野浪行彦

2025年6月刊行『フランスで考えた中上健次のこと⎯⎯宗教二世にとっての社会物語学』

統一教会への解散命令を受けて“神の子”の思うこと

2025年3月25日に東京地裁が統一教会への解散命令を出しました。宗教法人法第81条には解散の要件として「法令に違反して著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」が挙げられています。東京地裁によれば、これまで統一教会の行なってきた献金勧誘等行為がそれに該当するといいます。いわゆるコンプライアンス宣言の前にも後にも深刻な金銭トラブルがあり、少なくともあわせて1500人以上、金額にして計185億円以上の被害が出ている。この事実をもって解散に値するということでした。 統一教会の二世のひとりとして、私は怒りに震えました。なぜなら、東京地裁が統一教会という社会問題をあまりにも表面的にしか理解していないことは明白であり、そのために見過ごされてしまう別種の問題があるからです。その問題とは、人権問題です。とりわけ統一教会の二世が人生をかけて被ってきた人権侵害の問題です。それが公共の福祉を害する不法行為のひとつとしてすこしも考慮されていないのです。 統一教会には二種類の二世がいます。信者たちの組織的な生殖行為によって生みだされた祝福二世と、生後に入信させられた信仰二世です。赤旗の報じる統一教会の認識によれば、祝福二世は約五万人、信仰二世は約三万人いるとされています。これは下駄をはかせた数でしょうが、それでもあわせて数万に及ぶのは確かなことのように思われます。すくなくともそれくらいの数の子供たちが、ひとりひとり異なる形で、人生を損なわれてきました。苦痛のあまりにも命を絶った子供たちも、おそらく私たちが想像しているよりもずっと多くいます。そういう深刻な命の問題がこれまでずっと蔑ろにされてきたし、解散命令に際してもなお蔑ろにされています。 人権侵害とは何でしょうか。ひとことでいえば、それは人を人間扱いしないということ、人を人として尊重しないということです。近代的な理念においては、私たちひとりひとりが自然人として基本的人権を持っているとされています。また、立憲国家とされる日本ではそれが憲法によって保障されるということになっています。建前としては、日本は近代化したということになっています。それが建前にすぎないことを、私は身をもって知っています。 私は合同結婚式によって生まれたときから、人の子ではなく、神の子の扱いを受けてきました。神の血を引いた特別な子です。もちろん、それゆえに神の子として大切にされてきた、ということではありません。むしろその反対に、神の子だからこそ、人間ではないからこそ、どんな虐待も許されてきたのです。虐待というのは、身体的な被害にとどまりません。児童虐待防止法に定められてもいるように、著しい心理的外傷を与える言動も含まれます。そしてなにより、人を人としてみなさないということ、人をモノ扱いするということが、それ自体で虐待であり、人権侵害です。 たとえば、私は特別な神の血統を守るという理由によって、婚姻の自由や交際の自由を侵害されてきました。この世の人間は不浄とされ、同じ神の子としか結婚してはならないということになっていたのです。これは自由権の侵害ということになりますが、平等権を侵すものでもあります。平等権というのは、性別や生まれ、血筋などに関わりなく、すべての人が等しい扱いを受ける権利のこと、すなわち差別を受けない権利のことです(憲法14条)。児童を神の血を引いた子として遇することは、天皇制や部落差別のような血統差別と同様の人権侵害です。 また、人は単に平等に扱われるだけでは、人らしく存在することはできません。たとえば、他の人と同様に等しく管理のためのマイナンバーを割り振られただけでは人らしい扱いを受けたとは言えません。人はなにより、その人として、かけがえのない個として、尊重されなければなりません(憲法13条)。これを人格権と言います。人格はさまざまなものを基礎にしていますが、そこには氏名や宗教も含まれます。そのため、人に信じるべき宗教を強いること、名乗るべき氏名を強いることは、人格的利益を侵すことになります。しかし、統一教会は祝福二世の名付け親となって神の子としての名を与え、人格の根幹の部分から組織に組みこもうとしてきたのでした。 日本国の司法の世界では、このような組織的な人権侵害は存在しないことにされています。これは宗教二世として氏名変更の申立をした私自身の経験からも言えることです。統一教会の不法行為によって生じたこれらの被害は「個人的感情」の問題として切り捨てられました。 そこであらためて疑問が沸きます。憲法によって保障されているとされる「公共の福祉」とは、いったい何なのでしょうか。確かなことは、近代において、それは国家という巨大な権力、すなわちオオヤケ=大きな家にとっての利益であってはならない、ということです。憲法はそもそも、国家権力から、ひとりひとりの人間の人間らしさを守るためにあります。それを機能させるのが三権分立という考え方でもありました。しかし、司法も含め、そのどれもが憲法を蔑ろにしようとする。今回の判決もそのような現状を裏付けるものになったと思います。 人を人らしく扱わない。その点において、統一教会と日本国は瓜二つです。だからこそ、こんなにも長期にわたって両者が癒着してこられたのでした。統一教会を解散させることで悪魔祓いをしたいという思惑が透けて見えますが、まずなにより解散すべきなのは、この日本という国なのではないでしょうか。

15 May 2025 · 野浪行彦

統一教会の祝福二世による氏名変更申立をめぐる記者会見(2025年4月28日)

私は現在、戸籍上の氏名の変更許可のための申立をしています。これは一部の宗教二世にも関わる事案なので、記者会見をすることにしました。一部というのは、宗教上の都合によって望まない氏名を与えられた二世たちのことです。たとえば、私の場合は統一教会の二世にあたりますが、そのなかでも祝福二世と呼ばれる人たちがその典型です。 統一教会はいわゆる合同結婚式(祝福)をとおして信者たちに祝福家庭というものを作らせ、組織的な生殖行為をさせてきました。祝福二世というのは、その結果生みだされた新しい信者のことです。統一教会では、祝福二世は人の子ではなく、神の子、教団という大家族の子である、と考えられています。そのため、教団が神の子の名づけ親になります。具体的には、まず、家庭局というところが教祖の定めた漢字を使って名前を作ります。その後、それを伝達された二世の生みの親が奉献式という儀式をおこない、命名をします。この儀式は、自分たちが二世の親ではないこと、教祖こそが真の親だということ、すなわち二世は神の子であるということを神前で誓う、という趣旨のものです。 こうして組織的に作られた名を名乗らされ、神の子としての人格を強いられるということ。これは統一教会による組織的な犯罪の被害実態のひとつです。2022年の安倍晋三銃撃事件が起きるまではそもそも宗教二世の存在自体が見過ごされてきたことでした。私自身も口をつぐみつづけてきましたが、ほかの二世信者が声をあげはじめたのに勇気づけられる形で、2024年10月に氏名変更の申立をすることにしました。 結論から言えば、私の申立はすべて棄却されています。まず、今年の3月3日に東京家裁(足立瑞貴)からの棄却判決を受けています。即時抗告をしましたが、4月23日に東京高裁(佐々木宗啓、浅田秀俊、古谷健二郎)によっても棄却されることになりました。棄却の理由は、原審の立場を単になぞるだけのものでした。次のような判決です。 [私の戸籍上の氏名は]それ自体から旧統一教会との関連性を直ちにうかがわせるものではなく、申立人が同氏名を名乗ることにより精神的苦痛を受けているとしても、それは申立人の主観的な感情にとどまるものといわざるを得ない。 高裁での判決を受け、4月25日(金)に許可抗告の申立をしました。氏名がその字面から直接統一教会との関係性を連想させるものかどうかという表面的な点のみをもっぱら問題とし、申立の理由を申立人の主観的な感情にとどまるものとして棄却するこの判決は、下記の重大な事実を覆い隠すものだからです。 第一に、申立人は戸籍上の氏名を名乗らされることにより基本的人権を侵害されているという事実。 第二に、上記の事実は統一教会による組織的な犯罪行為の結果生じた被害であるという事実。 第一の事実を蔑ろにするという点において、高裁の判決は違憲です。具体的には、下記の人権の侵害が見過ごされています。 まず、憲法十三条によって保障されるべき人格権。判決は以下の事実を考慮に入れていません。 大前提として、氏名は個人の特定機能だけではなく、個人の人格の構成機能を持つ「人格的象徴」のひとつであるということ。1988年2月16日の最高裁判決の言葉を借りれば「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するものというべきである」ということ。したがって、社会的相当性だけではなく人格権の観点から、氏名がその使用者にもたらす人格的(不)利益が考慮されるべきであるということ。 申立人の人格的象徴である氏名のうちの名は、東京高裁が事実として認める命名の経緯からも明らかなとおり、それが統一教会の家庭局によって神の子の名前として組織的に作りだされたものであり、申立人を個人(教団とは無縁なひとりの人間)として尊重するものではない以上、申立人はそれを自身の名として強要されることによって憲法によって保護されるべき人格的利益を著しく損なわれ、精神的苦痛を被ってきたということ。 次に、憲法二十条によって保障されるべき信教の自由。判決は以下の事実を考慮に入れていません。 申立人の戸籍上の氏名は、それによって象徴される神の子としての人格が統一教会という大家族に属するということを含意するものであるということ。すなわち、表面的には教団との直接的な関連性を示すものではないとしても、名が奉献式という宗教儀式をとおして命名されたものであること、氏が合同結婚式という宗教儀式によって作られた家庭のものであることからも自明のとおり、氏名の使用者である申立人にとってはそれが単なる世俗的なものではありえないこと。そのため、それは単なる主観的な感情の問題なのではなく、宗教的人格権(他者からの干渉を受けずに、みずからの信教の自由を享受する権利)を著しく損なうものであり、現に申立人に深刻な精神的苦痛をいまなお与えつづけているものであるということ。 最後に、憲法一四条によって保障されるべき平等権。判決は以下の事実を考慮に入れていません。 申立人の戸籍上の氏名は、申立人が祝福家庭に生まれた神の子という宗教的存在であるということを象徴することによって、家庭内における虐待や差別を助長し、申立人自身の差別意識を醸成してきたということ。具体的には、申立人は祝福家庭に生まれた神の子である以上、罪深い一般人と性関係や婚姻関係と結ぶことによって神の血を汚すことは許されない、といった差別的な教義を正当化してきたということ。このような教化の一端を担ってきた実績を持つ氏名をいまなお名乗らされることで、申立人は現に差別を受けている(神の子としての人格を強いられている)と感じ、平等権を侵害されることによって深刻な精神的苦痛を受けつづけているということ。 これらの人権侵害の被害を「主観的な感情」として切り棄てる判決は、単に違憲であるだけにとどまりません。被害が統一教会による組織的な犯罪の結果であるという事実を見過ごすという点において、悪質です。今回の申立が棄却された場合は、次のようなメッセージが統一教会の祝福二世だけではなく、宗教的な理由によって望まない氏名を与えられた宗発二世たちにも発せられることになります。 国から解散命令が下るほどの反社会的な組織によって命名され、世俗的な一個人として尊重される人格ではなく二世信者としての人格を強いられてきたことによって深刻な精神的苦痛を長年にわたって受けてきたとしても、それは主観的な感情の問題にすぎない(基本的人権の侵害にはあたらない)。 したがって、それは氏名変更のやむをえない理由、正当な理由にはならないので、氏名のせいでたとえ自殺したくなるほどの苦痛に苛まれることがあったとしても、これからもせいぜい二世信者としての氏名とそれが象徴する人格を一生背負って生きてゆくしかない。 そもそもこれまでに一部の宗教二世たちが被ってきた被害は、単にある特定の教団が組織的な犯罪行為をしてきたということにとどまりません。そうではなく、さまざまな関係者がそれぞれの資格において人権侵害を追認し、無責任にも犯罪に加担してきた結果として生じています。とりわけ司法の世界において、ちょうど今回の事件のように人権侵害という深刻な被害の実態がもみ消されることで、さらなる被害の発生を助長してきました。この点に鑑みても、今回の判決は重大な人道上の問題を含んでいると言わざるをえません。 最高裁において判決の違憲性と悪質性が明らかになり、宗教的な理由によって望まない氏名を与えられた二世たちにとっては生きる励みとなるようなメッセージを送れることをこころより願っています。

28 Apr 2025 · 野浪行彦

統一教会の解散をめぐって今、地下鉄サリン事件の記憶とともに宗教二世が思うこと

統一教会の解散請求がなされたのは、2023年10月12日のことだった。正確にいえば、宗教法人法第81条に基づき、統一教会への解散命令を出すよう文部科学省が東京地方裁判所に求めた。それを受けた裁判所で四度の審問が重ねられ、2025年1月27日に審理がすべて終わった。早ければ年度内には判決が下されるのではないかと言われている。 私はこれまでに何度か統一教会の「祝福二世」として記者たちからの取材を受け、教団の解散についての意見を求められてきた。そのたびに私は自分のことがよくわからなくなった。いたずらに自分自身がぶれてゆくだけだった。ただひとつ、非常に身勝手な気持ちとして、自分に言い聞かせていることがある。統一教会には解散命令が下されるべきではない。理由はふたつある。 ひとつは、教団もろとも私自身も死んでしまうおそれがあるということ。これまでずっと、この世界から消えたい、と天に祈るような思いで生きてきた。消えることができないなら、せめてどこまでも透明な存在でいたかった。しかし、2022年の白昼に安倍晋三銃撃事件が起きたときには、バケツになみなみと注がれた血をこの身体にぶちまけられたような気分になった。社会に穿たれた穴から無数の醜聞が引きずりだされ、衆目を集めた。二世たちは憐憫を買うとともに奇異の目でも見られた。 私自身は、信者たちの組織的な生殖行為によって生みだされている。それはあらゆる点において犯罪的な行為というほかないけれど、それがなければそもそも私は生まれていなかった。その点、教団は私の生みの親そのものだ。私の故郷。私の起源。それが今、手荒に葬られようとするのを目の当たりにして胸が張り裂けそうだ。同じ反社会的な存在として、私自身もこの世界にいることが許されていないような心地がして、不安になる。 もうひとつは、真に消滅すべきものは統一教会や私以外にもあるということ。この国にこそ解散命令が出されてほしい、と私は今、心の底から天に祈っている。この国というのは、日本国政府のこと、ひいては私たち日本国民のことだ考えれば考えるほど、この私たちこそが諸悪の根源だというほかなくなる。私たちに比べてあまりにもちっぽけな集団にすぎない統一教会は、トカゲのしっぽにすぎない。しっぽを切ってみたところで、真の責任がこの私たちの無責任のなか、私たちという巨悪のなかにあることに変わりはない。 東京都千代田区には私たちの集合的無責任を象徴するような存在が暮らしている。それは単に憲法第一条にそう明示されているからだけではなく、身を持って無責任の不言実行をなさってくださっているのだと、私は今思う。では、無責任な者が無責任の責任をとらないままやり過ごそうとしていると、その結果何が生じるだろうか。さまざまな皺寄せや歪が生じる。統一教会問題もそのひとつである。では、統一教会は消えるのに、私たちの象徴が消えずにいるのは、なぜなのだろう。ほんとうに「反社会的」なのは、いったいどちらのほうなのだろうか。 これまでにも反社会的であることを理由に存在を許されなかったものは無数にある。たとえば、オウム真理教。1995年に解散命令が下された。地下鉄サリン事件は、ちょうど三十年前の明日(2025年3月25日)に起きた。幼かった私にとっては、ただ禍々しいだけの事件だった。そもそもの事件の動機にまで思いを馳せるだけの力もなかった。教祖の麻原彰晃が多くを語らないまま2018年に処刑されたこともあり、事件はいまだ後味の悪さを残したままでいる。 ここでは、事件に関する仮説をひとつ紹介したい。統一教会の解散が差し迫る今、それが無責任な私たちへの示唆を与えてくれる気がするからだ。仮説というのは、藤原新也が『黄泉の犬』のなかで提示したもの。藤原によれば、麻原彰晃はこの社会によって自分の視力が失われたと考えていた可能性がある。 麻原彰晃は1955年に熊本県八代市に生まれたときにはすでに先天性緑内障にかかっていた。八代市といえば、水俣病の舞台となった八代海に面した町のひとつで、水俣市から車で四十分のところにある。また、1955年といえば、後に水俣病の初報とされた新聞記事のなかで百匹あまりの猫が狂死したとして「猫踊り病」が報じられた翌年のことである。麻原の兄や弟も視覚障害を患っていた。全盲の兄の証言によれば、水俣病が原因なのだという。水俣病の被害者認定の申請を市役所にしたこともあったが、棄却された。認定を求めて戦えば、地域社会のなかでも「アカ」扱いをされるので、そこで諦めたという。 麻原の視覚障害が実際に水俣病によるものだったのかどうかは今となってはわからない。それが事実なのかどうかが重要なのでもない。重要なのは、私たちの想像力だ。そして、私がここで言いたいのはただ、オウム真理教が丸ノ内線などに撒き散らしたサリンとチッソ株式会社が八代海に垂れ流したメチル水銀には興味深い共通点がある、ということ。それは、両者ともに目に見えない形で拡散するということ。そして、視覚障害を引き起こすということだ。そこで、ひとつの疑問が湧く。麻原はいわば「目には目を」の実践をしたのではないか。水俣病もまた、二重の意味で「不可視」の存在だった麻原。文字通り視力を奪われた被害者であるとともに、巨大な力によって存在しないことにされつづけた。 水俣病もまた、組織的で悪質な毒物散布行為によって引き起こされた人災である。悪気はなかったとだれもが口をそろえていうのだろう。しかし、災厄は見えない生体濃縮の連鎖を通して育まれ、悪意としか言いようのない何かとして結実する。それと同様に、八代で生まれ育った麻原の生涯をとおして育まれた悪意あり、それがサリンのような毒物の形をとって結実したすれば、その背景にもまた、だれの責任ともつかない不正の連鎖、恨みの連鎖の果てしない拡がりがあったのではないだろうか。障がいを背負って生まれてきたのは天罰である、とこころない言葉を吐く声はかつて無数にあったし、いまもそのような声はあるのだろう。しかし、真に天罰に値するものがいるとすれば、それはこの無責任な私たちをおいてほかにない。 もとはといえば、統一教会の教祖の文鮮明もこの世界に満ちた「恨ハン恨ハン」を解くことをその使命にしていた。しかし、彼が結果的にもたらしたのは恨の連鎖の拡がりだった。それが生体濃縮することによって生みだされたのが、統一教会の二世でもある。声をあげれば、背後にアカ(サタン)がついているとされた。そして、不可視の存在であることを強いられつづけてきた。そんな二世を食えば、めぐりめぐった毒の味がする。2022年の銃撃事件もそんなめぐりあわせの渦中に起きたものだ。 今、私たちの目には何が見えているだろうか。私たちは私たち自身の姿を直視することはできない。私たちに見えるのは、私たちの影だけである。鏡という日本語はもともと「影見」を意味する。この世界はいつも私たちの鏡写しで満ちている。それをみにくく思うあまりに手を上げ鏡を粉々にしたところで、私たちのみにくさは消えない。むしろいっそうみにくくなってゆく。そして、私たちの盲目が深まってゆくだけである。では、今、私たち自身のこの暗闇のなかで、いったい何ができるのだろうか。 この私は今、これから、何ができるだろうか。憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。そうだとすれば、私は決して日本国民になることができない、と思う。統一教会のいう「天一国」の国民でいたほうがまだいい。この国の根幹をなす「総意」がいつまでも無責任なものでありつづけるかぎり、闇は決して晴れない。

19 Mar 2025 · 野浪行彦

名は祈り

三月十三日。私にとっては何より大切な日だ。 名は祈りであるということに思いをよせる日。 どうか詠む歓びにめぐまれますように。 どうか美しい魂のままでいますように。 Qu’eimi soit béni.e par la joie creative. Qu’eimi demeure une âme encore plus belle.

13 Mar 2025 · 野浪行彦

戸籍 2.0 と姓(名)同一性障がい⎯⎯氏名の自己決定権をめぐって

戸籍 2.0()に見る私たちの民度 日本には古くから戸籍というものがある。現代において、戸籍とはそもそも何のためにあるのだろうか。類似のものとしては、いわゆる住民票(住民基本台帳)というものがある。つい最近まで、両者はまったく用途の異なるものだった。住民票というのはもともと、国籍を問わず日本国のあらゆる生活者の個人情報を管理するためにあった。それに対して、現代の戸籍は、だれが日本人(日本国籍の保持者)であるかを定めること、ひいてはその第一要件(国籍法第二条)である血縁関係をたどることを目的としている。というのも、日本は出生による国籍取得に関して血縁に基づいて国籍を認める「血統主義」という立場を貫いている。そうである以上、国は全国民の婚姻関係や親族関係を網羅しなければならない。その手立てとされてきたのが戸籍である。 現在、戸籍のあり方をめぐって取り返しのつかないことが行なわれつつある。コロナウイルス流行の年でもある2020年に日本政府は「デジタル社会の実現に向けた重点計画」を掲げた。国の主導で社会全体のインフラをデジタルに置きかえてゆこうとする試みだ。たとえば行政上もフロッピーディスクや紙といった古い媒体を廃し、あらゆる業務をデジタル上で行えるようにする。そんな流れのなかで2024年に戸籍法が改正された。その結果、戸籍上と住民票上の個人情報のいっそうの統合が実現した。ひとことでいって最悪の事態である。「自治体で戸籍謄本の発行ができるようになって便利」のひとことで済ませられるような話ではない。政府が国民を管理しやすくなって何が悪いのだろう? と思うのなら、それは日々の自己家畜化によって無神経になりはてた末路だと考えていい。 政府が私たちを以前よりもはるかに簡単に「情報」として管理しやすくなったということは、それだけ簡単に私たちの人権や主権が侵害されるおそれがあるということだ。政府の打ちだした「誰ひとり取り残されないデジタル社会」というスローガンの原案がもともと「誰ひとり取り残さない取り残さない﹅﹅﹅﹅﹅」という政府主体の形だったことにも如実にあらわれているが、いま取りかえしのない形で実現されつつあるのは無害で無色透明な「デジタル社会」なのではなく、人々の自由や尊厳を極限まで踏みにじろうとする「デジタル管理社会」である。ここでは経産省が2020年に鳴りもの入りで策定したデジタルガバナンス・コード2.0()に登場する「DX」といういかにも浅はかな用語を思いおこしてもいい。デジタル・トランスフォーメーションを略してDX。「Transform」というのは、ここで「一変する」、「変形する」、「刷新する」といった意味あいで肯定的に使われている。しかし、それはむしろ主権者にとっては悪夢のような「変質」であるというほかない。 そんな状況下で今、戸籍法がさらに改悪されようとしている。2025年5月26日に施行される新たな改正法によって、住民票に記載されている氏名の読み方が戸籍上にも氏名のフリガナとして記載されることになる。それまでの戸籍では、氏名の表記面、つまり氏名をどう書くかという部分しか公証されていなかった。それが今回の改正で、氏名の音声名、つまり氏名をどう読むかという部分まで定められることになる。もうすこし別の言い方をすれば、これまでは自身の氏名をどう読むかということについては本人次第だった。そんなフリガナの自由がいま奪われ、ただひとつだけのフリガナを強要されようとしている。政府の言い分では、行政のデジタル化の推進のための基盤整備、本人確認資料としての利用、各種規制の潜脱防止といった行政上の利点があるという。しかし、それが国民(=戸籍保持者)の基本的人権を著しく損なうものであること、したがって改正法自体が違憲だということについては一切触れられていない。そして、この私たちの多くがそのことに無自覚でいる。危機感を表明する日本語の声はあまり聞こえてこない。大塚英志が『マイナンバーから改憲へ』をはじめとする仕事を通して警鐘を鳴らしつづけているように、私たちの多くはそもそも問題を問題として認識することさえままならずにいる。福沢諭吉が「日本には政府ありて国民なし」と嘆いたときから一貫してこの極東の後進国に「近代」のおとずれた試しはない。そこで、専門家でもない私にもできる範囲で、そもそもいったい今何が問題になっているのかということを記録しておく。 氏名の自己決定権とはなにか 日本国憲法では日本国民はすべての基本的人権の享有を妨げられないということになっている。国民主権や平和主義と並ぶ三大原則のひとつだ。そんなふうに日本国憲法によって尊重されているとされる基本的人権のひとつに「人格権」というものがある。ひとことでいうと、生命や身体、自由、名誉、プライバシーといった人格的な属性の不可侵性を指す概念だ。そのなかには氏名というものも含まれており、人格権から氏名権というものが導きだされることがある。日本国憲法に明示的規定はないものの、第十三条の「すべて国民は個人として尊重される」という条文によって不文法として基礎づけられてきた。最高裁判所の判例、昭和58(オ)1311で述べられたとおり、氏名はなにより「人が個人として尊重される基礎」であり「個人の人格の象徴」であるからだ。マイナンバーは個人を管理対象として特定することはあっても、人格として尊重はしない。マイナンバーはその点において氏名と鋭く対立する。 では、人格権のひとつとされる氏名権とは具体的にどのようなものだろうか。二宮周平の論説「氏名の自己決定権としての通称使用の権利」に詳しいけれど、ひとことで言えば、それは人が自分自身の名前を持つ権利のことである。人は自分自身のものではない名前で不当に呼称されるべきではないし(氏名呼称権)、自分以外の人に自分の名前を冒用されるべきではない(氏名専用権)。ようするに、望まない名前で呼ばれたり、だれかに自分の名前を騙られたりするいわれはない。ここでいう名前というのは、戸籍や住民票上の氏名にかぎらない。人には通称を含めさまざまな名前があり、それを日々使い分けている。そのとき名前の使用に不自由があってはならない。人は自分の呼称を強制されることなく、自分自身で呼称を決定する権利がある。それを氏名の自己決定権という(ちなみに、それを侵害するという点、その根拠となる憲法十三条にもとるという点で、夫婦同姓を強いる民法750条は違憲であると考えられる)。 その上でひとつ、氏名をめぐる問題のなかで見過ごせない点がある。日本語において氏名は漢字という表語文字によっても仮名という表音文字によっても表現される、という点だ。そのため、氏名の自己決定権をめぐる議論は、漢字で自分の名前をどう書くかという次元だけではなく、それをどう読むかという次元においてもなされなければならない。この点に関しては、先に言及した最高裁判所の判例となった「謝罪広告等請求事件」が参考になる。 謝罪広告等請求事件の照らしだすもの 事件の発端は1975年にさかのぼる。読売新聞の1988年2月16日付の記事によれば、在日韓国人牧師であり人権活動家である崔昌華のとりくみがNHKのテレビニュースで報じられたとき、本人が최창화チェチャンファと名乗っていたにもかかわらず、サイショウカと日本語風に呼ばれた。本人がそのことについて抗議してもNHKは訂正に応じなかった。そこで崔は「人格や民族の誇りを傷つけられた」として、謝罪放送と全国紙への謝罪文の掲載、慰謝料一円の支払い、将来の韓国・朝鮮人氏名の原音読みを求めて提訴した。結論から言うと、すでに引いた最高裁の判決のなかで述べられているとおり、崔の請求は棄却されている。その理由としては、漢字には様々な読みが可能であり、民族語音によらない日本語的な漢字の読みが慣用化されている以上、NHKの行為は「たとえ当該個人の明示的な意思に反したとしても、違法性のない行為として容認されるものというべきである」というものだった。もうすこし踏みこんで言えば「氏名は[…]人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有する」ものの、それは「不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないから、他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない」。ようするに、NHKの行為は人格権を損なうものであると大枠としては考えられるものの、それを即座に不法行為とするような法的な枠組みはない、ということである。 この事件があらわにしているのは、漢字文化圏における氏名というものの複層姓である。氏名は漢字との結びつきをとおして別様に読まれてしまう。想定外の音を呼びこんでしまう。当時は強い漢字アレルギーのあった韓国の戸籍の上で、崔昌華の氏名は「최창화チェチャンファ」とハングルのみで表現されていたはずだ。すくなくともNHKのような御用機関に対しては、崔はただそれだけを自分自身の氏名として受け入れようとした。創氏改名の歴史などを踏まえると、自分のことを「サイショウカ」という日本語の人格としてNHKに扱われるのは、端的に不愉快だったのだろう。この私にもすこしはその気持がわかるような気がする。NHKはみずからの悪質性や歴史への無知を恥じ、崔の人格権をあきらかに踏みにじっていることに対して誠意をもって謝罪しなければならなかったと私は思う。しかしそれと同時に「최창화チェチャンファ」がそもそも「崔昌華」という漢字に由来するものであるかぎり、さまざまな読み方を招いてしまうのは避けられないことでもある、とも思う。そして、崔昌華の場合とは反対に、漢字に定まった読み方がないということによって、すなわちフリガナの自由によって、人格権を守ることができた者たちがいることも知っている。 フリガナの自由によって守られるもの いわゆる在日コリアンのなかには、自身のルーツを大韓民国籍、朝鮮民主主義人民共和国籍、日本国籍のうちのただひとつに結びつけない(結びつけられない)者たちがいる。彼らにとって漢字がいかようにも読めるということは、人格の決めつけを拒む手立てにもなる。そこで思いつく故人の作家を挙げると、李良枝は「양지ヤンジ」であるとともに「ヨシエ」でもあり、李恢成も「회성フェソン」であるとともに「カイセイ」でもあった。金鶴泳は「학영ハギョン」であるとともに「カクエイ」でもあった。平野啓一郎の言葉を借りれば、複数の「分人」に結びついたものとして、彼らはそれらの氏名を使い分けていたはずだ。このような現象は、漢字文化圏のどこにでも起こりえる。そして代々の日本出身者おいても、ごくありふれたことである。 一例として、中上健次という作家のことを思いおこしてみたい。中上は「私には冠する苗字がない」と述べていたことがあった。それは中上が「私生児」を名乗っていたこととも関係がある。生物学上の父親はスズキというが、子として認知されることはなかった。生後間もないときには母親の亡き夫であるキノシタの姓を名乗り、中学生になったころから母親の再婚相手であるナカウエの姓を名乗りはじめた。しかし、いずれも自分の本当の姓のようには思えなかった。そこで、十八歳で上京してからは「中上」という漢字をナカガミと読むようになり、やがて作家としてもナカガミケンジとして認知されるようになった。その後生まれた子供もナカガミ家の子として育てられた。そもそも戸籍上の名前にもフリガナが定められていなかった以上、中上という漢字をどう読むかは本人の自由なのだった。そして本人としては、ナカガミという抽象的な感じのする名前にこそもっとも安心を感じるのだった。 これは次のように考えることもできる。中上はキノシタである自分にもナカウエである自分にも違和感を抱いていた。それは自身の「人格の象徴」や自身が「個人として尊重される基礎」にはなりえないものだった。キノシタともナカウエとも血のつながりがない。さらにいえば地元においては被差別部落との関わりから差別を招くような苗字でさえあった。そのため、自分はナカガミケンジであるともナカウエケンジであるとも何のためらいもなく自称することはできなかった。だからこそ、東京で作家としての活動をしてゆくなかでナカガミという素性をみずから作りあげることになったのだろう。そこで、氏名と人格をめぐる問題の制度上の手立てになってくれたのがフリガナの自由だった。この問題のことをここでは仮に「姓﹅同一性障がい」と呼んでみることにしよう。 姓(名)同一性障がいとはなにか 姓同一性障がいというのは、文字通り、姓の同一性に関わる障がいのことである。戸籍名のようにあらかじめ割り当てられた苗字への違和。そういった苗字がしばしばみずから自認する苗字や人格との不一致を起こし、何らかの障がいをもたらすと考えられる。それと同様に「名同一性障がい」、ひいては「氏名(姓名)同一性障がい」といったものも想定することができるだろう。英語にすれば「Gender Dysphoria(性別違和)」にならって「Name Dysphoria(名前違和)」とでも呼べるだろうか。ここで「同一性障がい」という言葉をあえて使うのは、日本語圏ではいまだに通用している「性同一性障がい Gender Identity Disorder」という言葉との単なる兼ねあいのためだけではなく、場合によっては実際に医療の対象として扱われるべきものであり、「違和」のような軽々しい日本語で切り捨てるべきものではないからである。 障がいの度合いは幅広いグラデーション上にとらえることができる。下の名をめぐる典型的なケースとしては、性別違和との併発が考えられる。自身の戸籍上の名が想起させる性(たとえば、太郎は男性的、花子は女性的)と自身の性自認とが不和をきたすようなケースである。氏をめぐる典型的なケースとしては、親子関係や婚姻関係の変化に伴って強いられた氏への違和感が考えられる(夫婦同姓を強いる民法750条はまさにこのような障がいの引き金になるものとして理解できる)。 なお、私自身も姓および名の同一性障がいにかかっている。精神科への通院をしてもいるが、問題の根本的な解決のために戸籍上の氏名の変更や住民票上の氏名の読み方の変更を求めている。「なごること、すむこと⎯⎯ホームレスとネームレスのあわいで」や「生きのびるための改名⎯⎯統一教会の二世が東京家裁に氏名変更の申立をした経緯」といった記事で述べたとおり、統一教会の二世として生まれ育った私は戸籍上の氏名を自分自身のものだと感じたことはない。そのため現在ではできるかぎり通称を名乗ることにしている。そしてそれができないたび、つまり人から戸籍上の氏名で名指されたり、あるいは自分からそう名乗らざるをえなくなるたび、非常に不安になり、自分がいったい何者なのかがよくわからなくなる。 そこであらためて、疑問が湧く。では、そんな自分をはじめとする姓(名)同一性障がい者たちにとって、戸籍法の改悪は具体的にどのような帰結をもたらすのだろうか。 平然と行なわれる基本的人権の侵害 2025年5月26日以降、全日本国民に通知が届く。そこには戸籍に記されることになるフリガナが記されている。住民基本台帳ネットワークシステムを通して居住地の自治体と本籍地の自治体が電子的に共有することになったフリガナである。フリガナが誤っているのなら、通知後一年以内に変更の申し出ができるということになっている。誤りがなければ、通知を無視しておくだけで自動的にフリガナが振られる。おそらく私たちの多くは通知を無視するだけで済むのだろう。一方、なんらかの姓(名)同一性障がいを抱えた者にとっては、それは端的にいって、氏名の自己決定権の侵害になる可能性がある。 そもそも戸籍にフリガナが振られることになる前までは、基本的には住民票上にも自由にフリガナを振ることはできた。だからこそ、これまではいわゆるキラキラネームというものが可能だった。だからこそ悪魔ちゃん命名騒動のような事件も起き、命名権の濫用が問題になることがあった。しかし、新生児のようにこれから住民登録される者には関して、もはやそのようなことはできなくなっている。法務省は2025年2月26日にフリガナの指針案を出し、法務省の定めた基準にそぐわないフリガナは5月26日以降は認められないとしたが、多くの自治体が法改正前からすでにこれを勝手に折りこみ、住民票上のフリガナの規制をはじめたためだ。そのため、住民登録済みの者が法改正前に住民票上のフリガナを変更しようとする場合に関しても、状況はすでに絶望的である。それが法務省の基準にそぐわない場合は「読み方が通用していることを証する書面」として、当該読み方が使われていることを示す資料(パスポート、預貯金通帳、健康保険証、資格確認書等)の提出が必要になる。それがなければ、住民票上のフリガナを戸籍上のフリガナとして受け入れるしかない。そして、中上家はナカガミかナカウエ、あるいはそれ以外の読み方のうちのひとつを選ぶことになり、日本以外の漢字文化圏にルーツを持つ者たちもひとつの漢字の読みを選ぶことになる。私のような統一教会の二世は教会から組織的に与えられた名前を漢字の読みの上でも強いられることになる。 日本政府の打ち出していた「デジタル社会の実現に向けた重点計画」では「この国で暮らす一人ひとりの幸福を何よりも優先に考え[…]一人ひとりのニーズに合ったサービスを選ぶことができ[る]」ことになるとされていた。そんな謳い文句のもとで今平然と氏名の自己決定権が踏みにじられている。それは日本国憲法に反している。私たちの多くはそのことに気づかずにいるが、それは結局のところ、共に暮らす社会で生きる他の人々への配慮や想像力をいまなお欠いている私たちが虫かごのなかにすし詰めにされた極楽とんぼの群れに等しいからなのだろう。私たちはいまだに「自由」というものが何としてでも死守すべきものであるということを知らない。そのツケがいつか必ず自分たちのもとに返ってくるということも。

12 Mar 2025 · 野浪行彦

足立瑞貴さんへの手紙⎯⎯氏名変更申立を棄却された統一教会の二世から東京家庭裁判所にあてて

〒100-8956 東京都千代田区霞が関1-1-2 東京家庭裁判所家事第二部 裁判官 足立瑞貴様 無事、2025年3月3日に判決文を拝受し、末尾にはあなたの氏名と押印があるのを確認しました。それがあなたの戸籍上の氏名でもあるのでしょう。そしておそらくあなたはそれを自分自身の氏名だと考えていることでしょう。つまり、誰ですか、と素性を問われたときには、きっとあなたは「足立瑞貴」だと答えることでしょう。なぜなら、判決文の言葉を借りれば、それが氏名というものの有する「特定個人の同一性を表象する重要な機能」だからです。 では、そんなあなたにいまこうして語りかけているわたしは誰でしょうか。わたしにはそれがわかりません。冗談ではなく、本当に自分が誰なのかがわからないのです。ただ、統一教会の「祝福二世」だということはわかります。信者たちが組織的な生殖行為に加担させられることよって生を受けた二世です。名も教会によって組織的に作りだされ、それを名乗らされることになりました(信者に命名権は与えられていません)。それはいわば「神の子」に与えられたコードネームのようなものです。つまり、わたしは生まれつき、個人的な名前を、わたしをひとりの個人として尊重してくれるような名前を奪われているのです。わたしをこの世界に一個人として存在させてくれる名前を持ちあわせていないのです。 昨年の夏にこの島に移り住んできてからは「のなみゆきひこ」と名乗ろうとしたこともありました。法的にものなみゆきひこでいられるように東京家裁への氏名変更の申立もしました。わたしの主張は、自身が「旧統一教会によって作り出された存在であると感じ、自身の存在自体を否定したいほどの精神的苦痛を感じるため、氏名の変更する必要がある」というものでした。そして、先日、共同通信やNHKをはじめとするメディアによって報じられたとおり、この申立が2025年2月26日付けで棄却されていたことがわかったのです。わたしは途方にくれました。わたしはいったい、何者なのでしょうか。これからなんと名乗っていけばよいのでしょうか。 ところで、あなたはコンラート・ローレンツのことをご存知ですか。刷りこみの研究で知られるオーストリアの動物学者です。刷りこみというのは、鳥類のヒナが生まれてはじめて目にした動物を親だと思いこんでしまうという現象のこと。ふしぎなこともあるものです。昨日のわたしにもそれと同じような事態が生じたのかもしれません。藁にもすがりたいような呆然自失の状態のなかで目にとまったあなたの氏名がふとこの自分自身の氏名のように思えたのです。わたしはさしあたりの通称として「足立瑞貴」を名乗ってみてもいいのかもしれません。気味が悪いからやめてほしい? しかし、考えてもみてください。わたしを個人として同定できるような名前を奪っていった者がいまもこうして平然と自身の名前を名乗っているということの意味を。こうして名乗りたくもない名を名乗らなければいけないことの苦痛を。 とうとう面倒な申立人にからまれてしまった。つまらないハズレクジを引いてしまったな、と思われたかもしれません。しかし、それが裁判官としての判決を下すということの重みであるということもあなたは承知しているはずです。たしかにあなたは国家機関の一部として職務を遂行する公務員のひとり、組織の歯車のひとつにすぎません。しかし、それでもあなたは氏名の保持者であるということ、私の生を決定的に左右することになる判決の責任の主体として名乗りをあげているのは足立瑞貴以外にないということもまた事実なのです。 そうである以上、すくなくともそれなりの論拠を持った審判を期待していましたが、いざ目を通してみて、そのずさんさに虚をつかれる思いがしました。あなたはきっと、氏名変更をめぐるさまざまな判例を注意深く読みこんだことでしょう。戸籍法にも目をとおし、氏の変更には「やむを得ない事由」、名の変更には「正当な事由」が必要であることを再確認した上で、その解釈をめぐって自分なりの思慮をめぐらせたことでしょう。あるいは、唄孝一のような法学者の学説を参照し、「結局各個別事件に対する個々の裁判官の自由裁量乃至主観にもとづく、具体的判定にまかされるほかない」ことを自覚した上で、先学の顰に倣おうと努めたのかもしれません。あるいは、2015年にマイナンバー制度が施行されて以来「特定個人の同一性」をめぐる行政のあり方が変化していること、統一教会への解散請求をめぐって宗教二世問題が衆目を集めていることを勘案した上で、現代においてなせることを見極めようとしたかもしれません。あなたが踏んでいったかもしれないそういった手続きに思いを馳せながら、わたしはあなたの言葉を吟味しました。そして、不服申立てをするほかない、と底しれない怒りに震えながら思いました。 判決文のなかであなたは「呼称秩序の維持・安定という利益と、個人の意思の尊重という利益の比較考慮」をしつつ申立を検討した結果、「[私の戸籍上の氏名の]いずれもそれ自体から旧統一教会との関連性を直ちにうかがわせるものではなく、申立人が同氏名を名乗ることにより精神的苦痛を受けているとしても、それは申立人の主観的な感情にとどまるものといわざるを得ない。前記のとおり氏及び名が社会的に重要な機能を果たしており、その変更には厳格な要件が課されていることに照らせば、申立人の主観的感情のみをもって、氏を変更する『やむを得ない事由』や、名を変更する『正当な事由』があるとは認められない」と結論づけています。 あなたのいう「厳格な要件」については、どこにも示されていません。ただ、あなたの演繹の前提として、精神的苦痛という感情(感情とはそもそも主観的なものです)の一種にとどまるものはその要件にはあたらないらしいということは、漠然と理解できます。そして、そのように考える根拠となるのが、これまでの判例ということになるのでしょう。しかし、あなたの判決にはいくつかの致命的な問題があります。論をずさんにさせているのは何より、個人の意思と秩序の維持の二つを天秤にかける「比較衡量基準」を上辺上は採用しておきながら社会的相当性のみを問題とする「社会的相当性基準」に拠っているという点ですが、さらに根深い問題があります。だからこそ、これからは東京高等裁判所において、あなた自身の言葉を検討の遡上にあげてゆくことになります。 ここではそれに先立ち、二点の問題を指摘したいと思います。なぜそれをここでするのか、そもそもなぜわざわざあなたにあててこの書状を書いているのかといえば、統一教会という社会問題を法廷という密室に閉じこめないためです。端的にいって、これは私自身の感情的な問題なのではなく、宗教二世一般に関わる人権問題です。それを司法の密室のなかで主観の問題として切り捨てようとするあなたの所作は、統一教会が社会問題化されずに国ぐるみで見過ごされつづけている現状をいたずらに再演するだけのようにも見えます。そして結局のところあなたの言葉は、統一教会問題というものが、単なるカルト問題ではなく、そもそも日本という国の人権意識や遵法意識の低さに起因するものでもあるということをはからずも露呈してもいるのでしょう。 第一に、あなたの判決は、わたしの人格権や幸福追求権、自己決定権を踏みにじるものです。わたしはあなたの判決を「自身の存在自体を否定したいほどの精神的苦痛」の源になっている氏名をこれからも「呼称秩序の維持・安定」のために名乗りつづけろ、という宣告として受けとりました。そこまでしてあなたが守りとおそうとする秩序とは何か、という疑問もよぎりましたが、なによりそれは、違憲なのではないか、という思いにもさいなまれます。日本国憲法第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という規定があります。では、国民であるわたしは国家公務員であるあなたから個人としていかなる尊重を受けたのでしょうか。わたしはただ、統一教会という反社会的な組織によって生まれながらに与えられたコードネームではなく、わたしが一個人としてこの世界に存在できるような名前がほしいだけなのです。 第二に、あなたの判決は、わたしの精神的苦痛を一個人の感情として切り捨てることによって統一教会による組織的な犯罪の被害実態を隠蔽するものです。あなたは「[私の戸籍上の氏名は]旧統一教会との関連性を直ちにうかがわせるものではない」と主張します。しかし、あなたはわたしの名が組織的な生殖行為や命名行為の産物であるということを知っているはずです。そんなあなたの口をついて出てくるこの言葉からは、いくつもの隠れ蓑(ファイヤウォールといいます)を通して組織的な犯罪を繰りかえしてきた統一教会を意図的に見過ごしてきた国の姿勢、法匪たちの姿勢があらためて思い起こされます。あなたはそのような国ぐるみの隠蔽があったからこそ安倍晋三銃撃事件が起きたこと、それが引き金となっていま組織的な犯罪の被害実態が明らかになりつつあることも知っているはずです。そんな状況下で、あなたはあなた自身の手によって統一教会問題の被害者の訴えを単なる個人の恣意としてもみ消すことにしました。しかし、私の氏名変更の訴えは、単に旧氏名がこのわたしの気に食わないという感情的な話なのではなくて、歴史的かつ組織的な被害、法的な裏付けの可能な被害をめぐる訴えなのです。 これから東京高等裁判所でどのような判決が下ることになるのか、いまのわたしには想像もつきません。わたし自身の素朴な願いとしては、氏の変更はともかく、名の変更に関しては決定を覆したいと考えています。その後の最高裁では、氏についての議論を深めることになるでしょう。わたしはあなたの判決をある種の挨拶代わりのジャブとして受けとめましたが、いまになって思えば、これは統一教会への解散請求をめぐる流れのなかでのある種の試金石といえるものになったのでしょう。今月中にでも統一教会への解散請求命令が出されるのではないか、と世間ではささやかれています。そんななかでいまこの私が強く思うのは、統一教会を解散させることによってはなにも問題は解決しないということです。憲法によって守られているはずの個々人の尊厳を踏みにじるこの国のあり方こそがいま問われているように思われます。

4 Mar 2025 · 野浪行彦

生きのびるための改名⎯⎯統一教会の二世が東京家裁に氏名変更の申立をした経緯

私は統一教会の二世です。信者たちが組織的な生殖行為に加担させられることよって生を受けた者です。山上徹也さんのように生後になってから親に連れられて入信した「信仰二世」との差別化をはかるため、教団の内部では「祝福二世」とも呼ばれています。あるいは「神の子」ともいいます。 2024年12月12日に共同通信やNHK総合によって報じられたとおり、私は今年の夏に帰国後、東京家庭裁判所に氏名変更の許可を求める申し立てをしました。申し立てが受け入れられる公算は決して高いわけではありません。とりわけ氏の変更にはさまざまな困難が伴うことになるでしょう。それでも今回の申し立てをしたのには、それなりのわけがあります。 個人的には、教会によって与えられた氏名を名乗ることに耐えがたい苦しみを感じている、というのが理由のひとつです。この氏名のために何度となく自殺をしたいと考えてきました。一方、それとは別に、そもそもこの自分たち祝福二世とはいったい何者なのか、ということを今回の申し立てをとおして自分なりに明らかにしたいという思いもあります。これはなにより、同じ苦悩を抱えこんできた神の子たちへの呼びかけでもあります。統一教会問題にたずさわる司法関係者や医療従事者、メディア関係者だけではなく、なにより同じ二世にむけて書かれています。 そこで、祝福二世という存在をめぐるひとつの問いから話を起こしてみたいと思います。それは、祝福とは呪いのことではないのか、という問いです。呪術的なものから縁遠くなってしまった現代においては、きっと奇妙に感じられることでしょう。それでもたしかに、祝福二世には呪いと呼ぶほかないものがかけられているような気がするのです。ひとことで言うと、自分を生みだした教義に背こうとすればするほど自殺するほかなくなるという呪いです。2024年11月26日の記者会見の折にも述べましたが、実際、これまで多くの祝福二世がどこまでも透明な存在になろうとするあまりに命を絶ってきました。今後も、安倍晋三銃撃事件によって引き起こされた衝撃の余波のなか、統一教会への解散請求をめぐる動きのなかで、自殺者が出てくることになるでしょう。 この呪いはもちろん、ファンタジーの世界で描かれるような神秘的な力などではありません。そうではなく、それは物語の力です。物語とは、とても簡単にいえば、言葉によって形作られた現実のことです。これから、その圧倒的な現実がいかなるものなのかについて述べます。まずはその足がかりとして、統一教会の教義を簡単に紹介させてください。 統一教会の教えと実践、その結晶としての神の子 統一教会の教義の核心にあるもの。それは「復帰」という考え方です。復帰とは、神の意志に背いて繰りかえされてきた人類の歴史の失敗をやりなおすということです。失敗の形はさまざまですが、その最たるものは、神を中心とした家族作りの失敗です。教会によれば、神は「真の家庭」を築くための男女として、アダムとエバを創造しました。ところが、エバはサタンと不義の交わりをすることで血を穢してしまう。さらにその体でアダムと交わり、穢れをある種の性感染症のようにうつしてしまう。穢れは原罪として子々孫々に伝わり、そのために人類は一度たりとも神を中心とした真の家庭を築いてこられなかったといいます。 教祖の文鮮明は、そんな歴史の失敗の巻き返しのために遣わされたメシアを名乗りました。ここでは復帰のことを英語で「リバーシー」と訳してみてもいいかもしれません。あるいは「オセロ」という類似のボードゲームのことを思い起こしてもいいでしょう。というのも、エバとサタンとの交わりが穢れの発生源であるのなら、今度はメシアとの交わりによってそれを打ち消し、血を浄めることができる、と考えられているからです。そうしてある種の血清を得た女たちがほかの男たちと交わることで、いわば正の感染爆発パンデミックが起き、人類全体の血が浄化されてゆく。そして、そんな男女たちが産みだした子は、メシアのように生まれつき原罪がないとされています。以上の考え方に基づいた組織的な生殖行為の実践はかつて「血分け」と呼ばれていました。 血分けは現在、あからさまな形では行われていません。そのかわり、それを象徴的な形に置きかえたものがあります。それが「祝福」です。世間では「合同結婚式」の名で知られているものです。祝福を受けた男女の信者は、指定された体位での生殖行為に手をつける前に「真の御父様」であらせられる文鮮明の血と愛の象徴が溶かしこまれているとされる聖酒を飲み、さらにはそれを体の各所に塗って身を浄めます。そうして象徴的にメシアと交わり、メシアの所有物になった上でこそ、真の家庭を築くことができると考えられています。 ここで押さえておかなければならない点があります。祝福二世というのは、合同結婚式に参加した男女がたまたま結果的に生むことになった子供ではない、ということです。そうではなく、家族作り、子作りこそが信仰生活の最大の目標だということ、だからこそ信者による生殖行為が組織的かつ意図的に実践されているということ、そのような実践の確かな成果物こそが、いわゆる祝福家庭であり祝福二世であるということです。 以上のことから、祝福二世が神の子と呼ばれていることの意味も明確になってきます。それはつまり、世俗的な意味での家族の子、人の子ではない、ということです。祝福二世はなにより、統一教会という神を中心とした大家族を構成する兄弟姉妹のひとりであり、文鮮明という現人神の赤子だということです。 このような大家族主義的な考え方は、一世信者とその肉親との関係を損なってきたものでもあります。特に1960年代から80年代にかけて入信した一世たちの間では、教祖こそが真の親、教会こそが真の家庭であり、肉親は穢れた俗世界にとらわれた偽りの親である、と考えられてきました。統一教会は英語圏では「文」という教祖の姓にちなんで「Moonies」つまり「文の一族」と呼ばれることがありますが、まさにこの大家族主義を端的に示すものです。世代が下ることになっても、それが今度は一世信者と二世との間の親子の絆を否定してゆくことになります。教会の言葉を使えば、信者たちの肉体はあくまでも「神の愛の王宮」にすぎません。そこで信者たちはある種の産む機械となって子作りに励むことになりますが、その結果生みだされてきた子は真の御父様の穢れなき血を引くものだと考えられています。 ところが、この大家族主義はまさにそれが組織的であるがゆえにひとつの重大な歪みを抱えこむことになります。それは、真の御父様は、子供たちに絶対的な愛と服従を求める一方で、現実の子育てに関与するわけではない、というものです。この非対称性の結果、現実においては、真の親の不在の家庭が生まれます。そこにいるのは一世も二世も含めた神の赤子たちだけです。それこそが合同結婚式によって組織的に作りだされてきた祝福家庭の内実です。人によっては、そこに天皇による人間宣言によってはじまった戦後という父なき時代の反映を読みとることもできるかもしれません。天皇は偽りの父であり、日本は偽りの国家なのだという嘆きもかすかに聞こえてきます。このことを祝福二世の目線でとらえると、彼らは世俗的な意味での家や親を奪われたみなし子の生、真の御父様からは遠く隔てられた生を与えられることになります。個々の事情はさまざまに異なりますが、基本的にはこのような実存の状況が現実に組織的に生みだされてきたといえるでしょう。 こうした状況を文字通り祝福ととるかどうかは、二世次第です。とはいえ、統一教会が反社会的で悪質な組織とみなされており、実際に無限の自己犠牲を信者に要求することでその生活を破壊してきた以上、祝福二世がなんらかの不遇を強いられることになるのは間違いありません。ときには不遇を信仰の力によって祝福に転嫁できるような場合もあるかもしれませんが、多くの二世は不遇から逃れ、自分自身の生を切り開こうとします。彼らがみずからにかけられた呪いに気づくことになるのは、まさにそのときです。 そこであらためて、祝福二世にかけられた呪いとは何かという問いに戻り、そのメカニズムを明らかにしなければなりません。 壮大なはったりによって組織的に生みださるということ 呪いとはなんらかの神秘的な力のことではなく、言葉によって現実を形作る物語の力のことである、と先に述べました。ここではそれを、騙りの力、でっちあげの力、ペテンの力と言いかえることもできます。英語では「トリック」と言えるでしょうか。ペテン師のことは「トリックスター」と言ったりします。日本語には「鷺を烏と言いくるめる」といった表現があるように、トリックスターは物事を逆転させることを得意とします。 トリックスターの一例として、シェイクスピアの悲劇『オセロ』の登場にするイアーゴという男を挙げることができるでしょうか。ちなみに、オセロというのは、物語の主人公であるヴェニスの軍人の名前です。彼が黒人であるのに対してその妻のほうは白人であることにちなんだのがボードゲームのオセロなのでしょう。あらすじをひとことで言えば、オセロが妻を殺した挙げ句に自殺する、という話です。なぜそんなことになってしまうのかというと、オセロが腹心のイアーゴにありもしない作り話を吹きこまれたからです。いわく、あなたさまの妻はあなたさまに不義をはたらいております、と。オセロはそこで嫉妬にかられて妻を殺します。オセロは生真面目ゆえに、物語を真に受け、丸めこまれてしまうのです。そしてついにはみずからの命まで絶ってしまう。それがトリックスターによる騙りの力です。 統一教会の教祖である文鮮明もまた、すぐれたトリックスターでした。王位につくためには奴隷の身にもならなければならない、という若いころの発言にもよくあらわれていますが、文鮮明は二つの極をさまざまに設定した上で、それを反転させる術を心得ていました。そしてその十八番こそ、前述の「復帰リバーシー」なのでした。トリック自体はとても単純なものです。 文鮮明はまず、われわれ神の側とサタンの側という線引きをします。次に、この世界のあらゆるもの(万物)はサタンに奪われているとします。そして、それをわれわれ神の側に取り戻すこと、黒く塗りつぶされたオセロの盤面をすべて白へと反転させることこそがメシアの使命なのだとします。では、そのためにどんな実践が必要なのかといえば、この自分とのセックスということになります。この大ぼらに神学的な信憑性を与えるため、文鮮明はまず、サタンとエバとの呪われた交わりのエピソードから話を起こし、忌まわしい現状の青写真となるようなひとつのネガを用意します。その上で、その極となるポジティブな世界線としてメシアとの性交を提案する、という流れです。このようにある種の蝶番となって世界の反転を担う者こそがトリックスターなのです。 統一教会の一世は、トリックスターによる煽りを真に受けてしまった者たちだと言えます。トリックを解消するには脱洗脳デプログラミングの手続きを踏むことになります。信者はその過程で、神とサタンという二分法に丸めこまれるままに世界を単純化するのではなく、世界をありのままの複雑なかたちで見ることを受け入れることになるでしょう。このこと自体は単なる発想の転換の問題にすぎません。そこで詐術に気づいた末、元の世界に「再復帰」することができればそれでいいし、それができず、シェイクスピアのオセロのようにみずからの命を絶つようなことがあれば、それは単なる悲劇ということになるでしょう。事態が込みいるのは、でっちあげを吹きこまれるままにひとりの人間を現実に生みだしてしまったとき、つまり物語の命じるままに祝福を受けた男女が子作りをするという喜劇的なハッピーエンドをむかえてしまったときです。 神の子がある種の喜劇の渦中に生みおとされるということ。たとえそれが一世にとっては受難に満ちた信仰生活のひとつの目的エンドだったのだとしても、二世にとっては覚めない悪夢の始まりにすぎません。悪夢のなかで、あなたは神の子なのだとささやかれつづけます。そして、俗世はサタンの穢れに満ちているので、決して神様の庇護の外には出てはいけない、と命じられます。しかし、それでいて、肝心の父なる神はどこにもいらっしゃらず、神の子たちが神への愛の結晶として生みだされ、息をしていることにさえ気づかない。それゆえに、多くの祝福二世はみずからの不遇のなかで、やがて自分たちを丸めこんでいる力に気づかされることになります。 おかしいのは俗世ではなく、わたしたちのほうなのではないか、という疑問がよぎります。疑問を突きつめてゆくと、清らかな血を引いた神の子とされる自分のほうこそ、おぞましい化け物なのではないか、という思いにもさいなまれることになるでしょう。元古参信者のひとりが出版した『六マリアの悲劇』という暴露本の副題「真のサタンは文鮮明だ」が物語っているように、メシアというのは、エバと交わったサタンを反転させることによってなりたっています。それを再反転させれば、鷺が烏になる。結局のところ、オセロの石には白と黒の両面しかない。白でなければ黒になり、黒でなければ白になる。両者のあわいになるようなグレーゾーンがないのです。 それこそが祝福二世を苦しめる呪いです。それはつまり、いずれにしても自分自身は普通の存在ではありえない、という呪いです。自分が何者かであるとすれば、鷺のように清らかな神の子か、烏のように穢れた化け物になる。そのどちらか以外の何者にもなりえない。というのも、一世には帰るべき場所があり、再復帰すべき「普通」があります。それに対して、祝福二世は生まれながらにそのような場所をはじめから奪われています。なぜなら、人生のどこかの段階で詐術に丸みこまれたのではなく、そもそもみずからの家庭環境やみずからの肉体そのものが詐術の結晶にほかならないからです。そんなはったりを否定することは、みずからの存在の否定を招いてしまうのです。 ここまではこのように言葉を重ねることによって、祝福二世のおかれた実存的な状況について述べてきました。すでに明らかなように、統一教会の教えを踏まえ、それがある種の呪いや物語として作用しているということを理解することなくして、祝福二世の苦しみの所在は見えてきません。とはいえ、祝福二世にかけられた呪いをとても端的な形で体現しているものもあるのです。それこそが祝福二世に与えられた氏名です。 氏名という呪い、あるいは愛の紐帯 氏名は、近代の典型的な「家庭」、すなわち性愛によって結ばれた異性(ないし同性)とその子供たちを核とする世帯において、親から子に与えられる最初のものです。氏名を与えられるということにはさまざまな社会的な働きがあり、現実にさまざまな帰結を伴います。そのひとつに数えられるのは、子供の子供としてのアイデンティティのよりどころになる、というものです。ようするに、氏名をとおしてこそ人はだれかの子供でいられるのではないでしょうか。 子供は人生のどこかで「自分は何者なのか」という問いに直面することになるかもしれません。氏名はそこにさしあたりの答えを与えてくれるものであり、そもそもそのような孤独な問いを抱いてしまうことから未然に子供たちを遠ざけてくれるものでもあります。 自分が◯◯家の一員の◯◯であるということ。多くの場合、それは子供にとってポジティブな意味を持ちます。というのも、子供はしばしば両親の愛の結果として、さらには個人の幸せを願われた愛の対象として、世界に生まれおちてくるからです。そのような存在としての〈子供〉が発見されたのが、そもそも近代という時代なのです。子供の発する「自分は何者なのか」という孤独な問いが愛によって報われる時代です。 そんな時代において、子供が両親(あるいは、そのどちらか)と同じ「氏」を持つということは、言語学的な観点においても、みずからが帰属するひとつの「ウチ」を持つということでもあります。日本語において、よその家の人は基本的に氏によって名指されます。たとえば、近所にフグ田マスオという人が住んでいたとして、その人のことを「マスオさん」ではなく「フグ田さん」と呼ぶからこそ、その人が自分のウチの外にいることが明確になる。なぜなら、近代社会の伝統においては、同じウチの者は同じ氏を共有しており、そうである以上、同じウチの者が氏によって名指されることはなく、それゆえにこそ、氏で呼ぶということが部外者の印になるからです。 同じウチの者同士の呼称に関して、やや特別な規則があります。それをひとことで言うと、年少者は年長者によって名指される(たとえば、姉が弟を「カツオ」という名で呼ぶが、弟は姉を名指せない)というものです。多くの核家族においては、まず「パパ」や「ママ」、あるいは「お父さん」や「お母さん」をかたる年長者がいます。そして、その対になるものとして、子供はたとえば「のび太」として名指されることになります。つまり、近代の日本語において、親から与えられた名というものは、いかなる文脈からも切り離された固有名としてあるのではなく、なによりも親族の呼称の体系のなかに居場所が与えられているということです。そして「のび太」という名であれば、そこにはきっと、のびのびと育ってほしい、といった願いでもこめられているのでしょう。愛は切なる願いの形をとり、名がその結晶となります。このように、近代的な家庭において、氏名は子供の子供としてのアイデンティティを支える上での重要な役割を果たしています。 以上のことを踏まえると、統一教会がいかなる時代錯誤をしているのかということ、それがいかに祝福二世を苦しめているのかということが見えてきます。前述した統一教会の大家族主義は、異性(ないし同性)間の性愛や親子間の家族愛を核にして成りたつような「家庭」を偽りとして退けます。つまり、統一教会のいう復帰とは、近代的な家族観の否定のことでもあるのです。それはあらゆるものを真の御父様を中心とした一つの家の屋根の下に組みいれようとします。歴史的には、それはかつての日本で喧伝されていた八紘一宇という儒教思想の焼きなおしということになります。 そんな統一教会が組織的に行ってきたことがあります。祝福家庭に生みおとされた神の子への名付けです。生みの親には命名をさせない。そうすることで世俗的な親子の紐帯に楔を打ちこむことができます。そこではさらに、あらかじめ定められた漢字が用いられることによって、同じ大家族の兄弟姉妹のひとりであるという烙印が押されることになりました。ここでは一例として、1982年の合同結婚式でできた祝福家庭における名付けを見ておきましょう。公称では六千組の男女が参加したということから、彼らは「六千双家庭」とも呼ばれています。統一教会のウェブサイトに掲載されている命名文字一覧によれば、その子供たちの命名には下記の漢字のうちのいずれかを使用しなければならないことになっています。 男子:福、秀、興、孝、聖、国、権、顕 女子:佳、仁、誉、情、香、蘭、多、利、思 これらの漢字は真の御父様の近親者の名にちなんだものであると考えられます。メシアとして血分けの実践をしてきた真の御父様に多くの隠し子がいることは間違いありませんが、父として正式に認知した子供は下記の十四名ということになっています。 文孝進(長男、洪蘭淑と結婚)、文興進(次男)、文顕進(三男)、文国進(四男)、文権進(五男)、文栄進(六男)、文亨進(七男) 文誉進(長女)、文恵進(次女)、文仁進(三女)、文恩進(四女)、文善進(五女)、文妍進(六女)、文情進(七女) 六千双家庭に生まれた祝福二世たちは、たがいに兄弟姉妹として同様の漢字を共有しているだけではなく、文鮮明の子供たちとも共有しているということになります。文鮮明の子供たちは真の子女の鑑であり、祝福二世はその似姿コピーであることが求められてきましたが、実際、薬物中毒や家庭内暴力、自殺、事故死といったスキャンダルの数々が報じられてきた真の子女と同様、祝福二世の多くが機能不全の家庭のなかでさまざまな困難を抱えてきたことは間違いありません。 では、これらのことはいったい何を意味するのでしょうか。繰りかえしになりますが、それをひとことで言えば、祝福二世は生みの親の子である以前に文鮮明の子である、ということです。つまり祝福二世は、合同結婚式によってできた祝福家庭に生まれながら、祝福家庭の子ではない。みずからがその氏を名乗る家庭の一員でありながら、そうではない。だからこそ、祝福二世は生みの親を「お父さん」や「お母さん」と呼びながらも、文鮮明のことを「真の御父様」と呼ぶことになるのです。このダブルスタンダードにこそ多くの祝福二世が直面しつづけてきた矛盾の核心があります。 ここでは「真」という形容表現がひとつの詐術として機能しています。「真」の裏には「偽り」があります。文鮮明こそが真の家庭の真の御父様であるからこそ、そのコピーである自分たちの家庭はすべて偽物であらざるをえない。このような板挟みの状況を端的に示しているのが、氏と名の不協和です。あるいは、神の子は氏名から二重に疎外されているといってもいいかもしれません。 第一に、教義においては真の御父様の血を引く者であるにもかかわらず、「文」を名乗ることが許されず、偽りの氏を名乗らされているということ。第二に、それとは反対に、現実においては偽りの家で暮らしているにもかかわらず、組織によって与えられた神の子としての名を名乗らされているということ。これらの矛盾のなかで、氏と名が噛みあわないままたがいの「真らしさ」を損なうことになります。 祝福二世においては、このことが「自分は何者なのか」という問いに答えることを著しく困難なものにしています。すくなくとも近代的な意味での愛によって、すなわち世俗的な家族からの解答によって、問いが報われることはありません。というのも、祝福二世は性愛の結果として生まれてきたわけでもなければ、親子愛の対象として生まれてきたわけでもないからです。では、何のために生まれてきたのか。何を原因として、また何を目的として、生まれてきたのか。この問いには、はじめから非近代的かつ明確な答えが与えられています。神の子は、真の御父様への愛のために、その結晶として生みだされてきています。ところが、現実には、その真の御父様から見放されている。真の御父様はそもそもそんな子供たちが彼への絶対的な愛と服従のために生身の体を持って存在し、息をしているということさえ感知せずにいます。 自分は神の子である、とみずからを詐術によって言いくるめることができなくなったとき、祝福二世の「祝福」は「呪い」へと反転します。山上徹也さんのような信仰二世であれば、自分は何者でもあるのかという問いに答えることはそう難しくないでしょう。さしあたりは、自分は山上家の子である、とか、自分は徹也と名付けられた者である、という答えが与えられるはずです。そうして、世俗的な性愛や親子愛を生の根拠とすることができるはずです。まさにそれゆえにこそ、山上さんはみずからの帰るべき場所を崩壊させた統一教会への怒りを抱くことができたのでした。 祝福二世には、自分がなによりも普通の「人の子」であるという答えははじめから選択肢にありません。みずからの生の根拠が教義の実践のなかにしかないからです。したがって、自分が神の子でもないとすれば、さしあたり自分は化け物であるか、さもなくば自分は何者でもない、ということになります。人の子であるということ、人として矛盾なく名乗ることのできる氏名があるということは、すでに自分が何者かであるということですが、祝福二世にはそれがありません。 ここには祝福二世に直面しているアイデンティティの問題があります。これは、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスをめぐる議論とは異なっています。つまり、なんらかの当事者性や被害者性が問題になっているわけではありません。そうではなく、祝福二世にとって、アイデンティティは文字通り、自分は何者なのかという問いの困難としてあらわれています。この問いには答えがありません。祝福二世が訴えるべき被害があるとすれば、まずこの「ない」ということ、その身も蓋もない貧しさにあります。「ない」ものは見えませんが、祝福二世はたしかにそんな不可視の欠如にさいなまれています。 神の子にかけられたこの呪い自体は、組織的かつ構造的なものです。しかし、呪いへの対処の仕方はさまざまです。 私はといえば、氏名を変更することにしました。これはたまたま私が長らく日本を離れていられたこととも関係があります。私はフランスで暮らしていたのですが、そこで自分の氏名がアルファベットで表記され、フランス語風に発音されることが、私にとっての救いでした。日本にいたころとは別の自分自身を生きているような気持ちになれたからです。ところが、日本に戻ってきた途端、自分の氏名が呪術的なほどに生々しい漢字の表記を伴っていることに思いあたりました。そして、新しく出会った人に自分の姓を名乗り「◯◯さん」と当たり前のようにその姓で呼ばれるたびに胸が疼きました。なぜなら、それはなにより私にとっては祝福家庭の一員であることの印であるからです。その一方で、ひさしぶりに生みの母親にあたる女との再会をしたときには「◯◯くん」と下の名で呼ばれ、そのことにも強い不快感を覚えました。下の名で人を呼ぶことはその人を身内呼ばわりするということですが、その名もまた、私にとっては統一教会という大家族の一員であることの印でもあるのです。かといって女が私のことを「◯◯さん」と氏で呼ぶことはできない。祝福家庭の一員である彼女自身の氏と同じものでもあるからです。そのように考えると、今の私はこの社会において、さしあたり無名の人間になるほかないのです。 私自身は、一度として、自分の氏名を自分自身のものだと思ったことはありません。それは結局のところ、自分が本当の意味でのだれかの子であると思ったことはないためなのでしょう。生みの親にしても、真の御父様にしても、親であること、親として子を愛することを放棄しつづけてきました。生みの親はただ、埼玉県神川町にあるメッコール工場に招集された末、教祖の気まぐれひとつによって豚のようにつがわされ、組織の操り人形となって私を生みだしただけです。その後、私に虐待を繰りかえすことはあっても、親らしいふるまいをしたことはありませんでした。結局のところ、彼らもまた、真の御父様の愛に飢えた同じ屋根の下の兄弟姉妹たちなのです。ところが、真の御父様は私たち兄弟姉妹がこんなにも愛してやまなずにいることに気づいてくださらない。ただ、私たちが真の御父様の手足となって新たな神の子を生み育てることを漠然と期待なさるだけです。 いまになって思い出すことがあります。私の小学生のころの夢はホームレスになることでした。それを作文にしたところ、当然奇異の目でみられました。いま思えばあれは自分なりのSOS信号だったのでしょう。結局、それは単なる夢でなかったのです。自分自身が現にその渦中にいる悪夢なのでした。自分は現にホームレスであり、みなし子であり、存在が悪夢そのものなのでした。自分が自分でいられるために帰るべき場所のことをホームと呼ぶことが許されるのなら、私にははじめからそんなものはありませんでした。自分が自分らしくいられる名前もまた持ちあわせていません。私の氏も、私の名も、私には無縁なもの、無責任なものとして、私に張りついている。それを耐えがたいほど苦痛に思うホームレスのみなし子です。私はこの悪夢から抜けだすために、何度も自分自身の存在を抹消しようとしてきました。その最良の方法はこの肉体を破壊することだと長らく思っていました。しかし、もっと別の道があるのかもしれない。たとえば、氏名変更をすることで新たな生の可能性を探ることもできるのかもしれない。愛を、氏名を与えてくれる者がいないのなら、自分で与えるしかない、と今ひさしぶりのメッコールを手に思います。それが祝福二世としての自分にかけられた呪いから抜けだすための一つの手立てであるような気がするのです。

19 Dec 2024 · 野浪行彦

統一教会の二世として東京地方裁判所司法記者クラブで話したこと(2024年11月26日)

2022年7月8日に安倍晋三銃撃事件が起きて以来、統一教会(全国世界平和統一家庭連合)がこれまでに起こしてきた問題にあらためて光があてられるようになりました。そんななかで全国統一教会被害対策弁護団が結成され、被害者たちによる集団交渉の申し入れの手続きがすすめられています。 2024年11月26日には第九次通知が教団に送られ、訴えを起こしている被害者の数はあわせて194名となりました。また、同日の14時には東京地方裁判所の司法記者クラブで全国統一教会被害対策弁護団による会見が開かれ、赤旗や産経新聞、Yahoo!ニュースといったメディアでとりあげられました。 記者会見では新たに名を連ねた16人の被害者のうちのひとりが宗教二世として短い談話を発表をしました。参考までに、その原稿をここに載せておきます。 私は統一教会の二世ですが、正確には、いわゆる祝福二世というものです。祝福二世というのは、教会によって組織的に子作りをさせられた信者の子どものことです。神の子とも呼ばれています。 私は、今年の夏までフランスで大学教員をしていました。フランスは、日本に比べてはるかに気楽でした。なぜかというと、嘘をつかなくてもよかったからです。日本では、とにかく人を騙してきました。家族から虐待を受けてきたことや、狂信的な家庭で生まれ育った自分の素性というか、アイデンティティについて、ずっと隠しつづけてきました。そういう二世としての現実から目を背けるため、逃げるために、日本を出たのですが、そのおかげでフランスではほんとうにおだやかな暮らしができました。自分が二世であるということさえ忘れていたくらいです。ある意味、自分自身まで騙しとおせたということなのでしょう。 ところが、二年前に安倍晋三銃撃事件が起きて、ちょっと言葉にはできない衝撃を受けました。いままでの自分の人生はいったい何だったんだろう。嘘をつきつづけて結果がこれなのか、と思いました。自分のことがひたすら恥ずかしかったです。それで、今年の夏に帰国して統一教会にむきあうことにしました。そんななか、別の二世の方が集団交渉に参加して記者会見をなさったのを知りました。それに励まされて、こうして声をあげることにしました。 私がいちばん訴えたいこと。それをひとことでいうと、生まれたときから人間としての尊厳を踏みにじられつづけてきたということです。 祝福二世というのは、ひとりの人としてではなく、モノとして、組織のための道具として、神に絶対的な忠誠を尽くす兵士として、組織的に生みだされています。これは、統一教会の教義にかかわることなのですが、どの信者にも求められているのは、神の子を作るということ、家庭を作るということです。それが信仰生活の最大の目標です。家庭を作り、神の子を産むことができなければ、地獄に落ちると考えられています。だから、私にも生物学的な意味での両親がいますが、この二人は、教義のため、組織のために、組織的な縁組をさせられて、私を生まされたわけです。そして、神の子として生まれてきた自分も、次世代の神の子を産みだすことを求められます。 ようするに、信者の肉体というのは、神の子を生む機械のようなものだと言えます。教会の言葉では「神の愛の王宮」ともいいます。肉体というのは、自分の所有物ではなく、神の所有物だという考え方です。ひとりの人間として尊重はされていない。だから、そこでいろいろな人権の侵害が起きる。恋愛が禁止され、教育が軽視される。 私自身、実際、生みの親に親らしいことをしてもらった記憶はあまりありません。二人とも自分たちが親だという意識が完全に欠如していました。女親のほうは、ほとんど家にもいなかったし、男親のほうはたいてい自室にひきこもっていました。家はいつもごみ屋敷で、足の踏み場もありませんでした。彼らを含め、徹底的に自己肯定感を貶められてきた。自分自身、組織的に生み出されてきたわけなので、そんな化け物じみた自分自身の存在が苦痛でたまりませんでした。存在していることが苦痛でした。 統一教会の教義は神の子を組織的に量産しようとします。そんな教義を否定するいちばんの方法は、自殺をすることなのかもしれません。だから実際、多くの祝福二世が自殺してきました。つまり、教義によって生みだされてきたものが、その教義に背こうとするときには、自殺においやられるわけです。その悪質性、非人道性について、つきつめて考える必要があります。 人間には、人間としての尊厳があるのではないでしょうか。人は、モノではなく、人間らしく扱われなければいけません。これは当たり前のことですし、それを平気で踏みにじってくるのがこの日本という国なのだとも思うのですが、人はなにかの手段や道具として扱われるのではなく、その人自身の自由や幸福がなにより尊重されなければいけません。 だから、統一教会が組織的な形で信者に生殖を行わせているということは、決して許されていいことではありません。それは人間の尊厳に対する罪ですし、生まれてきた子どもたちは、自分が存在しているということそのものに一生をかけて精神的苦痛を感じつづけることになります。そのような子どもたちを生み出した統一教会に対して、然るべき法の裁きがくだされるのを願っています。 今回は、祝福二世という立場で私がお話をする機会をいただけましたが、統一教会の二世といっても、さまざまな二世がいて、それぞれの被害の内実は違います。たとえば、安倍晋三銃撃事件を起こした山上徹也さんは、いちおう、統一教会的には、信仰二世という立場にあります。そして、信仰二世のなかにも、いろいろな立場の違いがあるはずです。 それでも、ひとつ言えるのは、それぞれの仕方で、人生を損なわれたということ、人間としての尊厳を踏みにじられてきた、ということです。立場はちがっていても、その点できっと手をとりあうことができる。今回の私のお話がメディアにとりあげられるのかどうかはわかりませんが、もしなんらかの形で報道されることがあるなら、同じ二世に伝えたいこと、というか、過去の自分に伝えたいことがひとつあります。それは、自分たちは孤独ではない、ということです。自分もこれまでは圧倒的な無力感に打ちひしがれてきました。それで、現実からずっと逃げてきました。ほんとうは同じように苦しんでいる仲間がたくさんいるのに、過去の自分はそのことにも目を背けつづけてきました。 しかし、いまはちがいます。いまは、こうして声を上げる二世が出てきました。そして、この全国統一教会被害対策弁護団による集団交渉の枠組みのなかでも、その声がとりあげられるようになりました。弁護団のウェブサイトには、電話やメールでの相談を受けつけています。どうかいっしょに声をあげましょう。 写真 (c) 春増翔太 20240921

29 Nov 2024 · 野浪行彦

浮浪者モモにまなぶ生活保護術⎯⎯ひとりではじめるのら公務員生活

暇ってなんだろう あなたは明日暇ですか。最近、日本語を勉強中の人にそうたずねられて、すこし困ってしまった。仏語圏から来た人だったから、たぶん「Es-tu libre demain ?」という文が念頭にあったのだとおもう。英語にすれば「Are you free tomorrow?」。それを逐語的に日本語に置きかえたような質問だった。 あなたは明日暇ですか。日本語としては、こころなしアグレッシブな感じがする。ひとつには「あなたは」という言いまわしがあまり日本語らしくないせいかもしれない。「明日、暇ですか」というだけで事足りるから、わざわざ「あなた」呼ばわりをすると、角が立ってしまう。 それから「暇」という言い方。これにもすこし尖ったところがある気がする。もちろん、それはこの自分が現に暇をしているということもあったとは思う。明日だけでなく、明後日も暇。というか、つねに暇だ。それを言いあてられてつい動揺してしまった部分もある。 ただ、そんな個人的事情をさしひいても、相手を暇呼ばわりするのは、そもそもあまり穏やかではない。子供同士の会話で「明日、暇?」というのはわかる。ある程度の年ごろまでは、自分が暇をしているということを素直に受け入れられるのだろう。しかし、大人の間ではむしろ「明日、空いていますか」や「都合はどうですか」、「時間はありますか」といった言い方が好まれるむきがある。人の時間はあくまで貴重なものなのであって、それをありがたく割いていただく。暇人に暇潰しをさせるわけではない。大人になるときっと、そんな発想をするようになっていく。 そもそも、暇というのは何なのだろう。本来そこにあるべきないけれど仕方なくそうある。そんな含みも感じられる。いわば、白い壁にできたほんの小さな傷のようななにか。塗り潰しておくにこしたことはないもの。暇。よく似た字面の言葉に「瑕きず 」というものがある。「ほとんど完全である中に、たまたま一つだけあるわずかな欠点」。暇と瑕。よく見ると、同じ「叚か」の字をともなっている。 この「叚」という謎の字。一説には、原石の受けわたしの様子を象ったものらしい。そこから「貸し借り」や「仮の」、「不完全な」という意味に転じたという。だから、たとえば「霞」というのは雨の原石のような状態をさしている、という説を見かけた。雨にみたない雨。雨としては欠けたところがある。それが霞なのではないか。では「暇」という字は? 何をあらわしているのか、正直よくわからない。漢字をつくづく眺めてみても、謎は深まるばかりだ。 いちどひらがなに開いて「ひま」という和語について考えてみることもできるかもしれない。辞書には「手空きの時間・状態」や「物と物との間の空所。すきま。すき」、「人と人との間にできた気持ちの隔たり。不和」、「手抜かり。油断」というような説明があった。ある種の余白。余計なはみ出しものでもありながら、それと同時に、満たすべき欠如でもあるような。 暇とはいわば、持てあましてしまった隙間のことなのだろうか。単なる空き時間のことではなくて、どうしても使い道の見いだせなかった空き時間。うまく時間管理ができなかった不手際のせいで生じてしまった残余。できることならそれを埋めたかった。しかしそれでも最終的に残ってしまった半端分。ある種の手づまりのなかで。 暇。いずれにしても嫌味な感じは拭えない。暇人呼ばわりをされていい気になる人はたぶん少ない。暇はあくまで一過性のもの、暫定的なものにすぎず、時とともに消えるべくして消える。人として人生をかけて暇そのものであるようなことは、ありえない。それではただの穀潰しではないか。なんのために生きている? 猫という暇の権化みたいな生き物ならまだしも、まがりなりにもあなたは人間でしょう。しかも大の大人でしょう。そんな冷ややかな声も聞こえてくるような気がする。 たしかに、自分のまわりの大人たちを見ても、暇そうにしている人はあまりいない。それは単に日々の職務に追われているからということでもなくて。仮に無職の身であっても、忙しくしている人たちがいる。この世界には、読むべきものや見るべきもの、聴くべきもの、いいねやシェアをするべきものであふれている。だから、空き時間はできたそばから埋まってしまうことが多い。一瞬トイレに立つときでさえ電話を手放さずにいる。 情報のあふれかえった現代において、暇かどうかは気の持ちようでもあるのだろう。今暇なのかどうかは、自分が決める。自分で決める。そしてきっと、自分自身に対しても他人に対しても、多忙をよそおっているほうが気楽なのだ。そうすれば、自分が今すべきことをしている感が出る。だから大人の知恵として、暇であることをみずから禁じる。人生に与えられた時間はかぎられているのだから、持てあましていい時間などない、と自分に言いきかせる。その結果、子供のときにはあんなに享受していたはずの暇が、ある種の恥ずべきものに変質してゆく。暇人でいることがタブーになってゆく。 自由を持たないというアナキズム 暇ではないということ。自分がすべきことを知っていてそのために自分の時間を有効活用しているということ。現代の日本においてはそれが「生産的」なことだとされていて、それが「ゆたかさ」をもたらしてくれるとも考えられているようだ。しかし、このような考え方が決して当たり前ではない時代がつい最近まであった。そのことを教えてくれたのは、ミヒャエル・エンデの『モモ——時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』だった。 モモは、ホームレスの女の子。どこにも帰るべき場所を持たない。しかし、ただそれだけではない。こういってよければ「タイムレス」な女の子だったのかもしれない。すこし奇妙な言い方になるかもしれないけれど、モモは時間も持っていない。そのため、時間を割く﹅﹅ということ、なにかのために有効活用するということがない。モモにとっては、時間は量に換算できるもの、空間的な広がりを持つものではないようなのだ。多くの現代人にとっては、時間はさまざまな用途のために割り振ることができるリソースとしてある。一年や一ヶ月、一日、一時間といった単位があるから、それで時間を区切っていって、自分なりの時間割を組みたててゆく。過去から未来にいたる時間の流れを自分の活動によって刻んでゆく。そういったことがモモにはできない。そのかわり、人の話に耳をかたむけるのは得意だ。いつまでも延々と話を聴いていられる。 では、モモは暇なのだろうか。暇とはちょっとちがう気がする。というのも、いわばモモには「今」しかない。暇とは、隙間のことだ。隙間というものは、分割された時間のなかにだけ生じる。たとえば、午後七時から八時までは夕食の時間で、十時から翌朝の六時までは就寝の時間だけれど、夕食から就寝までの空き時間をどんな予定で埋めていいのかわからない。それを暇と呼ぶなら、モモの生きる「今」にはそのような隙、つまり分割の痕跡がない。では、モモはいったい何なのだろう。 モモは自由である、と思う。とはいえ「自由」というのは、日本語としては、やや堅苦しい。英語にすれば「Momo is free」。仏語では「Momo est libre」。かなりくだけた文だ。それでいて「暇」という日本語のように難癖めいてもいない。自分の時間などが使用可能(available / disponible)といった程度の意味で、日常的に使われている。「空席(free seat / place libre)」というときのように、空いた隙間、埋めることのできる隙間がある、という意味。モモはその意味で、自由そのものなのかもしれない。しかし、モモは自由を所有しているわけではない。自由そのものであるということと自由を所有しているということとは、とても違う。 この違いについてはきっと、これまでいろいろな人が考えてきた。カール・マルクスもそのひとりだ。マルクスいわく、資本による搾取の構造のなかで、労働者は二重の意味で「自由(frei)」あるという。第一に、奴隷と違って、自分の労働力を切り売りするかどうかをみずから決めることができるということ。つまり、自由(可処分時間や労働力)の所有者であるということ。そして、その自由をみずからのために行使する自由(自己決定権)の所有者でもあるということ。第二に、生産手段をはじめとする材からみずからが切り離されているということ。ひいては、あらゆるしがらみに縛られずにいるということ。つまり、自由そのものであるということ。着の身着のままで何者でもなく、自身が売り物として所有する自由以外は何も持たざる者だということ。「Duty Free」のことを日本語では「免税」というけれど、そのような意味で、自由人であるということを除いたあらゆることから免じられている。 いまでは廃れてしまった日本語としては「フリーター(自由人)」という語にもこのような「自由」の二重性をかすかに聞きとることができた。現代でいう「非正規」のような身も蓋もない言いまわしとちがって、社畜として拘束されず、何者であることからも免じられているという意味での自由の積極的な意味が辛うじてこめられていた。あえて何者でもないことを選びとる。何者でもないことを強いられるようになった現代においては、もはやこの「あえて」が単にそらぞらしくひびくだけだとしても。 では、モモはある種のフリーター(自由人)だと考えることができるだろうか。マルクスのいう第二の意味において、つまり着の身着のままであるという意味においては、フリーターに通じるところがあるかもしれない。しかし、第一の意味での自由を所有しているわけではない。モモ自身は手空きなのに、空き時間はない。したがって、労働者としてそれを切り売りすることもできない。その点においては、不自由でさえある。むしろ奴隷に近い。 労働者という自由人とちがって、奴隷は自由に自分の自由時間を使うことができない。そのため、逆説的な言い方になるけれど、奴隷は自由から自由である。つまり、マルクスのいう第一の意味での自由(可処分時間や自己決定権)から免じられている。そして、そのように自由でいられるのは、奴隷が主人の所有物だからだ。労働者が自由を市場で切り売りしなければ生存できないのに対して、奴隷にはそもそもそんな選択肢が与えられていない。 モモの場合は、主人のいない奴隷のようなものなのかもしれない。自分自身をふくめ、だれも自由を所有していない。モモはいわば「今」という時間に隷属している。モモの無力のなかで、自由は自由として手つかずのままそこにある。だれもそれを盗むことができない。モモはいわば、暇を持たない暇人。隙だらけというより、隙そのものだから、それに引きつけられてくる者たちがいる。そうして、そこにちいさな重力が生まれ、一種のアナキズムが芽生える。 時間の高騰と囲いこみのなかで 時間が一種のモノとして捉えられるようになったのは、いつごろからなのだろう。近代的な意味での自由や個人、所有といった観念が生まれたころからだろうか。すくなくとも「時は金なり」という格言が十八世紀に出てきたときにはすでに時間はある種の材、ひいては個々人の私有物と見なされるようになっていたのだとおもう。時間が私有物になるということは、売買などの交換の対象になるということ。それはようするに、時間が金銭などに換算可能なものとして市場の論理のなかに組みこまれるということでもある。 機会損失という考え方が生まれたのも、きっとそのころかもしれない。機会損失というのはつまり「何もしない」ということが「無為に過ごす」という負の行為になるということだ。たとえば、時給千円で雇われている非正規労働者がいたとする。そして、その人がある日の午後一時から六時まで何の仕事の予定も入れなかったとする。そのとき、五千円分の機会損失をしたと考えてみることができる。自分の労働力を売る自由のなかで、売らないという選択肢をとった。見方を変えれば、労働によって得られたはずの五千円の対価として五時間分の自由を得るという選択肢をとったということだ。 経済合理的には、そういう話になる。いつからかこうして「何もしない」ということまでもが損得勘定のなかに組みこまれるようになった。そのことに無自覚でいられるかぎりは、自分自身が時間の無駄使いをしているとは感じない。ちょうど為替相場の動きを知らずに日本円を貯めこんでいる人が、実は大きなリスクをともなう投機的な賭けに出ているということにはつゆほども気づかないように。ところが、自分の行動のいちいちが市場のなかで知らずしらずにしている選択なのだということ、自分がそのような自由につねに晒されているということを意識すればするほど、人は無為に生きることができなくなる。あらゆるものをトレードオフと捉えるようになる。トレードオフとは、つねになにかが別のなにかの対価としてあるということだ。一方を求めれば、もう一方は犠牲になる。 このようなトレードオフ思考のなかでこそ、暇というもの、つまりは非生産的な時間というものが目の敵にされてゆくのかもしれない。時間が希少な資源と見なされるようになり、時間の価値が高騰すればするほど、それに見あうだけの生産性が求められてゆく。その結果、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』に登場する守銭奴のように、もっぱら経済合理的な最適解を追い求めるあまり、非生産的な活動がことごとく味気ない時間の浪費のように感じられるようになる。貴重な時間が逃れてゆくような焦燥感のなか、生産性への強迫観念のなか、時間の出し惜しみをするようになる。それは端的に、生を貧しくしてゆくばかりだ。 ここではいわば、時間の囲いこみ、魂の囲いこみが起きていると言えるのだろう。そのときに失われているのは、ゆとりである。ゆとりとは、余裕のこと、遊びのことだ。語源的には、ゆったりしているということ、ゆたかであるということ。暇という語と同様、なんらかの残余を指す。ゆとり教育にまつわる風評被害によって、この「ゆとり」という語もそこはかとない蔑みの的になった。とはいえ、暇という言い方に比べて、ゆとりや余裕、遊びのほうには、いくぶん肯定的なひびきがあるような気がする。 ゆとりは、生産性の向上によっては得られない。私有物として囲いこまれたそばから失われてしまう。つまり、ゆとりはつねにだれのものでもないものとしてある。ゆとりとは、だれにも所有されずにいる自由そのもののことだ。 昨今の行動経済学では、ゆとりの欠乏はさらなるゆとりの欠乏をもたらす、ということが明らかになってきているようだ。センディル・ムッライナタンの『いつも「時間がない」あなたに』という本のなかでは、ゆとりのない人がまさにそれゆえに時間的にも金銭的にもますます追い詰められてゆくような負のスパイラルについて論じられている。トレードオフ思考のなかでは、目先のことしか考えられなくなり、突発的な事態に対応できなかったり、長期的な展望を持てなくなる。つまり、現在の自分自身の利益という点からしか世界を見ることができなくなってしまう。思考に遊びを欠いているので、状況が好転するきっかけにもなるような様々な可能性が視野に入ってこない。さらに、トレードオフ思考においては、あらゆるものに代償がつきものである以上、ともすると現状を仕方なく受けいれてしまう。かつての日本にも、痛みなくして改革なし、という甘言につられ、あまりにもいたずらな現在の痛みに甘んじてしまう人たちが大勢いたように。それが結果的にはさらなる欠乏を生みだす。資本の運動はそれを食い物にして経済的な格差を拡大する。 労働の脱手段化にむけて 現代の日本には深刻な貧困問題がある。2023年付のデータをすこし見ておこう。まず、金融広報委員会の調査によると、日本の総世帯のうちの28.4%が将来のための貯蓄をしていない。つまり、四人に一人以上の日本人がもっぱら日々のやりくりに追われている。また、厚生労働省の調査によれば、就業者人口に占める非正規労働者の割合が37.1%に及んでいるし、国税庁の調査からは、ワーキングプアとも呼ばれる年収が200万円以下の就業者の割合が20.4%、年収が300万円以下の場合は34.4%にまで上っていることがわかる。さらに、統計局による労働力調査では、完全失業率が約2.5%にまで落ちこんでおり、2000年前後の状況や他国の現状に比べても低い水準にある。これらのことから確認できるのはつまり、日本ではいまだ労働力をすすんで投げ売りしてしまう労働者に事欠かないということだ。外国出身の労働者を巻きこんだ節操のない労働力の安売り競争のなか、時間が法外に低い付け値で買い叩かれてゆく。その結果、ゆとりのない使い捨ての生を知らずしらずに選びとってしまう自由人たちが増えて行き場を失ってゆく。 労働者は奴隷ではないということになっている。切り売りできる自由の所有者である。しかし、生存の代償として自由の投げ売りを余儀なくされているとしたら、どうだろう。つまり、生存と自由がトレードオフの関係にあり、それに甘んじるしかないのだとしたら。 生存と自由がトレードオフの関係にあるということ。それは生活にゆとりが欠乏しているという事態そのものであると同時に、欠乏の再生産のための土壌にもなる。労働力の投げ売りに精を出すあまりに目先のことだけで手一杯になり、その先には身も蓋もない破滅が待ち受けていることに気づかずにいる人はきっと少なくない。そして、無節操な自由の切り売りが生活の首を締めるようになってくると、やがてコストパフォーマンスさえよければどんな手段も厭わなくなる。その結果、たとえば戦争が起きた場合には、自発的にみずからの生を投げだすようにさえなるかもしれない。決して自業自得なのではない。人を破滅へと巧妙に駆り立てるような力が働いているというだけなのだ。 このような隷属の競争から抜けだすのに必要なのは、自分の労働力を人よりもさらに安く見積もることでもなければ、自分の生産性を向上させることでもない。近視眼的な経済合理性にふりまわされることない長期的な展望を持つことが必要である。そのためにはなによりもまず、ゆとりが要る。それはお金に換算できるような単なる空き時間のことではなくて、市場の外でだれのものでもないまま手つかずにいる自由のことだ。しかし、自由の切り売りのスパイラルのなかにある労働者は、ゆとりをゆとりとして見出すことができない。時間と金銭、自由と生存のトレードオフの外部、時間や魂を囲いこみつづける市場の外部に出るのは容易なことではない。 現代の日本では、労働市場からドロップアウトすれば社会的にも経済的にも抹殺されてしまう、と広く信じられている。働かざるもの食うべからず。ただ飯食うなかれ。食うにも対価が要る。つまり、無条件で生存を享受できるわけではなく、その代償としての自由が相応に支払わなければならない。きっとそのような刷りこみのもとで、自由を生存の代償とすることが法外なまでに正当化されてきたのだろう。 法的な観点から言えば、このような生存と自由のトレードオフ思考は間違っている。日本国憲法の二五条にいわゆる生存権が規定されているからだ。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。つまり、生存のためにみずからすすんで自由の投げ売りをする必要などどこにもない。苛烈な労働市場に飛びこんで自由を消耗することになる前に、あらかじめ試しておく価値のあるものがある。それは、健康で文化的な最低限度の生活に必要な給付金をまずは得てみる、ということである。それは一般に「生活保護」と呼ばれていて、運用の細則がいわゆる「生活保護法」に記載されている。法文の英語版では「Public assistance(公的扶助)」や「Public Assistance Act(公的扶助法)」と呼ばれるものだ。 生活保護という日本語には、語弊がある。労働市場に適応できなかった弱者が困りはてた末に御上の庇護を受ける、といったイメージへの誘導がそこにあるからだ。実際、いまでも非常時のセーフティネットとして広く認知されており、制度の捕捉率も低い。厚労省の報告によれば、2023年時点の給付金の利用率は1.6%である。しかし、本当はもっと多くの人、日本の総人口の約8%が利用してしかるべきものだ。というのも、公的扶助制度の捕捉率は2割程度にすぎないとされている。つまり、制度を利用すべき人の約8割はそれを利用せずにいるということだ。 このような現状は、言葉遣いのレベルでの国家的なネガティブキャンペーンの賜物である。公的扶助への偏見が醸成され、無職であることは後ろめたいことだとされてきた。というのも、制度が利用されればされるほど、囲いこみの外に出る労働者が増えて失業率が上がり、財政が悪化する。国としてはできるだけ労働者を市場に送りかえし、消費者や納税者として経済に組みこまれていてほしい。それを拒否して権利ばかりを主張する国民は国にとってはあまりありがたくない。しかしそもそも、国とは人のためにあるものだ。人が国のためにあるわけではない。人のためにならない国は要らない。憲法に書かれているのは、そういうことだ。 原則的な話をすれば、公的扶助による給付金は、日本の国籍や永住権を持っている者で、収入がないことや銀行や証券の口座に資産がないことさえ証明できれば、だれでも利用することができる。排除ベンチというものの存在が象徴しているように、行政にとっての公共財や制度はそもそも、秩序を守るため、生を管理するためにある。行政の思惑から逸脱するような利用は望ましくないし、行政としてはできるだけ自分たちで勝手に現場のルールを作っていきたい。しかし、人はその人自身の必要のために自由に公衆ベンチを使うことができる。そして、それくらいカジュアルな気持ちで、公的扶助による不労所得を得ることができる。労働市場での生存競争に疲弊した末の命綱なのではない。ほんとうは順番が逆で、出発点として生存のための不労所得が確保され、その上で労働市場に参加するかどうかが決められるべきだ。つまり、労働は生活が保護された上で見出される目的のひとつであるべきであり、生活を保護するための手段であってはならない。 時間や魂にゆとりのない人、それゆえにトレードオフ思考に陥っている人には、公的扶助の利用者のことを税金泥棒のようにも限られたパイを奪う穀潰しのようにも思うかもしれない。しかし、ゆとりはいつも囲いこまれた空間の外側にあり、それを担保するために公的扶助という制度はある。公的扶助の利用者は、税金を私物化するわけではない。つまり、自分の私物として資産の囲いこみをするわけではない。むしろ、コミュニズムの空間に投げだされる、といったほうが実情に即しているような気がする。 時間のコミュニズム 現代の日本においては、公的扶助の利用が生活にさまざまな不自由をもたらすことになるのはまちがいない。税金の支払いの免除や、医療・介護サービス、公共交通や公共放送の無償化といった恩恵はある。しかし、障害者加算などがなければ、行政からの給付金は多くても月に十三万円程度。そのなかで生活のやりくりをしなければならない。日本円を使った消費行動が生存の基盤となっている都市部においては、消費者として市場に関わりつづける必要があり、それなりの不如意を強いられることになる。 そのかわり、公的扶助によって得られる効用がひとつある。時間を売りわたさない自由が得られるというものだ。それは生存の代償とされてきた自由時間をゆとりへと、つまりゆたかなものへと変える。トレードオフ思考のなかで時間の損得勘定をすることがなくなるので、暇人として無為に過ごすことが機会損失とは考えられなくなる。時間割の囲いを抜けでた時間は山野を通り過ぎてゆく川のように恬淡と流れはじめる。 時間が私有物ではないということ。それは、時間がありふれている、ということでもあるのだろう。ありふれている、というのは、どこにでも潤沢にあるということ、希少ではないということだ。まだ商品としては囲いこまれていないから、だれもが自由に利用できる。このような意味での「ありふれている」は、英語では「common」という。コモン。「共有材」という堅苦しい訳語があてられる言葉でもある。また「communism」のように語形変化させると「共産主義」といった語も出てくる。 しかし、なんらかの資源が共有されていることと、その資源がありふれていることの間には、大きなずれがある。共有は、それが資源の分割や分配をするということである以上、あくまでも経済的な営みである。たとえばかつての共産主義国では、生産手段をはじめとする有限な材を国家権力が囲いこみ、その上で国民がそれを借り受けるという管理体制をとった。そのような分配の体制はきっと、つねにゼロサムゲームとして機能するのだろう。一方の得られるものが多ければ、他方は少ない。いわゆる共産主義国はその差配を国家権力に委ねたということだったのかもしれない。 ...

9 Oct 2024 · 野浪行彦

なごること、すむこと⎯⎯ホームレスとネームレスのあわいで

前略 わたしは、太郎というものです。どちらかといえば、桃ではなく、浦島のほうです。お手紙、ありがとうございました。お手紙、というのは、ご新著の『ホームレスでいること』(創元社、2024)に添えられていたもののこと。すべて読みとおしたときには、日が暮れかけていました。きづけば目の前の善福寺川がいちどきに輝きはじめています。夏の日のなごりをうけて。 わたしはいま、川をさかのぼってきた末に、ほとりのベンチに体を休めることにして、このお返事をかいています。ちょうどいましがた「なごり」の変換候補として「名残」のほかにも「余波」という漢字がでてきたのに目がとまり、首をかしげました。あまり記憶にない感じがしたのです。なごり……。なごりとはなんだろう、と疑問におもいはじめます。 なごり。名残。余波。nagori。作家の Ryōko Sekiguchi さんが『Nagori』というエッセイのなかで話していたことも思いおこされます。「なごり」とはもともと「波の残り」、「なのこり」のことだというのです。辞書にも、いろいろとおもしろいことが書かれていました。「浜、磯などに打ち寄せた波が引いたあと、まだ、あちこちに残っている海水。また、あとに残された小魚や海藻類もいう」。「風が吹き海が荒れたあと、風がおさまっても、その後しばらく波が立っていること。また、その波。なごりなみ。なごろ」。 それがどうして「名残」と表記されるようになったのでしょうか。名と波。一見したところ、ふたつはとてもちがう。けれども、けっきょく、残されるもの、あとに尾を引くものだという点では、おなじなのかもしれません。ローマ字にすればおなじ「na」。 名。な。na。波。な。na。漢字を開いたり閉じたりしてみることで、ときほぐされてゆくものがあるような気がします。言葉がとおのいて、すこしよそよそしくなる。ずっと沖のほうで波打ってはゆらいでいるような。そんな言葉たちのひびきに耳をすます。すると、すこしずつ、日本語のことがわからなくなっていきます。ここはいったい、どこなのでしょうか。自分の知っている故郷なのでしょうか。 わたしは今年の夏のはじめに、本州島に舞いもどってきました。むかしから言の葉のさきわうとされる島。この敷島には、日本語が飽和したようにあふれています。そこかしこに日本語の声や文字がこだましています。そんなにぎわいのなかにうまく入ってゆけたらいいのですが、あるかないかの不協和音をふるえながら発しつづけている自分がいます。ひさしくこの島を留守にしていた弊害なのでしょうか。わたしの耳には日本語が妙になれなれしすぎるのです。 たとえば、漢字で表記された na の数々。ここでは島民の多くが自分自身の漢字を背負いこんでいます。安倍晋三でも、黒柳徹子でも、なんだっていいのですが、まるでとても強固で呪術的な鎧をまとっているようです。そして、いまの自分にはなぜかそのひとつひとつがあまりにも生々しい。湿度のせいもあるのでしょうか。無遠慮に鼓膜にはりついてくるような感じ、そのせいで na が 波として遠くからひびいてくれない感じがして、気づまりになります。 それはたぶん、わたしがひさしく滞在していた土地では主にアルファベットが飛びかっていたせいもあるのかな、とおもいます。いわば、アルファベット製の龍宮城。そこで出会う名前たちのひとつひとつがアルファベットの存在感をもっています。わたしの名も、アルファベットで呼ばれていました。そのせいか、かつてまとっていたはずの漢字は、あってないようなものでした。裸の王様が着こんでいたという透明な服のように。そのせいもあるのでしょうか。自分はほんのすこしだけ匿名的、抽象的な存在になれたような気がしたのでした。漢字という手がかりがなければ、素性をインターネットでしらべることもできない。本州島にいたころの自分は、あってないようなものなのでした。 名前というのは住所のようなものなのかな、という気がします。人は名を住まいとする。終の棲家にする人もいれば、仮住まいをする人もいる。ヤドカリかなにかのように。そしてたぶん、家に住み心地があったり、波に波乗り心地があったりするように、名にも名乗り心地がある。なれなれしく、生々しすぎることもあれば、よそよそしすぎることもある。自分をうまく包みこんでくれるものがあってかえってそこに囚われてしまうこともあれば、すこしも自分にふさわしくないものを押しつけられることもある。 このわたしはといえば、いまちょうど、自分の名を龍宮城においてきてしまったところなのでした。ある種の記憶喪失にかかった人のように。「ネームレス状態」と考えてもらえばいいでしょうか。ただ、それはかならずしも名前を持たないということではなくて。違和を、不協和を、かんじつづけている。ずれている感じがする。本州島にふたたび漂着して以来、この言の葉の国の住人になれるような気がすこしもなれないのは、きっとそのせいもあるのでしょう。 住む、ということ。すむ。sumu。それは同時に「済む」や「澄む」ということでもあるのかな、とおもいます。意味あいとしては、乱雑だったものが落ちつく、ということになるのでしょうか。秩序がとりもどされ、平穏がおとずれるということ。片がつくということ。エントロピー(?)の収束。水面は澄みきったかがみのようになる。波ひとつ立たない。なごらない。それが「すむ」ということだとしたら。わたしはいま、日本に住んでいるのか、という疑問もわきます。正直、自信はありません。東京湾の浜辺に打ちあげられたものの、着こむべき名前が見あたらない。裸の王様のままなのです。 もちろんわたしもかつては、名前つきの人間でした。姓と名とあわせて四文字の名前です。この島には姓名判断という呪術的な風習がありますが、それによると、大大吉の名前なのだそうです。けれども、その名はもともと自分にふさわしい住処では決してなかったのでした。これまでの人生をとおして自分をつつみこんできたその名前、自分にはいつまでもよそよそしかったその名前の、漢字の生々しさだけがいま、いたずらに迫ってきます。 すこしこみいった話になりますが、わたしの名前はもともと、ある教団の長によって名づけられたものでした。わたしには実の両親と呼べるような存在がはじめからいませんでしたが、わたしを肉体的に生みだすことになった人たちの交配がおこなわれたとき、教団のほうで名づけのための漢字がいくつか定められたのです。それを組みあわせたもののひとつが、わたしの名なのでした。いまになってふりかえると、それはわたしがひとりの人間としての尊厳をもって暮らすことのできる住まいと呼ぶことはできません。ちょうどわたしが子供時代をすごしたごみであふれた2Kのアパートが、人が尊厳をもって暮らすことのできる家屋ではなかったのと同じことです。 わたしはその家屋を棄てましたが、名前はほんのつい最近まで捨て去ることができませんでした。名前はみずからの命を持ってもいるからです。 名前たちは、よくもわるくも、群れるものなのかな、とおもいます。名前たちはたがいにひとりでに結びついて、大きな織りもののような村をつくりあげる。そこにはいつも、いとしさがあります。いとしいから、つながりあってしまうのです。わたしはいま、そんな名前たちのつらなりがさざなみのように寄せては引くなか、自分のかつての名が蝉の抜け殻みたいに名残っているところをみています。砂の城がすこしずつ風のなかに消えてゆくようにして、抜け殻は腐敗していとしさの網目のなかに生分解されようとしています。 そんなさなかに、あなたからのお手紙が舞いこんできました。「少し離れたそこにいるあなたへ」と題された手紙です。それは少し離れた「わたし」自身にあてたものである、とあなたは言います。 わたしとあなたは遠いようで近い。近いようで遠い。それが意味するのは、わたしたちの立場がいつかどこかで入れかわっていてもおかしくなかった、ということでもあるのでしょうか。ここはそこになり、そこはここになる。いつも裏返しの関係にある。近いけれども、裏側にあるから、決して触れることはできない。 わたしが竜宮城で出会った言葉のひとつに「partage」というものがあります。日本語では「分かちあい」とでも言えるでしょうか。これはある意味とても矛盾した言葉です。分かちあうということは、袂を「分つ」ような離別の経験にも、気持ちが「分かる」ような出合いの経験にもなる。近づきながら離れて、離れながら近づく。裏を裏として、表を表として、ふたつを縫いあわせたような言葉なのです。 ひとりでいることがわたしを助けてくれる、とあなたは言います。「ひとりでいる」ということは、さまざまな人や物、草木や山や海、そして、記憶や時間など、あらゆるものと自分との距離や違いを感じて、ひとりの自分を確認することだと。 また、あなたには何が見えますか? ともあなたは言います。いまのこのわたしには何が見えているのだろう。目の前には、川が流れています。とても遠くから流れてきている。そして、とても遠くへ行ってしまう。それでいて、こんなにもちかしい。ちょうどあなたの手紙のように。川は、なつかしい。なつかしいということはきっと、遠くて近い、ということなのです。いま、わたしには何が見えているか。 あわい桃影がみえてきました。 どんぶらこ、どんぶらこ。桃のような物体が水面を流れてゆくさまをあらわすこの擬音語のことをわたしはよく知っています。わたしの耳は、どこまでもこの島の言の葉の暴力にさらされつづけています。この本州島を巨大な地震がおそったときには、桃が川を流れる写真を提示して、ひとこと日本語を口にしてもらう。そうすることでかんたんに非国民を見分けることができる、とだれかが話しているのを最近見かけました。わたしはそのとききっと、どんぶらこ、どんぶらこ、という魔法の言葉をとなえることはできない。そのためにきっと日本刀で一太刀に切り捨てられしまうことになるのでしょう。 いまいちど「川」の音に耳をかたむけてみます。かわ。kawa。それは「川」であるだけではなく「皮」や「側」にもなります。それはものごとの境界です。「うち」に対するもうひとつの「うち」としての「そと」ではない。「うち」と「そと」とを繋ぎながら隔てるあわい。それが「かわ」です。「かわ」はひとをひとつの内側に閉ざしますが、それでいてとても遠くへ運んでくれる。かわにはかわの自由があるのです。 ひとりでいることがわたしを助けてくれる、とあなたは言います。わたしはいまわたしなりにその意味を理解しようとして、目の前を流れてゆく川に耳をすましています。わたしにはまだ名前が、ありません。いまはそれがここちいい。もうすっかり夜になってしまいました。

17 Sep 2024 · 野浪行彦