裏付けられることで意味を持つシステムである。たとえば、物語が物語として現働化した次元は、潜在性の次元によって裏付けられている。このとき、システム論的には、物語の現働態はその潜在態との差異において自己を打ち立てる、と定義することができる。

 これは広義の意味での構造主義のベースになっている考え方である。ただ、このような発想は決して言語学や物語論の主流にあるわけではないようだ。多くの論者が、物語を含めた言葉の働きを人格的なコミュニケーション・モデルを通して理解してきた。たとえば、言語学の祖とも言われるフェルディナン・ド・ソシュールにしても、発話主体という人格を想定し、それが言語規則にしたがって発話行為をすると考えた。

 システム論はそのようなコミュニケーションの主体としての人格を想定しない。人格は、コミュニケーションというプロセスにとっては、形而上学的な起源でしかない。コミュニケーションはコミュケーションとしての完結したロジックのなかで動いている。そのロジックにのみ注目するのがシステム論である。ルーマンによれば「人がコミュニケーションがするのではない。コミュニケーションがコミュニケーションをするのだ」(Luhmann 1990, 拙訳)。これを中上風に言えたものが「物語が物語る」ということなのかもしれない。意味はあいかわらずはっきりしないが、さしあたりこのように人格的な起源を想定しないコミュニケーション概念のことを「システム論的なコミュニケーションモデル」と呼ぶことにしよう。そして次のようにまとめておこう。

 

 これまでの議論から、後者にあって前者にないものが一つあるのは明らかである。それは匿名性の次元へのまなざしである。前者にはすでに特定されたモノしかない。カタラレタ(不定形のものが形をとった)その結果しかない。ただ単にそれらのモノが物語の要請する行為項モデルを事後的に埋めているにすぎない。それに対して後者においては、匿名のモノ、つまり者/物として特定される以前のモノ=マナが特定された形をとってあらわれる意味作用のプロセスとして物語が理解されている。システム論的なコミュニケーションモデルのなかで発想していた折口=中上は、まさにそのプロセスとしての物語の働きを問題にしつづけていた。

 折口も中上も耳がよかった。モノという日本語、カタルという日本語、ひいてはモノガタリという日本語がもともと含んでいる豊かなひびきに耳を傾け、豊かさを豊かなままに感受する力があった。中上はこのように日本語に助けられながらも、冠詞を持たない日本語の罠に深くはまりこむことで、物語についての思索と物語についての混迷とを深めていくことになる。しかし、もとはといえば、それは1970年代ごろから広まりはじめたフランス由来の物語概念に危機感を煽られてのことである。中上の物語論のベースになっているもうひとつの元ネタは蓮實重彦の形をとってパリからやってきたのだった。

1.3.2. 蓮實重彦のいう物語とは何だろうか

 前節では、藤井貞和の議論を手引に「物語」という語についての意味論的な考察をすることで、中上健次の物語論をこれから読んでゆくための補助線を引いた。そこでさしあたり立てた仮説は、中上の物語概念の元ネタのひとつとして折口信夫のいう物語があり、それが単なるモノともコトともつかないもの、ある種の不特定性としてのマナ(霊)がモノやコトとして現働化するようなシステムであるというものだった。中上はそれを「物語という物がまさに物を語る事によって出来るシステム」と表現した。

 こうした発想それ自体は「物語」という日本語、ひいては「モノ」や「カタリ」という日本語が持つ意味の豊かさに負うところがある。その点、中上の物語論は、まさに日本語ならではの物語に関する議論の流れを汲むものであると言えるだろう。物語のモノとしての側面に着目すれば、いわゆる国文学の文脈でなされてきたジャンルとしての物語のテキスト読解の伝統に連なるだろうし、物語のコトとしての側面、つまりカタリの側面に目をむければ、たとえば「語り物」のような芸能の営みも視野に入ってくる。このような日本語文化圏の伝統を抜きにして中上の物語論を理解することはできない。

 その一方で、中上が物語論を語った1970-80年代の時代背景も同時に踏まえておかなければならない。というのも、中上の議論はニューアカデミズムという当時の知的流行のなかで持てはやされたフランス思想の影響を強く受けてもいるからだ。本節では、特にフランス帰りの蓮實重彦が中上と時を同じくして展開した物語論を概観することで、中上の議論がそもそも同時代のどのような文脈においてなされたものなのかを確認しておくことにしよう。

 中上が同時代のフランス思想から刺激を受けるなかで作りあげることができたのは、日仏の議論を奇妙に織りまぜた物語論だった。とはいえ、ジェラール・ジュネットが試みた物語論ナラトロジーのような記号論的なテキスト分析のアプローチからは根本的にずれている。そもそもジュネットの議論が「ナラトロジー」という日本語として知られるようになったのは、いわゆる記号論というものが持てはやされはじめた1980年代の半ばのことで、たとえば岩波書店の『思想』の1985年9月号で「ナラトロジー」という語が用いられているのが確認できる。しかし、このときには中上はすでに晩年にさしかかっていたといっても過言ではなく、後に詳しく見てゆくように中上の物語論の形もすでにできあがっていた。

 中上はむしろ、クロード・レヴィ=ストロースやミシェル・フーコー、ジャック・デリダといった思想家たちによる1960-70年代の仕事からの影響を受けていた。レヴィ=ストロースの文化人類学的な議論については、山口昌男や中村雄二郎といった大学人から学びとったことが、晩年の中上の議論にある種の神話学的、説話論的な色彩を与えることになる。しかし、中上の物語概念の核心にあり、なおかつはじめから一貫して問われてきたものは、むしろ柄谷行人や蓮實重彦を通じて学んだフーコーやデリダの議論と重なりあうところがある。

 中上が物語という概念について意識的に語りはじめたのは『岬』によって芥川賞を受賞した1976年ごろからのことである。蓮實は、まさにそれと同じ時期にフーコーの議論を下敷きにしながら物語について語りはじめていた。蓮實とフーコーとが近しい間柄にあったことは、蓮實が自身とフーコーとの対談「権力と知」を『海』の1977年12月号に発表したり、翌年に同誌の7月号に掲載された吉本隆明とフーコーとの対談「世界認識の方法」での通訳を務めたことからも伺われるが、ちょうどそのような時期に蓮實は中上の小説について自身の物語論の枠組みで語りはじめてもいる。たとえば『日本読書新聞』の1977年7月11日号に中上の小説『枯木灘』への書評を寄せ、同年8月には『現代思想』に発表された論考「物語としての法」のなかで議論をさらに掘り下げている。翌年の1978年には10月の『海』誌上で中上のルポルタージュ『紀州』についての書評を書いているし、同年12月に出版された中上のエッセイ集『鳥のように獣のように』には「物語と文学」と題した解説を寄せてもいる。

 当時の蓮實にとって物語はきわめて重要な概念だった。それがどういうものだったのかをこれから概観してゆくことにしよう。1979年の『季刊・現代批評』誌上に発表された「物語=書物=文学」というエッセイのなかで、蓮實は次のように述べている。

人間が物語の話者たりうるという確信は、それじたいが一つの物語にほかならず、その物語は、物語の他動詞的な圧政を蒙りつつある人間によって、はじめて語られうる物語にすぎない。そしてその物語を語る話者は、人間ではなく、物語そのものなのだ。この物語にとっては、人間とは語る主体ではなく、語られる客体にすぎず、物語の他動詞的な圧政をもろにうけとめる目的語でしかない。人間は、この物語によって主題として選ばれ、説話論的に分節化され、しかるべき順序に従って配列される客体であり、そのとき物語的な細部にほかならぬ人間が演じたてる説話的機能が、物語の話者は人間だという物語を語ることなのだ。(蓮實 1995)

 このような蓮實の見立ては、前節で扱った二つのコミュニケーションモデルの枠組みを通して図式的に理解することができる。蓮實がここで言いたいのはようするに、人間という話者が物語を語るとする人格的なコミュニケーションモデルはそれ自体が物語であり、非人格的な物語こそが人間を騙っているのではないか、ということである。このような発想自体はマナや言霊をめぐる折口信夫の1920-30年代の議論にもすでに見られるものだったけれど、ここではそれがフランスからやってきたポスト・モダニズムの装いをまとって再演されている。

 蓮實は同様の主張を文芸誌『海』の1982年2月号に寄稿した「物語批判序説」のなかでも展開している。そちらのほうもあわせて確認しておこう。蓮實はたとえば次のように言う。

説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。まさしくとりあえずにすぎないものが演じうる特権的な歴史性。自我でも、主体でも、またご希望とあれば「私」でもかまうまいが、その錯覚の大がかりな共有が、 説話論的な磁場の自己塑性と同時的でしかありえなかったという歴史性。それを、知と物語との相互保証という同時代的な現象を介して明らかにしてみなければならない。(蓮實 1982)

 蓮實はこのような考え方を1960年代のフランスの思想家たちが展開した広い意味での構造主義の議論から学びとったのだろう。もともと文学畑の出だった蓮實は、特に「作者」や「語り手」と呼ばれる者による「行為」とされてきた「物語」に関心を寄せたが、それは蓮實よりも一世代前の批評家にあたるロラン・バルトのような者たちがすでに論じてきたことだった。たとえば、バルトは「作者の死」という1967年のエッセイのなかで、次のように述べている。

作者というものが我々の社会の生みだした近代的な登場人物であるのは間違いない。中世の終わりから、イギリス経験論、フランスの合理主義、個人の信仰を謳う宗教改革を経て、社会は個人というものの威信を見出した。 (Barthes 1967)1

 この議論を受けて、ミシェル・フーコーも作者というものについての関心を寄せている。たとえば「作者とは何か」(1969)という講演の中では次のように述べている。

作者は作品を無限の意味で満たすよう起源などではない。作者が作品に先行するわけではないのだ。作者とは我々の文化においてテキストの流通を制限したり排除したり選別したりするような機能のことである。[…]その真の歴史的な機能に関して倒錯した理解がされているという点で、作者は観念の産物である。(Foucault 1969)2

 作者というものにかぎらず、長らく世界やコミュニケーションの起源として自明視されてきた不可分の単位としての「主体」に関しても、システムによって構成された観念の産物であるとする風潮が当時のフランスにはあった。そのような意味での構造主義の議論は、1970年代ごろから次々と日本に輸入され、ポスト・モダニズムという知的流行を形作ってゆくことになる。そのなかでの最も重要な仕事のひとつに1974年に翻訳出版されたフーコーの『言葉と物』(Les Mots et les Choses, 1966)が挙げられるけれど、ここではルイ・アルチュセールの論文「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」(Idéologie et appareils idéologiques d’État, 1970)が『思想』1972年7月号と8月号上で和訳されていることにも触れておきたい。アルチュセールは次のように述べている。

イデオロギーは「呼びかけ」というものによって人々を徴集したり主体へと転換するような作用ないし機能を持っている。[…]個人はイデオロギーにすでに呼びかけられているからこその主体としてある。(Althusser 1970)3

 主体はまず、呼びかけられる客体としてある。そして、主体に呼びかける働きのことをアルチュセールはイデオロギーと名付けた。裏を返していえば、イデオロギーとしてそれまで知られてきたものを「働き」ないし「機能」という観点から読みかえた。蓮實の物語概念もまさにこのようなレトリックに裏付けられていると考えられるだろう。

 ちなみに、日本のポスト・モダニズムにおいては「物語」という言葉がさらに別の文脈でも用いられている。ジャン=フランソワ・リオタールの『La Condition postmoderne』が刊行されたのは1979年になるけれど、その日本語訳である『ポスト・モダンの条件』の出版は1986年のことである。日本ではそれをきっかけにして「La fin des grands récits」の訳である「大きな物語の終焉」という言葉が知られるようになった。これはもともと、イギリス経験論やフランスの合理主義、マルクス主義のような思考の枠組みとしてのイデオロギーを意味するものとして使われていた。

 中上健次自身もすくなくとも1985年の時点で評論家の四方田犬彦からリオタールの議論について聞かされており、それ以前にも「大きな物語」という語を用いたことがあった。とはいえ、それが人口に膾炙するまでの間にそれなりの紆余曲折があったようだ。新井克弥(2009)によれば、まず、ジャン・ボードリヤールの消費記号論からの着想も得つつ「大きな物語」という言い方を世に広く知らしめたのが大塚英志(1989)の『物語消費論』である。その後、厳密な意味でリオタールのいう物語を本格的な形で導入したのが大澤真幸の『虚構の時代の果て』(1996)で、さらに大塚や大澤のいう「物語」を接合したのが東浩紀(2001)の『動物化するポスト・モダン』であるという。

 このようにかならずしも一枚岩であるとはいえないフランス由来の物語論の文脈に中上と蓮實の物語論も置かれている。二人は1979年1月に「制度としての物語」というテーマではじめて対談をすることになるが、そこで蓮實は次のように述べている。

ぼくは、かねがね二十世紀が対処すべき最大の問題は物語と法ってことだと思っている。今日の文化は法と物語とをそれぞれ別個の領域で分析記述することには成功したが、法と物語とが同じ一つのものとして機能しはじめるとたちまち分析も記述もできなくなってしまう。つまり、法は物語だし、物語は法だと口にすると、とたんにそれが物語としての法に組みこまれて動きがとれなくなる。そのことに苛立つ人がいないのは何とも不思議だと思っていたら 、そこに中上健次がいたというわけです。[…]世の中には、物語に抗っている文章と抗っていない文章っていうものがあると思う。一方に、物語のなかにどんどん取り込まれていくということを意識しながら、そのことを快く受けとめてる文章があると思うんですよね 。初期の中上さんなんか、そうじゃないか。[…]物語に抗ってはいないけど、この無類の甘美さは、物語の恐ろしさを充分に意識した作家にはじめて可能なものです。(Œ20)

 蓮實がここでいう「法」や「物語」が具体的に何を意味するのかは、よくわからない。しいていえば、フェルディナン・ド・ソシュールが考えたような「言語 langue」と「発話 parole」との対立、ある種の形式と内容の対立を語っているようにも思われるけれど、確かなことは(おそらく蓮實本人にも)よくわからないし、わかる必要もない。しかし「物語としての法」に関しては、まさに同名の題を冠した1977年のエッセイのなかで、ちょうど同年に発表されていた中上健次の『枯木灘』について蓮實が語っていることが理解の手がかりを与えてくれる。

「物語」は勝利する。[…]「物語」はきまって勝利するし、また勝利することがその唯一の機能にほかならない。「物語」とは、王国の存続に必要不可欠な「法」にほかならない。しかし、王も国民も、「物語」としての「法」の支配には徹底して無力であり、たえず敗北という消極的なかたちでしか加担することしかできない。/たとえば中上健次の『枯木灘』とは、王の「物語」を模倣する王位継承者の反復譚として、説話論的な欲望に対する王と、王位継承者と、国民との決定的な敗北の過程を聡明に描きあげた「物語」の「物語」にほかならない。[…]「物語」を語るのは「物語」自身である。そして人間たちは、その「物語」の命ずるままに「物語」を模倣するのだ。(蓮實 1982)

 中上健次の『枯木灘』は父殺しをテーマにした長編小説である。主人公の秋幸は自身を父殺しへと駆り立てるような物語の呼びかけを感じる。父を殺すことで王になるというオイディプスのような自身の定めをいわば肌で感じとってしまう。秋幸はそんな物語のささやきから逃れようとして結果的にはそれに染まってしまい、物語の前にひれ伏すことになる。『枯木灘』はまさにそのような敗北によって物語という定め=法の勝利を苦々しくも高らかに謳いあげる物語である、と蓮實は考えたのだった。

 蓮實は「物語としての法」への苛立ちを募らせることで、ポスト・モダンな所作をしてみせる。「実存は本質に先立つ」といったことを唱えたジャン=ポール・サルトルのような論者と違い、物語という主体構成の働きから自由であるような主体などはないと考えてみる。その上で、西洋の「小説」とは異なる日本の「物語」の伝統を挙げ、中上にまさに日本的な物語の作家としての可能性を見出す。蓮實は1979年の対談のなかで次のように語っている。

「物語」ということばは、どうせ七世紀か八世紀ぐらいからあったはずのものでしょう。ところがフランスの場合、小説家にとって「小説」なんてことばはつい最近生れたものにすぎない。語源は中世に遡るにしても、今日的な意味の定着はたかだか数世紀前のものです。だから小説と物語との関係を、ごく曖昧にしたまま中途半端にやるしかなかった。ところが、たとえば中上さんが『化粧』でやったように、ある物語の中に身を置こうとするなら、十数世紀を一挙に自分のものにすることができる。何しろこっちは、明治まで一貫して「物語」でやってきたんですから。十九世紀に小説という奇妙なものに目覚めちまった連中に比べれば、もう蓄積が違うという感じがするんですよね。だから、われわれ日本人なんかのほうが、その点では、うまく体系化しうるかどうかはともかくとして、物語の毒であり魅力でもある部分に、感性が深くつき進んでいくんじゃないかっていう気がするんです。(Œ20)

 蓮實のここでの主張それ自体は、どうでもよい。それよりもむしろ「物語」という日本語のキーワードが使われることによって可能になっている類比的な発想があるということが重要である。そもそも蓮實が自身の物語論のベースにしていたのは、1960-70年代のフランスでの主体概念をめぐるどちらかといえば社会学的な議論だった。それがここでは物語という語の多義性によって、さらには中上の作品を通して、文学の文脈に接ぎ木されている。つまり「社会」を構成する不可分の単位として考えられてきた「個」をめぐる問いが「物語」とその構成要素である「登場人物」の関係への問いと重ねられている。そして、アルチュセールであればイデオロギーと呼ぶようなシステムへの抵抗の可能性に似たなにかが小説家の振るまいのなかに見出されることになる。

 物語はこのとき、ある種の力、働き、作用として観念されている。それでいながら、語るコトとしての小説家の創作行為としての物語も、語られたモノとしての物語も含みこんでいる。これから詳しく見てゆくように、まさにこのような多元的な発想こそが中上の物語論を一貫して特徴づけるものでもあった。

 中上は蓮實のこうした議論に触発されると同時に、強い危機感も抱いた。1979年の対談の折には『枯木灘』についての蓮實の論考「物語としての法」を読んだときに「ギョッとした、自分がヤバイなという感じがあった」と素直に打ち明け、「それで今日は、背広もきてきたしネクタイもしめてきた」とかしこまったところを見せてもいる。そして、その後しばらくの間は、蓮實にならって「物語=法」という言い方をするようになる。

 ところが、そんな中上も1980年代になると蓮實の物語論に対して徐々に敵対心を募らせてゆく。たとえば「現代小説の方法」という1984年の講演のなかでは次のように述べている。

今振りまかれている反物語論ってあるでしょう 。例えば絓秀実とか渡部直己とか、あるいは蓮實さんなんかの世界だと思ってもいいんだけど、つまりそれは、ある意味で反物語を物語的に信じ過ぎてるんですよね。反物語に物語を言うことによって、いわばロマン主義に陥っているとしか言いようがない。本当は反物語もとっくに物語に組み込んじゃっている、そんな怖いものなんです。(Œ16)

 この時点ではまだそれほどの悪意は感じられないし、この批判が当を得ているようにも思われない。というのも、物語への抵抗主体もまた物語の働きの結果として生みだされたものにすぎない、という主張こそ蓮實自身が一貫して述べてきたことであるからだ。

 いずれにしても、蓮實への敵意が頂点に達するのは、中上の晩年にあたる1980年代の後半のことである。正確には、蓮實(2008)が中上の死後にめずらしく感傷的な口ぶりで振りかえっているように、1986年12月に柄谷行人や浅田彰を交えて渡仏した折に二人は決定的な仲違いをすることになったようだ。ジャック・デリダとの討論も行われたパリでのシンポジウムから一週間後の12月20日に二人きりで成田への帰路に着いたときには、タクシーのなかでろくに言葉さえ交わさなくなっていたらしい。

 根に持つ性格だったのか、翌年の1987年9月に吉本隆明の招きによって中上が行った講演「超物語論」においては、深夜の酒の酔いも手伝ってか、中上は次のような言い方で蓮實への敵意を剥きだしにしている。

蓮實重彦の『物語批判序説』に使われているような、法だとか制度だとか、つまりありきたりのものを物語という。あれは蓮見重彦の『物語批判序説』に概当するもんだと思いますよ。それを物語といってんだけど、そんなものは物語といいたくない。それは低レベルの、つまり、蓮見重彦という俗物の考える物語であって、僕の考える物語じゃない。 (吉本 1988)

 では、中上のいう物語はどのようなものなのか、ということについては、後に詳しく検討していくことになる。この時点で言えるのは、中上はニューアカデミズムの流行のただなかで同時代の日仏の議論の影響を受けつつも、物語という日本語の豊かさや自身の社会的な立場に導かれる形で、彼なりの奇妙な物語論を展開することができた、ということである。

 中上は少なくも以下の三つの点で蓮實や柄谷のような立場の論者とは違っていた。第一に、中上はいわゆる「知識人」ではなく、小説家だった。そのため、実際に手を動かしながら小説における物語のメカニズムについてみずから学びとることのできるものがあった。第二に、中上はいわゆる「被差別部落」の出身だった。そのため、中上は差別や差違という概念を議論の核にすえることになった。第三に、中上はフランス語や英語を使いこなすができなかった。そのため、自身が日本語話者であること、日本語文学という枠組みのなかで小説を書いているとことへの非常に強いこだわりがあった。

 これらの事情も相まって、とりわけ議論の「かけ金」の次元において中上の物語論は同時代に類を見ないものになっている。ここでいうかけ金とは、いったい何のために何がどのように語られているのか、ということである。蓮實の議論のように、物語というものがある種の構造主義的な手つきで語られていることは間違いない。しかし、その物語とは何なのか。そもそも、何のための議論なのか。中上の議論をごく素朴に追っているだけでは、この点が見えてこない。いたずらに奇妙なだけの印象を受けるだけで終わってしまうかもしれない。

 そこで、読解の手がかりとなるような補助線を最後にもう一本引いておきたい。中上は彼が物語や言葉と呼ぶものの力をひどく畏れていた﹅﹅﹅﹅﹅。その点で中上健次の物語論には「社会物語学的」とでも呼べるようなかけ金が置かれていると言うことができる。この「社会物語学」とは何かということを明らかにするために、次節では、社会学者のアーサー・フランクの議論を紹介したい。

1.3.3. アーサー・フランクのいう物語とは何だろうか

 前節では、中上健次が物語というものについて論じた1970-80年代の時代背景を押さえておくために、同時代のフランス思想に通じた批評家の蓮實重彦もまた物語に関心を持っていたこと、蓮實のいう物語は「法」として私たち人間を含めたこの世界を物語論的に組織するような働きであるということを確認した。そして、中上が蓮實の議論に刺激を受けつつも敵意を抱くようになり、ついには蓮實のような俗物の考えるものと自分の物語論とは違う、と息巻くところまで見た。そこであらためて問いなおしたい。

 中上の物語論は、同時代になされていた議論やそれまで日本語圏でなされてきた議論と比べて、どのように違っていたのだろうか。この問いにそれなりの説得力を持って答えるためには、実際に中上の議論を追ってみるしかないけれど、議論を追うにしても一つの定点となるような読解の切り口があったほうがいい。そこで、作業の足がかりとなるような仮説を立て、読解を通してそれを検証してゆくことにしよう。その仮説とは、物語の力というものをつねに問題にしつづけていた中上の物語論には「社会物語学的」と呼ぶことができるでも形容できるような特徴がある、というものである。

 仮説の妥当性を検証するにあたっては、社会物語学とは何か、ということをまず明らかにしておかなければならない。そこで本節では、社会学者のアーサー・フランクの議論を紹介したい。そもそも「社会物語学」という日本語が使われるようになったのは、アーサ・フランクの仕事が日本でも知られるようになってからのことだ。フランクは2014年に日本オーラル・ヒストリー学会の十周年記念のシンポジウムに招かれている。そこで「Narrative Truth and the Dilemma of Multiple Accounts: Remarks on the Relevance of Socio−narratology to Oral History」と題した講演をしているのだけれど、それが有馬斉によって「ナラティヴの真実と、複数の説明のジレンマ : 社会物語学のオーラル・ヒストリーへの関わりについての所見」と訳された。僕の知るかぎりでは、これが「社会物語学」という日本語の最初期の使用例である。

 英語圏においては、すくなくともダヴィッド・ハーマンが1999年に発表した「Toward a socionarratology: New ways of analyzing natural language narratives」まで遡ることができる。ハーマンによれば、ナラトロジーは、単にテキストというモノとしての物語を分析するだけではなく、カタリというコトとしての物語までもその射程に含めるべきである。ハーマンはそれを「社会物語学」と呼べるようなアプローチとして構想している。考え方としては、言語学の一分野である語用論に近い。しかし、あくまでも構想の域を出なかったということなのか、その後、英語圏の論者によってこのような意味での「社会物語学」という語が積極的に用いられることはなかったようだ。

 社会物語学を別種の議論の枠組みとして体系立てたのは、アーサー・フランクの『Letting Stories Breathe: A Socio-Narratology』(2010)である。この著作の題を直訳すれば「物語に息をさせて」となる。もうすこし意を汲めば「物語をはなして(解き放して)」とでも訳せるかもしれない。話すことも、離すことも、放つことも、語源的には同じことを言っている。一度手放したものは、それ自体で息づき、自由に動きはじめる。

 いずれにしても、副題の「Socio-Narratology」に不定冠詞の「a」が付されていることからもわかるとおり、フランク自身はさまざまな社会物語学の形があると考えているようだ。数学をはじめとする既存の学問のように「The Socio-Narratology」としての単一の枠組みがあるわけではない。学問分野というよりも、アプローチに近い。そして、フランクの議論においては、実に多様な学問分野からの知見が取り入れられている。

 フランクの考える社会物語学の目的をひとことで言えば、物語というものの行為者アクターとしての働きに着目し、物語と人との共生のあり方を探求する、というものである。なぜ「社会」という語が冠されているのかといえば、フランクの議論においては、物語もまた社会というものを人と同等の立場で構成するものであり、そのような意味での物語の社会的な働きが問題になっているからだ。実際、フランク自身は社会学者であり、テキストの構造分析をするような類のナラトロジーとも、語りというコトの諸相に着目する語用論的なアプローチとも異なっている。むしろ、フーコーやアルチュセールが社会学という一応の枠組のなかで考えていたことの延長線上にあり、まさにその点において中上や蓮實の議論に通じるものがある。

 とはいえ、もし仮に中上がフランクの仕事に出会っていたとすれば、相応の衝撃を受けながらも「違う。こんなものは自分の考えている物語ではない」と気炎を上げていただろうと思われる。実際、これから明らかになってゆくように、中上とフランクの議論には多くの共通点がある一方で、発想の次元において根本的に異なっているところがある。そのため、中上の仕事を「社会物語学的」と形容するにしても、両者の議論を比較した上で、なんらかの但し書きをする必要が出てくるだろう。このことを念頭に起きつつ、いまから具体的にフランクの議論を追ってゆくことにしよう。

社会物語学の理論的な枠組み

 アーサー・フランクのいう物語とは何か。この問いに答えるために、まずはフランクの理論がそもそもどのような考え方をベースにしているのかを確認していこう。フランクによれば「社会物語学とは、文学的な物語研究としてのナラトロジーを拡張して民間伝承から日常会話にいたるまでのあらゆる物語 storytelling を対象にしたものである」4。これだけの説明では前述のハーマンのように物語における語りというコトとしての側面を視野に入れただけともとれるけれど、さらにそこから先がある。フランクは社会物語学の核となる考え方をいくつか挙げており、そこで次のように述べている。

何よりもまず、社会物語学は物語を語り手の内面への入口のような「物」として理解するのではなく、物語を「行為者アクター」とみなし、物語が何をするかということを研究する。社会物語学においては、語り手や聞き手にも当然注意が払われるが、両者はそれぞれ物語があるからこその存在として理解される。[…]行為者アクターとしての物語 stories and narratives は、私たち人間にとってのリソースであるとともに、オーケストラの指揮者のように私たち人間を操作する者でもあるのだ。テンポを定め、強弱をつけ、場を盛りあげるのも物語である。また、指揮者の沈黙は楽曲への働きかけの不在を意味するものでもない。評論家のウェイン・ブースは、次のようなことまで言っている。「私たちはみな、自身の生や他にありえたかもしれない生の物語にひれ伏しながら生きている。私たちは単なる想像にすぎなかったはずのものに引きこまれてしまう。抵抗の度合いはそれぞれ違うものの、私たちは多かれ少なかれ物語を生きているのだ」5

 リソースとしての物語は人の外部に道具として存在しているというわけではないし、「個人」と呼ばれる話し手がその起源として物語の外側に存在しているわけでもない。物語は「人」が「人」であるための与件である。このような発想は、ポスト・モダニズムの名で知られるようになった1960-70年代のフランスでの議論にもすでに見られたけれど、明示的に「story」や「narrative」という語を使っているという点では、1970-80年代の日本での物語をめぐる議論とも重なってくる。

 なお、ここでは上記二つの英語をあわせて「物語」と訳すことにするけれど、フランクは両者の明確な区別は不可能であるとしながらも、それぞれの違いを説明してもいる。「story」は登場人物や場所、筋書きを伴うような個々の特定の物語である。それに対して「narrative」は、そのような特定性を持たない。リオタールのいう「大きな物語」のように一時代を特徴づけるような知の枠組に近いものがある。フランクは「narrative」の一例として「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」というマルクスの言葉を引いているが、このような大文字の歴史の主人公が匿名かつ集合的な「私たち人類」であるという点で、それを無数の「story」を生み出す母体のようなものであると考えることもできるかもしれない。

 ここでは両者の違いが問題とならないかぎり、まとめて「物語」と訳すことにする。ただし「story」にしても「narrative」にしても「物語」という日本語に見られるような二面性を備えているわけではないことには留意しておく必要がある。「物語」はモノでもあると同時にコトでもあるということはすでに見た。また、折口信夫にならえば、不特定のモノが特定のモノ(物・者)に現動化するプロセスであるとも考えられる。そのような日本語の「物語」と違い、「story」にしても「narrative」はモノとしての静的な側面が強い。そして、両者がなによりもモノであるということは、フランクの議論にとってきわめて重要なことである。これは特に社会物語学の核となる次のような考え方に関わる。

第二に、物語は、ナラティブ・セルフ——ウェイン・ブースのいう物語を生きている自己——の形成において決定的な役割を果たしているのみならず、生をソーシャルにするということ。物語は人を連帯させ、未来への展望を同じように思い描く者たちのまとめ役になったりする。そして、物語に活気づけられた個人や集団は、今度は反対に物語を活気づける。古い物語を見直しては、新しい物語を生みだす(「新しい物語」というものが果たして存在するかについては議論の余地はあるものの)。こうして、物語と人は協働する。共存しながらソーシャルを作る。このソーシャルには、あらゆる人の関係や集まり、相互依存や排除といったものが含まれている。物語と人の協働こそがソーシャルを作るということ。それが社会物語学の関心事である。6

 フランクはここでいう「ソーシャル」という用語をブルーノ・ラトゥールの『Reassembling the Social: An Introduction to Actor-Network-Theory』(2005)から借りてきている。この著作の邦題『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』(2019)からもわかるように、「social」はそもそも形容詞である。ラトゥールのアクターネットワーク理論(ANT)においては、それが定冠詞の「the」によって概念化された形で扱われている。ラトゥールのいうソーシャルは、空間的な広がりをもった場所としてイメージされるような「社会 society」という名詞概念とは異なり、あらゆるものが結びつきあいながら絶えず変化するネットワーキングの働きとして理解されている。フランクの言葉を借りれば「静的な状態ではなく、プロセスであり、名詞というよりもむしろ動詞的で[…]集合的な営み」である。フランクはさらに「そこに自分は物語の営み storytelling も含める」という。

 ANTによれば、この世界のあらゆるものが、物質や非物質、人間や非人間といった区別を問わず、相互依存的に結びつきあいながら行為者アクターとして存在している。日本語話者に馴染のある仏教の言葉を使えば「縁」によって、それぞれが互いの存在を可能にしあっている。つまり、特定のモノ(者・物)が個という独立した世界の構成要素としてはじめから存在しているわけではない。そして、独立した自発性、いわゆる自由意志によって行為をするのではなく、ラトゥール(2005)の言葉を借りれば「行為者アクターとは行為へと追いやられる者のことである」7。フランクのいう物語は、まさにこのようなアクターネットワークのなかで人間とともに協働して、ソーシャルというプロセスを形作る行為者アクターとしてのモノである。モノとモノとは関係を結ぶ。フランクはそれを分析するためのアプローチを提案している。

私は自分の物語分析を対話的と呼びたい。というのも、それはすくなくとも二者、たいてい三者の相互関係に関わるものだからだ。物語と語り手と聞き手の三者である。このうちのいずれもほかの二者なしには成立しない。分析の対象になるのは、いかにして互いが互いを成立させあっているかということである。[…]そのどれもが行為者あるという点でつねに複数項の関係が問題になるものの、社会物語学はなによりもまず物語の行為に着目する。[…]初期の構造主義的なナラトロジーは、物語を細かく刻み、ひとつひとつの部位がどのような法則のもとで組みあわさっているのかを記述しようとしてきたが、物語はそのとき物語論的な解剖台の上の患者にすぎなくなる。社会物語学はといえば、物語を解き放って、物語自身の力を学びとろうとする。8

 では、物語という行為者アクターには具体的にどのような力があるのだろうか。この点に関するフランクの議論9をごく簡単にかいつまんで紹介しておこう。たとえば、物語には単一の世界の見方を設定し、単にそれをまことしやかに見せるだけでなく、ときには私たちをその内部に囚えてしまうような力を持っている。そのように視野を限定するということは、なにが善でなにが悪であるかをあらかじめ定め、私たちが知らずしらず一定の価値観に従って行動するように仕向けもする、ということでもある。さらに物語は、文脈に応じてさまざまに登場人物や設定などの形を変える。あるいは、さまざまに解釈される余地を残す。そのような潜在性ゆえに、物語はつねに私たちひとりひとりの状況にあわせ、それに寄り添うようにして協働する。とはいえ、協働するといっても、つねに私たちの味方であるわけではない。物語は私たちの手に追えるものではない。ときにはなんらかの問題解決のために私たちの助けになることもある一方、宗教やイデオロギーといったものがその一例であるように、物語自身が私たちの苦しみの原因になってしまうような場合もある。

 また、フランクは、物語はつねに私たちの想定を超えてしまうものであり、その本質を定義するようなことはできない、とも述べている。そして、そのような前置きをしつつも、便宜上の簡潔な定義を物語に与えている。物語のもっとも主要な働きは「私」を作る、ということであり、その点において物語はなにより、人間の「マテリアル=セミオティックな伴侶 material-semiotic companion」であるという。

 この「マテリアル=セミオティック(物質=記号的)」という考え方については、1980-90年代にブルーノ・ラトゥールとともにANTの枠組を作ったジョン・ローの議論が背景になっている。フランクは「On the Subject of the Object: Narrative, Technology, and Interpellation(ものというもの——物語、技術、呼びかけ)」(2000)というジョン・ローの論文から次の一節を引いている。

物語と物質の間に大きな違いはない。すこし別の言い方すれば、物語は、それが効果的なものなら、物質世界に実現する、とも言える。人間関係の形をとることもあれば、もっといえば、機械の形、建築の様式、身体やその他ありとあらゆるものの形をとることもある。したがって、次のように考えてみることもできる。世界は(かなり雑多な)物語の集まりでできていて、物語はそこでたがいに交わったり干渉しあったりしている、と。ひいては、普通の言語学的な意味での「語り」などない、ということにもなるかもしれない。10

 すでに見たとおり、ANTにおいては、あらゆるモノ(物/者)がいかなる存在論的な区別もないまま等しく扱われ、人間を含めたあらゆるものが互いの存在を可能にしあっている、と考えられる。そのため、神や人間をはじめとする意志を持った主体が、意志を持たない客体としての被造物を創造する、というような発想はない。物語というモノの起源になるような「語り」という人間による特権的な行為もない。物語がマテリアル=セミオティックであるということは、このようなネットワークの一元性を指していると言えるだろう。

 また、物語が人間の「伴侶」であるという点に関しては、ダナ・ハラウェイの『When Species Meet(種が出会うとき)』(2008)といった著作における「伴侶種 companion spiecies」についての議論が下敷きになっている。ハラウェイは、伴侶種の一例として人類と犬類を挙げ、両者はたがいの存在にとって不可欠なものであり、たがいに共依存関係にあると述べている。ちょうどそれと同じように、人類と物語もまた伴侶種であるとフランクは考える。そして、伴侶種の概念には、次の二つの基本的な考え方があるという。

第一の点は、伴侶種は共進化の過程でたがいを形作ってゆくということである。第二の、そしてなによりも基本的な点は、よき伴侶はたがいに助けあうということである。[…]いずれにしても、伴侶はそれぞれ相手がいるからこその存在である。[…]ハラウェイは「物語の外の世界にはいかなる場所も存在しない」という。ここで彼女が言わんとしているのは、存在の形としては記号的であり働きとしては物質的であるような物語との共依存関係の外には人間の居場所はない、ということでもあるのだろう。物語の力。それは私たちを人間たらしめる力なのである。11

 ここでいう「伴侶 companion」のことを「片割れ」と訳しなおしてみることもできるかもしれない。片割れとは文字通り、ふたりでひとつであるものの片方ということである。それぞれがたがいに寄生しあうことで生かされている。ハラウェイ自身が使っている英語の形容詞を用いるなら、物語と人間はたがいに「偶有的 contingent」であり「共棲的 symbiogenetic」であるとも言えるだろうか。

 物語と人間とのマテリアル=セミオティックな共生は、ソーシャルを形作る。それは「私」の片割れである物語が「私」を形作るプロセスである、ということでもある。フランクの社会物語学の目標の一つは、このメカニズムを記述することである。これからその議論の具体的な内容に入ってゆくことにしよう。

物語が「私」を形作るメカニズム

 アーサー・フランクは物語との共棲において生かされ、形作られる「私」のことをナラティブ・セルフと呼んだ。フランクは類似の考え方として「Narrative identity 物語的なアイデンティティ」というものがジェローム・ブルーナー(1987)やアラスデア・マッキンタイア(1984)によって論じられていることに触れた上で、それとはすこし異なる概念を提示する。「Narrative identifying」である。しいて説明的に訳せば、物語による自己形成プロセスとでも言えるだろうか。重要なのは「identity」という静的なモノではなく「identify」という動詞由来の動名詞が使われているということである。フランクが拠り所とするANTにおいてはソーシャルというネットワーキングのプロセスが問題になっている以上、物語の片割れとしてソーシャルを紡ぐ自己もまた、絶えざる変化にさらされている。「個」という不可分な単位としてそれ自体で存在し、「社会」という実体的なモノの構成要素となるような自己は想定されないのである。

 このような自己形成のプロセスこそが物語の主要な働きであると考えるフランクは、イデオロギーによる呼びかけをめぐるルイ・アルチュセールの議論をANTの枠組みのなかで読みかえることで、議論を掘りさげていこうとする。フランクによれば「呼びかけとは、なんらかのアイデンティティを受けいれ、それに基づいて行動するように促すこと」である。それをフランク流に言いかえたのが「キャスティング casting」という英語の言いまわしである。この言葉には、配役するという意味のほかにも、刑務所などに投獄する、放り出す、投げ棄てる、といった意味あいがある。物語の呼びかけられる私たち人間は、演じるべき役を割り当てられるとともに、物語の囚われの身にもなる。はじめは単なる聞き手にすぎなかったはずが、いつしか登場人物に成りかわってしまっているようなこともあるかもしれない。フランクは次のようにいう。

物語の呼びかけは、二つの次元においてなされる。物語は、登場人物にそれぞれの役を演じるように呼びかける。さらに、聞き手に登場人物と同一化するように呼びかける。[…]呼びかけは、物語の内容と語りの境界線を超える。

 日本語に即していえば、物語はモノとコトの次元を仲介すると考えることもできるだろうか。モノにすぎなかったはずの物語が、いつしかコトとして実現してしまっている。物語には人を感化して行動へと駆りたてる力がある。「文字通り、物語は応答可能 responsible なものなのだ」とフランクはいう。このことは、物語は人に行動主体としての責任 responsibility を 吹きこむ、と言いかえることもできるかもしれない。そもそも責任感を持つということ being responsible とは、何らかの召命に応じる準備ができている、ということである。そのため、物語が応答可能なものであるということは、人に応答責任を与え、人を物語の主人公に仕立てあげる力がある、ということでもあるのだろう。

 では、このような物語の呼びかけに対して、人はどのように振るまうべきなのだろうか。この点をめぐって、フランクはアルチュセールとは異なる立場を取っている。アルチュセールによれば、呼びかけを拒むことはできない。呼びかけを耳にしてしまっている時点、つまり意識してしまっている時点で、人はすでに呼びかけられてしまっているからだ。それに反発をするということ自体が、ひとつの応答のあり方になってしまう。したがって、拒否というものは、呼びかけをそもそも感知しないことによってしか成り立たない。このような状況のことをアルチュセールは「個人はつねに、すでに[呼びかけられた]主体である」と表現したのだった。それに対して、フランクは物語の呼びかけへの抵抗は可能である、と考える。

物語にどのような役を求められ、どのようなふるまいがその役にふさわしいのかということを登場人物たちは多かれ少なかれ自覚している。そのため、物語の登場人物であれ聞き手であれ、主体は次の二つの可能性のなかで揺れ動くことになる。物語の内在的意志に乗っかり、物語の筋書きどおりに流されてしまうのか。それとも、今回ばかりは番狂わせの展開が起こるのか。今回こそ物語の筋書きが変わっているかもしれない。主人公が自分の意志によって物語の要求を拒み、筋書きを書きかえてしまうこともあるかもしれない。12

 中上や蓮實であれば、物語=法への抵抗の所作それ自体があらかじめ物語=法に定められていたこと、織りこみ済みのことであり、主人公はどこまでも物語の毒に染まってしまっている、と考えたことだろう。しかし、フランクの考える物語にはそのような「法」としての絶対的な力はない。蓮實が「絶対的な勝利者」と呼ぶような専制的な物語、単一の特権的な物語=法が筋書きをすべて定めるようなこともない。というのも、フランクのいう物語は、人と同じ次元にあるモノとしての行為者アクターにすぎない。そして、なにより、ネットワークの網の目を形作っているのは、つねに複数の物語である。物語の登場人物としての私たちも、つねに同時に複数の物語の編み物として生きている。フランクはまさにそのことを重視する。

私たちの多くは、幸いなことに、複数の物語にキャスティングされている。そしてたいてい、それらの物語の呼びかけはたがいに反発しあうことで、たがいの力を完全に打ち消すとまではいかなくても、すくなくとも和らげあってはいる。物語には多くの問題がつきものだが、その基本的な解決策がここから見えてくる。その解決策とは、できるだけ多くの物語を野放しにする、というものだ。13

 フランクはこのように複数の物語の力の複合について考え、それを解きほぐそうとすることで、アルチュセールがある種の不可抗力として思い描いた「呼びかけ」の力を相対化しようとする。そして、そのための理論的な手続きとして「呼びかける物語たちの集まり」14のことを「ナラティブ・ハビトゥス」と呼び、そのメカニズムを描きだす。フランクはそこで、同じピエールの名を持つ二人のフランス人、社会学者のピエール・ブルデューと精神分析家のピエール・バイヤールの仕事を参照しつつ議論を組み立てている。まず、ブルデューのほうを意識しつつ、フランクは次のようにいう。

私たちは、何かに対して親しみを感じたり、逆におかしいと感じたり、よくわからないという思いを抱いたりする。何かを好んだり好まなかったりもするし、あるいは、何かをしたり何かがそこにあったりするときに自然体でいられることもあれば、そうではないこともある。私たちのそのような傾向のことをハビトゥスという。[…]そして、ナラティブ・ハビトゥスとは、私たちの耳に届く物語の傾向である。私たちの行動や思考の指針を与えてくれるような物語、私たちが耳をすまし、折に触れて繰りかえし聞きかえしたくなるような物語がある。ナラティブ・ハビトゥスは、私たちの物語への関心や無関心、拒否感といった身体感覚にまつわる。直感的で、あまり意識されることのない感覚。ある物語が自分にふさわしいのかどうか。自分がそこに居場所を見いだせるかどうか。あるいは、自分に無縁な世界の話をしているのかどうか。[…]ナラティブ・ハビトゥスは、どの物語に呼びかけられるのかを期せずして期してしまうような与件としての力であり、私たちがすでにほかの物語に囚われていた場合は、新たな物語の呼びかけへの拒絶としても働く。15

 ナラティブ・ハビトゥスは、フランクの社会物語学における「社会」の部分の核になる考え方である。すでに見た蓮實の議論においては、正体不明の大文字の「物語=法」に私たち人類が囚われていて、時代を特徴づける知の枠組の次元において、そのような窮状をどうすべきか、ということに力点がおかれていた。そして、従来のナラトロジーを含めた文学の手つき、当時の日本において「批評」と呼ばれた手つきによって、蓮實はこの問題にむきあおうとした。それに対して、フランクは基本的には社会学的な観点から人と物語との関係性を重視する。そして、そもそも私たちは具体的にどのような個別の物語に囚われたり囚われたりしないのか、ということに着目し、それをあくまでも傾向の問題として記述しようとした。フランクによれば、ナラティブ・ハビトゥスには四つの大きな特徴がある。

第一に、ナラティブ・ハビトゥスは、人に認知され共有されている物語のレパートリーである。これらの物語は、いまだ認知され共有されずにいるほかのすべての物語を見えない背景にする形で、理解されている。

第二に、ナラティブ・ハビトゥスは、このようにして身につけたいわば暗黙の知識としてのレパートリーを駆使するための能力の下敷きになるものだ。どのような物語がそれまでの物語の続きとして収まりがいいものなのか。あるいはどのような物語がどのような状況にふさわしいとされるのか。だれがいつどのような物語を求めているのか。ナラティブ・ハビトゥスは、そういったことについての個々人の感性のことであり、物語が語られたとき、それがどのようななものなのかに応じて、どのように反応をすればいいのかを教えてくれる。[…] 第三に、ナラティブ・ハビトゥスは、物語の好みを形作り、私たちがどのような新しい物語を積極的に受けいれていくのかを左右する。[…] 第四に、ナラティブ・ハビトゥスは、途中まで語られた物語がその後どのように展開していくのがふさわしいのかということについての感性をあらかじめ形成する。物語上のどのような出来事がどのように流れていくのか。[…]物語の展開についての私たちの感性は、物語においてであれ、私たち自身の人生におおいてであれ、どのようなふるまいがどのような結果を引き起こすのかについての日常的な感覚を反映してもいるし、生みだしてもいる。16

 ナラティブ・ハビトゥスは、ソーシャルのなかで相互形成しあう人と物語との仲介項、いわばインターフェイスになるような概念である。とはいえ、それが「身体化された物語の束」17とも呼ばれていることからもわかるとおり、複数の物語を束ねる焦点となっているのは、人間の身体である。ハビトゥスはもともと「持つ」を意味するラテン語の Habere(英語でいう Have)に由来しているように「身につける」ないし「身体化する」ものである。そして、そのような経験としてのハビトゥスは、物語ではなく、「私たち」の側、つまり人間の側にある。このとき、行為者アクターとして人と物語との力関係が微妙に非対称的なものになっていることには留意する必要があるだろう。

 というのも、フランクの議論はここからさらに人間目線に傾いてゆくことになる。フランクはナラティブ・ハビトゥスのメカニズムを描きだす上で、個人という存在の心的な側面を想定するような精神分析のアプローチを用いる。そこで参照されるのが、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』(2007)である。フランクはバイヤールのいう「内なる本棚」という考え方に想を得ている。

「真の読書家からすれば」とピエール・バイヤールはいう。「重要なのは、個々の本ではない。もろもろの本の全体像こそ重要なのだ」と。たしかに、個々人にとって大切な物語というものはある。しかしどの物語もなによりほかの物語との関係においてはじめて意味を持つものだ。バイヤールのいう内なる本棚とは、個々人に影響を与えるすべての物語が取り揃えられたもののことである。バイヤールのいう前意識的にであれ無意識的にであれ、人がそれとは知らずに知っているような物語もこの本棚に所蔵されている。単純化していえば、内なる本棚とは、整理整頓されたナラティブ・ハビトゥスののことである。あるいは、物語たちがおのおの立ちまわる上での基本方針とも呼べるだろうか。[…]私たちの意識は、内なる本棚のなかに簡単に分類できそうな物語、耳あたりのよい物語のほうに自然とむくようになっている。その反対に、内なる本棚のどこにも割り当てられそうにない物語は意識から切り捨てられる。基本方針としては、内なる本棚には新しいセクションがなるべく増設されないようになっているのだ。[…]しかし、ときには、セクションの新設をうまく勝ちとることによってナラティブ・ハビトゥスを拡大させてくれるような物語もある。18

 木を見て森を見ず、という日本語の慣用表現に引きつけて言えば、ピエール・バイヤールにとっての読書体験とは、一本の木を愛でることではなく、本の森のなかを歩くことである。ひとつひとつの本の中身に目を通さなくても——あるいはむしろ、目を通さないことによって——見えてくる本の森の全体像がある。そして、市場に流通する本の森にも、個々人の抱える内なる本の森にも、それぞれ独自の生態系があり、物語にも同じことが言える。フランクのいうナラティブ・ハビトゥスは、個々人において身体化された物語の内なる森の生態系のことである。

 フランクはさらに、バイヤールが「内なる本」というものをめぐって議論を掘り下げているのにならって「内なる物語 inner story」というものを想定してもいる。フランクはバイヤールの以下の発言を引いた上で、引用文中の「本」を「物語」に置きかえながら読みなおす。ここでは便宜上「本[物語]」として孫引きをすることにしよう。

私が内なる本[物語]と呼んでいるのは、読者と新しい本[物語]との間に割って入り、読書体験を人知れず形作るような架空のイメージの束のことである。ほとんど意識されることのないこの想像上の本[物語]は、ある種のフィルタとして働き、新しいテキストの受容に際して、そのうちの何を取捨選択したりどう解釈するのかを決定づける。[…]内なる本[物語]は、世界、とりわけ本[物語]を理解するためのグリッドとなり、それ自体は透明であるという錯覚を生みだしつつ、テキストの受容の仕方を条件付ける。また、内なる本[物語]は個々人の空想やごく個人的な信念によって編まれており、それが読書欲の源、自分が読むべき本[物語]の探求の出発点にもなっている。まさにそういう変幻自在の何かこそ、あらゆる読者が追い求めているものであり、人生をかけて出逢うことのできるどんな最良の本[物語]もその不完全な断片に過ぎない。だからこそ、その何かを絶えず追い求めつづけることになるのだ。19

 すこし話を整理しておこう。ナラティブ・ハビトゥスとは、バイヤールのいう「内なる本棚」から着想を得たもので、個々人にまつわる無数の物語の総体のことである。あるいは「私」たちは物語によって「養われている cultivated」という意味で、物語についての個々人の「教養 culture」のことであるとも言えるだろうか。それが新しい物語との出会いを方向づける。新しい物語を受容するアンテナの感度や周波数を絶えず調整しているといってもいい。そして、実際に新しい物語に出会ったときには「内なる物語」と呼ばれるフィルタがおのずと立ちあらわれる。これは個々の物語を解釈するための枠組のようなものだ。新しい物語はこのフィルタをとおして個人的な意味づけを与えられることによってはじめて、ナラティブ・ハビトゥスという物語の森のなかに居場所を持つことができる。

 フランクはこのような心的なメカニズムを想定することで、どうして特定の物語の呼びかけが特定の人の耳には届いたり届いたりしない傾向があるのか、という問いに答えようとした。この点は、フランクの社会物語学において、もっとも人間中心主義的な色合いの濃い部分であると言っていい。というのも、このように精神分析的なアプローチを通して人間側の視点から人と物語との関係を記述すればするほど、物語の行為者アクターとしての側面が見過ごされることになるからだ。

 フランクの社会物語学における人間中心主義的な側面は『Letting Stories Breathe』という著作の題にも端的に示されている。物語に息をさせる主体は私たち人間である。フランクの社会物語学は当然、それ自体でひとつの物語である。フランクの物語においては、物語が人と同じ立場でソーシャルを作る行為者アクターであるという設定でありながらも、主人公の位置を占めているのは物語ではなく、私たち人間の方である。このことはなにより「社会物語学の目的は単に記述的なだけではなく、同時に倫理的でもある」20とフランク自身が述べていることにもあらわれている。倫理的であるということは「私たち人間が何をすべきか」を問うということであり、実際にフランクは「(私たち人間は)物語とどのように付きあっていくべきなのか」という問いを立て、それに答えようとしている。

 その一方で、同時に踏まえておかなければならないのは、フランクはまさに「私たち人間が何をすべきか」という問いをめぐる議論のなかで、物語が単なるモノなのではなく、私たち人間には計り知ることのできない他者であることを強調してもいる、ということだ。実際、バイヤールの議論を引いた際にも、ナラティブ・ハビトゥス形成のメカニズムを描きだす上での有効性を認めつつ、次の留保を付け加える。

バイヤールはすべての出来事を意識の側、またしばしば無意識の側から説明しようとするが、私はむしろ物語に息をさせたい。たとえ内なる本棚に居場所を持たなかったとしても、それでもなお私たちを私たちたらしめてくれるような物語がある。結局のところ、物語には私たちを出し抜く力があるのだ。[…]「私たちは寄せ集められてきた本の総和である」とバイヤールはいう。たしかにそのとおりだと思う。「物語的なアイデンティティ」をめぐる議論のエピグラフにふさわしい言葉だ。しかし「物語による自己形成のプロセス」について語るとしたら、どうだろうか。その場合は「寄せ集め」は決して終わらないし「総和」は決して定まらないということになる。[…]私たち人間は絶えず寄せ集まりつづける物語の総和である。というのも、物語が私たちの内なる本棚を打ち破り、古い寄せ集めに不意打ちを与えるということがしばしば起こるのだ。21

 フランクはこのように私たちを出し抜き、不意打ちを与える力を持った物語のことを「トリックスター」として理解しようとする。物語はなにより危険な他者である。そのような物語とどのように付きあうべきなのか、という倫理的な問いをめぐるフランクの議論をこれから見ていくことにしよう。

物語というトリックスターとの付きあい方

 この「私」を日々形作っている物語たちとどのようにうまく付きあってゆくことができるのか。物語たちとの「よき共存」のためには、何をなすべきなのか。フランクはこの問題に対して、三段階にわたる答えを用意している。第一に、物語が私たちの手に負えるものではないことを認識すること。第二に、物語を多種多様にすること。第三に、トリックスターとしての才覚を磨くこと。ここでは、フランクの社会物語学の倫理的な側面に光を当てるために、順を追ってこれらの三つの提言を見ていくことにしよう。

 まず、物語が私たちの手に追えるものではないことを認識する、ということは、物語のトリックスターとしての性格を理解する、ということである。トリックスターとは、昔話などに登場するキャラクター類型の一つで、たいていいたずら者としての性格を持ち、物語の番狂わせをする。その一例としては、たとえば「かちかち山」という昔話に登場するウサギ、あるいはタヌキが挙げられる。性悪のタヌキに一杯食わされたおきなが、山に住むウサギにかけあってタヌキを成敗するという日本語圏では広く知られた物語である。タヌキはおうなをやすやすと手玉にとって殺し、その肉を翁に食わせるほどの狡猾さを備えていた。しかし、同時に間の抜けたところもあり、同じく奸智に長けたウサギに丸めこまれ、ついには懲らしめられてしまうのだった。

 トリックスターという用語自体はもともとポール・ラディンという文化人類学者がアメリカの先住民族の民話を分析する際に用いたもので、カール・ユングとの共著『神聖な道化 Le fripon divin』(1958)によって世界的に知られるようになったようだ。ラディンによれば、トリックスターとは創造と破壊、善と悪、知と無知のように様々な両価性を帯びたキャラクターの類型のことである。『トリックスターの系譜』(1998)の著者であるルイス・ハイドの言葉を借りれば、トリックスターには善悪をはじめとする「ボーダーを超える力」がある。それと同時に「ボーダーを生じさせる力」があるという。つまり、二項的である価値の両側に身をおくことができるし、価値という二項的な区別そのものを発生させることもできる。

 たとえば、古事記に登場する太陽神のアマテラスは、みずからの輝きによって光と闇の二つの世界の区別を立てることができる。ところが、洞窟という闇の世界にこもってしまうことで、その区別そのものを失わせてしまう。しかし、アメノウズメという芸能の神が番狂わせのための一計を案じてアマテラスを洞窟から引きずり出すことによって、ふたたび光と闇の区別が回復したのだった。

 フランクによれば、このようなトリックスターの働きは、物語それ自身が備えている力であり、まさにその点にこそ倫理的なかけ金が置かれている。

物語の力は、私たちにとっての厄介事でもある。物語はあまりにも巧妙にみずからの務めを果たす。その務めとは、あらゆる価値の源泉になる、ということだ。[…]このことは、すでに引いておいたポール・ラディンの主張にも通じる。「あらゆる価値は、トリックスターのふるまいを通してはじめて、発生する」。さらにこの定式を補完するためにルイス・ハイドの言葉も引いておこう。「物語におけるトリックスターは、物語それ自体である」。物語に囚われているにせよ、生かされているにせよ、私たち人間が物語といかに正しく付きあうのかということは、すこしも容易な問題ではない。22

 トリックスターとしての物語の両価性は、それが多様な解釈を求めるというところにもっともよくあらわれている。フランクによれば「物語は、特定されるのを拒む。物語は同時に様々なものであること、単に複数の理解の仕方が可能な世界というより複層的な理解を要する世界に人間を住まわせることに長けているのだ」23という。物語をボーダーの片側に押しこめられたり、縛りつけることはできない。物語はつねに裏をかく。

 また、それと同時に、私たち読者や登場人物を巧みに丸めこんでボーダーの片側に押しこめようとするという点、ボーダーを暗に設定してしまうという点においても、物語はトリックスター的である。フランクによれば、物語には、特定の登場人物の視点に立って、当事者にとっての「真実」をさももっともらしく見せるような力がある。そうすることで、ほかにも取りえたはずの視点やほかにもありえた物事の成り行きを後景に退ける。物語にはこのようなフレーミングの働きによって、複雑であるはずの世界を単純化する。そして、まさにそうすることによって世界をいっそう複雑にしてしまうという。

物語が私たちの危険な伴侶となるのは、物語が物事をあまりにも単純化してしまい、そのときに捨象したものをあまりにも巧妙に隠してしまうようなときである。[…]物語は現実のただ一つの断片についてただ一つの見方からしか判断できないような場所に聞き手を立たせてしまう。このような取捨選択の働きは、ほかの断片やほかの見方をそもそも選択の余地から除外してしまっているという点で、ひとつの主観的な価値判断である。[…]読者は物語が注意を引いてみせるもの以外のことに思いを馳せる力を一時的にでも奪われてしまう。そのような催眠作用を物語は持っているのだ。24

 では、私たちを欺き、虜にしてしまう力を持ったトリックスターとの「よき共存」のあり方をどのように模索していくことができるのだろうか。そこで重要になるのが物語を多種多様にするということである、とフランクはいう。一つの物語を相対化するためには、なにより二つ目の物語が要る。

物語との付きあいは物語を通して﹅﹅﹅﹅考えることから始まる。しかし、ゆくゆくはそこからさらに進んで、物語たちについて﹅﹅﹅﹅考える力によって舵がとられなければならない。物語たち、と複数形で言うことには、倫理的に大きな意味がある。ひとつの物語に囚われてしまうのではなく、ふたつの物語を生きることによってこそ反省は始まる。ふたつの物語は、対話を誘発する。[…]複数の物語が反省のために必要なのは、それぞれが相手の迫真性に対して批判的な距離を開いてくれるからだ。とりわけふたつ目の物語が必要になってくるのは、それがひとつ目の物語とまったく相容れないようなとき、ひとつ目の物語の当事者たちが自分たちの立場は何ものにも代えがたいと信じて疑わないようなときだ。危険はこのような当事者性の特権化から始まる。[…]そのとき、世界をふたたび複雑にしてくれるのは、ふたつ目の物語である。まさにそれこそが相容れないということの意義であり、倫理的であるということの意味なのである。(傍点引用者)25

 物語を出し抜くことはできない。つまり、ひとつの物語に対してそれを俯瞰するような視点に立つことはできない。物語こそがなんらかの視野を可能にするのであって、物語の外にはいかなる視野もないからだ。それゆえにこそ、物語というトリックスターを出し抜くことを考えるのではなく、できるだけ複数の物語を生きることが重要である、とフランクは考える。では、どのように複数の物語を呼びこめばいいのだろうか。フランクは次のように述べている。

物語は語られなおすごとに形を変えてゆく。変化は避けがたいものだが、急速なわけでもない。[内なる本棚がセクションの新設に対して原則としては消極的であったように]物語には変化への耐性がある。むしろ、物語が進んでしようとするのは、ほかの物語を呼びよせるということだ。その点にこそ迅速な変化のチャンスがある。物語に息をさせるということは、物語を野放しにするということであり、物語はそのとき自然と別の物語へと通じるようになっている。もし仮にも本質的に「悪い物語」というものがあるとすれば、それは同じ内容を異なる視点からとらえた別の物語に移るのを妨げるような物語である。[…]しかし、幸いなことに、物語におけるトリックスターは物語自身である。物語はかならずいつかどこかで専制的な押しつけにみずから反旗を翻す。26

 物語任せにするということ、物語がほかの無数の物語に連なってゆくのに任せるということは、私たちが自身のナラティブハビトゥスという物語の森の全体性に目をむけ、絶えず変化するその全体性を生きる、ということでもある。とはいえ、すでに見たように、ナラティブハビトゥスは私たちがどのような物語と出逢うのかをあらかじめ方向づけてしまうような与件でもある。つまり、物語任せにする、という私たちのふるまい自体もまた過去の物語の集積によってすでに条件づけられてしまっている、とも考えられる。これはゆるやかな決定論的な考え方である。いくら物語にはナラティブハビトゥスを出し抜き、私たちに不意打ち与える力があると言っても、そのような機会が訪れるのを漫然と待つことは、何もしないに等しい。

 では、結局のところ、物語とのよき共存をしてゆくために私たちは何をすべきなのだろうか。そこで、最後にフランクが提案しているのがトリックスターとしての才覚を磨くということ、みずからトリックスターになるということである。これは、みずから物語の働きを真似るということ、物語の働きから学ぶということ、と言いかえることもできる。フランクによれば、トリックスターを演じる上で重要なのは、めぐりあわせである。しかし「めぐりあわせ」とひとことでいっても「利口者のめぐりあわせ 」と「間抜け者のめぐりあわせ」があるという。フランクはルイス・ハイド(1998)の次の発言を引いている。

間抜け者のめぐりあわせ。それは博打にいくら買っても豊かにならないギャンブルラーのめぐりあわせのことであったり、宝くじの当選をきっかけに結局は散財をして破産に追いこまれてしまうホテルの従業員のめぐりあわせのことであったりする。実を結ばず、次に繋がることがない。ひるがえって、利口者のめぐりあわせに恵まれた者は、思いがけない出来事に際して、巧妙かつ抜け目なく立ちまわる。たとえば、竪琴の発明者でもあるヘルメスも巧妙で抜け目がなかった。だからこそ機転を利かせて数々のチャンスを物にすることができた。27

 日本には「塞翁が馬」として知られる中国の故事があり、万事なるようになる(成り行きに任せたほうがいい)という意味あいで引かれることがある。次のような筋書きの話である。辺境の要塞のほとりに暮らしていた翁があるとき、飼っていた馬に逃げられてしまった。しかし「いずれ物事が好転する」と翁が考えると、やがて翁のもとに馬が帰ってきた。その上、新しい馬を引き連れていた。ところが、今度は「いずれ物事が悪化する」と翁は考えた。すると、息子が乗馬の最中に馬から振り落とされ、足を折ってしまった。しかし、今度はふたたび「物事が好転する」と翁が考えると、息子はその怪我のおかげで徴兵を免れることができた、という。話はそこで幸福を切りとるようにして打ち切られているが、物語はその後も二転三転する可能性をつねにひめている。

 この故事は、出来事が手のひらを返すように両価的に反転してゆくという点で、物語がトリックスターであるということを馬のアレゴリーを通して巧みに描いている。さらにそれだけではなく、物語の両価性を受けとめるための心の準備が大切であるということもその教訓として開示してくれてもいる。フランクが言おうとしているのは、塞翁のように次々と新しい局面に移ろってゆく物語に対して虚心に接するということでもある。このことは、自分自身のふるまいに対して一方的な善悪の判断を下さない、ということにも通じる。フランクはルイス・ハイド(ibid.)の次の発言を引いている。

私たちは自分たちのふるまいの善し悪しをつねにはっきりさせておきたいと思うものだ。しかし、本来的に曖昧なものをはっきりしていると信じこむことは、かえって善悪の判断を妨げることになる。正しさという厚い皮をかぶった残虐性を招いてしまうことにもなりかねないのだ。28

 善悪の判断を下す、ということは、ひとつの物語、ひとつの視点を生きる、ということでもある。しかし、ひとたび視点が変われば、善悪の尺度も変わる。そこでフランクはミハイル・バフチンにならって、物語や私たち自身の「決定不可能性」が重要であるという。たがいの片割れとして共存している物語も私たちもつねに宙吊りの状態に置かれている。ひとつの物語に囚われているかぎり見えてこないが、視点を複数化してみると、水晶の欠片のように輝きを複雑に分光していることがわかる。フランクはこのように考え、物語と人とのよりよい付きあい方について探求してゆくのが社会物語学であるとした。

 これでようやく、中上の議論を追う準備が整った。フランクの社会物語学は、これまでに概観してきた物語をめぐる日本語圏での議論とあわせ、中上を相対化して評価するための「ふたつめの物語」としてきわめて重要な役目を果たすことになる。というのも、中上もまた自身の物語論の倫理的な側面を重視しており、まさにそのような文脈において物語のトリックスター的を論じてもいるからである。中上の言葉を借りれば、中上の物語論は「人倫」をめぐる問いでもあった。そして、そのあたりに中上の議論をフランクにならって「社会物語学的」と呼べるようなところがあるという予測を立てることができる。

 しかし、徐々に明らかになってゆくように、中上の考える「人倫」は、フランクの考えたような倫理の問題とは根本的にかけ離れている。これは「物語」というものについての理解が根本的にずれているところから来ている。だからこそあらためてここで問いなおさなければならない。中上のいう物語とは何なのだろうか。

中上はなぜ物語を敵視したのだろうか

2.1. 「中上健次」ができるまで

 

 中上健次のいう物語とは何だろうか。前章ではこの問いを扱うための枠組み作りとして、物語という語にまつわる日本語ならではの問題や、物語をめぐる日本語圏や英語圏での議論を取りあげた。そして、物語の力というものを問題にしつづけた中上の物語論は「社会物語学的」とでも呼べるような特徴がある、という作業仮説を立てた。

 この仮説を検証するためにこれから中上の議論に立ち入ってゆくのだけど、あらためて留意しておかなければならないことがある。中上が端的に物語それ自体について﹅﹅﹅﹅論じるということは稀で、むしろ別のなにかを物語として﹅﹅﹅をとおして﹅﹅﹅﹅﹅語ることが多く、素朴に字面を追っているだけではそもそも何のための物語論なのかが見過ごされるおそれがある、ということだ。中上はしばしば、ある種の連想ゲームにも似たレトリックを弄する。比喩や換喩を梃子にして発想を飛躍させる。まさにそのようなレトリックをとおして可能になっているような思考のあり方にも着目していきたい。

 そこで、中上の物語論を便宜的に二つの時代に分けた上で、はじめに、そもそも何のための物語論なのかということを明らかにしておくことにしよう。さいわいなことに、中上の物語論は物語というものへのむきあい方という点から前期と後期の二つに分けられる。ひとことでいえば、前期においては物語への敵意、後期においては物語への畏怖が中上の議論の基調をなしている。

 まず、前期においては、中上は物語との闘争とでも呼べるような何か、独り相撲にも似た何かにとり組むことになる。発端は1977年に朝日ジャーナルの企画した鼎談「市民にひそむ差別心理」でのことだった。そこで中上は、自分がいわゆる部落の生まれであることを打ち明け、それを機に部落差別というものを物語や文化という観点から読みかえようとする。翌年の1978年には「部落青年文化会」という組織を立ちあげ、「開かれた豊かな文学」という連続講演会を故郷の部落で行ったり、蓮實の仕事に触発されつつ「物語の系譜」という連載エッセイをはじめるなどして、自分なりの物語論の形を探ってゆこうとする。しかし、その過程でさまざまな挫折を経験してもいる。ちょうどそのころ環境改善の名目で故郷の部落の町並みの取り壊しがはじまり、それに反旗を翻すものの、地元の人間にはむしろ疎まれ、孤立する。その結果「亡命」と称して渡米することになり、そのままなし崩し的に物語論の試みを中断してしまう。その後、世界各地を転々としながら『地の果て至上の時』という長編小説に取り組み、それを1983年に書きあげることで、新たな動きが芽生えてくるのだけれど、ここではさしあたり、この期間に物語をめぐって語られたものを前期の物語論と呼ぶことにしよう。

 物語を論じる中上健次の態度にはっきりした変化が見られるのは、渡米中に頓挫した連載エッセイ「物語の系譜」が1983年に再開されてからのことである。『地の果て至上の時』の書きおろしによって何かが吹っ切れたのか、それまでとは違った声色で物語について語りはじめる。物語が敵なのかどうかはもはやわからない。味方かもしれない。いずれにしても非常におそろしいものである。はっきり「神」と呼んでもいい、とさえいう。やや気負いながら物語との闘争を試みていたときとは対照的に、目の前で謎めく何かに怯えたような実に奇妙な様子を見せる。その一方で、当時の天皇の不調とともに昭和という時代の終わりが予感されるようになると、国家とは何かという問いや、人はどう生きるべきかという問いに関心がむくようになり、中上はそれまでとは違った思考の試みを模索しはじめる。そこで、三島由紀夫の楯の会にならって隈ノ会という文化組織を立ちあげ、新しい闘争のための「檄文」を発表したりするのだけれど、それから間もないうちに唐突に出鼻を挫かれるようにして腎臓癌にかかる。そして、1992年に46歳の若さで亡くなってしまうのだった。それまでに中上が物語に関して語ったことを後期の物語論と呼んでおくことにしよう。

 以上の時代区分はあくまでも便宜的なものに過ぎない。しかし、このように段階を踏んで前期と後期の議論を扱うことによって、そもそも何のための物語論なのかということが明確になり、その後の中上の議論のかけ金の所在を見失うこともなくなる。ここではそれら二つの時代に加え、1977年に前期の物語が始まるまでの中上健次の来歴にも触れておくことにしよう。

2.1.1. 三つの苗字と作家名

 中上健次の物語論は、物語に関する一般論とはほど遠い。中上は基本的に、自身の人生という個人的な物語や、自身が作家として紡いできた物語と、自身の物語論とを区別しない。それらをきれいに腑分けして、一般論としての物語論を抽出することは不可能である。結局のところ、中上の物語論もまた物語のひとつにすぎない。中上は身をもってその物語を生きていた。アーサー・フランク風に言えば、それは中上にとってのマテリアル=セミオティックな伴侶であり、生の片割れだった。そのため、そもそも何のための物語論なのかということを明らかにするためには、中上健次という作家の来歴についてもある程度踏まえておく必要がある。

 中上の伝記的な情報に関しては、高澤秀次の『評伝 中上健次』(1997)や『中上健次事典』(2002)、高山文彦の『中上健次の生涯』(2007)といったすぐれた仕事がすでにある。特に『中上健次電子全集』(2017)の21巻に収められた高澤秀次の「中上健次 年譜」は中上研究の基本資料として欠かすことができない。ここではそれらの先駆的な仕事によりつつ、作家としての「中上健次」ができあがってゆく初期のいきさつ、特にその名前の来歴を押さえておきたい。というのも、中上の物語論には「物語をするこの自分は、誰なのか」という問いが通奏低音のようにつねに息づいていて、元をたどれば、それは中上自身の名前をめぐるやや複雑な経験にも結びついているからだ。

 中上健次はもともと、ナカガミケンジと呼ばれていたわけではなかった。地元の新宮市ではナカウエ家に身を寄せていたし、本人もそのように名乗っていた。本人がナカガミという筆名を使いはじめたのは、1965年に上京後、たまたま苗字をそのように読まれたことがきっかけだったようだ。『文藝首都』1968年7月号に「あなたを愛撫するユビ」という短編小説が掲載されたときにはすでにみずからそう名乗るようになっていた。高澤(1998)によれば、タイトルの肩に「またまた登場・ハナのテンサイナカガミケンジがおくる傑作喜劇」の一文があったという。わざわざカタカナで表記されているからには、そう呼ばれたいという本人の意向があったのだろう。

 ここでは今「中上健次」の来歴が問題になっている。しかし、その名が多様な読みに開かれていて同時にナカウエとでもナカガミでもあること、そのため実名とも筆名ともつかないような宙吊り状態を生みだしているということは、中上の物語論を理解する上でも示唆的である。「中上健次」は当時の新宮市で土木工事を請け負っていたナカウエ家の養子でもあるとともに、戦後の日本語文学史上にナカガミとして登場する人物でもあり、一群のテクストをひとりの作者の著作物として束ねる機能を担った権力装置でもある。

 これら複数の「中上」は、それぞれどこで繋がり、どこで切れているのだろう。中上健次とは、誰のことなのか。あるいは、中上健次とは、何なのか。これらの問いは「中上健次」が表記のレベルで同一性の危機にさらされて揺らいでいるという点で、すでに問題含みである。そこに、状況をいっそう複雑にするような伝記的な事情が加わる。1977年のエッセイ「天王寺」なかで、中上健次という筆名を名乗る「私」という語り手が、自身には複数の姓がある、という。

天王寺にいると昔を思い出す。私は天王寺を歩き廻りながら、自分がナカガミという性ではなく、中学卒業するまでキノシタ姓だったのを思い出し、体がしびれる気持ちになる。実父はスズキと言い、母の私生児としてキノシタ姓に入り、高校の時からナカウエになった。十八歳で東京に出て、私はナカガミと呼ばれ自分でもナカガミと名のった。正直、私に、ナカウエという姓は縁遠かった。義父のナカウエが、母の連れ子である私を可愛がり、私は実子と何らわけへだてなく何不自由なく育てられたが、私にナカウエという姓は妙に重い。漢字で名前を書けばナカウエでもナカガミでも一緒だが、自分の事にこだわるが、ナカガミとは私には抽象的な感じを与え安堵させる。私には冠する苗字がないのだ。(Œ7)

 複数の名や複数の素性があり、そのうちのどれが本物ともつかない。中上健次という作家名のもとで、このように複数の過去を振りかえり、それらを束ねようとするこの「私」のこと、中上健次を騙るこの「私」のことを、ここでは便宜上「健次」とだけ呼んでおくことにしよう。

 年譜によれば、健次は母親の木下ちさとの第六子として1946年8月2日に生まれたという。木下ちさとが当時暮らしていたのが和歌山県新宮市にある春日という集落だった。いわゆる部落として知られてきたところでもある。部落とは、かつて賤民の居住区だったということから差別を受けてきた地域のことで、春日の場合は賤業とされる生業を営んでいた者たちが17世紀ごろから集住していたようだ。

 ちさと自身は、部落の出身ではなかった。1917年に紀伊半島の南端にある西向村というところに生まれた。幼くして父をなくし、私生児として育った。そして十代のうちから年季奉公のために新宮に出された。新宮は熊野川に面した河口の町ということもあって古くから林業が盛んだったけれど、とりわけ1923年の関東大震災以降は空前の好景気に湧き、出稼ぎの者が大挙して押し寄せていた。ちさともそのうちのひとりだった。

 ちさとはそこで木下勝太郎という地元の男に出会い、木下家に嫁ぐことになった。春日に古くからある家だった。1934年に長男の郁平(行平)を授かったのを皮切りにして、あわせて二男三女の子に恵まれた。ところが、1944年に夫と次男を病気で立て続けになくし、ひとりで四人の子を養っていかなければならなくなった。そんななか、戦後の闇市で出会ったのが鈴木留造だった。三重県熊野市の有馬町という部落出身の男だった。ちさとと同じ私生児でもあった。ちさとはそれからすぐに子を身ごもった。ところが、男はそのときほかに二人の女との関係も持っており、さらにそのうちの一人は妊娠をしていた。そのことを聞き知ったちさとは激怒して、男との縁を切った。そうして、木下の血を引かない私生児が春日に生まれることになったのだった。それが健次だった。

 健次という名は、ちさとが思いついたわけではなかったようだ。出産前に、男子であれば健次と名付けてほしいという鈴木留造からの願い出が人づてにあったという。ちさとはもともと字が読めなかった。そんなちさとにとってはケンジはなによりもケンジというひびき以外の何物でもなかったはずだ。それとは対照的に、男のほうは「健次」という二文字を知っていたのだろう。そして、そこには次男坊として健やかに育ってほしいという願い、戦後の焼け野原においてはきっと切実だったはずの願いがこめられていた。そして、それをちさとが聞きいれたということだったのかもしれない。

 いずれにしても健次は、何重にも周縁的な存在として生を受けた。まず、紀伊半島という場所、とりわけその南部にあって吉野の裏手に広がる熊野という場がそもそも歴史的に辺境の地とみなされてきた。つづいて、そんな熊野の外れにある新宮という町の内部においても、賤民の居住区とされた春日は長山という町外れの山の裏手の斜面沿いに位置していた。さらに、そんな春日の内部にも「微細な排除のシステム」(Œ8)が働き、階層的な内輪空間を形作っていた。高澤(1998)によれば、 春日の共同体の本流には中本という古参の家があり、ちさとの夫となる勝太郎も中本家の生まれではあったが、木下という傍流の家の養子に出され、春日の東外れにあたる長山の麓で暮らすことになった。そして、そんな木下家の内部においては、田舎から嫁いできたちさとがもっとも周縁的な存在であり、そんなちさとがどこの馬の骨ともしれない男との間に儲けた私生児こそが健次だった。

 このように寄るべない境遇のためでもあったのか、ちさとはその後、中上なかうえ七郎という男と世帯を持ちなおしたとき、健次だけを連れて春日を出て、隣の野田地区にあるナカウエ家に移った。つまり、健次だけがナカウケ家の養子になることを許され、木下の子たちは春日に置いていかれた。裏を返せば、もともと異物のような存在だった健次は、春日という世界からさらにいっそう疎外され、隔てられたということでもある。健次は、このときから急激に太りはじめたらしい。また、春日への懐かしさにも似た何かが芽生えたのもこのときだった。「祖母の芋」と題された1978年のエッセイでは、次のように語られている。

春日町の、汽車が通る度に汽笛が家の中にいっぱいに飛び込んでくる線路そばに生れ、そこできょうだいらと小学二年生まで住んだので、春日という土地がなつかしくてたまらぬ。 愛おしくてならぬ。小説家としてデビューしていらい、小説のことごとくをこの春日と覚しき路地を舞台に取って書いてきたが、いまこの新宮に来て、愛おしさの熱病のようなものにかかっているのに気づく。小学二年の時、現在の私の姓氏である中上の男と内縁状態になった母に連れられ、春日を出たのが、その春日という土地への熱病の第一の原因だ[…]。(Œ4)

 春日を出てナカウエ家の一員になるということは、後ろめたさにも似たなにかを呼び起こしもしたようだ。というのも、この出来事は当時20歳だった兄の郁平の人生を大きく左右した。木下の家を捨てて新しい男との暮らしをはじめた母親を兄は逆恨みした。あるときには酔い任せて斧を手にとり、ナカウエ家に乗りこんできたこともあったという。「あの時、兄が、あと一息、憎悪を持続していれば、ふりあげた斧で、母とその子供のぼくは、殺されていたはずだった」(Œ4)と中上なかがみ健次を騙る「ぼく」はふりかえる。

 しかし「ぼく」は死ななかった。まるでその代わりのように「兄」のほうが死んだ。1959年3月3日のひな祭りの日の朝、首を吊っているところが発見された。兄はそのとき、24歳だった。健次は12歳で、小学六年生だった。小学校では、ナカウエ家に移ってからも、兄と同じ木下姓を名乗っていたようだ。そして、そのことに対して羞恥にも似た気持ちを抱くようになっていた。

イマカラ考エテモ不思議ナ記憶ダッタ。ダガソノ時ノ気持ヲ私ハ覚エテイル。ソノ頃ハ私モ私ノ母モ義父ノ戸籍ニ入ッテイズ私生児トシテ届ケラレテアッタ私ハ、木下トイウ兄ラノ姓氏ヲ名乗ッテイタガ、三月三日ニ自殺シタ木下郁平ト木下健次ガ兄弟デアルコトヲ知ラレルカモシレナイ、知ラレタト思ッタノダッタ。トイウノモ私ニハ兄ガ自殺スル過程ガワカッテイタ。自殺ハ兄ノ自暴自棄ノ果ニ起コッタノダ。兄ノ葬儀デ三日学校ヲ休ミ、出テ行クト先生ガ私ヲ呼ンデ、自殺シタト新聞ニ出テイタノハ君ノ親戚カ? ト訊イタ。私ハ違ウト首ヲ振ッタノダッタ。知ラン、トサエ言ッタ。(Œ7)

 ちょうど折よく、といっていいものか、健次はその後すぐに小学校を卒業し、中学校ではナカウエの姓を名乗るようになり、春日という土地の記憶と結びついた木下姓から逃れた。さらに高校入学の年になると、母親と養父が正式に籍を入れたことで、行政的にも中上健次が自身の本名になった。とはいえ、いずれの姓に対しても「違う」と言いたくなるような思いを持ちつづけていたことには変わりないのだろう。生物学上の父親の姓は、鈴木である。かといって、鈴木を名乗るわけにもいかない。だからこそ、東京という匿名的な場所で偶然にも与えられたナカガミという名が「抽象的な感じを与え安堵させる」ことになったのかもしれない。

 漢字の読み書きに慣れ親しんだ者からすれば、ナカガミもナカウエも同じ「中上」の一種に見える。発音の仕方が異なっているだけで「中上」であることには変わりはない。しかし、木下ちさとのように文字の世界から隔てられた者にとっては、両者は根本的に違っていただろう。そんなちさとを母親に持つ健次にとっても、単なる発音上の違いを超えたものだったのかもしれない。

 日本の戸籍には普通、氏名の読み方が記載されていない。したがって、行政的には、中上はナカガミでもナカウエでもありえるので、どちらを本名と考えるかは、本人の意向次第ということになる。ただ、健次がすくなくとも新宮市のナカウエ家の者ではなくなった時期は、はっきりしている。上京してから五年後の1970年に、健次は自分自身の独立した戸籍を持った。その年の7月に「文藝首都」の同人だった山口かすみといわゆる授かり婚をして、それを機に本籍を東京都に移したのだった。そのころには生まれてはじめて定職についてもいる。親や姉たちの仕送りに頼ることをやめて、経済的にもナカガミ家の戸主として独立しようという気持ちがあったのかもしれない。

 健次はそのとき23歳だった。ひな祭りの日に死んだ兄は24歳だった。そして、健次には自分の年齢だけではなく、他人の年齢、特に死亡時の年齢に異様な執着を見せるところがあった。1970年の3月ごろに身ごもったはずの子である中上なかがみ紀(2004)は次のように回想している。

中上健次は、自分は確実に二十四歳で死ぬのだと思い込んでいたふしがある。数々のエッセイの中でも語られているし、娘である私にもそう言っていた。何度も何度も包丁を持って脅しに来、挙句の果てには柿の木に首を吊った兄のことが、トラウマだった。兄はその時、二十四歳だった。しかし、実際には健次がその年齢になると、女の腹に子どもが宿った。これで、生きられる。(中上紀 2004)

 結局、24歳を迎えてからも、死ななかった。ちょうどその年の11月には三島由紀夫が奇妙な「檄文」を遺して自殺するということがあったものの、健次は生きのびた。それゆえに作家としての「中上健次」がいまもこうして生きのびている。柄谷行人(1996)が1992年の中上健次の死に際して述べたとおり「作品は今後も読まれつづける」。作曲家が死んでも、その楽曲は残り、繰りかえし演奏されるように。しかし、それはもちろん文字の世界のなかでの話である。

 いまここでさしあたり問題になっている健次は、文字の外の世界にも同時に身をおいている。そして、音というものの多様性のなかで、絶えずアイデンティティの危機にさらされている。文字の世界においては「中上」はあくまでも「中上」であり、つねに「中上」として安定した同一性を保っているけれど、ナカガミやナカウエという音にはそれを揺さぶるような力がある。ある楽曲の音符をなぞってゆく楽器や声の音色が、演奏のたびごとに違うように、中上健次を騙る「私」や「僕」の声も揺らいでは謎めきはじめるということがある。

 これから明らかになってゆくように、中上の物語論は、音というものをめぐる議論でもあった。中上の物語論は、音とともにあった。たとえば、1987年に「超物語論」というきわめて重要な講演を行った折にも、それに先立って演歌歌手の都はるみと酒を交えながらの公開対談をしており、そこで何曲かの歌をデュエットで披露をしてもいる。その記録は文字情報としては残っていない。残っているのは、活字の列に形を変えた発言の記録だけである。しかし、だからといって、残らなかった歌のほうが中上の物語論にとって副次的なわけではない。歌が残らなかったのは、いわば飛翔して大気を震わせ、中空にかき消えることができたからではないだろうか。中上はまさにそのような「モノ」と呼ぶほかないものへの特別にすぐれた感性を持っていて、それこそが中上の物語論の尽きることないみずみずしさの源泉になっているのかもしれない。

2.2.2. 音の人、中上健次

 中上健次の幼いころの夢はオペラ歌手になることだった。健次には音楽の才能があった。中学と高校では合唱部に所属し、テナーとしてラテン語のミサ曲などを歌っていた。中学校の教師が東京での専門的な音楽教育をすすめるためにナカウエ家をたずねてきたほどの素質があったようだ。しかし結局、親の理解を得ることはできなかった。健次が家のラジオでクラシック音楽を聴いてばかりいることに対して「わけのわからんものを聴くな」とたしなめられることもあったという。健次はやがてオペラ歌手になる夢をあきらめ、そのかわりに文学にのめりこんでゆくようになる。しかし、音楽が健次にとってなくてはならないものであることには変わりはなかった。

 健次がジャズに出会ったのは、1965年2月に東京に出てきたときのことである。上京の初日に新宿三丁目にある「DIG」(現在はDUG)というジャズ喫茶に連れていかれて、衝撃を受けた。翌日には歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッジ」というジャズ喫茶にたまたま足を踏み入れ、そこでジョン・コルトレーンやアルバート・アイラーらによるフリージャズのことを知った。故郷のしがらみから逃れてきたばかりの健次の耳には、上京によって手に入れた自由というものをそのまま音の粒立ちとして結晶化したもののように聞こえたにちがいない。1976年のエッセイ「作家と肉体」のなかには次の記述がある。

東京という都市に出てくることが、風土や、切っても切れない血の関係から自由になる、ということを意味するなら、ジャズは実際、ぼくの、体の真中、心臓の真中をさし貫き、流れ込み、響いた。その日から、二十二の終りまで、丸五年間、ジャズを聴いていた。(Œ4)

 上京後、授かり婚を機にナカガミ家の戸主として自立するまでの五年間は、同人「文藝首都」での作家修業の時代でもあり、ジャズとドラッグに強く彩られた時代でもあった。そして、中上はフリージャズの奏者たちから小説家として多くのことを学びとった。中上にとっては、小説もジャズも強い愛着の対象としてあったが、自身の思い描く短編小説の理想とフリージャズとは、いわばたがいにとってのメタファーのようなものだった。もっと短絡的な言い方をすれば、短編小説=フリージャズだった。そして、ひとたびこのような類比関係が中上の思考をとらえると、さらに別の連想が呼びこまれて、奇妙な連想の体系を形作りはじめる。そして、まさにそれこそが後の物語論の原型となってゆく。

 ここではまず「短編小説=フリージャズ」という連想が「説経節=ブルース」というさらに別の類比的な愛着の対象との対比をなすことで、中上が作家としてのみずからの方法論を探ってゆく上での一助となっていることを確認しておこう。

 説経節というのは中世から庶民の間で受けつがれてきた語り物芸能の一つで、苅萱、俊徳丸、小栗判官、三荘太夫、梵天国をはじめとする様々な演目がある。中上には幼少期からの馴染みがあった。というのも「字も読めないし、子供に絵本を買いあたえる金の余裕などない母」(Œ4)が繰りかえし語り聞かせてくれたのだという。「本が読め、字が書ける息子のぼくには、『かるかや』も『しんとく丸』も、活字でしかない。過去の、民衆の文学ととらえ読むしかない」。しかし、母にとっては「ささらの音が入り、手の動き、顔の動きが入り、生きた人間の声によって語られるものとしてあった」という。つまり、文字の世界の外にある音の世界の豊かさに満ちていた。そして、それとブルースが似ているのだという。1976年のエッセイ「土のコード」に次の一節がある。

ブルースは、説経節に似ている。序があり、破があり、急がある。物語﹅﹅としての﹅﹅﹅﹅進行の型がある。ジャズの言葉で言えば、コードがある。[傍点引用者](Œ4)

 中上の思考のあり方を凝縮したような一節である。第一に、ここには語の短絡的な「換用」(Œ12)しかない。ブルース=説経節=序破急=進行の型=コードである。そして、第二に「物語」という語が、たとえば音楽や文学のように本来は異なっているはずの複数の次元の仲介をして同一の遡上にあげることを可能にしている。ブルースはもちろん、言葉によっているという点で文学の一種と考えられる。しかしさらに、たとえば歌の伴わないジャズの演奏までも、中上は同じ地平で論じようとしている。そこで文学や音楽といったボーダーを無化するものとして呼び出されているのが「物語」である。

 ここではさらに、中上がジャズ用語として引きあいにだした「コード」という言い方にも同様の働きがあることに注意したい。中上がどこまで自覚的だったのかはともかく、ニューアカデミズムの文脈で用いられていた語でもある。当時すでに1965年と1971年の二度にわたって翻訳されていたロラン・バルトの『エクリチュールの零度』(1953)のなかにも登場する。もともと掟や法律、記号体系を意味する「code」をカタカナで表記したものである。しかし日本語の「コード」にはほかにもいくつかの意味がある。電気コードなどを指す「cord」にも、和音を意味する「chord」にもなりえる。

 ここでの中上は、ある種の法としての「コード」と、たとえばC→F→Gのように展開する楽曲の流れとしての「コード進行」とを重ねあわせているのだろう。特に蓮實重彦の物語論に触発された1979年には、法としてのコードのことをしきりに問題にするようになる。たとえば、1979年のエッセイ「破壊せよ、とアイラーは行った。」では、サックスプレーヤーのジョン・コルトレーンにことよせて、次のような主張をしている。

コルトレーンが幾多の作品で問題にしたのは、つまるところジャズの中にしっかり根を張ったコードに関してである。コルトレーンのジャズは、コードという音楽規制をいかにして無化するかというところで成り立っている。[…]ブルースを演奏したデビスには、ジャズが暗黙のうちに孕んでしまう法や制度への苛立ちはなく、むしろ法や制度に身をすり寄せているのである。だがコルトレーンは違う。ジャズが他のジャンルの音楽とは異り、アメリカへ渡ってきた黒人の作り上げた音楽であるのはジャズの抱えた法・制度(コード etc.)によるが、その法や制度がまたモダンジャズという自由さのあふれるジャンルの内側にある発展や変転を抑圧する装置ともなっているのに気づき、苛立っている。[…]私の眼にコルトレーンの作品の軌跡は、ブルースという基本的には動かない土のコードから発生した発展、変成するモダンジャズの軌跡でもある気がする。いや人間の法・制度との闘いである。/コード、あるいは法・制度を“自然”と名づけてみれば、ジョン・コルトレーンのコード無化の闘いが理解してもらえるかも分からない。(Œ14)

 中上はこのようにフリージャズというものをコード=法との戦いとして理解しつつ、自身も短編小説において同様の試みをしようとする。中上にとっての「短篇とは、西欧の、コントでもレシでも、ノベルでもない。型のない型、コードのないコードと言える」(Œ4)。そこでさらに、ジャズがもともとブルースの伝統に端を発しているのだとしたら、自分自身の文学にもルーツがあるはずだ、というふうに連想が働く。そして、それこそが説経節であるとした上で、金鶴泳という同時代の小説家の影響を受けつつ「土のコード」というものを思いつく。短編=フリージャズの発生源になるような始原の音のひびきである。この土のコードについての思考を展開するにあたり、1976年のエッセイ「土のコード」のなかで、中上は唐突にブルースの話題から自身の母親のことに話を転じる。

そもそも、母の名を、千里という。母の父、祖父が、母の誕生すぐに海で死んだから、母と父親を異にする母の兄、伯父が、そう名づけた。千里という名は、説経節「苅萱」から、取ったという。だから説経「苅萱」いわゆる「石童丸」は、なにやら親しい。その名前が石童丸というものでなく、健次という名前に変ったにすぎない気がする。説経、語りものは、自分の身にもともとある芸と言えばよいか。[…]それを、土のコードと呼ぼうか? どの現代作家にもなければならぬ一等低い音である。(Œ4)

 ここでの議論の補助線として「苅萱」のあらすじを紹介しておこう。昔、妻子を捨てて出家した男がいた。男は高野山で苅萱道心と名乗った。子の石童丸は私生児として育てられたが、やがて大きくなると、母とともに父親探しの旅に出る。高野山の麓まで来たところで、母と別れて山に登った。そして、自分の父とは知らず苅萱道心に出会ったものの、父親はすでに死んだと聞かされる。失意のうちに下山すると、母は旅の疲れで死んでいた。石童丸はそこで出家を決意して再び山に登り、苅萱道心の弟子になる、というような話である。

 この石道丸の母の名を、千里という。そして、この「石童丸」という物語を健次に語り聞かせる母の名も、ちさとである。だからこそ、石童丸と同じ私生児の健次は、この自分こそが「石童丸」の筋書きをたどる主人公であってもふしぎではない、というような感慨に包まれる。

 アーサー・フランクであれば、このような物語の働きのことを「キャスティング」と呼んだことだろう。聞き手として耳を傾けていたはずなのに、気づけば物語に呼びかけられて、登場人物と同じ役回りを引き受けてしまう。ちょうど「inform」という動詞には「知らせる」という意味のほかに「かたどる」という意味があったように「物を語る」ことは「者を騙る」ことでもあった。このようにしてトリックスターとしての物語は複数の次元を仲介したり、その区別を錯乱させたりする。ちさとが千里を騙るなかで、では、石童丸/健次とは誰のことなのか、という問いは湧くが、どの名も匿名性を帯びたまま宙吊りにされる。

 私生児であるということは、健次が生まれたときから決まっていた。しかし、物語の魔力に触れた途端、その素性がふしぎと謎めいてくる。自分が別の何者かであってもふしぎではないような気がしてくる。「中上健次」の来歴はそんな無数の謎、無数の物語の束として形作られていたはずだ。フランクであれば、それをナラティブ・ハビトゥスと呼んだことだろう。それを中上風に表現したものが「土のコード」ということだったのかもしれない。

物語あるいはジャズの、進行の型がコードではあるが、土のコードでは、形式のみならず、内容までを含めたい。スウィングまでを含めたい。出家したまだみぬ父をたずね高野山にむかう石童丸[…]の、自分が一体だれであるのか、身元確認、アイデンティティというやつへの熱意と、用意された大団円までをである。[…]説経節は、ことごとく、関係というものを追っている。[…]その人間関係の幅までを、土のコードと、ぼくは呼びたいのである。(Œ4)

 はじめの「物語あるいはジャズ」という短絡的な言い方にも如実に示されているように、中上にとっては、音楽について語ることも物語について語ることも、根本的には同じことだった。音楽としての物語と物語としての音楽との間にさしたる差はない。とはいえ、文字の世界と音の世界との間には、いたましいほどの亀裂があるのも事実である。音楽も物語も音の側にあり、母親のちさとが語る説経節もブルースもジャズも音の側にあるが「中上健次」はあくまでも文字の世界にいる。ちさとによって私生児としての来歴を吹きこまれてできたはずの「中上健次」の物語に、ちさとは触れることができない。目を閉じたまま写真の表面をなぜても色や形が浮かびあがってくることはないように、文字を知らないちさとの前では、活字の列になった物語が音として立ちあがり空気を震わせることはない。ある意味「中上健次」は、自身の物語論において、そのことばかりを考えつづけてきたと言っていい。音の世界は、小学二年生のときに捨ててきた故郷の春日と重なりながら、愛の対象でありつづけた。

 しかし、同時に、音は畏怖の対象でもあった。音は「決定的な受動的な器官」(Œ8)である健次の耳を満たすことで、「中上健次」として文字の世界に安住していたはずの素性を揺さぶるような力を発揮する。1975年のエッセイ「文学における私とは誰れか」には、次のように書かれている。

あまりに切羽つまりすぎる。いったいこの問いの声はどこからきこえるのだろう。それが右の耳から聴える時は、手で右の耳をふたぎ、左の耳から聴える時は左の耳をふたぎ、空いている方の手で小説を書いてきた。なぜなら、まず書く、なんでもいいから、一行でも書くというのは、作家の、習性でもあるのだから。それがまた〝私〟を表わす方法でもあったのだから。だが、いったい、この書く手をもったおれとはなんだろう。おれは書く、と彼は書く、と彼は書く、と彼は書く……永遠に句点はつけられまい。(Œ4)

 中上はここで、中上健次である「私」とは誰なのか、ということを自問しているわけではない。むしろ「私」は中上健次なのか、ということが中上にとっては問題だった。中上は耳から侵入してくる音の暴力によって、声が無数であることによって、「私」というものが匿名性を帯びて謎めいてゆくのを感じる。小説家である中上、さまざまな声を騙ったり、さまざまな声を文字に書き起こすことを生業とする中上には、答えがない。しかし、そのかわり、この問いを自身の物語論のなかで具体的に掘りさげることには成功している。そしてまさに、答えを見出すのではなく、問いを掘りさげることができた、という点にこそ、これから読みすすめてゆく中上の物語論の尽きることない魅力がある。

2.2. 前期物語論(1977-82)

 

 中上健次の物語論はそもそも何のためのものなのか。どのような意味において中上はそれを物語との「闘争」と呼んだのだろうか。前節では作家としての下積み時代とも重なる1976年までの来歴を見た。そこから確認できたのは、中上の物語論はなによりもまず創作のための方法論であったということだ。東京でフリージャズに出会った中上は、そこに従来の音楽的な規範となっていた「コード(進行)」との闘争を見てとり、同様の試みを短編小説を通して実現しようとした。中上はそこで、楽曲や小説といったものの展開の型のことを、とても抽象的な意味での「物語」と呼び、それを壊そうとしたのだった。

 このように中上の議論がもっぱら創作上の問題に終始していたのであれば、それをわざわざ「社会物語学的」と形容する必要はない。しかし、中上の物語論には1977年以降に特別なかけ金が置かれるようになる。それをひとことで言えば、差別というものを物語、あるいは文化の働きとして読みなおす、というものだ。

 中上は一時期、新宮で部落差別の問題に関与するための組織を立ちあげ、ある種の文化運動とでも呼べるものを起こそうとする。前期物語論はちょうどその時期とも重なる。重なりはするが、中上は「部落」という言葉の使用を意図的に避けた。「部落」と言わずして、部落問題を中上なりに語りなおそうとした。そこで重要な役割を果たしたのが「物語」という語である。まずはこの点を掘り下げるために、前期物語論の時代背景を素描することにしたい。

2.2.1. 物語論の時代背景

路地の匿名性と固有性

 文学史的には、中上健次は生まれ故郷の被差別部落とおぼしき「路地」に生を受けた者たちの世界を描いたということになっている。「紀州熊野サーガ」とも作品群を残しており、なかでも「竹原秋幸三部作」が代表作に挙げられることが多い。まず、1976年の芥川賞受賞によって中上の名を世に知らしめた『岬』。それから、同じ年に連載のはじまった続編の『枯木灘』。そして1983年に書きおろされた長編小説『地の果て 至上の時』である。その主人公が「路地」に私生児として生まれた竹原秋幸で、男親である浜松龍造との父子関係をめぐって物語は展開することになる。ギリシア悲劇の「オイディプス王」にみられるような父殺しや近親相姦のモチーフを「路地」の複雑な親族関係のなかで変奏したような作品である。

 ここでは、この「路地」という語について、すこしだけ補足しておきたい。「路地」は、第一作目の『岬』の時点では、ただの路地に過ぎなかった。あわせて17回ほど使われているのが全文検索によって確認できるけれど、その用法を調べてみると、あくまで一般名詞として任意の路地を指しているにすぎないことがわかる。どこにでもありふれた匿名の路地である。特定の土地を指す固有名としての「路地」などではない。それと対応するようにして、主人公はといえば、一貫して正体不明の「彼」として語られている。「秋幸」という名が会話文のなかに散見されるものの、つねに素性の謎めいたような不確かな感じをただよわせている。

 続編の『枯木灘』はその点、対照的だ。まず「路地」という語が惜しげもなく使われている。検索してみると使用数が162回に及ぶことがわかるけれど、そのうちの多くが固有名として「路地」と呼ばれる土地を指している。ちょうどそれと呼応するにようにして主人公が「彼」ではなく「秋幸」として名指されるようになり、物語のなかでの確かな居場所を持つようになっている。『岬』に見られたような匿名性はそこにもはやない。そのかわり、サーガとしての一貫性を可能にするような世界観が打ち出されている。

 なぜこのような変化が起きたのかまではわからない。しかし「路地」という語が中上の言葉づかいにおいて固有名として使われるようになった時期についてはおおよその検討がつく。『岬』と『枯木灘』の間に出版された短編小説に「路地」と題されたものがあり、すくなくともその執筆中には「路地」が特殊な意味を帯びるようになっていたのである。『岬』と同じように、物語は不特定の「彼」と不特定の「路地」のささやかな匿名性から始まる。

彼は、昼にはいつも、家にもどった。家の前に、ダンプカーを置いた。路地の入口でもあった。路地は、山の石垣に沿って出来ていた。[…]この町で、十年、ダンプカーの運転手をやりながら、組を、転々としてきた。一度も路地から出た事はない。(Œ9)

 ここで使われている「路地」のうち、はじめの二つは一見したところ一般名詞ととれる。仮に英訳するとしたら、一つ目は任意の「an alley」になり、二つ目はそれを受けた「the alley」となる。しかし、三つ目になると、よくわからなくなる。ある地域全体を指しているようにも見受けられる。英語では「Alleys」のように大文字で表記されてもおかしくない。日本語はそのような表記上の区別を持たない。そのため「路地」という語は匿名性と固有性との間をつねにあいまいに漂うことになる。しかし、その後の地の文に登場する「この路地の、天地の辻」や「この路地の、この土地の、根っからのもの」といった言い回しにおいては、固有名として使われていることは明らかである。こうして、冒頭では無名の彼の戻ってきた無名の路地にすぎなかったところが、徐々に物語の現場として立ちあがってくる。

 このことを意味論的な視点から見ると、一般名詞に過ぎなかったものが従来の意味を越えた意味作用を担うことになった、と言うことができる。実際、任意の指示対象しか持たなかったものが特定の指示対象に紐づいてしまうことは往々にしてある。その典型として挙げられるのが「部落」と「差別」である。歴史的には「部落」は比較的小規模な民家が集まっている地域としての「集落」の意味でしか使われていなかったし、仏教用語として伝来した「差別」も一般的には単なる「区別」を意味するだけだった。それが第一次大戦以後から、ある特定の集落や、ある特定の区別として問題視されるようになって現代の用法として固着し、それがいわゆる「部落問題」という枠組みを作った、という経緯がある。沖縄のような地域をのぞけば、両者が従来の意味において使われることは稀である。

 中上のいう「路地」にも同じような用法の変化が認められる。しかし特筆すべきなのは、それが非常に短い期間のうちに作家個人の言葉づかいのうちで起きたということだ。さらに「部落」や「差別」が従来の一般性を失って意味を固着させたのとは違い、「路地」は任意の路地を指すことも特定の路地を指すこともできるということ、同時にそのどちらでもありえるような柔軟性を備えているということも見逃せない。ちょうど「中上」が同時にナカウエでもナカガミでもありえるように。あらためてロラン・バルトの言葉をかりれば、何かがそれと同定されないままそこに潜在的にあるという点、匿名的であるという点で、典型的な「マナ語」であると言える。

 そもそも「路地」という語には本筋からそれた小道という意味がある。その点、外部の視点を含みこんでいる。路地とは外部からまなざされた道である。つまり、辞書を前にして路地というものを思い描くとしたら、大きさの異なる二つの道の想定が必要となり、大きな道のほうから折れ曲がる小さな道をながめるという形になる。ところが、ひとたびその内部に入りこむと、ひるがえってそこが本筋になり、もはや路地ではなくなる。あるいは「この路地」というほかない現場になる。マナ語としての「路地」にはこのように視点を反転させてボーダーを錯乱させるような働きがあると言えるだろう。

 さらに、中上はこの「路地」という語によって、自身の小説世界の中でつくりあげた虚構の土地だけではなく、現実に存在する任意の部落、ないし春日という特定の部落のことも指すようになる。その結果、マナ語としての「路地」は、内部と外部のボーダーに加え、現実と虚構のボーダーをもあいまいにしてゆく。バフチンを引くアーサー・フランクの議論を思い起こせば、部落という意味の固着した言葉、ある種の決めつけの言葉とは違い、中上の路地にはつねに「決定不可能性」を伴っているという点で、トリックスターであるとも言えるだろう。

 部落問題への関与に先立ち、中上がこのような言葉づかいを発見していたということ、「路地」という物語の現場を発見していたいということは、中上の議論を追う上できわめて重要である。というのも、まさに中上は「路地」という語を通して部落問題をめぐる自分なりの語り口を見つけようとするからだ。ところが、そんな中上の手鼻を挫くような事態が起こる。すくなくとも現実の世界においては、「路地」は発見されたそばから物理的に消滅の道をたどることになり、1983年には完全に姿を消してしまうのだった。そのいきさつをこれから見ていこう。

新宮市における同和行政

 中上健次が故郷の春日とおぼしき「路地」を舞台にした長編小説『枯木灘』を書きおえたのは1977年1月のことである。年譜には、その年に「新宮市の同和対策事業として、生家のあった春日地区の改良事業の基礎調査始まる」(Œ21)とある。同和対策事業とは「同和地区」として国に認知された被差別部落の環境改善を掲げる土建事業のことで、公営住宅や道路の建設をはじめとするインフラへの設備投資への助成金がおりた。当時の新宮市はこの制度を利用しつつ、春日の住民を立ちのかせて山を切り崩し、そこに新しい公営住宅や大型スーパー、大通りを建設するという計画をすすめていた。

 地元の紀南新聞が1977年7月7日に「長期総合の三年計画を策定」という見出しで報じているので、そのころには春日の住民との立ちのき交渉を含めた事前調査が始まっていたのだろう。また、中上も土建請負業を営んでいた身内から聞き知らされていたはずである。つまり1977年は、中上が『枯木灘』という代表作を通して「路地」という小説世界を打ち立てた年であるとともに、そのモデルとなった現実の「路地」の取り壊しにむけて行政が動きはじめた年でもあった。この動きに関しては、水内俊雄(2001)や守安敏司(2003)、若松司(2004)、 渡邊英理(2022)がすでにすぐれた仕事を残している。ここではそれらの先行研究によりつつ、新宮市における同和行政について概観しておこう。

 新宮市にはかつて臥龍山と呼ばれる山塊があった。山塊といってもせいぜい50メートルほどの標高だったと考えられるので、イメージとしては丘や小山に近い。尾根筋の長さはそれなりにあったらしく、城下町の東側を守る自然の城壁として南北にのびていたようだ。そんな姿が横たわる龍を思わせることから臥龍山という名がついたのだろう。この山塊のうちのひとつに長山と呼ばれる山があり、その東側の斜面、城下町からすれば山の裏手にあたるところに春日の部落はあった。

 二十世紀の初頭に林業が爆発的に盛んになると、熊野山地から切り出してきた材木を効率的に運送する必要が出てきた。そこで切り通しの道が長山のすぐ南につき、流入者の住み着いていた東の麓から目と鼻の先のところに新宮駅が建設された。そうして山の東側が賑わいはじめると、長山を挟んで旧市街と新市街に二分される形になり、臥龍山そのものが町の発展の障碍とみなされるようになった。たとえば、1911年にはすでに「長山一帯の丘陵は両者の間に障壁を築きて、新宮町の発達上直接間接に妨害をなしおりしが、尚将来永久に不便を与ふるものは此の丘陵たるや明かなり」といった指摘も地元紙に掲載されていた。中上の言葉を借りれば、まさにこのような認識のなかで「新宮の近代化は旧新宮と他との境界にあった小高い山を切り崩す過程」(Œ17)として進行してゆくことになったのだった。

 臥龍山は市の発展を物理的に妨害するだけではなかった。いわゆる封建遺制として市民社会を分断する部落差別の現場であるという点でも近代化への障碍と見なされていたのだろう。山の切り崩しを環境改善や同和対策といった名目で行うことができたのは、そのためでもあるのかもしれない。市は1950年からすでに公営住宅法や和歌山県からの助成金を利用する形で山の住民たちを立ちのかせていたようだれど、1960年代に同和対策事業特別措置法の制定のためのモデル地区に指定されたのにあわせ、本格的な地ならしに着手した。1963年には、推計で1700万円ほどの立ちのき料を払った上で臥龍山の一部をならすと、そこに新庁舎を建て、中央通りという新都心の背骨となる道をつけた。長山の目と鼻の先にある場所で、切り通しの道を挟んだ南むかいの山だった。このとき臥龍山の名残として、長山に加えて日和山という山が市庁舎の北側に残った。

 それらの山の切り崩しの計画が動きはじめたのが1977年である。1979年9月9日付の紀南新聞には次の記述がある。

新宮市が53年[1978年]から三年計画で行っている市街地中心部の日和山造成工事が50%あまり進捗した。この工事は、同和改善事業の一環として行っているもので、春日小集落の移転事業。日和山を切り開いて土地を造成し31戸の市営住宅を建て、春日地区の移転を図ろうとするもの。工事は、山の総面積2万5000平方mを削り取るもので、土砂にして8万立法m。現在すでに5万立方mを取りのぞいている。高さ30mの山を平地化するもので総工費十二億円。[…]完成すれば新宮駅へ出るのにも大変便利になる。

 この記事からは、同和対策事業の一環でありながら利便性の視点からも捉えられていることが読みとれる。実際、かなり複雑な利権問題の絡んだ事業だったようだ。

 まず第一に、国からの助成金が地元産業を潤すという状況ができていた。若松(2004) のまとめた新宮市の地方改善事業の年間予算を見てみると、1950年には約38万円にすぎなかったものが、国の助成を受けはじめた翌年の1966年には約800万円になり、1974年には約1億3000万円にまで膨れあがっている。このことから急速な資本投下がなされてきたことがわかるけれど、さらにこの三年計画においては総工費が12億円にも及んだ。地元の様々な人間がこの事業から大きな利益を得ることになったのは間違いなく、ナカウエ家の経営する土建請負会社も例外ではなかった。紀南新聞の1979年12月9日の記事には「新宮市は六日、建設工事など五件の競争入札を行い、つぎの来札者が決まった。▽春日小集落地区改良、住宅新築工事=7252万円、中上組(中上和也代表)」という記載がある。

 次に、行政や土建屋のほかにも、オークワという地元の大手スーパーマーケットや、大石誠之助の甥であり新宮市議会の議長も務めた玉置さめるという地主の思惑も強く働いていたようである。このことについては中上の1980年のエッセイ「石橋」のなかで内情が詳らかにされている。

話はこうだった。地主の玉置が持っていた山と路地の土地は、市内に五つ店舗をもつ独占のスーパーマーケットが山を、市が土地を権利委譲されていたが、スーパーマーケットは他の大手スーパーが新宮に進出するのを恐れ、それであたり一帯が繁華街になった路地の山を更地にし、道路を整備しあらたに店舗をつくる事が必要になった。市は、内心は一企業であるスーパーマーケットと行政の癒着だと指摘されるのをおそれたが、二十数年前、払い下げにしてやると路地の持ち家を壊させ建てた住宅が老朽化したということを理由に、建物を取り去り、そこにも駅からスーパーマーケットに抜ける道をつくり、路地の人間らには隅に新たに住宅をつくるという計画を案出したのだった。土地は玉置に巻き上げられ、さらにここに来て借地権まで巻き上げられるのだった。誰もその理不尽を言う者はなかったし言ったところで、路地には三軒、他の地区では三十軒ほどの土建請負師がいて、理不尽を言う声をあげようものなら自分だけの事を言って皆の幸福をねじまげるのかとどなられる始末だった。そうやって交渉に動いて来て、山の端に建った六軒ほどの家に来て、そこが路地の者の誰一人として必要としないスーパーマーケットに通じる道だった事で、難航しはじめた。スーパーマーケットと市の交渉の先に立ったのが私の二番目の姉婿だった。姉婿は路地の自治会長もやっていたし人夫を二十人ほど使う請負業をやっていたので山の端に立った家にも通じると思ったのか、他所目にはスーパーマーケットだけが得するような無理難題を持ちかけて断わられ、そのうち意外な事がわかった。スーパーマーケットが出資してつくったその山と道路をつける会社[親和開発]の理事の一人に私の姉婿が入っていて、山を崩し道路をつくる工事は、私の義父と義父の姪の夫が、姉婿と三人で十億とも十四億とも人の言う工事を山分けする事になっていると、路地の者に知れわたってしまっていた。(Œ7)

 このように複雑な利害の絡みあいのなかで「路地」の原風景でもある長山が切り崩されていった。春日の住民のなかに反対の声を上げる者はいなかったようだ。というのも、声を挙げたところで「路地には三軒、他の地区では三十軒ほどの土建請負師がいて、理不尽を言う声をあげようものなら自分だけの事を言って皆の幸福をねじまげるのかとどなられる」(Œ7)ことになるためだ。途中、金の匂いをかぎつけたヤクザにそそのかされて山に立てこもる者が出るなどの紆余曲折によって二年ほど遅れるものの、1983年に事業は完了した。

 そうして、中上の「路地」は、サーガの舞台として見出された1977年から1983年にかけて、なかばなし崩し的な形でゆっくりと取り壊されていったのだった。部落という遺物を抱えこみながら市を東西に分断していた臥龍山は跡形もなく姿を消した。中上はこの動きに計画の段階から反応して、実に様々なことをした。そのうちのひとつが前期の物語論だった。中上はそこで身をもって「差別」というものを考え、それを問い直そうとした。その出発点となったのが、1977年1月に『枯木灘』が完成して間もないころに行われた鼎談「市民にひそむ差別心理」(Œ20)である。

部落差別の読みかえ

 長山の真向かいに新市庁舎の建った1963年には、埼玉県狭山市で起きた強姦殺人事件の容疑者として被差別部落の男が逮捕されるということがあった。翌年には死刑が言い渡されたものの、その後容疑者が一転して冤罪を主張しはじめると、部落問題の文脈から長年にわたって裁判のなりゆきが取り沙汰されるようになった。1976年には最高裁で無期懲役が確定したが、裁判関係者への襲撃や放火事件が相次ぎ、世の関心をいっそう煽るようにあった。そのような状況を受け、1977年3月に中上健次、野間宏、安岡章太郎による鼎談「市民にひそむ差別心理」(Œ20)が朝日ジャーナル誌上で組まれた。

 中上はそこではじめて、自身が被差別部落の出身であることを野間と安岡に打ち明け、部落問題への言及をした。中上が後にふりかえって言うには、そのとき「ついに始まったなという意識があった」(Œ21)のだという。中上は部落問題への関与をはじめた。しかし、それは部落の出身者としての直接的かつ政治的な関与というわけではなかった。「自分の文学あるいは自分の考えていることを徹底すれば、被差別部落の問題ということも全部入ってくる」以上、「こっちから被差別部落の問題に入るんだよと言わなくたって、全部そんなこと言う必要もない」とも述べているとおり、中上は部落を語らずして部落問題に関与しようとした。

 中上はそこで前期の物語論の出発点となる主張をしている。後にあらためて見てゆくけれど、中上によれば「差別の構造と小説の構造」ないし「文化の構造」は同じであるという。「たとえば日本の社会の文化の構造では、天皇があって部落がある。しかも、それはほとんど紙一重で接しているという構造」がある。したがって、文化そのものが消滅しないかぎり差別がなくなることは論理的にありえない。

絶望が、何をするにも最初にあると思うんです。[…]だから被差別者イコール小説家、いや、逆に差別者イコール小説家と言いきってもいいと思うんです。人が人を差別する。そんなことがあってはいかんのだけど、これはなくならないという絶望があって、それがまず前提なのだと思う。 (Œ20)

 中上にとっては、小説において﹅﹅﹅﹅部落差別や朝鮮人差別といった差別事象について﹅﹅﹅﹅語ることは、単なる「マイノリティの文学、被害者としての文学にすぎない」。こう言ってよければ、アイデンティティ・ポリティクスにすぎない。中上はアイデンティティがあからさまであるような物語、たとえば「部落民」のように意味の固着した言葉づかいから距離をとろうとする。

 中上はむしろ、小説を書くということ、物語をするということが、すなわち差別である、と考えようとする。部落出身の作家かどうか、部落を題材にしているかどうかを問わず、日本語で物語るということがそのまま、部落差別の実践である。つまり、中上は「差別を言い立てる」(Œ20)ということをした作家なのではなく、物語=差別の実践者として物語=差別を生きた作家である。

 このような概念の短絡は、中上の思考を特徴づけるものであるということはすでに見てきた。「差別というのは物語なんだ。これだけはいえること」(Œ16)であると中上が短絡的に話を飛躍させるとき、この短絡によって新たな連想のネットワークが生まれる。差別とは何か、と問うことは、物語とは何か、と問うことに等しい。等しいが、言葉としては、ずれている。ずれが問いに奥行きを与え、中上の思考を動かす原動力になる。

 そのとき、中上の議論のかけ金を評価する上で踏まえておかなければならないのは、「物語」として中上の言葉づかいのなかで短絡された差別、とりわけ部落差別とは、そもそも何だったのか、ということである。中上は1978年に次のように語っている。

部落差別ってのは、僕の考えで言いますと、三つあると思うんですね。その一つは社会的、経済的にそれをやられてるっていう、構造的な差別っていう状況があると思うんです。もう一つは、妄想としての差別っていうんですかね。そういうものが、今もあると思うんです。[…]例えば一つの言葉とか、あるいは言辞とか仕草とかそういうものは僕、妄想としての差別じゃないかと思うんです。差別の実体も何にも無くて、つまり差別したと思う方も、差別したって思われる方も、つまりぼおっとした妄想みたいなもんで、そういうことを云々しているんじゃないかという気がする。例えば今の解放運動でも、ともすると妄想としての差別ってとこに足を引っぱられて、具体的な構造差別なり、いろんなものを見落としてるみたいな形が、往々にしてあると思うんです。妄想を相手にしていると、ある意味で楽なんですね。妄想がもう一つの妄想を生んでいくっていうことがある。まあ昔から、糾弾っていう形があるんですけど、解放運動のせっぱ詰まった時に、その糾弾っていう言葉が使われたり、また行動が使われたりしたんですけど、人々の本当の気持の中から、これは本当に分かってもらいたいっていう言葉で始まったものが、いつの間にか妄想性を帯び始める。[…]で、これまで話してきたことと別の本当の意味での差別っていうのは、ほとんど思想として、この日本文学とか、日本文化の中に本当に深く入り込んでると思うんですね。ほとんどの日本の文学思想、文化思想ってのは、差別─被差別というこの大きなものをもとにして展開してきてるっていう気がするわけです。(Œ12)

 中上はこうして社会構造としての差別(職業差別や経済差別など)、妄想としての差別(差別用語をめぐる政治的妥当性の問題など)、文化としての差別(中上のいう物語)の三つの区別を導入した上で、はじめの二つの意味での差別については黙して語らず、もっぱら三つ目の意味で「差別」という語を使おうとする。中上はいわば、部落差別というものの読みかえをここで試みようとしていると言えるだろう。部落差別を、文化というものの根源的な働きとして読みなおし、その豊かさを開示しようとする。中上の言葉を借りれば、それは「賤民と呼ばれるものの文化の発揚」(Œ8)の試みだった。もっとつきつめて言えば「日本文化、あるいは歌物語の時代からつづいている日本文学と呼ばれるものをことごとく賤民の文化、文学としてとらえるという試み」(ibid.)という倒錯的な読みでもあった。

 その出発点になったのが、ルポルタージュ『紀州』のための取材旅行である。鼎談から間もない1970年3月から十ヶ月にわたって紀伊半島の各地の被差別部落をたずねまわり、「日本国の裏に、名づけられていない闇の国」ないし「逆さまの国家、倒立した国家」(Œ7)としての紀州を描きだそうとした。旅行のふりかえりに「紀伊半島で私が視たのは、差別、被差別の豊かさだった。言ってみれば『美しい日本』の奥に入り込み、その日本の意味を考え、美しいという意味を考える事でもあった」とも述べているように、中上は日本文化というものの核心にこそ部落差別があると考えたのだった。「部落出身の作家の中で、谷崎みたいなのはやがて出てくる」(Œ20)という安岡章太郎による賛辞のとおり、谷崎潤一郎や三島由紀夫に連なるような日本文学の本流にあるという気負いもあったのだろう。

 取材旅行中、中上は部落解放同盟の新宮支部との接触もしていて、そのうちの楠本秀一と向井隆という若手の活動家を旅行の道連れとしたようだ。それなりに意気投合したのか、道中三人で「延べにすると何時間、差別について、被差別部落について、県や市の対応について、新宮支部にも見えるボス構造について意見を交わし、激怒し、嘆いたか分らない」(Œ12)という。その結果「部落解放同盟も、全国部落解放連絡協議会をも、思想としてくつがえし、凌駕するという思い」で「部落青年文化会」という分派が結成されることになった。

 組織ではふたつのことが企画された。ひとつは「被差別部落に生きた人に話を聞き、書きとめる」ための聞き書き調査「生活と人生」の実施。もうひとつは「文化・文学を読み変える」ための連続講演会「開かれた豊かな文学」の春日隣保館(現新宮市人権教育センター)での開催である。

 まず「生活と人生」に関しては、特筆すべきことがひとつある。1978年に活動をはじめてすぐ、中上は明治時代から春日で暮らす田原リュウという物知りの古老に引きあわされた。それ以来、録音機材を持って彼女のもとに何度も足を運ぶようになったようだ。長山の切り崩しの進行するなか、連載形式として発表された短編小説群『千年の愉楽』はこのときの経験をもとにして書かれている。また、それと平行して中上は十六ミリカメラを片手に春日を歩きまわってもいたようだ(2001年に「路地へ 中上健次の残したフィルム」として公開されている)。1980年に発表されたエッセイ「石橋」のなかでは、撮影に付きしたがった現地の若者と自分自身の立場を比べつつ、次のように語っている。

若衆と私の違いは、映画を廻すのに一方は生れからずっと路地に住んで来た者らしく、壊されて更地になるので現実の路地を撮ろうとするが、私は他所で住んだ者として見い出した路地を撮ろうとする事だった。見い出した路地とは単にこんがらがった配線の頭をもつ私の中にある。それは言ってみれば発見する事によって侵略するようなものだった。つまり私が映画に残しておきたいのは小説家が視る事で侵略し発見する事で収奪したただ一人私所有の路地だった。路地は小説の帝国主義、いや物語というものの走狗となった私の収奪しきれないほどの宝を無造作に放り出してある暗黒大陸[なのだ]。(Œ7)

 中上は生まれからのよそ者だった。「微細な排除のシステム」(Œ8)によって疎外される側にいた。この発言からは、中上がそんな立場にあることを自覚しつつ春日という地区を「路地」としてフィルムやテープ、文字に記録して残すということが「差別=文化」の実践にほかならないと考えていたことが読みとれる。

 中上はある種の侵入者としてこのようなフィールドワークをするかたわら、春日の隣保館で公開講座「開かれた豊かな文学」を開いた。月に一度、ゲスト講師と中上がそれぞれ地元の住民にむけて自由に語るというものだった。計八ヶ月の間に、佐木隆三、石原慎太郎、吉増剛造、瀬戸内晴美、森敦、唐十郎、金時鐘、吉本隆明がゲスト講師として招かれた。もともと十二回の講座を予定していたが、八回で頓挫した。その「最大の原因は、部落青年文化会の内部崩壊である」という。

被差別部落も単一ではない。[…]春日町が、新宮では一等古くからある部落であり、そして、部落解放同盟新宮支部内部でも低く扱われているらしい事は見えていた。[もともとは部落青年文化会議という名だったのを]部落青年文化会と変名したあたりで、文化会が、春日町青年会のメンバーに事実上、基盤を置く状態になったのである。同じ新宮の他地区の被差別部落の青年はメンバーを抜けだしたし、解同新宮支部の中心にいる者たちは、公開講座に呼んだ講師、(具体的には石原慎太郎氏)を名指して、文化会が右傾化しているし、部落や解放運動には縁のない単なる文学の集まりにすぎないと、噂した。[…]部落青年文化会のメンバーと春日町の住民が、新宮支部を脱退し、部落解放同盟春日支部を結成したのは、連続公開講座打ち切りを決めて、ほどなくの十一月である。(Œ12)

 中上たち分派の活動は、部落解放同盟新宮支部の内部に軋轢を引き起こした挙げ句、内輪でも地区間の対立を抱えこんで崩壊したようだ。文化会を去っていた者たちは「文化を読み変える事も文学の新しい地平も無縁であるし、それよりまだしもわかり易く人の吐いた差別的言辞をあげつらい、差別語かくしの運動の方がよいという迷妄があった」と中上は述べているが、そのような「迷妄」への反発こそが分派の結成の端緒となっていたことを考えると、結局のところ、地元の活動家たちや住民からの理解がうまく得られなかったということになるのかもしれない。

 連続講座の第一回目の質疑応答の折には「部落青年文化会の始まった動機と、今日の話とではポイントが狂っているのではないか。差別の本質についてディスカッションしていくというので……」という不満の声が聴講者の口から漏れた。それに対して、中上は次のように答えている。

いわゆる部落問題というのは、文学ではないと思うんですよ。文学においては、○○問題というのはない。つまり、被差別部落のなかに生きている人間が、こんなに豊かに、一生懸命、しっかり生きている、その姿を書く。それが文学だと思う。だから、文学において部落問題というのはない。

 部落解放同盟のような組織であれば、部落差別を政治的な「問題」として理解し、それを解決しようとする。他方、中上は「部落問題」ではなくあくまでも差別=物語=文化を語ろうとする。あるいは、こう言ってよければ、差別とは何か、という問いを立て、それに安易な答えを与えるのではなく、問いを問いとして掘りさげようとする。高澤秀次の言葉を借りれば、中上はその点において「差別を固定化させないための場」(Œ12)を作りだすことを試みていたとも言えるだろう。フランクの言葉にならえば差別=物語に「息をさせる」ような試みだったとも言えるかもしれない。差別に物語としての息吹を吹きこむ。そのようなかけ金とともに中上が論じたことをこれから検討していくことにしよう。

2.2.2. 物語=差別のメカニズムを探る:開かれた豊かな文学(1978)

 前節では中上健次が自身が部落出身であることを打ち明け、差別というものについて語りはじめた時代背景を見た。そこで中上が1976年に匿名性と固有性、現実と虚構のあわいを揺れるような「路地」という言葉づかいを発見していたことや、1977年の『枯木灘』の完成から間もなくして現実の「路地」の取り壊しが始まったこと、中上が差別を日本文化の核心にあるものとして読みかえ、「賤民の文化」としての日本文化の「発揚」を試みたことなどを確認した。ここでは、ルポルタージュ『紀州』(̇Œ7)を補助線としながら差別をめぐる議論を取りあげ、その物語論的な変奏とも言える連続講演会「開かれた豊かな文学」(Œ12)での議論を追っていきたい。

震える穴のアナロジー

 中上の物語論では前期においても後期においても穴のメタファーがきわめて重要な役割を果たすことになる。さまざまな形の穴という穴が連想アナロジー連想アナロジーの編み目を形作り、なかば電化を帯びたように揺らぐことによって、中上の思考はある種の含みとも奥行きとも言えるようなものを獲得する。

 穴というものには、興味深い特徴がある。穴には、極小のものもあれば巨大なものもあるし、拡張性や収縮性を持ったものもある。また、それ自体が一つの場所にもなることもあれば、「孔」としてある場所に穿たれることでそのむこう側へと至る出入り口になることもある。穴をくぐりぬけるということは、外に出ることでも、中に入ることでもある。空間が複数あるということ。ひいては、複数の内や外があるということ。見るということは、見られるということでもあるということ。穴は、そのはじめのしるしであるとでも言えるだろうか。穴があるから、内と外とが反転可能になる。いわゆるメビウスの帯やそれを三次元にしたクラインの壺のように、穴は視野というものが一方の側に固着するのを防いでくれる。

 中上の思考には無数の穴が登場する。それぞれ形は違うものの、ひとつの共通点がある。どの穴もきまって震えている、ということだ。震えているということは、周囲を震わせているということでもある。水面に揺れる光の輪のように輪郭が定まらず、謎めいたままでいる。そのような穴の典型のひとつとして挙げられるのが「竹原秋幸三部作」の主人公、秋幸の体である。『枯木灘』では、秋幸の体を形容するために「がらんどう」という語が七度にわたって使われている。がらんどうの穴として想起された体躯は、ギターのサウンドホール、あるいはコンサートホールのように、周囲のものに過敏に共振する。また、それゆえに音を増幅させるような音響装置としての働きを持つことになる。

働き出して日がやっと自分の体を染めるのを秋幸は感じた。汗が皮膚の代わりに一枚膜をはり、それがかすかな風を感じるのだった。自分の影が土の上に伸び、その土をつるはしで掘る。シャベルですくう。呼吸の音が、ただ腕と腹の筋肉だけのがらんどうの体腔から、日にあぶられた土のにおいのする空気、めくれあがる土に共鳴した。土が呼吸しているのだった。空気が呼吸しているのだった。いや山の風景が呼吸していた。秋幸は、その働いている体の中がただ穴のようにあいた自分が、昔を持ち今をもってしまうのが不思議に思えた。(Œ1)

 この描写からは、中上にとっての穴というものが単なる音響装置にとどまらないことも伺える。視覚(光)、触覚(風)、嗅覚(土)までも巻きこみ、異なる次元を共感覚的に統合することのできる空間でもあるようだ。異なる次元の仲介者であるということは、レヴィ=ストロースの理解する「マナ」というメラネシア語、あるいは「もの」という日本語の特徴でもあった。それが不特定のもの、匿名のものであるということによって、不透明であることによって、あらゆるものを受けいれる器になる。中上の言葉づかいにおいては、謎めきながら震える穴のメタファーがまさにさまざまなマナ語へと形を変えて繰りかえし登場することになる。

 連続講義「開かれた豊かな文学」において中上が好んで使った言葉のひとつが「うつほ」である。うつほとは「中がからであること。中がからになっているところ。中がからなもの。うつろ。うろ。岩や朽木などの空洞。ほら穴。また、岩や木などが組み合わさって、ほら穴のようになっている所」と日本国語大辞典にある。

 第三回目にあたる講義は「うつほからの響き 神話から物語へ」と題されていた。中上はそこで文字通りうつほが響くということ、それゆえにある種の熱量を持っていることに関心を寄せる。そして、うつほはどこにでも形を変えてあるものなのだという。

月に一回こうして新宮に来て、みなさんに文化、文学の新しい読み直しや書き直しみたいなものを、新しい視点でとつとつと話してみるという、それはこう自分の中のある何か熱情みたいなもんだろうと思うんです。[…]自分の胸っていうか、腹っていうか、自分のなかに空洞みたいな、穴ぼこみたいなのがあって、そこはこうがらんどうで、ぼおっと燃えている。[…]今ここで喋っていることも、東京でものを書いていることも、いろんなことがその自分の熱病みたいなもんで動いているんじゃないかと考えるんです。その熱病が一体、どこから出てくるか。つまりぽっかりと意味もなしに空いた、空洞みたいなものから出てくるんじゃないか。そういう気がするんです。今日はその空洞のことについて、みなさんに話したいわけなんです。その穴ぼこにもいろんな形があるんです。人間の体の中に空いた穴ぼこ。それから、自分の周りにある社会の方に空いた穴ぼことか。その穴ぼこ、空洞と書きまして、古語で〝うつほ〟っていう言葉があります。[…]あるテーゼみたいなものを出しますと、このうつほこそが芸術、文化いっさいの根源ではないか。いっさいの発生する場所ではないか。(Œ12)

 中上は以上の前置きをしたかと思うと、唐突にフラメンコギターの演奏の音源を流しはじめる。前年にスペイン旅行をしたときに聴いたジプシーの音楽だという。「スペインの被差別者であるジプシー」は、かつて「スペインの山のほら穴みたいなとこに住んどったらしい」。自分が話しているうつほからの響きのことを「そのほら穴の響きとして﹅﹅﹅、音楽として﹅﹅﹅とってもらってもいい」という。

 この時点ですでにさまざまな穴の変奏が行われていること、それらの穴のアナロジーが連想の網の目を作りはじめていることがわかる。中上の体の中に空いたとされるがらんどうの穴。ギターのサウンドホール。スペインの山中の洞穴。これらの「うつほ」が見えないトンネルのように通じあい、共鳴しあっている。

 このとき中上のいう「響き」とは、単なる空気の振動のことではないようだ。むしろ、穴として想起されたものの同一性を揺るがすような震え、振れ、共振として理解できる。ある特定の「物・者」が輪郭を失い、不特定で匿名的な「モノ」へと振れてゆく。マテリアルな次元とセミオティックな次元の区別が失われえゆく。ジプシーの音楽として聴きとられるギターのサウンドホールの震えも、作家の身体に穿たれたものとして想像される空洞の震えも、たがいの共振による不透明性のなかで等価物として結びつけられてゆく。

 これは中上の思考の癖のようなものだ。連想による揺らぎを振り子にして発想を飛躍させようとする。そして、そのような思考の動き自体にいちいち付きあう必要はない。ただ、ここで着目すべきなのは、中上がパフォーマティブな次元で実演してみせている穴のメタファーの揺れを物語論の枠組みにおいて記述しようとするということだ。

 中上はそこで宇津保物語の「うつほ」に言及し、それを震える穴のネットワークに接続させる。その背景には、中上自身が当時、宇津保物語の翻案を手がけていたということもあったのだろう。源氏物語を三度にわたって現代語訳した谷崎潤一郎への対抗心を抱きつつ、源氏物語よりもさらに古い日本文学の源流を探りたいという腹づもりがあったようだ。物語の筋を簡単に紹介しておこう。

 むかし清原俊蔭という詩歌の天才がいた。十六歳で唐に遣わされるが、道中で嵐に襲われ、波斯ペルシア波斯ペルシア国まで流されてしまう。そこで天人に出会い、琴を授かって帰国。その後、生まれた一人娘に琴の秘曲をすべて伝授して世を去る。ひとり残された娘が琴を鳴らしていると、それが通りがかりの貴公子の心を引き、一夜の契りで子を身ごもる。その結果、私生児として生まれた子が仲忠だった。母子は世を忍ぶようにして熊野の山中に入り、動物たちに助けられながら古木のうつほで細々と暮らしはじめる。あるとき、仲忠が母から琴の手ほどきを受けていると、貴公子がそれをふたたび耳にとめ、親子としての再会を果たす。そうして京に戻った後、仲忠は琴の力によって大納言にまで出世し、物語はめでたく幕を閉じる。

 ここでは、穴というものの伸縮性が入れ子構造の形をとって物語に書きこまれているということに注目したい。ペルシャの琴はサウンドホールを震わせることで、つまり木の箱を共振させることによって、音を増幅させる。宇津保物語ではそれをさらに古木のうつほが包みこむことで、古木が共振し、音はさらに増幅する。さらには、それを熊野の森が包みこんでいるとも言えるだろうし、もっといえば、巻物という物質がその物語を包みこんでいると考えてみることもできる。入れ子状になったひとつひとつの媒介メディア媒介メディアが共振しながら音や言葉の通り道となる。

 ジプシー音楽を流すという事前の段取りは、この入れ子構造を先取りする形でなぞっておくためのものだったとも言える。ギターのサウンドホールがあり、洞穴があり、山があり、それらがたがいの媒介者になることで音が増幅される。それがさらに宇津保物語の発するうつほの響きと共鳴しあう。

 中上はこのようなレトリックを駆使しつつ無数の穴を共振させることで、倍音の豊かなポリフォニーのようなものを作りだそうとする。これは単に、音というマテリアルな「物」の響きを複層化させようとしている、ということではない。それと同時に、「うつほ」という語の含意コノテーション含意コノテーション、つまりセミオティックな次元の複層性をも豊かにするためのレトリックである。そうすることで、ちょうど現実と虚構のボーダーを錯乱させる「路地」がそうだったように「うつほ」という語も意味の決定不可能なマナ語へと形を変えることになると言えるだろう。

 中上は無数のうつほをめぐる連想の糸を張りめぐらせた上で、ひとつの主張をする。こうしていたるところで融通無碍に形を変えつつ震えている「このうつほこそが芸術、文化いっさいの根源ではないか」という主張である。物語や音楽をはじめとする芸術の起源をめぐっては、自身が理想とする短編小説=フリージャズのルーツには「土のコード」と呼べるようなものがある、という主張を1976年の時点ですでにしていた。ここでの主張はその亜種ということになるが、中上はさらに一歩踏みこみ、二重の意味において物語論的なアプローチを取ろうとする。第一に、構造主義的なテキスト分析としての物語論ナラトロジー物語論ナラトロジー。第二に、狭義には作り物語というジャンルに括られる日本の古典群をめぐる議論としての物語論である。

 具体的な論拠は提示されていないものの、中上によれば、説経節などの語り物を含む日本の古典には、ナラトロジカルな構造の次元で「うつほからの響き」とでも呼べるようななんらかの起源、あるいはその痕跡がある。実際、物語文学の伝統に目をむけてみても、竹取物語や宇津保物語にはそれが竹や木の空洞といった表象をとおして書きこまれている。そして、そのような空間こそが文化=差別によって生じたものであり、その点、春日をはじめとする被差別部落も同じ「うつほ」である、という。そうである以上、なぜ物語があるのかと問うことは、なぜ部落があるのかと問うに等しい、と中上は考えたのだった。

太陽肛門を出入りするモノ

 中上が前期物語論の出発点とした主張は、小説の構造と差別の構造と同じである、というものだった。連続講演会「開かれた豊かな文学」ではさらに一歩踏みこみ、被差別部落とは文化=差別によって生じた「うつほ」のようなものであるという。中上はさらにそれを「疑似神話空間」と呼びかえ、その発生のメカニズムを物語論的に解き明かそうとする。この点に関連して、中上は次のようにふりかえっている。

私が着目したのは、かぐや姫の竹の筒、[宇津保物語の主人公]仲忠のうつほ、つまりはそれは擬似神話空間であるが、現実の被差別部落と同一の働きをしているのではないかという事である。そこから、差別というものがなにもかもを物語の中に繰り込む事を言い、王朝のやんごとない人々の行き来する物語の舞台も、この擬似神話空間つまり被差別部落の模造ではないかと言った。私小説が何故面白いのか、というのも伊藤整の文壇は特殊部落なりという発言をふまえなくともこの擬似神話空間説で解ける。(Œ12)

 中上のいう疑似神話空間が文化=差別の働きによって発生するということは、ある任意の空間、たとえば部落というものがあって、それが差別という被害を受けるということではない。そうではなく、そもそも部落を部落として存在させるような根源的な働きがあるということである。中上はそれを文化=差別と呼び、ここでは「物語の中に繰り込む事」と定義しているが、その意味は不明である。

 ここではさしあたり、中上のいう文化=差別という働きについて掘りさげてみたい。この点に関しては、中上は山口昌男のような文化人類学者から多くを学んでいたようだ。「物語/反物語をめぐる150冊」(Œ21)と題して1984年に公開された中上のコレクションには、山口昌男がそれぞれ1975年に発表していた『文化と両義性』と『道化の民俗学』が挙げられている。それらを手にとってみると、ルポルタージュ『紀州』での議論や、その後のボーダーをめぐる議論に重なるところがあることがわかる。そこで、山口昌男のいう文化や周縁の概念を補助線としつつ、疑似神話空間の発生をめぐる中上の議論を読み進めることにしたい。

 山口昌男(1975)によれば、文化とは中心としての自己を周縁から分化するシステムのことである。中華思想もその一例である。すでに文明化された空間は化内、まだ文明化されていない外部の空間は化外と呼ばれて、区別された。このように一つのパースペクティブを切り開くような二項対立そのものが抽象的な意味でのシステムである。このとき気をつけなければならないのは、両者はコインの裏表のように不可分であるということだ。化外がなければ、化内もない。周縁とは、中心の裏面、いわばネガにあたる。その点で、周縁はあくまでも文化の一部である。文化は周縁を周縁として「排除しつつも、文化の全体性の不可欠の部分として保持しておく」と山口はいう。

 中上のいう文化=差別にも、このような中心と周縁の分化の働きがあると考えられる。中上によれば、文化=差別とは「差別、被差別という関係構造」(Œ7)そのもののことである。差別するコトと差別されるモノ(物・者)の分化である。言い方を変えれば、不特定のモノを特定のモノ(物・者)として存在させるコト。それが差別である。中上のいう差別は、その点、きわめて抽象的な意味、ある種のシステム論的な意味での「区別」として理解することができるだろう。物語論的にはそれが「なにもかもを物語の中に繰り込む事」ということになるだろうか。

 中上はこのようなシステムの働きを想定しつつ、それによって生みだされた周縁的な者や空間についての考察を試みる。周縁はあくまでも文化の内部にある。文化がなければ、中心と周縁の区別もない。そんな文化にとって、文化の外部にあるのは、無である。見方を変えれば、周縁とは、文化と無の境界のことであるとも考えられるだろう。「夜は、昼の絶対的対立者ではなく、その彼方にある空無と昼の仲介者的相貌を帯びている」と山口も述べているように、周縁は内と外の仲介者としての役割を果たす。また、境界は、つねに多義的な場であり「二つの矛盾するものが同時に現われることができる」ような場でもあるようだ。山口は次のように言う。

文化は様々の形で、周縁を生産・再生産・維持してきた[…]。周縁的な事物についての概念は、それが明確な意識から遠ざかっている故に、「暖味性」を帯びている。暖味というのは多義的であるということに他ならない。多義性は、そこで、分割するより綜合、新らしい結びつきを可能にする。何故ならば一つの語が多義的であるということは、表層的な意味では、他の語との弁別性を前提として意味作用を行っても、潜在的には更に別の他の語と結びついているということを意味する。(山口 1975)

 中上のいう疑似神話空間=うつほにも、まさにこのような特徴がある。日本文化においては、つねに「聖なるものの裏に賤なるものがある。賤なるものの裏に聖なるものがある」(Œ7)が、その周縁部においては聖と賤が等価物として入れかえ可能になるということが起こる、という。中上はそれを「聖と賤の環流」と呼んだ。

 がらんどうの震える穴を出入りする匿名のモノがある。見方を反転させれば、それが聖なるものにも賤なるものにもなる。その典型的なイメージとして中上が思い描いたのは、日の丸である。あるいは、日輪を模倣した結果として肛門に喩えられることにもなった菊の御紋である。ジョルジュ・バタイユが「太陽肛門」というエッセイの冒頭で「世界はことごとくパロディでできている。目にするものはどれも別のなにかのパロディ。見かけだおしの同じ中身なのだ」29(Bataille 1927)と述べているとおり、中上にとって、暗い穴と輝く太陽はたがいのパロディでもある。日没するようにアマテラスの隠れた暗い穴は、アマテラス自身の姿でもある。それこそが、アマテラスが鏡つまりは影身をとおして穴を出て、昼と夜の区別が回復された、ということの意味でもあるのだろう。闇のないところに光はない。「日本国の裏」にはかならず「名付けられていない闇の国」がある(Œ7)と中上はいう。闇は無ではない。日出ずる国としても知られる日本国は、無ではなく闇という境界によって裏付けられている。だからこそ、中上は晩年になって次のようにも述べている。

日本っていうのは、こう外部と内部が絶えず入れ替わるっていうことが、つまり日の本っていうか、日出づる国っていうか、あるいは日没する国でもあるんだけど、その日本の意味だと思うんだけど。(Œ16)

 このようにつねにものごとを両面的にとらえ同一性を宙吊りにするというということ、既定のボーダーを無化しようとするということが、部落差別を読みかえようとする中上の基本的なスタンスだった。(被)差別者=小説家を自認する中上はその点、トリックスターとしての役回りを演じていると言っていい。

 山口昌男によれば、トリックスターは、二つの極の「仲介者として、対立項の双方の属性を兼ね備えている」。それゆえに、ボーダーを越えることもできる。中上はなにより「路地」の者を騙ることに成功したトリックスターだった。春日出身者の血を引くわけでもなく、八歳のときにはすでに他地区へと連れ出されている中上は、あきらかなよそ者だったが、言葉を駆使することによって、すくなくともレトリックにおいては、そのボーダーを越えた。

 他方では、それと同時に「レベルの転倒」(Œ7)という役回りを担わされた者として、自身のことを天皇に類する存在と見なしていた。そして、天皇に「近しさ」(Œ20)を感じ、深い共感の念を抱いていた。自身が被差別部落の生まれであることを告白して間もないころに連載をはじめたルポルタージュ『紀州』のなかで、中上は天皇への言及をはじめる。

ここで、天皇を出すのは唐突であろうが、日本的自然において古代の天皇とは、日と影、光と闇を同時に視る神人だったように思う。賤民であり同時に天皇であるとは、謡曲「蟬丸」を待たずとも、光と闇を同時に視る人間の眼でない眼を持つ神人のドラマツルギーであるが、[…]この日本では文化、芸能、信仰等において、被差別は差別するというのが一種テーゼとしてあったはずである。(Œ7)

 中上のひとまずの主張としては、差別こそが日本文化の始原にあった。その点で日本文化は賤民の文化であり、その体現者こそが天皇であるとする。とりわけ日本語の書き言葉としての「言の葉」の仲介者であるという点、物語の通り道となるようながらんどうの穴であるという点において、自身も天皇も同じ(被)差別者=トリックスターであると考えた。

 中上は折口信夫にならって、そのような存在のことを「みこともち」と呼ぶ。「物語/反物語をめぐる150冊」のなかには、中公文庫版『折口信夫全集』の一巻から三巻にあたる『古代研究』が挙げられている。そこに収められた1928年の講演「神道に現れた民族論理」の抜粋を引いておこう。

みこともちとは、お言葉を伝達するものゝ意味であるが、其お言葉とは、畢竟、初めて其宣を発した神のお言葉、即「神言」で、神言の伝達者、即みこともちなのである。[…]最高位のみこともちは、天皇陛下であらせられる。即、天皇陛下は、天神のみこともちでお出であそばすのである。(折口 1995a)

 天皇は日本に無数にいるみこともちのなかでも「最高の詔(みこともち)である。みことというのは神のことばも誘うわけで、そういう神のことばを仲介する、まあ最高の人間である」(Œ20)と中上自身が蓮實重彦を相手どって説明を試みたこともあったが、うまく話が通じなかったし、中上自身でさえよく意味がわかっていなかったのかもしれない。中上はなおいっそう奇妙に思われることを『紀州』のなかで述べている。

突飛な発想かも知れぬが、この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての「右翼」ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統すめすめらぎであるという天皇に収斂されてしまう感性の事である。[…]私と三島由紀夫との違いは、言葉にして「天皇」と言わぬことである。[…]「天皇」と一言言えば、この詞ことのはことのはの国の小説家である私の矛盾の一切もまた消えるはずである。私の使う言葉は出所来歴が定かになる。(Œ7)

 中上が晩年に用いた言葉を使えば、中上はここで自身のことを三島由紀夫と対比させつつ「逆立ちした天皇主義者」(Œ17)として理解しようとする。「逆立ちという言葉が適切でないなら、ねじまがった、と言い換える。ねじまがった天皇主義とは、天皇を徹底的に文化の文脈に置いて読み込む事であり、一つの外部に従属し、融合し、軋むもう一つの外部として自分をはっきり自覚する事である」。

 中上のいう文化の文脈における「天皇」の意味は不明である。ちょうど路地やうつほ、差別、文化、物語という語がそうであるように、ここでの天皇もまたマナ語としての不透明感を漂わせている。ただし、ここまでの流れのなかで確かに言えるのは、中上にはまず、日本=賤民文化の担い手としての自覚、みこともちという書き言葉の専門家としての自覚があるということ。それゆえ、日本文化の体現者としての天皇=文化の統らぎに従属しているという意識があるということである。

 では、文化の統らぎとは何だろうか。中上健次を名乗る「私」という語り手は『紀州』の取材旅行中、草が雨に濡れているのを目にとめる。そこで「言葉が雨という言葉を受けて濡れ」ているようにも思う。おそらくは「言葉」の一要素である「葉」からの干渉でも受けたのか、草という言のが言葉の雨に濡れているように思ったのだろう。そして、次のように「天皇」というマナ語を注意深くカギ括弧でくくりながら考える。

言葉を統治するとは「天皇」という、神人の働きであるなら、草を草と名づけるまま呼び書き記すことは、「天皇」による統括シンタクス統括シンタクス、統治の下にある事でもある。では「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう。[…]もし、私が「天皇」の言葉による統治を拒むなら、この書き記された厖大なコトノハの国の言葉ではなく、別の、異貌の言葉を持ってこなければならない。あるいは書くこと、書かれる事を拒む語りの言葉か。[…]書くことの毒、書き言葉の毒に私は侵されすぎている。(Œ7)

 中上はこのように日本語という書き言葉に染められた自分自身のこと、言の葉のナラティブ・ハビトゥスによって形成された自己のことを、なんらかの統括を受ける者、つまりは字義通りの意味での民、民として理解する。そして文が文として成立する一連の法コードコードを意味する「syntax」が「統語論」と訳されているのを受けて、統括をシンタクスと読みかえ、それを文化の統らぎの働きに重ねあわせる。

 このことから「天皇」という語は(被)差別者=トリックスター=みこともちという物語論的な役回りを指すだけでなく、日本語の書き言葉の成立に関わるきわめて抽象的な働きを指していることが伺えるが、詳しくはよくわからない。現段階ではただ、みこともちのなかのみこともち、トリックスターのなかのトリックスター、言の葉の通り道としての暗い穴のその大もとのようなものとして想起されていることだけはわかる。

 いずれにしても、中上は自身が言の葉の出入りするがらんどうの穴であることへの鋭すぎるほどの自覚を持っていたし、言の葉の流れを通してのみ作家としての「中上健次」が存在しているという自覚も持っていた。書き言葉の世界の外に「中上健次」は存在しない。それと同様に、言の葉を、あるいは民草を、一点に束ねるもの、文化の全体性を楔石のように引き受けるような収束点なければ、日本文化は存在しない、と中上は考えたのかもしれない。

 中上のこのような天皇概念は、何人かの批評家たちから文字通り「右翼的」と見なされてきた。実際、三島由紀夫が『文化防衛論』のなかで論じている「文化概念としての天皇」を思わせるところがある。

 しかし、天皇がなければ日本文化はない、という中上の考え方は、日本文化を賤民(天皇を含む被差別民)の文化として読むという試みの論理的な帰結でもあったように思われる。被差別者が文化=差別の働きによって生じている以上、そして被差別者がいまなお現実に存在して、文化=差別の働きをまざまざと物語っている以上、それを抜きにして文化を語ることはできない。裏を返せば、中上が「日本文化」と呼ぶものには、天皇や賤民という被差別者の存在をその大前提として含意している。それらの存在が含まれていないものを中上はもはや日本文化と呼ばなかったはずである。

 しかし、中上の議論の面白いところは、天皇を天皇として、あるいは賤民を賤民として明示的に語ることに終始したわけではない、ということだ。仮にそうだったのであれば、それは単なる素人による文化論ということになっていただろうし、社会物語学的と形容する必要もなかっただろう。中上はあくまでも物語を紡ぐ者の立場で、文化=差別の働きを、物語の働きとして読みかえ、物語というシステムのメカニズムを探ろうとする。

 中上はそこで、物語=差別の働きによって開かれた「擬似神話空間」というものを設定した上で「物語、さらにそれの近代的亜種である小説に定型があるのは、まったくその擬似神話空間に因ると考え、さらに、日本文化の様々なジャンルに相渡る定型こそ賤性の発顕であるとしたのだった」(Œ12)。これからその内容に入っていこう。

簡易年表

  
19460歳。8月2日に和歌山県新宮市春日地区に生まれる。母は木下ちさと。父は鈴木留造。
19537歳。新宮市野田地区の中上七郎のもとに母とふたりで移り住む。
195913歳。3月3日に異母兄の木下行平が自殺。4月から中学校で中上を名乗りはじめる。
196115歳。新宮市の臥龍山の切り崩し後、春日地区への市庁舎の移設工事がはじまる。
196519歳。上京。ジャズ音楽に出会う。
197024歳。「文藝首都」の同人、山口かすみと結婚。
197630歳。「岬」が芥川賞を受賞。
197731歳。鼎談「市民にひそむ差別心理」で、はじめて部落問題に言及。連載エッセイ「紀州」を開始。『枯木灘』が毎日出版文化賞を受賞。
197832歳。新宮市で「部落青年文化会」を組織。春日地区で連続公開講座と地元住民への聞きとり調査を開始。春日地区の長山が切り崩される。
197933歳。連載「物語の系譜」を開始。アメリカで暮らしはじめる。連載「物語の系譜」を中断。
198337歳。『地の果て至上の時』を出版。連載「物語の系譜」を再開。
198438歳。連続講義「現代小説の方法」を行う。
198539歳。ファイヤール社と翻訳出版契約を結ぶ。パリで講演。
198640歳。パリでジャック・デリダと公開対談。
198741歳。「隅ノ会」を結成。
198842歳。講演「超物語論」を行う。
198943歳。「熊野大学準備講座」を発足。昭和天皇崩御。
199044歳。「熊野大学」が正式発足。フランクフルトで講演。
199246歳。腎臓癌により逝去。

 


1 The author is a modern figure, produced no doubt by our society insofar as, at the end of the middle ages, with English empiricism, French rationalism and the personal faith of the Reformation, it discovered the prestige of the individual, or, to put it more nobly, of the "human person”.
2 l'auteur n'est pas une source indéfinie de significations qui viendraient combler l'oeuvre, l'auteur ne précède pas les oeuvre. Il est un certain principe fonctionnel par lequel, dans notre culture, on délimite, on exclut, on sélectionne. [...] l'auteur est une production idéologique dans la mesure où nous avons une représentation inversée de sa fonction historique réelle.
3 l'idéologie « agit » ou « fonctionne » de telle sorte qu'elle « recrute » des sujets parmi les individus (elle les recrute tous), ou « transforme » les individus en sujets (elle les transforme tous) par cette opération très précise que nous appelons l'interpellation. [...] les individus sont toujours-déjà interpellés par l'idéologie en sujets.
4 SOCIO-NARRATOLOGY expands the study of literary narratives — NARRATOLOGY — to consider the fullest range of storytelling, from folklore to everyday conversation.
5 First and primary, socio-narratology attends to stories as actors, studying what the story does, rather than understanding the story as a portal into the mind of a storyteller. Of course socio-narratology is interested in storytellers and story listeners, but they are understood as being enabled to be who they are because of stories. [...] As actors, stories and narratives are resources for people, and they conduct people, as a conductor conducts an orchestra; they set a tempo, indicate emphases, and instigate performance options. The orchestra conductor’s silence would not be understood as the absence of his or her effect on the music. Booth goes further, writing: “We all live our lives in a surrender to stories about our lives, and about other possible lives; we live more or less in stories, depending on how strongly we resist surrendering to what is ‘only’ imagined.”
6 Second, stories are crucial actors not only in the making of narrative selves—selves that, as Booth says, live more or less in stories—but also in making life social. Stories connect people into collectivities, and they coordinate actions among people who share the expectation that life will unfold according to certain plots. The selves and collectivities animated by stories then animate further stories: revising old stories and creating new ones—though whether any story is ever truly new is always contestable. Stories and humans work together, in symbiotic dependency, creating the social that comprises all human relationships, collectivities, mutual dependencies, and exclusions. That symbiotic work of stories and humans creating the social is the scope of socio-narratology.
7 An actor is what is made to act by many others.
8 My version of narrative analysis is qualified as dialogical as a reminder that analysis is always about the relationship between at least two and most often three elements: a story, a storyteller, and a listener. None of these could be what it is without the others. What is analyzed is how each allows the other to be [...]. Indisputable as it is that people tell stories, that does not relegate stories to being the mere products of human telling. Socio-narratology, although always relational in recognizing that all parties act, pays most attention to stories acting [...]. Narratology in its early structuralist versions cuts stories up into small pieces in order to formulate principles of how those pieces are assembled. Stories became patients on the narratological dissecting table. Socio-narratology, then, lets stories breathe by studying how they can do what they can do.
9 Trouble. Stories have the capacity to deal with human troubles, but also the capacity to make TROUBLE for humans. [...] Character. Stories have the capacity to display and test people’s character. [...] Point of view. Stories have the capacity to make one particular perspective not only plausible but compelling. [...] Suspense. Stories make life dramatic and remind people that endings are never assured. [...] Interpretive openness. Stories have the capacity to narrate events in ways that leave open the interpretation of what exactly happened and how to respond to it. [...] Out of control. Stories are like the magic spell that Mickey Mouse creates in the “Sorcerer’s Apprentice” segment of the film Fantasia, when the enchanted broom keeps on bringing more and more water until the place is flooding. Stories have a capacity to act in ways their tellers did not anticipate. [...] Inherent morality. Stories inform people’s sense of what counts as good and bad, of how to act and how not to act. [...] Resonance. Stories echo other stories, with those echoes adding force to the present story. Stories are also told to be echoed in future stories. Stories summon up whole cultures. [...] Symbiotic. Stories work with other things — first with people, but also with objects and with places. [...] Shape-shifting. Stories change plots and characters to fit multiple circumstances, allowing many different people to locate themselves in the characters in those plots. [...] Performative. Stories are not only performed; they perform. Basso quotes an informant, Benson Lewis, saying: “Stories go to work on you like arrows.” Stories do things; they act. [...] Truth telling. Stories’ capacity to report truths that have been enacted elsewhere is always morphing into their more distinct capacity to enact truths. These truths are not copies of an original. They are enactments in which something original comes to be, as if for the first time, in the full significance that the story gives it. [...] Imagination. Stories have the capacity to arouse people’s imaginations; they make the unseen not only visible but compelling. Through imagination, stories arouse emotions.
10 There is no important difference between stories and materials. Or, to put it a little differently: stories, effective stories, perform themselves into the material world—yes, in the form of social relations, but also in the form of machines, architectural arrangements, bodies, and all the rest. This means that one way of imagining the world is that it is a set of (pretty disorderly) stories that intersect and interfere with one another. It means also that these are, however, not simply narrations in the standard linguistic sense of the term.
11 First, companion species shape each other in their progressive coevolution. Second and more basic, good companions take care of each other [...]. In both respects, each companion enables the other to be. [...] When Haraway says, “There’s no place to be in the world outside of stories,” at least part of what she means is that there is no existing as a human outside a companionship with stories that are semiotic in their being and material in the effects they bring about. The capacity of stories is to allow us humans to be.
12 The character’s more or less reflective awareness of who the type of narrative requires him or her to be, and what being that character requires him or her to do. The subject, both in the story and hearing the story, feels a tension between hitching a ride on the immanent volition of the story and being carried where such a story usually goes, versus the possibility that this time things could turn out differently: either the story might have changed, or the protagonist might this time, through some act of will, rewrite the story by acting differently from what the old story required.
13 Most of us are fortunate enough to be cast into multiple stories, and most of the time, the interpellations of those stories play against each other, softening if never negating the force of any single interpellation. Here we begin to see the general solution to many of the problems that attend stories: increase the number of stories that are allowed to act.
14 The collection of stories that interpellate a person is his or her narrative habitus.
15 [...] A person’s habitus is her or his disposition to recognize something as familiar or to it find strange and obscure; to like or dislike; to feel comfortable or uncomfortable either doing something or in the presence of something. Disposition suggests not what people are determined to feel, want, think, choose, or act to bring into being, but rather how they feel conducted to do what they do; as they undertake their lives, the course that seems to flow most naturally. [...] Narrative habitus is a disposition to hear some stories as those that one ought to listen to, ought to repeat on appropriate occasions, and ought to be guided by. Narrative habitus describes the embodied sense of attraction, indifference, or repulsion people feel in response to stories; the intuitive, usually tacit sense that some story is for us or not for us; that it expresses possibilities of which we are or can be part, or that it represents a world in which we have no stake. [...] Narrative habitus is the unchosen force in any choice to be interpellated by a story, and the complementary rejection of the interpellation that other stories would effect if a person were caught up in them.
16 First, narrative habitus involves a repertoire of stories that a person at least recognizes and that a group shares. These stories are known against an unseen background of all the stories that person does not know and stories that do not circulate within any particular group. / Second, narrative habitus provides the competence to use this repertoire as embodied and mostly tacit knowledge. Narrative habitus is the feel for what story makes a good follow-up to a previous story; what story fits which occasion; who wants to hear what story when. A person’s narrative habitus enables knowing how to react when a story is told, according to what kind of story it is. [...] / Third, narrative habitus disposes a person’s taste in stories, with taste predicting which future stories a person will be open to. [...] / Fourth, narrative habitus predisposes a sense of the right and fitting resolution toward which a half-told story should progress; it is the feel for what kind of narrative move leads to what next kind of move. [...] People’s sense of how plots will probably go reflects and generates their everyday common sense of which actions lead to which consequences, whether in stories or in life.
17 embedding of stories in bodies.
18 “For a true reader,” writes Pierre Bayard, “it is not any specific book that counts, but the totality of all books.” As important as specific stories are to people, any one story has meaning only in relation to all the others. What Bayard calls the inner library is the organization of all the stories a person can be influenced by; and on Bayard’s account, this all includes stories the person could not actually tell but nevertheless knows, preconsciously or unconsciously.[...] In simplest terms, the inner library is the organization of narrative habitus; less simply, it is the dynamic principle by which stories have their effects. [...] This inner library predisposes attention to those stories that can be readily located; they sound like familiar stories. And conversely, the inner library predisposes disregard for stories that have no apparent location. The general principle of reception is reluctance to create new sections of the inner library. Yet [...] some stories bid successfully for the creation of new inner-library sections, thus expanding narrative habitus.
19 I propose the term inner book to designate the set of mythic representations, be they collective or individual, that come between the reader and any new piece of writing, shaping his reading without his realizing it. Largely unconscious, this imaginary book acts as a filter and determines the reception of new texts by selecting which of its elements will be retained and how they will be interpreted. [...] They form a grid through which we read the world, and books in particular, organizing the way we perceive these texts while producing the illusion of transparency. / Woven from the fantasies and private mythologies particular to each person, the individual inner book is at work in our desire to read—that is, in the way we seek out and read books. It is that phantasmagorical object that every reader lives to pursue, of which the best books he encounters in his life will be but imperfect fragments, compelling him to continue reading.
20 Its objective is not only descriptive but also normative.
21 Bayard seems to place all the action on the side of consciousness, often unconsciousness, whereas I want to let stories breathe. Sometimes, stories that have no place in people’s inner library still teach those people who they can be; stories have a capacity for narrative ambush.” [...] “We are the sum of these accumulated books” (73), Bayard writes, in a good epigraph for narrative identity. I agree, but if what counts is narrative identifying, then this accumulation is never fixed and the sum is never finalized. [...] We humans are the sum of perpetually accumulating stories, because often enough stories break into the inner library, reshaping the new accumulation.
22 The power of stories is the problem with stories: they are far too good at doing what they do, which is being the source of all values. [...] Calling stories the source of all values echoes Radin’s statement quoted earlier, that through the trickster’s actions “all values come into being,” the equation completed by Hyde when he writes: “the trickster in the narrative is the narrative itself.” The problem of living right with stories is no easy problem, whether we say that humans are cast into stories, or if we say that stories cast humans into their lives.
23 Stories are such objects that defy specification. Stories are good at being several things at once, and they are good at equipping humans to live in a world that not only is open to multiple interpretive understandings but requires understandings in the plural
24 Stories make dangerous companions when they reduce too much complexity and are too good at concealing what they reduce. [...] Stories put listeners in the position of hearing one perspective on one slice of reality. This selection is already an evaluation, because it excludes from consideration other slices seen from other perspectives. [...] The hypnotic effect is to cause at least a temporary breakdown of the reader’s capacity to think outside the story’s direction of attention.
25 Companionship with stories does begin by thinking with stories, but eventually that has to be balanced by the capacity to think about stories. [...] The plural in that last sentence makes all the ethical difference: two stories are the beginning of thinking, as opposed to being caught up in one story. Two stories instigate dialogue. [...] Two stories are necessary for thinking because each opens a critical distance from the evocative intensity of the other. The second story is most necessary when twinning it with the first story seems most intolerable, and those who are living through such a story insist that their situation is incomparable. That claim to incomparability carries privileges that are the beginning of danger. [...]. Introducing a second story restores complexity; that is not the least of what is intolerable about the second story, and not the least of what is ethical about it.
26 Stories are always changing as they are retold, and they are resistant to change—they change inevitably, but slowly. What stories do readily is to attract other stories, and therein lies faster leverage for change. Part of letting stories breathe is letting them do what they do, which is lead to another story. If there can be any inherent, non-relational quality that makes a story bad, it is that bad stories discourage moving to another story that presents the same content from a different perspective. [...] And happily, the trickster in the narrative is the narrative; the story itself eventually turns against monological enforcement [...].
27 That’s “dumb luck,” the luck of all gamblers whose winnings never enrich them, the luck of the hotel clerk who hits the lottery and quickly spends himself into bankruptcy. It’s sterile luck, luck without change. “Smart luck,” on the other hand, adds craft to accident—in both senses, technical skill and cunning. Hermes is a skillful maker of the lyre, and he is canny as well, leveraging the wealth his hermaion brings [...].
28 We may well hope our actions carry no moral ambiguity, but pretending that is the case when it isn’t does not lead to greater clarity about right and wrong; it more likely leads to unconscious cruelty masked by inflated righteousness
29 Il est clair que le monde est purement parodique, c'est-à-dire que chaque chose qu'on regarde est la parodie d'une autre, ou encore la même chose sous une forme décevante.