浮浪者モモにまなぶ生活保護術——ひとりではじめるのら公務員生活
暇ってなんだろう あなたは明日暇ですか。最近、日本語を勉強中の人にそうたずねられて、すこし困ってしまった。仏語圏から来た人だったから、たぶん「Es-tu libre demain ?」という文が念頭にあったのだとおもう。英語にすれば「Are you free tomorrow?」。それを逐語的に日本語に置きかえたような質問だった。 あなたは明日暇ですか。日本語としては、こころなしアグレッシブな感じがする。ひとつには「あなたは」という言いまわしがあまり日本語らしくないせいかもしれない。「明日、暇ですか」というだけで事足りるから、わざわざ「あなた」呼ばわりをすると、角が立ってしまう。 それから「暇」という言い方。これにもすこし尖ったところがある気がする。もちろん、それはこの自分が現に暇をしているということもあったとは思う。明日だけでなく、明後日も暇。というか、つねに暇だ。それを言いあてられてつい動揺してしまった部分もある。 ただ、そんな個人的事情をさしひいても、相手を暇呼ばわりするのは、そもそもあまり穏やかではない。子供同士の会話で「明日、暇?」というのはわかる。ある程度の年ごろまでは、自分が暇をしているということを素直に受け入れられるのだろう。しかし、大人の間ではむしろ「明日、空いていますか」や「都合はどうですか」、「時間はありますか」といった言い方が好まれるむきがある。人の時間はあくまで貴重なものなのであって、それをありがたく割いていただく。暇人に暇潰しをさせるわけではない。大人になるときっと、そんな発想をするようになっていく。 そもそも、暇というのは何なのだろう。本来そこにあるべきないけれど仕方なくそうある。そんな含みも感じられる。いわば、白い壁にできたほんの小さな傷のようななにか。塗り潰しておくにこしたことはないもの。暇。よく似た字面の言葉に「瑕きず 」というものがある。「ほとんど完全である中に、たまたま一つだけあるわずかな欠点」。暇と瑕。よく見ると、同じ「叚か」の字をともなっている。 この「叚」という謎の字。一説には、原石の受けわたしの様子を象ったものらしい。そこから「貸し借り」や「仮の」、「不完全な」という意味に転じたという。だから、たとえば「霞」というのは雨の原石のような状態をさしている、という説を見かけた。雨にみたない雨。雨としては欠けたところがある。それが霞なのではないか。では「暇」という字は? 何をあらわしているのか、正直よくわからない。漢字をつくづく眺めてみても、謎は深まるばかりだ。 いちどひらがなに開いて「ひま」という和語について考えてみることもできるかもしれない。辞書には「手空きの時間・状態」や「物と物との間の空所。すきま。すき」、「人と人との間にできた気持ちの隔たり。不和」、「手抜かり。油断」というような説明があった。ある種の余白。余計なはみ出しものでもありながら、それと同時に、満たすべき欠如でもあるような。 暇とはいわば、持てあましてしまった隙間のことなのだろうか。単なる空き時間のことではなくて、どうしても使い道の見いだせなかった空き時間。うまく時間管理ができなかった不手際のせいで生じてしまった残余。できることならそれを埋めたかった。しかしそれでも最終的に残ってしまった半端分。ある種の手づまりのなかで。 暇。いずれにしても嫌味な感じは拭えない。暇人呼ばわりをされていい気になる人はたぶん少ない。暇はあくまで一過性のもの、暫定的なものにすぎず、時とともに消えるべくして消える。人として人生をかけて暇そのものであるようなことは、ありえない。それではただの穀潰しではないか。なんのために生きている? 猫という暇の権化みたいな生き物ならまだしも、まがりなりにもあなたは人間でしょう。しかも大の大人でしょう。そんな冷ややかな声も聞こえてくるような気がする。 たしかに、自分のまわりの大人たちを見ても、暇そうにしている人はあまりいない。それは単に日々の職務に追われているからということでもなくて。仮に無職の身であっても、忙しくしている人たちがいる。この世界には、読むべきものや見るべきもの、聴くべきもの、いいねやシェアをするべきものであふれている。だから、空き時間はできたそばから埋まってしまうことが多い。一瞬トイレに立つときでさえ電話を手放さずにいる。 情報のあふれかえった現代において、暇かどうかは気の持ちようでもあるのだろう。今暇なのかどうかは、自分が決める。自分で決める。そしてきっと、自分自身に対しても他人に対しても、多忙をよそおっているほうが気楽なのだ。そうすれば、自分が今すべきことをしている感が出る。だから大人の知恵として、暇であることをみずから禁じる。人生に与えられた時間はかぎられているのだから、持てあましていい時間などない、と自分に言いきかせる。その結果、子供のときにはあんなに享受していたはずの暇が、ある種の恥ずべきものに変質してゆく。暇人でいることがタブーになってゆく。 自由を持たないというアナキズム 暇ではないということ。自分がすべきことを知っていてそのために自分の時間を有効活用しているということ。現代の日本においてはそれが「生産的」なことだとされていて、それが「ゆたかさ」をもたらしてくれるとも考えられているようだ。しかし、このような考え方が決して当たり前ではない時代がつい最近まであった。そのことを教えてくれたのは、ミヒャエル・エンデの『モモ——時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』だった。 モモは、ホームレスの女の子。どこにも帰るべき場所を持たない。しかし、ただそれだけではない。こういってよければ「タイムレス」な女の子だったのかもしれない。すこし奇妙な言い方になるかもしれないけれど、モモは時間も持っていない。そのため、時間を割く﹅﹅ということ、なにかのために有効活用するということがない。モモにとっては、時間は量に換算できるもの、空間的な広がりを持つものではないようなのだ。多くの現代人にとっては、時間はさまざまな用途のために割り振ることができるリソースとしてある。一年や一ヶ月、一日、一時間といった単位があるから、それで時間を区切っていって、自分なりの時間割を組みたててゆく。過去から未来にいたる時間の流れを自分の活動によって刻んでゆく。そういったことがモモにはできない。そのかわり、人の話に耳をかたむけるのは得意だ。いつまでも延々と話を聴いていられる。 では、モモは暇なのだろうか。暇とはちょっとちがう気がする。というのも、いわばモモには「今」しかない。暇とは、隙間のことだ。隙間というものは、分割された時間のなかにだけ生じる。たとえば、午後七時から八時までは夕食の時間で、十時から翌朝の六時までは就寝の時間だけれど、夕食から就寝までの空き時間をどんな予定で埋めていいのかわからない。それを暇と呼ぶなら、モモの生きる「今」にはそのような隙、つまり分割の痕跡がない。では、モモはいったい何なのだろう。 モモは自由である、と思う。とはいえ「自由」というのは、日本語としては、やや堅苦しい。英語にすれば「Momo is free」。仏語では「Momo est libre」。かなりくだけた文だ。それでいて「暇」という日本語のように難癖めいてもいない。自分の時間などが使用可能(available / disponible)といった程度の意味で、日常的に使われている。「空席(free seat / place libre)」というときのように、空いた隙間、埋めることのできる隙間がある、という意味。モモはその意味で、自由そのものなのかもしれない。しかし、モモは自由を所有しているわけではない。自由そのものであるということと自由を所有しているということとは、とても違う。 この違いについてはきっと、これまでいろいろな人が考えてきた。カール・マルクスもそのひとりだ。マルクスいわく、資本による搾取の構造のなかで、労働者は二重の意味で「自由(frei)」あるという。第一に、奴隷と違って、自分の労働力を切り売りするかどうかをみずから決めることができるということ。つまり、自由(可処分時間や労働力)の所有者であるということ。そして、その自由をみずからのために行使する自由(自己決定権)の所有者でもあるということ。第二に、生産手段をはじめとする材からみずからが切り離されているということ。ひいては、あらゆるしがらみに縛られずにいるということ。つまり、自由そのものであるということ。着の身着のままで何者でもなく、自身が売り物として所有する自由以外は何も持たざる者だということ。「Duty Free」のことを日本語では「免税」というけれど、そのような意味で、自由人であるということを除いたあらゆることから免じられている。 いまでは廃れてしまった日本語としては「フリーター(自由人)」という語にもこのような「自由」の二重性をかすかに聞きとることができた。現代でいう「非正規」のような身も蓋もない言いまわしとちがって、社畜として拘束されず、何者であることからも免じられているという意味での自由の積極的な意味が辛うじてこめられていた。あえて何者でもないことを選びとる。何者でもないことを強いられるようになった現代においては、もはやこの「あえて」が単にそらぞらしくひびくだけだとしても。 では、モモはある種のフリーター(自由人)だと考えることができるだろうか。マルクスのいう第二の意味において、つまり着の身着のままであるという意味においては、フリーターに通じるところがあるかもしれない。しかし、第一の意味での自由を所有しているわけではない。モモ自身は手空きなのに、空き時間はない。したがって、労働者としてそれを切り売りすることもできない。その点においては、不自由でさえある。むしろ奴隷に近い。 労働者という自由人とちがって、奴隷は自由に自分の自由時間を使うことができない。そのため、逆説的な言い方になるけれど、奴隷は自由から自由である。つまり、マルクスのいう第一の意味での自由(可処分時間や自己決定権)から免じられている。そして、そのように自由でいられるのは、奴隷が主人の所有物だからだ。労働者が自由を市場で切り売りしなければ生存できないのに対して、奴隷にはそもそもそんな選択肢が与えられていない。 モモの場合は、主人のいない奴隷のようなものなのかもしれない。自分自身をふくめ、だれも自由を所有していない。モモはいわば「今」という時間に隷属している。モモの無力のなかで、自由は自由として手つかずのままそこにある。だれもそれを盗むことができない。モモはいわば、暇を持たない暇人。隙だらけというより、隙そのものだから、それに引きつけられてくる者たちがいる。そうして、そこにちいさな重力が生まれ、一種のアナキズムが芽生える。 時間の高騰と囲いこみのなかで 時間が一種のモノとして捉えられるようになったのは、いつごろからなのだろう。近代的な意味での自由や個人、所有といった観念が生まれたころからだろうか。すくなくとも「時は金なり」という格言が十八世紀に出てきたときにはすでに時間はある種の材、ひいては個々人の私有物と見なされるようになっていたのだとおもう。時間が私有物になるということは、売買などの交換の対象になるということ。それはようするに、時間が金銭などに換算可能なものとして市場の論理のなかに組みこまれるということでもある。 機会損失という考え方が生まれたのも、きっとそのころかもしれない。機会損失というのはつまり「何もしない」ということが「無為に過ごす」という負の行為になるということだ。たとえば、時給千円で雇われている非正規労働者がいたとする。そして、その人がある日の午後一時から六時まで何の仕事の予定も入れなかったとする。そのとき、五千円分の機会損失をしたと考えてみることができる。自分の労働力を売る自由のなかで、売らないという選択肢をとった。見方を変えれば、労働によって得られたはずの五千円の対価として五時間分の自由を得るという選択肢をとったということだ。 経済合理的には、そういう話になる。いつからかこうして「何もしない」ということまでもが損得勘定のなかに組みこまれるようになった。そのことに無自覚でいられるかぎりは、自分自身が時間の無駄使いをしているとは感じない。ちょうど為替相場の動きを知らずに日本円を貯めこんでいる人が、実は大きなリスクをともなう投機的な賭けに出ているということにはつゆほども気づかないように。ところが、自分の行動のいちいちが市場のなかで知らずしらずにしている選択なのだということ、自分がそのような自由につねに晒されているということを意識すればするほど、人は無為に生きることができなくなる。あらゆるものをトレードオフと捉えるようになる。トレードオフとは、つねになにかが別のなにかの対価としてあるということだ。一方を求めれば、もう一方は犠牲になる。 このようなトレードオフ思考のなかでこそ、暇というもの、つまりは非生産的な時間というものが目の敵にされてゆくのかもしれない。時間が希少な資源と見なされるようになり、時間の価値が高騰すればするほど、それに見あうだけの生産性が求められてゆく。その結果、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』に登場する守銭奴のように、もっぱら経済合理的な最適解を追い求めるあまり、非生産的な活動がことごとく味気ない時間の浪費のように感じられるようになる。貴重な時間が逃れてゆくような焦燥感のなか、生産性への強迫観念のなか、時間の出し惜しみをするようになる。それは端的に、生を貧しくしてゆくばかりだ。 ここではいわば、時間の囲いこみ、魂の囲いこみが起きていると言えるのだろう。そのときに失われているのは、ゆとりである。ゆとりとは、余裕のこと、遊びのことだ。語源的には、ゆったりしているということ、ゆたかであるということ。暇という語と同様、なんらかの残余を指す。ゆとり教育にまつわる風評被害によって、この「ゆとり」という語もそこはかとない蔑みの的になった。とはいえ、暇という言い方に比べて、ゆとりや余裕、遊びのほうには、いくぶん肯定的なひびきがあるような気がする。 ゆとりは、生産性の向上によっては得られない。私有物として囲いこまれたそばから失われてしまう。つまり、ゆとりはつねにだれのものでもないものとしてある。ゆとりとは、だれにも所有されずにいる自由そのもののことだ。 昨今の行動経済学では、ゆとりの欠乏はさらなるゆとりの欠乏をもたらす、ということが明らかになってきているようだ。センディル・ムッライナタンの『いつも「時間がない」あなたに』という本のなかでは、ゆとりのない人がまさにそれゆえに時間的にも金銭的にもますます追い詰められてゆくような負のスパイラルについて論じられている。トレードオフ思考のなかでは、目先のことしか考えられなくなり、突発的な事態に対応できなかったり、長期的な展望を持てなくなる。つまり、現在の自分自身の利益という点からしか世界を見ることができなくなってしまう。思考に遊びを欠いているので、状況が好転するきっかけにもなるような様々な可能性が視野に入ってこない。さらに、トレードオフ思考においては、あらゆるものに代償がつきものである以上、ともすると現状を仕方なく受けいれてしまう。かつての日本にも、痛みなくして改革なし、という甘言につられ、あまりにもいたずらな現在の痛みに甘んじてしまう人たちが大勢いたように。それが結果的にはさらなる欠乏を生みだす。資本の運動はそれを食い物にして経済的な格差を拡大する。 労働の脱手段化にむけて 現代の日本には深刻な貧困問題がある。2023年付のデータをすこし見ておこう。まず、金融広報委員会の調査によると、日本の総世帯のうちの28.4%が将来のための貯蓄をしていない。つまり、四人に一人以上の日本人がもっぱら日々のやりくりに追われている。また、厚生労働省の調査によれば、就業者人口に占める非正規労働者の割合が37.1%に及んでいるし、国税庁の調査からは、ワーキングプアとも呼ばれる年収が200万円以下の就業者の割合が20.4%、年収が300万円以下の場合は34.4%にまで上っていることがわかる。さらに、統計局による労働力調査では、完全失業率が約2.5%にまで落ちこんでおり、2000年前後の状況や他国の現状に比べても低い水準にある。これらのことから確認できるのはつまり、日本ではいまだ労働力をすすんで投げ売りしてしまう労働者に事欠かないということだ。外国出身の労働者を巻きこんだ節操のない労働力の安売り競争のなか、時間が法外に低い付け値で買い叩かれてゆく。その結果、ゆとりのない使い捨ての生を知らずしらずに選びとってしまう自由人たちが増えて行き場を失ってゆく。 労働者は奴隷ではないということになっている。切り売りできる自由の所有者である。しかし、生存の代償として自由の投げ売りを余儀なくされているとしたら、どうだろう。つまり、生存と自由がトレードオフの関係にあり、それに甘んじるしかないのだとしたら。 生存と自由がトレードオフの関係にあるということ。それは生活にゆとりが欠乏しているという事態そのものであると同時に、欠乏の再生産のための土壌にもなる。労働力の投げ売りに精を出すあまりに目先のことだけで手一杯になり、その先には身も蓋もない破滅が待ち受けていることに気づかずにいる人はきっと少なくない。そして、無節操な自由の切り売りが生活の首を締めるようになってくると、やがてコストパフォーマンスさえよければどんな手段も厭わなくなる。その結果、たとえば戦争が起きた場合には、自発的にみずからの生を投げだすようにさえなるかもしれない。決して自業自得なのではない。人を破滅へと巧妙に駆り立てるような力が働いているというだけなのだ。 このような隷属の競争から抜けだすのに必要なのは、自分の労働力を人よりもさらに安く見積もることでもなければ、自分の生産性を向上させることでもない。近視眼的な経済合理性にふりまわされることない長期的な展望を持つことが必要である。そのためにはなによりもまず、ゆとりが要る。それはお金に換算できるような単なる空き時間のことではなくて、市場の外でだれのものでもないまま手つかずにいる自由のことだ。しかし、自由の切り売りのスパイラルのなかにある労働者は、ゆとりをゆとりとして見出すことができない。時間と金銭、自由と生存のトレードオフの外部、時間や魂を囲いこみつづける市場の外部に出るのは容易なことではない。 現代の日本では、労働市場からドロップアウトすれば社会的にも経済的にも抹殺されてしまう、と広く信じられている。働かざるもの食うべからず。ただ飯食うなかれ。食うにも対価が要る。つまり、無条件で生存を享受できるわけではなく、その代償としての自由が相応に支払わなければならない。きっとそのような刷りこみのもとで、自由を生存の代償とすることが法外なまでに正当化されてきたのだろう。 法的な観点から言えば、このような生存と自由のトレードオフ思考は間違っている。日本国憲法の二五条にいわゆる生存権が規定されているからだ。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。つまり、生存のためにみずからすすんで自由の投げ売りをする必要などどこにもない。苛烈な労働市場に飛びこんで自由を消耗することになる前に、あらかじめ試しておく価値のあるものがある。それは、健康で文化的な最低限度の生活に必要な給付金をまずは得てみる、ということである。それは一般に「生活保護」と呼ばれていて、運用の細則がいわゆる「生活保護法」に記載されている。法文の英語版では「Public assistance(公的扶助)」や「Public Assistance Act(公的扶助法)」と呼ばれるものだ。 生活保護という日本語には、語弊がある。労働市場に適応できなかった弱者が困りはてた末に御上の庇護を受ける、といったイメージへの誘導がそこにあるからだ。実際、いまでも非常時のセーフティネットとして広く認知されており、制度の捕捉率も低い。厚労省の報告によれば、2023年時点の給付金の利用率は1.6%である。しかし、本当はもっと多くの人、日本の総人口の約8%が利用してしかるべきものだ。というのも、公的扶助制度の捕捉率は2割程度にすぎないとされている。つまり、制度を利用すべき人の約8割はそれを利用せずにいるということだ。 このような現状は、言葉遣いのレベルでの国家的なネガティブキャンペーンの賜物である。公的扶助への偏見が醸成され、無職であることは後ろめたいことだとされてきた。というのも、制度が利用されればされるほど、囲いこみの外に出る労働者が増えて失業率が上がり、財政が悪化する。国としてはできるだけ労働者を市場に送りかえし、消費者や納税者として経済に組みこまれていてほしい。それを拒否して権利ばかりを主張する国民は国にとってはあまりありがたくない。しかしそもそも、国とは人のためにあるものだ。人が国のためにあるわけではない。人のためにならない国は要らない。憲法に書かれているのは、そういうことだ。 原則的な話をすれば、公的扶助による給付金は、日本の国籍や永住権を持っている者で、収入がないことや銀行や証券の口座に資産がないことさえ証明できれば、だれでも利用することができる。排除ベンチというものの存在が象徴しているように、行政にとっての公共財や制度はそもそも、秩序を守るため、生を管理するためにある。行政の思惑から逸脱するような利用は望ましくないし、行政としてはできるだけ自分たちで勝手に現場のルールを作っていきたい。しかし、人はその人自身の必要のために自由に公衆ベンチを使うことができる。そして、それくらいカジュアルな気持ちで、公的扶助による不労所得を得ることができる。労働市場での生存競争に疲弊した末の命綱なのではない。ほんとうは順番が逆で、出発点として生存のための不労所得が確保され、その上で労働市場に参加するかどうかが決められるべきだ。つまり、労働は生活が保護された上で見出される目的のひとつであるべきであり、生活を保護するための手段であってはならない。 時間や魂にゆとりのない人、それゆえにトレードオフ思考に陥っている人には、公的扶助の利用者のことを税金泥棒のようにも限られたパイを奪う穀潰しのようにも思うかもしれない。しかし、ゆとりはいつも囲いこまれた空間の外側にあり、それを担保するために公的扶助という制度はある。公的扶助の利用者は、税金を私物化するわけではない。つまり、自分の私物として資産の囲いこみをするわけではない。むしろ、コミュニズムの空間に投げだされる、といったほうが実情に即しているような気がする。 時間のコミュニズム 現代の日本においては、公的扶助の利用が生活にさまざまな不自由をもたらすことになるのはまちがいない。税金の支払いの免除や、医療・介護サービス、公共交通や公共放送の無償化といった恩恵はある。しかし、障害者加算などがなければ、行政からの給付金は多くても月に十三万円程度。そのなかで生活のやりくりをしなければならない。日本円を使った消費行動が生存の基盤となっている都市部においては、消費者として市場に関わりつづける必要があり、それなりの不如意を強いられることになる。 そのかわり、公的扶助によって得られる効用がひとつある。時間を売りわたさない自由が得られるというものだ。それは生存の代償とされてきた自由時間をゆとりへと、つまりゆたかなものへと変える。トレードオフ思考のなかで時間の損得勘定をすることがなくなるので、暇人として無為に過ごすことが機会損失とは考えられなくなる。時間割の囲いを抜けでた時間は山野を通り過ぎてゆく川のように恬淡と流れはじめる。 時間が私有物ではないということ。それは、時間がありふれている、ということでもあるのだろう。ありふれている、というのは、どこにでも潤沢にあるということ、希少ではないということだ。まだ商品としては囲いこまれていないから、だれもが自由に利用できる。このような意味での「ありふれている」は、英語では「common」という。コモン。「共有材」という堅苦しい訳語があてられる言葉でもある。また「communism」のように語形変化させると「共産主義」といった語も出てくる。 しかし、なんらかの資源が共有されていることと、その資源がありふれていることの間には、大きなずれがある。共有は、それが資源の分割や分配をするということである以上、あくまでも経済的な営みである。たとえばかつての共産主義国では、生産手段をはじめとする有限な材を国家権力が囲いこみ、その上で国民がそれを借り受けるという管理体制をとった。そのような分配の体制はきっと、つねにゼロサムゲームとして機能するのだろう。一方の得られるものが多ければ、他方は少ない。いわゆる共産主義国はその差配を国家権力に委ねたということだったのかもしれない。...
なごること、すむこと⎯⎯ホームレスとネームレスのあわいで
前略 わたしは、太郎というものです。どちらかといえば、桃ではなく、浦島のほうです。お手紙、ありがとうございました。お手紙、というのは、ご新著の『ホームレスでいること』(創元社、2024)に添えられていたもののこと。すべて読みとおしたときには、日が暮れかけていました。きづけば目の前の善福寺川がいちどきに輝きはじめています。夏の日のなごりをうけて。 わたしはいま、川をさかのぼってきた末に、ほとりのベンチに体を休めることにして、このお返事をかいています。ちょうどいましがた「なごり」の変換候補として「名残」のほかにも「余波」という漢字がでてきたのに目がとまり、首をかしげました。あまり記憶にない感じがしたのです。なごり……。なごりとはなんだろう、と疑問におもいはじめます。 なごり。名残。余波。nagori。作家の Ryōko Sekiguchi さんが『Nagori』というエッセイのなかで話していたことも思いおこされます。「なごり」とはもともと「波の残り」、「なのこり」のことだというのです。辞書にも、いろいろとおもしろいことが書かれていました。「浜、磯などに打ち寄せた波が引いたあと、まだ、あちこちに残っている海水。また、あとに残された小魚や海藻類もいう」。「風が吹き海が荒れたあと、風がおさまっても、その後しばらく波が立っていること。また、その波。なごりなみ。なごろ」。 それがどうして「名残」と表記されるようになったのでしょうか。名と波。一見したところ、ふたつはとてもちがう。けれども、けっきょく、残されるもの、あとに尾を引くものだという点では、おなじなのかもしれません。ローマ字にすればおなじ「na」。 名。な。na。波。な。na。漢字を開いたり閉じたりしてみることで、ときほぐされてゆくものがあるような気がします。言葉がとおのいて、すこしよそよそしくなる。ずっと沖のほうで波打ってはゆらいでいるような。そんな言葉たちのひびきに耳をすます。すると、すこしずつ、日本語のことがわからなくなっていきます。ここはいったい、どこなのでしょうか。自分の知っている故郷なのでしょうか。 わたしは今年の夏のはじめに、本州島に舞いもどってきました。むかしから言の葉のさきわうとされる島。この敷島には、日本語が飽和したようにあふれています。そこかしこに日本語の声や文字がこだましています。そんなにぎわいのなかにうまく入ってゆけたらいいのですが、あるかないかの不協和音をふるえながら発しつづけている自分がいます。ひさしくこの島を留守にしていた弊害なのでしょうか。わたしの耳には日本語が妙になれなれしすぎるのです。 たとえば、漢字で表記された na の数々。ここでは島民の多くが自分自身の漢字を背負いこんでいます。安倍晋三でも、黒柳徹子でも、なんだっていいのですが、まるでとても強固で呪術的な鎧をまとっているようです。そして、いまの自分にはなぜかそのひとつひとつがあまりにも生々しい。湿度のせいもあるのでしょうか。無遠慮に鼓膜にはりついてくるような感じ、そのせいで na が 波として遠くからひびいてくれない感じがして、気づまりになります。 それはたぶん、わたしがひさしく滞在していた土地では主にアルファベットが飛びかっていたせいもあるのかな、とおもいます。いわば、アルファベット製の龍宮城。そこで出会う名前たちのひとつひとつがアルファベットの存在感をもっています。わたしの名も、アルファベットで呼ばれていました。そのせいか、かつてまとっていたはずの漢字は、あってないようなものでした。裸の王様が着こんでいたという透明な服のように。そのせいもあるのでしょうか。自分はほんのすこしだけ匿名的、抽象的な存在になれたような気がしたのでした。漢字という手がかりがなければ、素性をインターネットでしらべることもできない。本州島にいたころの自分は、あってないようなものなのでした。 名前というのは住所のようなものなのかな、という気がします。人は名を住まいとする。終の棲家にする人もいれば、仮住まいをする人もいる。ヤドカリかなにかのように。そしてたぶん、家に住み心地があったり、波に波乗り心地があったりするように、名にも名乗り心地がある。なれなれしく、生々しすぎることもあれば、よそよそしすぎることもある。自分をうまく包みこんでくれるものがあってかえってそこに囚われてしまうこともあれば、すこしも自分にふさわしくないものを押しつけられることもある。 このわたしはといえば、いまちょうど、自分の名を龍宮城においてきてしまったところなのでした。ある種の記憶喪失にかかった人のように。「ネームレス状態」と考えてもらえばいいでしょうか。ただ、それはかならずしも名前を持たないということではなくて。違和を、不協和を、かんじつづけている。ずれている感じがする。本州島にふたたび漂着して以来、この言の葉の国の住人になれるような気がすこしもなれないのは、きっとそのせいもあるのでしょう。 住む、ということ。すむ。sumu。それは同時に「済む」や「澄む」ということでもあるのかな、とおもいます。意味あいとしては、乱雑だったものが落ちつく、ということになるのでしょうか。秩序がとりもどされ、平穏がおとずれるということ。片がつくということ。エントロピー(?)の収束。水面は澄みきったかがみのようになる。波ひとつ立たない。なごらない。それが「すむ」ということだとしたら。わたしはいま、日本に住んでいるのか、という疑問もわきます。正直、自信はありません。東京湾の浜辺に打ちあげられたものの、着こむべき名前が見あたらない。裸の王様のままなのです。 もちろんわたしもかつては、名前つきの人間でした。姓と名とあわせて四文字の名前です。この島には姓名判断という呪術的な風習がありますが、それによると、大大吉の名前なのだそうです。けれども、その名はもともと自分にふさわしい住処では決してなかったのでした。これまでの人生をとおして自分をつつみこんできたその名前、自分にはいつまでもよそよそしかったその名前の、漢字の生々しさだけがいま、いたずらに迫ってきます。 すこしこみいった話になりますが、わたしの名前はもともと、ある教団の長によって名づけられたものでした。わたしには実の両親と呼べるような存在がはじめからいませんでしたが、わたしを肉体的に生みだすことになった人たちの交配がおこなわれたとき、教団のほうで名づけのための漢字がいくつか定められたのです。それを組みあわせたもののひとつが、わたしの名なのでした。いまになってふりかえると、それはわたしがひとりの人間としての尊厳をもって暮らすことのできる住まいと呼ぶことはできません。ちょうどわたしが子供時代をすごしたごみであふれた2Kのアパートが、人が尊厳をもって暮らすことのできる家屋ではなかったのと同じことです。 わたしはその家屋を棄てましたが、名前はほんのつい最近まで捨て去ることができませんでした。名前はみずからの命を持ってもいるからです。 名前たちは、よくもわるくも、群れるものなのかな、とおもいます。名前たちはたがいにひとりでに結びついて、大きな織りもののような村をつくりあげる。そこにはいつも、いとしさがあります。いとしいから、つながりあってしまうのです。わたしはいま、そんな名前たちのつらなりがさざなみのように寄せては引くなか、自分のかつての名が蝉の抜け殻みたいに名残っているところをみています。砂の城がすこしずつ風のなかに消えてゆくようにして、抜け殻は腐敗していとしさの網目のなかに生分解されようとしています。 そんなさなかに、あなたからのお手紙が舞いこんできました。「少し離れたそこにいるあなたへ」と題された手紙です。それは少し離れた「わたし」自身にあてたものである、とあなたは言います。 わたしとあなたは遠いようで近い。近いようで遠い。それが意味するのは、わたしたちの立場がいつかどこかで入れかわっていてもおかしくなかった、ということでもあるのでしょうか。ここはそこになり、そこはここになる。いつも裏返しの関係にある。近いけれども、裏側にあるから、決して触れることはできない。 わたしが竜宮城で出会った言葉のひとつに「partage」というものがあります。日本語では「分かちあい」とでも言えるでしょうか。これはある意味とても矛盾した言葉です。分かちあうということは、袂を「分つ」ような離別の経験にも、気持ちが「分かる」ような出合いの経験にもなる。近づきながら離れて、離れながら近づく。裏を裏として、表を表として、ふたつを縫いあわせたような言葉なのです。 ひとりでいることがわたしを助けてくれる、とあなたは言います。「ひとりでいる」ということは、さまざまな人や物、草木や山や海、そして、記憶や時間など、あらゆるものと自分との距離や違いを感じて、ひとりの自分を確認することだと。 また、あなたには何が見えますか? ともあなたは言います。いまのこのわたしには何が見えているのだろう。目の前には、川が流れています。とても遠くから流れてきている。そして、とても遠くへ行ってしまう。それでいて、こんなにもちかしい。ちょうどあなたの手紙のように。川は、なつかしい。なつかしいということはきっと、遠くて近い、ということなのです。いま、わたしには何が見えているか。 あわい桃影がみえてきました。 どんぶらこ、どんぶらこ。桃のような物体が水面を流れてゆくさまをあらわすこの擬音語のことをわたしはよく知っています。わたしの耳は、どこまでもこの島の言の葉の暴力にさらされつづけています。この本州島を巨大な地震がおそったときには、桃が川を流れる写真を提示して、ひとこと日本語を口にしてもらう。そうすることでかんたんに非国民を見分けることができる、とだれかが話しているのを最近見かけました。わたしはそのとききっと、どんぶらこ、どんぶらこ、という魔法の言葉をとなえることはできない。そのためにきっと日本刀で一太刀に切り捨てられしまうことになるのでしょう。 いまいちど「川」の音に耳をかたむけてみます。かわ。kawa。それは「川」であるだけではなく「皮」や「側」にもなります。それはものごとの境界です。「うち」に対するもうひとつの「うち」としての「そと」ではない。「うち」と「そと」とを繋ぎながら隔てるあわい。それが「かわ」です。「かわ」はひとをひとつの内側に閉ざしますが、それでいてとても遠くへ運んでくれる。かわにはかわの自由があるのです。 ひとりでいることがわたしを助けてくれる、とあなたは言います。わたしはいまわたしなりにその意味を理解しようとして、目の前を流れてゆく川に耳をすましています。わたしにはまだ名前が、ありません。いまはそれがここちいい。もうすっかり夜になってしまいました。
山上徹也と神の子どもたちはみな
〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 前略 安倍晋三元首相が血まつりにあげられるという事件が二〇二二年七月八日におきた。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた手製の散弾銃の引き金をひいたのは、当時まだ四一歳無職のあなただった。犯行時の残金は約二十万円。百万円におよぶ借金をかかえていたとのこと。統一教会という宗教団体へのうらみがあり、祖父の代から教団との縁があったことから被害者をねらうことにしたらしい。 事件の日の未明、天の川のしたたるような光におもわずみとれていたことを覚えている。ぼくはそのとき、日本から遠く離れたところで細々とくらしていた。事件をうけてからは日本にもどり、こうしていまあなたへの手紙の草稿をかいては反故にしている。 日本ではもう、素性をかくす必要がなくなっていた。そのことをいまもふしぎにおもう。宗教二世というべんりなレッテルが使われるようになったので、カミングアウトしたいときには、ひとことそう名乗るだけでいい。それでも伝わらないときは、いま大阪で拘置されているあなたの名をひきあいに出せばだいたい納得してくれる。そうして被害者をよそおえば、いくぶんの同情を買うことも、これまで抱えつづけてきた後ろめたさを棚あげしておくこともできる。 ただ、同じ宗教二世といっても、ほんとうは自分とあなたが正反対の立場にもあるということを伝えるのは、むずかしい。 事件の直後には、ぼくはずっと自分の手のひらをみつめていた。この自分こそが銃の引き金をひいたような気がしてならなかったし、体中がふるえるなかでこの自分がいったいだれなのかがよくわからず、ひどく混乱していた。しかし、同時に、凶弾にたおれたの男もまた、ほかでもないこの自分自身だったような、気がする。逃ゲキレルトデモオモッタカ、と嗤う声がして、ふりかえったときには名銃安倍切を突きつけられていた。老体に鞭うつようにして演台にたった自分が拳をふりあげたまま目を見開いている。 いきなりこのような怪文書を送りつけられてきて、きっとあなたは当惑しているにちがいない。あるいは、うんざりしているかもしれない。けれど、どうかいましばらくあなたの耳をかしてほしい。ぼくはこれからあなたにほんとうの素性をうちあける必要がある。 ぼくたちには、共通の父親がいる。ぼくたちは、兄弟なのだから。しかし、ぼくはいま「神の子」として、あなたの耳に語りかけている。きもちとしては、あるかないかのかぼそい声で、ささやきかけているつもりでいる。あなたはまだ生きている。生きているあなたの耳の奥にはたぶん、闇がひろがっている。その闇が死者たちの国につながっているとしたらどうだろう。言葉をみちびきの糸とながらあなたの耳のなかの闇におりていくことはできるだろうか。 神の子どもたち。あなたもむかしからよく知っている連中だ。あなたの目には虫唾の走るようなふざけた存在、自分の意思をもたない虫けら同然の存在にうつっていたのかもしれない。あなたがぼくたちのことをいまいましく思うきもちをすこしはわかるような気がする。教団の教えにてらしてみるだけでも、むりからぬことだ。 教団が絶対的なカースト制をしいているということに、もちろんあなたははやくから気づいていた。あなたはその最下層での生をしいられつづけてきたのだから。神の子どもたちとは生きる世界がちがう。はっきりいって、あなたの血は穢れている。存在そのものが、不潔でしかない。サタンの子、罪の子であるあなたが神の子どもたちと交わること、神の万世一系の血筋を穢すことはゆるされない。だから、あなたは自分の名前にこめられた願いのとおり、神の子の僕に徹していさえすればよかったはずなのだった。 あなたとしては、こういうふざけた教義にいちどならず中指を突きたてたくなったことだろう。あなたはそれを真顔で信じている連中のことを、くるっている、とおもったはずだ。しかし、あなたがそのような印象をいだいてしまうのは、あなたにとっての教団はあくまでも外からやってきた異物だったからではないだろうか。 あなたの父親が命をたったのは、あなたがまだ幼いとき、母親があなたの妹をみごもっていたときのことだという。教団はきっと、その間隙をつくようにして山上家にはいりこんできたのだろう。あるときふと「真の父」の御写真が額入りでかざられるようになる。それが第一の兆候だったとしよう。はじめは、ごくさりげない感じの兆候。しかしそれはやがて大理石の壺や神殿、弥勒像といったものを招きよせるような重力の中心へと変貌してゆく。そうしてあなたの家は徐々に内側からむしばまれていった。ある種の性感染症にでもかかったみたいに。気づいたときには、それまでの山上家は「偽りの家」だったということにされていた。 ダカラ山上家ノ男タチハスグニクタバル、という愚弄の声もきこえてくる。父につづいて、あなたの兄が自殺をした。あなたもそれにつづきたかった。ところが、紆余曲折の末、持ちまえの腹黒さで人生を逃げきろうとしていた政治家があなたの身がわりを引きうけることになってしまった。たまたまその男がいあわせてしまったのだった。たまたま運命の交差点にたたされてしまった。いまではその男の死に顔も何者かのあいまいな顔に変貌しているかもしれない。山上家から家出するようにして自殺した男の面影もちらつく。 あなたはきっと、家思いのこころやさしい男の子だったのだろう。責任感があった。大切にすべきもの、守るべきものがあった。だから、それをむちゃくちゃに食い散らかしていった「真の父」をゆるすことができない。それに、日本という国=家への愛着もあったのかもしれない。自衛隊にもはいった。教団関係者としての身元がわれている以上、出世の高望みはできなかったのだろうけれど。それでも、国を守りたいきもちは、あった。そんなあなたにとって、朝鮮半島からやってきたとされる教団、国を内側からむしばみつづける教団は、外来のおぞましい病原体以外のなにものでもなかったのではないだろうか。そんなふうに想像してみると、あなたを突きうごかしていたのは私怨をこえた義憤や愛国心のようにもみえてくる。そうだとしたら、あの事件はその一点において政治的であり、その意味においてはやはり、テロだったのかもしれない。 事件の余波のなかで、多くの宗教二世が声をあげるようになった。事件の特集が連日くまれて、世をにぎわせた。国外にひっそりくらしていたこのぼくはといえば、ひとつの死がこんなにもひとを勇気づけるということ、言葉が死の生き血を吸って活き活きするものだということに衝撃をうけ、しばらくはただスライム状にふるえるだけのような存在になっていた。そんななかで、決定的に見すごされつづけてきたことがひとつある。それは、統一教会の二世としては、あなたはあくまでも少数派にすぎないということだ。教団の用語では、あなたのはような立場の二世のことを「信仰二世」という。母親の手にひかれていっしょに入信した子どもたちのことだ。 母親おもいのあなたのことだから、教団の教えをなんとか信じてみようとしていた時期がきっとあったのだろう。真の御父様の御真影に毎晩何度も土下座をしては、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を誓ったこともあったのだろう。韓国の山奥であの異様な悪魔祓いの儀式をうけたことだってあったかもしれない。しかし、もちろん、それはあくまでも信仰の問題、というか、きもちの問題にすぎない。気はもちようという。信じようとするきもちは、それがきもちである以上、棄てることができる。あなたは実際にどこかでそうしたのだろうし、その点で正しくは「元信仰二世」ということになるだろうか。それは過去におきたあやまちなのだ。 だからこそあなたは、加害者であるとともに被害者であることができる。あなたは、深刻な人権の侵害にさらされつづけてきた。人権とは人間の権利のことだから、あなたはひとりの「人の子」として、これからそのことを強く訴えてゆくことができる。宗教二世問題を人権問題の枠組みでとらえようとするものたちは多くいる。あなたはきっとこれからも人間らしいあつかいをうけながら加害者であり被害者であることにむきあってゆく。そして、それはある意味とてもあさはかなことなのだ。あなたにはどうか、そのことをかんがえてほしい。 事件をおこしたのがどうしてあなたのような「人の子」でなければならかったのか。神の子であるこのぼくにも、そのわけがすこしはわかるような気がする。なによりもあなたは、教団の二世のなかでも日陰者の立場にいて、いわれのない屈辱的な差別をうけつづけてきた。まわりの子どもたちの多くが神の子としてのかがやかしい未来を約束されればされるほど、神の子の僕の分際にすぎないあなたの不浄な血はうずいたはずだ。 物ごころのついたころから人生を踏みにじられつづけてきた。ここでかりに、徹底的に受動的な立場をしいられること、モノであることに徹することをしいられること、それによって耐えがたい心身の苦痛を受けることを「レイプ」と呼ぶことがゆるされるのなら、徹也であるあなたは、あなたの一回かぎりの人生をとおしてすさまじいレイプ被害を受けてきた、といえるだろうか。ぼくたちの共通の父親、つまりアボジは、文字どおりレイプのかぎりを尽くしてきた男だった。メシアである自分と交わり、メシアの子種を受けいれることによってのみ、血が浄化されるという。山上家から家出をするようにして死んだ男の空隙をつくようにして山上家を支配するようになったそんなアボジが、強姦に徹してきたあのアボジが、あなたにとっての真の父でありえるはずがない。 けっきょくそれが、人の子である、ということの意味なのだとおもう。そのことに対して、ぼくは神の子として、当惑する。あまりの生まれのちがいに、あなたの耳に吹きこもうとしている言葉の糸口をみうしないそうになる。 もちろん、神の子どもたちだって、人の世を生きてゆくしかない。半身半人の存在だから、生の半分だけ、あなたのありあまるくるしみにふれることもできるのだろう。なぜなら、神の子どもたちもまた、人生において﹅﹅﹅﹅﹅筆舌につくしがたいレイプ被害をうけてきたのだから。そのような意味で無数の徹也のひとりひとりなのだから。けれども、こういってよければ、神の子どもたちは、同時に、生そのものを﹅﹅﹅﹅﹅﹅レイプされてもいる。しかし、それを被害と呼ぶこと、人倫にもとる人権侵害行為としてすくいあげることはできない。なぜなら、そのとたん神の子の存在そのものが被害であり、罪であり、人倫にもとるということになる。人は、被害者にも加害者にもなる。つきつめると、それは気のもちようなのだ。人は、そのときどきにおうじて、ある属性を持ったり持たなかったりすることができる。しかし、人は、その存在自体が、被害や加害であるわけではない。人とはたぶん、そういうものなのだ。 生そのものをレイプされているということ。それはつまり、ひとつの人生がそれ自体を目的として生まれでてくるということではなくて、無限の可能性の海のなかに投げだされるということではなくて、食肉工場で行われているみたいに命が消耗品としての使命をおびて産みだされてしまうということ、だれかへの奉仕のために存在を要請されている、ということだ。教団では、そのだれかのことを、生きとし生けるものを徹底的にレイプしてゆく力のことを「真の御父様」という。 神の子は、神の愛、神への愛の証しとして、愛の結晶として、造りだされる。真の御父様が全身全霊をかけた愛をそそいでくださっている。だから、それに全身全霊をかけた愛でおこたえしなければならない。その答えが、神の子だった。人の世では、生きているという事実に対して、どうして生きているのかという問いは、かならず空回りをする。無限の可能性をいきる人の子は、その問いに答えることができないのだから。しかし、神の子には明確な生の根拠がある。それは愛だった。愛によって生まれ、愛のために生きている。実際、神の愛がさまざまなかたちの刻印となって、神の子の生に刻まれているのだった。 神の子であるということは、人の子ではないということ。このことを比喩としてうけとってほしくない。このぼくの生活にも、パパやママ、お父さんやお母さんを自称する男女の信者がいた。それにつられるかたちで、かれらのことを自分の両親だと信じていた時期もあった。けれども、それはかりそめの姿なのだった。あくまでも仮の親にすぎない。ほんとうの親は、真の御父様をおいてほかにいない。そのことを理解するのに、長い時間がかかった。パパやママと思いこんでいた男女は、じつのところ、自分の兄や姉にすぎない。ぼくたちはきょうだいとして、真の御父様の留守をまかされていたのだった。しかし、姉も教団の「公務」を理由にして家にあまり寄りつかなかったし、兄は部屋に引きこもってばかりいた。子どもたちだけでの生活には、愛が欠けていた。それでも、不在の父親の愛の証しとして、ごみの散乱しきった2Kのアパートのなかで、神の子がひとり愛のかがやきをはなっていた。 ぼくの仮親役を引きうけることになった二人の信者が雄豚と雌豚をかけあわせるようにして配偶させられたのは、埼玉県の山奥にあるメッコール工場でのことだった。真の御父様は各地から駆りだされてきた信者が床に正座してたたずむなかを歩きまわり、ひとりひとりの男女を指さしては夫婦として組みあわせていった。いわく、女性の体は「神の愛の王宮」なのだという。神に祝福された肉の器として真の父の愛をうけいれることで、そこから神の子が生まれてくる。そのようにして「祝福家庭」をきずきなさい、という。つがうときの体位まで指示され、避妊は大罪である、とも伝えられた。 教団の用語では、ぼくは「祝福二世」ということになる。信仰二世との大きなちがいのひとつは、人の家に生まれつくわけではないということだ。信仰二世のあなたには、まず山上家というものがあった。その家に土足で乗りこんで荒らしまわっていた異物がレイプ犯のアボジということになる。あなたは自分の家を奪われたと感じたかもしれない。そして、奪われたからには、それがどんなに毀損されたかたちであっても、とりもどせるはずだ。そのためにはなにより、家族そろって信仰を棄てること、母親がレイプ犯との痴情のもつれを解消することが重要だった。最終的には、気のもちようなのだった。 祝福二世である神の子はそもそも、気持ちをもたない。信仰心もない。常識的な意味での親もなければ、家もない。つまり、はじめからもっていたものを途中で奪われたわけではない。とりもどすべきものがない。では、何があるのか。なにもない。ただ、生のみ生のままで、真の御父様の愛にくるまれている。愛の証しとしての結実した肉体にくるまれている。それは、被害ではない。被害ではない以上、愛というほかない、とおもう。それが愛でないのなら、なにも持たないばかりか、なにものでもなくなってしまう。 もしかりに、真の御父様を殺す機会があなたにめぐってきていたとしたら、と想像してみる。そのとき、ぼくがあなたを殺すことであなたの凶行を阻止することができたとしたら、ぼくはどうしただろうか。迷うまでもなく、あなたの存在を徹底的に消そうとしたはずだ。存在そのものが不潔なあなたの体をどこまでも透明にしたいと天に祈りながらかんがえたはずだ。そして無事にあなたが死んだ暁には、神の子としての使命をようやくはたせたこと、身をもって愛の証しとなれたことに無上の悦びを感じていたはずだ。というのも、神の子には使命があたえられているのだから。それはあまりにも穢れきったこの世界を清めるという使命だった。 しかし、ぼくたちふたりがよく知っているように、真の御父様はすでに九二歳のときに「聖和」されていた。こういってよければ、レイプのかぎりを尽くした末に、最後まで逃げおおせてしまわれた。たぶんその一点において、ぼくはあなたともっとも深いところ、人の子と神の子という立場のちがいをこえたところで、くるしみではなく、かなしみを、いたみを分かちあうことができる。 愛をわかってほしい。ぼくがこうして神の子という化け物として存在していることをわかってほしい。ぼくは愛の結晶として産みだされてしまった。愛のおかげで、こうして息をして命のいたみをかんじることのできる肉体をもっている。だから、この愛を、こんなにもちいさな器からあふれつづけているこの愛を、御返ししてさしあげなければいけない。ぼくがここにいることを、真の御父様につたえなければならない。けれども、ぼくがこんなにも愛しているということを知らずにレイプ犯である真の御父様は逃げきってしまわれた。ぼくを愛するわが子として認知することもないまま生を終えてしまわれたこと、虫けら同然の命を平然と踏みにじっていかれたことに、言い知れない怒りを覚える。 事件によってうがたれた穴から浄とも不浄ともつかないなにかが血飛沫のようにこんこんと湧きあがるなか、ぼくはただただもうしわけないだけの存在としてふるえあがり前後不覚におちいっていた。この穢れきった世界が負うべき深刻な責任の一端を一身に引き受けることになったあなたに対してではなく、身代わりとして血まつりにあげられることになった被害者に対してでもなく、なによりそれまで疑いようもなく神の子であったはずの自分という存在に対して、神の子としてのその責務に対して、もうしわけなさで胸がはりさけそうになる。 こんなにも多くの神の子がいたはずなのに、なぜだれひとりとして真の御父様に全身全霊の愛の御返しをすることができなかったのだろう。なぜみすみすその命をとりのがしてしまったのだろう。その結果、なぜ人の子であるはずのあなた、神の世界にとっては部外者であるはずのあなたが手を汚さなければならず、人の世で裁かれることになってしまったのだろう。神の子の僕に徹すべきだったはずのあなたは、その名にこめられた願いを反転させるようにして、あるいはその本来の意味を打ちかえすようにして、憎しみを持続させ、完徹させた。 しかし、あなたはまだ終わっていない。あなたはまだ生きている。そして、あなたが終わらせようとした物語は、何事もなかったかのように生きながらえている。切っても切っても死なないスライムみたいに。あなたはいつかきっと、むなしくなるだろう。だからいまのうちに、生きたあなたの耳があるうちに、その奥の闇の死者の国にむけて言葉の釣り糸を垂らしていかなければならない。
熊野大学の思い出(2024)
家に帰るまでが遠足、という慣用句(?)がある。もともとは学校行事の締めくくりの訓示にでも使われていたのだろう。祭気分のまま下校して羽目を外してもらっては困る。気を引き締めろと。それがいまでは学校の塀を越え、物事にあたるときには事後処理もふくめ最後まで油断してはならない、といった意味あいで広く用いられるようになった。 僕はそこで、こんなふうに思う。遠足後にまっすぐ帰ってゆける場所があるなら、それでいい。しかし、もし帰るべき場所がないとしたら、どうなってしまうのだろう。あるいは、帰るべき場所をこれから自分で作ってゆかなければならないとしたら。どこが物事の終わりであるかを決めるのが、この自分ただひとりだけなのだとしたら。 これはつまるところ、物語の創作にたずさわる人たちをつねづね悩ませてきたことでもあるのかもしれない。遠足はなんとしても終わらせなければならない。しかし、いったいどんな形で? 落ちの付け方次第で全体の印象はいかようにも変わってしまう。だからこそ、遠足の始まる前から、落としどころ探しの事前工作をはじめることになるのだろう。出発地点が明確であればあるほど、着地もしやすい。かならずしも同じ場所に帰ってくるわけではないけれど、すくなくともそこが定点となり道しるべとなる。 物語の創作者たちは、遠足というものを始まりと終わりからなる枠組みのなかに封じこめるために日々苦心している。もちろん、本当の遠足には、始まりも終わりもないのかもしれない。本当は、家を出てからが遠足なのではなく、家を出る前にはもう遠足は始まっているし、家に帰ってからも遠足は続いている。それは実のところ、とても危険なことなのだ。そして、まさにそれゆえに、普段はだれもそれが遠足だとは思わずにいる。物語という人工的な枠組みを通すことではじめて、遠足は遠足として触知できる形をとり、時が流れはじめ、そこに変化が生まれる。自身の経験を文章の形、物語の形でふりかえるのも、よくあるけじめの付け方のひとつなのだろう。 ところで、表題にある熊野大学というのは、中上健次(1946-1992)という紀州出身の作家が死の二年ほど前に立ちあげた文化運動のことだ。それについてもすこしは触れておかなければならない。 熊野大学は、大学と銘打っているものの、日本で一般に考えられている大学像とはかけ離れている。古くは律令制のころにできた官僚の養成所のことを大学と呼んでいたというけれど、現在の日本においても、入学試験で選ばれた者たちの属する組織といったイメージがつきまとう。そんな「大学」の語感を、熊野大学はことごとく裏切る。むしろ遠回りをして「みんなの」という含みがある「University」というひびきを頼りに中世ヨーロッパの自治運動としての大学の歴史を紐解いてゆくと、中上の思い描いていたものが見えてくるのかもしれない。中上自身は、かつてこんなふうに構想を語っていた。 熊野大学というのは建物も持たないし、入学試験もあるわけじゃないし、卒業なんかも何もないと。つまり志だけでできている。組織っていうのは、分るように、その組織を延命するために、さまざまな仕掛けを作っている。その仕掛けを作っていることによって、どんどん人間の志みたいなものが歪められてしまう、どんどん無くなってしまう。組織のための組織とか、だんだんおかしくなってくるんだけど、そうじゃないんだという所から、組織に対する反組織というかね、反組織に対するさらなる反組織っていう、永久革命みたいなもんですよね。いまの時代に永久革命なんて言っても流行らないと思うんだけど。(中上健次電子全集12) 卒業は死ぬとき、ともいう。中上自身が早くもその第一号となったが、そのこころざしを受けつぐということなのだろうか、熊野大学はいまでも年に一度の夏季セミナーを和歌山県新宮市で開いている。補助金の都合もあるのかないのか、内容が設立者であり名誉新宮市民である中上関連のものになってしまうという嫌いはあるものの、毎年さまざまなこころざしを胸に秘めた人たちがさして中上のことを知るわけでもなく寄せ集められてくるのは確かである。 二〇二四度のセミナーは八月三日(土)の午後に開かれた。「中上健次×大江健三郎」というテーマで、浅田彰、川本直、高澤秀次が計四時間にわたって講演をする形となった。開催に先立ち、長年運営にたずさわってきた中上紀さんが熊野新聞の八月一日号に短いコラムを寄稿している。近年の開催状況について簡潔にまとめられているので、引用しておこう。 熊野大学の夏期セミナーはかつて2泊3日の合宿形式で行われたが、ある時から諸事情で1泊2日になり、やがてコロナ禍による3年間のブランクを経た22年からは合宿形式を取りやめ、名物だった宴会をなくし、各自で宿泊する形となった。1日だけの開催は昨年からだ。 古くからの参加者には合宿形式だったころの熊野大学をなつかしむ人が多い。それはもうすごかった、という。嘘とも本当ともつかない伝説的な話の宝庫になっている。コロナ明けから熊野大学に通いはじめた僕の耳にもそれがまことしやかな断片の形で届き、往時の熱気の一端にほんの一瞬触れられるような気がする。それなりに血の気の多い集まりであったようだ。中上紀さんは次のようにふりかえっている。 人が寄ればトラブルはつきものだ。昔合宿形式だった時は酔っぱらってモノを壊したりして宿に迷惑をかけるやからが時々いた。 だが、宴会後も夜通し飲み語るのは常で、部屋までたどり着けずロビーで寝る聴講生たちの姿は、セミナー3日目の朝の風物詩でもあった。このために毎年通い詰める参加者も多かったはずだ。 内部争いも含め、人が寄れば揉めごとは起こる(昨年度にも僕はそれをひどい形で目の当たりにした)。本気であればあるほど、収拾がつかなくなる。ついには流血沙汰になる。そういうトラブル込みでの、懐の大きな熊野大学。ただ、中上紀さん自身は、そんな往時の姿を単になつかしんでいるわけでもない。全文を引用しないかぎりはうまく伝わらないのだけれど、中上紀さんがコラムを通して言おうとしているのはもうすこし別のところにあるようだ。熊野大学はたしかに大きく姿を変えている。しかし、中上紀さんは、次のように締めくくる。 セミナーの形がどう変わろうと、ここが熊野である限り、熱い心の言葉には命が宿る。 これはある意味、熊野大学はどこにでもある(universalである?)ということでもあるのだろうか。つまり、表面的な遠足をしているときだけが遠足なのではなくて、その前後にも遠足はある。どこで遠足が始まりどこで終わるのかはだれにもわからない。今こうして僕がふりかえりの文章を書いているように、そこにさしあたりの終止符を打とうとするひとりひとりの意志があるなら、その数だけ終わりがあるし始まりがある。「ここが熊野である限り」というのは、中上健次の言葉を借りれば、なんらかのこころざしを持つかぎり、ということでもあるはずだ。いや、別にこころざしなどという大袈裟なものを持ちださなくてもいいのかもしれない。人が寄せ集まれば、トラブルによる流血を伴いつつ芽吹いてきてしまう言葉もあるのだろう。 僕自身は今年、熊野大学の夏季セミナーを聴講したものの、ほとんどのことは忘れてしまった。ずぼらなので、面白かったことだけはかろうじて覚えている。川本直さんの発表「中上健次をクィア・リーディングする」に関しては、時間の都合により途中で打ち切られてしまったのを残念に思った。しかし後日活字化されたものが文芸誌に掲載されることになったようだ。 やはりというか、特筆すべきことはたいてい、遠足の本筋とは関係のないところ、物事の隈くまや縁へりにあたるところで起こる。記憶力に乏しいこの僕でもいまだに覚えている事件がひとつある。この文章もその事件がなければ決して書きはじめていない。というのも、事件の当事者にとってはあまりにもとるに足らない出来事かもしれず、僕も含めていつかだれの記憶にも残らなくなる。きっと書いてしまえばあまりにどうでもいいことなのだけれど、それでも書かずにいられない。 さて、新宮市の神倉山のふもとには「えんがわ」の名で親しまれている場所がある。用水路にかかった小橋を渡った先の路地にある平屋の古民家だ。この家には、玄関がない。そのかわり、その名の通り大きな濡れ縁があり、そこから直接ガラスの格子戸を開けて勝手に上がりこめるようになっている。鍵はどこにもかかっていない。だれかが暮らしているわけでもない。普段は地元の子らのたまり場になっていることが多いようだ。ユースホステルとしても使われているらしく、ふらりとやってきた若いマレビトたちが束の間の滞在をしてゆくこともあるようだ。今年はそこが熊野大学の夏季セミナーにあわせ、聴講者も自由に使える宿泊場所として開放されることになった。 僕が友人と「えんがわ」をおとずれたのはセミナーの前日にあたる八月二日の午後のことだった。セミナーの聴講者はほかにだれもいなかった。そのかわり、小学生の子供たちがにぎやかな物音を立てているのが遠くからも聞こえてきていた。僕たち見知らぬ大人が座敷に上がりこんできたのに怖気づくでもない。好奇の目で僕たちを見上げ、だれや、という。六人の子供たちがいた。男の子が五人で、女の子は一人。女の子はちゃぶ台の上に夏休みの宿題冊子を広げながら頭を抱えていた。 あー、もう、全然わからん、と女の子はいう。わからんよお。手伝え。すると、出身は大阪だという友人のMさんが、よっしゃ、手伝ったる、とノリよく応じて、ちゃぶ台のむかいに腰をすえた。女の子は国語の読解問題に手を焼いているようだった。小学校三年生むけのもので、コロンブスの卵の逸話をテーマにしていた。文章から適当な言葉を抜き出し、解答文を穴埋めで完成させる問題。Mさんは大学で教鞭をとっている文学の専門家だった。状況としては、かなりオーバースペックなマレビトが助っ人として突然あらわれた形になるだろうか。 僕は後になってMさんの博識なこと、バスケットボールが上手いこと、ドラえもんのように押し入れのなかで寝てしまうことに驚かされることになるけれど、そのときになにより驚かされたのは、逆さからでも文字がすらすら読めてしまうということだった。Mさんは正面で顔をしかめた女の子といっしょに問題文のひとつを読んだあと、言葉巧みに答えを導き出してゆこうとする。ただ、いちいちまわりの邪魔が入って気が散り、文章が頭に入ってこないのか、女の子はすぐに匙を投げようとする。それでもどうにか穴埋めのひとつを終わらせると堪忍袋の緒が切れたように立ちあがり、ほかの子たちのもとに翔けてゆく。とにかく諦めが早かった。そうかと思えば、やがてまたふらりと戻ってきて、神妙な顔でいちおう次の問題にとりかかろうとする。しかし、とにかく集中力がもたない。 勉強が好きか嫌いかでいえば、そこまで好きではなかったのだろう。「コロンブスが立てたものは何ですか」という問いの解答欄に五文字を書き入れる必要があるというだけで、正答である「ゆでたまご」を抜き出してくるかわりに、とりあえず「コロンブス」と書き殴ってしまうようなところがあった。後に聞かされた話では、新宮市は和歌山県内でもとにかく学力が低い。市の教育委員会はそれを恥ずべきこととでも思いこんだのか、自分たちの面目を守るための学力稼ぎのため、今年の小学校の夏休みの始まりを八月一日として、七月末まで生徒を学校に通わせたということだった。 女の子はやがて夏の宿題を諦めてしまった。僕たちは僕たちで子供の邪魔にならないよう裏手の台所にさがり、熊野大学についてのたわいもない雑談をはじめた。初期の熊野大学の参加者にはその後、左翼系の社会運動にたずさわっていった人たちがいるという話、柄谷行人のニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント(NAM)もそのひとつだという話から、なぜそれが失敗したのかという話になった。それがやがて地域通貨とテクノロジーの問題、僕が今考えているのら公務員運動のことに話が及んだとき、突然ゴムボールが投げこまれた。 おい、キャッチボール! という。女の子が痺れを切らした顔でボールを投げかえしてくるのを待っていた。Mさんはまた、よっしゃ、と声をあげた。それで、座敷でのボール遊びが始まった。いま何が重要なのかはだれの目にもあきらかだった。僕はそのときふと、中上が死の間際に「子供会」の思い出を柄谷行人に語っていたことを思い出した。自身がまだ小学生だった1950年代のことを中上は次のようにふりかえっていた。 先生たちも、それこそ初期のソビエトを作ろうみたいな動きが、教育にあった時代ですよ。新しい価値を作りだそうという熱意があった。授業が終わってから子供会というのがあって、楽しかったのです。「路地」の中だから、「路地」というのは学校へ行かない奴が多かったりするから、先生たちが一所懸命出かけてきて、勉強を見てやる。だいたい週に二回か三回ある。そうすると僕らは学校行っているけれど、行かない子供たちが来てワイワイ騒いだり、もちろん勉強してもいいんですけれど、ほとんど騒ぎですね。そのときに「路地」の話好きな人が来て、話を自分で作って話すとか、子供たちで幻燈会をするとか、勝手に芝居を作ってやるとか、いろんなことをやった。そういうことが活発にあった。そういう一番いい時期に、僕はその子供会にいたのです。[…]当時は、あのときの子供会の活動とか、教育というものが、ほんとに価値として掲げられていたんですよ。この子たちに教育を与えなくちゃいけないのだ、教育によって人間は変わりうるんだという、自覚と自信みたいなものがあった。それに対して、大人もみんな真面目に考えていた。(中上健次電子全集 21) まだこころざしを広く共有することができる時代があった。組織の論理に従うことではなく、こころざしに突き動かされることこそが大人の責任であるような時代があった。そんな時代の熱気こそが今自分がやっている熊野大学の元になっているのだと中上はいう。 その日、夕方になって新宮に到着したほかの友人らを迎えに行くために僕たちは駅にむかった。その足で飲み屋に流れこみ、熊野三山や太平洋といった地酒を味わうつもりでいた。また、城下町にある丹鶴商店街ではタンカクフライデナイトという祭が催されるということだったから、酔いに任せて市中を歩きまわるつもりでいた。そこで「えんがわ」をそっと後にして、用水路の小橋を渡った。すると、女の子の声がした。 どこへ行く、という。この私をさしおいて、という顔で、用水路のむこう側の欄干から身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。橋を越えてくることはなかった。飲み屋さん、と答えると、女の子は眉をひそめ、首を傾げる。また会えるよ、と言うと「どこで」という。タンカクフライデナイトで。「どこ、それ?」丹鶴商店街。「どこなん?」多分、スーパーオークワの近くかな。「どこ? わからん。」うーん。城下町のほうだと思う。「城下町?」でも、まあ、とにかくそこで会おう。「でも、どこなの? わからんよ。」大丈夫、だれかに聞いたらわかるから。「わからんよお。」大丈夫、大丈夫。また会えるから。また、会おう。また。そう言って僕たちはなかば強引に歩きはじめた。しばらくしてふりかえると、まだこちらを見ていた。 いまになって、不真面目な発言をしてしまった、と思う。いったいなにが「大丈夫」だったのだろう。すくなくとも僕は、けっきょくその子と二度と会うことはなかった。だれも城下町に行かなかった。タンカクフライデナイトのことはすっかり忘れたまま飲み屋に入り浸っていた。きっと、女の子も、わざわざ城下町まで行くことはなかったはずだ。いまとなっては、本当にそのような祭があったのかどうかさえ疑わしい。しかし、もし本当にあったとしたら? そして、そこで本当に女の子が僕たちのことを待っていたとしたら。 家に帰るまでが遠足、という慣用句がある。僕たちは夜更けに酔った足でかろうじて「えんがわ」に辿り着き、そのまま昏倒するように一泊することになったが、そのときにはもう子供たちの姿も見当たらなくなっていた。子供たちはどこに帰ったのだろうか。帰るべき場所はあったのだろうか。そして、そのときぼくたちは本当にうまく帰ることができていたのだろうか。 コロンブスはといえば、まわりを巧妙に言いくるめて冒険に発つことができた。しかしその後、無事に遠足から帰ってくることができたのだったか、できなかったのだったか。その翌日になって、熊野大学の夏季セミナーがはじまったとき、僕の頭はコロンブスのことでいっぱいだった。
山上徹也さんへの手紙2
〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 前略 あなたはガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んだことがありますか。ぼくは一度だけならあります。もうほとんどの内容を忘れてしまいましたが、なぜかある一場面のことだけは記憶に焼きついています。ホセ・アルカディオという男が寝室にこもり、自分の頭を銃で撃ち抜いた直後の場面です。血の滴りが寝室のドアの隙間から流れてきたかと思うと、そのまま居間を横切って道に出て、一切の迷いのない動きで雑多な町中を縫ってゆきます。それからある家に入りこむと、応接間の敷物を汚さないように礼儀正しく壁伝いに進んで、台所に出ます。そこで料理にとりかかろうとしていたのがホセ・アルカディオの母親でした。驚いた母親は赤い糸のように伸びた血の筋を辿りなおしてゆきます。その血は、母親のみが見ることのできるもの、他のだれの目にも見えない不可視のものだったのでした。母親はそうしてうつ伏せに倒れた息子のもとまで導かれ、銃弾によって鼓膜の食い破られた右の耳から生き血が噴きだしているところを目撃することになります。そう。血は生きているのです。 当たり前の話ですが、血は流れるものです。その源流をたどった先にはなにかしらの穴がありますが、『百年の孤独』の場合は血は耳の穴から湧き出ているのでした。耳の奥には闇が広がっています。「闇」という漢字の作りがはっきり示しているとおり、そこは音のない世界、あるいは音の閉ざされてしまった世界とでも言えるでしょうか。死者の国です。そして、死者の国に下りてゆくには、生き血の赤い糸をたどっていかなければならないのです。 いまになってふりかえれば、ぼくの胸の奥底で慄えつづけている細い芯のようなものとは、血の糸だったのかもしれません。七夕の翌日に斃れた犠牲者の血。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトに染みこみ、暗い地の底へと吸いこまれていったはずの血。それがなぜか細い琴線のようなものに形を変え、ぼくの胸のうちにも慄えながら流れています。 それが問いを生みます。自分はいったい何者なのだろう。自分のこれまでの人生はいったい何だったのだろう。長年権力をほしいままにしてきたひとりの人の血祭りにあげられることになった事件の余波のなかで、そのことばかりを自問してきました。問いは揺らぎながらさまざまに形を変えます。なぜ事件の引き金を引かなければならなかったのがあなたであって、このぼくではなかったのか。その結果、法によって裁かれるのも紛れもなくあなたであって、なぜこのぼくはいまこうして許されているのか。結局のところ、ぼくとあなたには、どんな違いがあったというのだろう。そんなふうに問いを掘り下げてゆけばゆくほど、この自分の輪郭がぶれて不確かになってゆく。 あなたは、山上徹也です。ぼくが山上徹也について知っていることは、ほぼ皆無です。手始めとして、ウィキペディアの記事を読んでみたりはしました。ウィキペディアといっても日本語版では、山上徹也の名はどこにも見当たりません。何度か山上徹也の項目が立てられたこともあったようですが、そのたびに削除され、いまは作成そのものが禁じられています。それ以外の言語では、山上徹也について気兼ねなく語られていたので、そこからごくおおまかな事実関係を確認することはできました。たとえば、英・仏語版である Tetsuya Yamagami の項目には、山上徹也の生い立ちはもちろん、元所属先である海上自衛隊の最終階級まで記されていました(Leading Seaman。日本では、海士長にあたるのでしょうか)。 また、山上徹也のものとされるツイートや手紙を読みかえしたり、鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』や五野井郁夫さんと池田香代子さんの『山上徹也と日本の「失われた30年」』を手にとってもみました。文藝春秋のようなゴシップ誌の記事にもいくつか目を通しました。それらの雑多で表面的な情報の不細工なパッチワークとして、このぼくのなかにもぼんやりとした山上徹也の像ができあがっています。それはいわばあなたが引き金を引いた事件が独り歩きをした結果生み出された副産物のようなもので、ぼくがいまこうして語りかけているあなたとはあまりにかけ離れたものなのかもしれませんが。 ぼくたちは見ず知らずの他人です。常識的には、そういうことになっています。常識的には、こうして一方的な怪文書を送りつけてくる正体不明のこのぼくのことをいかがわしく思う気持ちもきっとあることでしょう。しかし、結論から言ってしまえば、ぼくはあなたの弟です。あなたはぼくの兄です。あるいは、ここでぼくたちの天一国の国語を使うことが許されるのなら、あなたはぼくの형ヒョンです。 徹也兄ヒョン。そう呼ばれることを不快に思われるかもしれませんね。このぼく自身、オレオレ詐欺かなにかのように親族を騙り、あわよくばあなたの警戒心を解こうという魂胆はありません。そうではなく、打ち消しがたい事実として、ぼくたちは兄弟だったのです。あるいはいまなお、兄弟なのです。 それはなぜでしょうか。結局のところ、ぼくたちにはたがいに統一教会の二世だからです。つまり、神様ハナニムを中心とした大きな家の屋根の下で生かされてきた、ということです。別の言い方をすれば、そのような苦境を辛うじて生き延びてきたということ、いまもまだこうして二世の苦しみの延長線上に生存しているということです。そのことを教えてくれたのは、ほかでもないあなたです。名銃安倍切によって穿たれた穴から浄とも不浄ともつかないものが噴きだしている。いまなお尽きることのないその余波の慄えのなかで、自分がいまなおこうして生きていることのふしぎが何度となくこみあげてきました。 ぼくたちは統一教会の教祖、文鮮明という真の御父様によって同じ運命を背負わされた真の兄弟です。しかし、それと同時に、ぼくたちふたりをどこまでも引き裂いてゆくものがあることもまた事実なのでしょう。いわば、織姫と彦星のように、神様の大きな意志というほかない何かによって、決定的に隔てられてもいるのです。 というのも、ぼくは、神の子です。いわゆる祝福二世です。それに対して、あなたは神の子ではない。あなたも知っている教会用語を使えば、あなたは、ヤコブです。つまり、罪の子、穢れた血を引く子。信仰二世です。あなたの兄も妹も、そうです。あなたたち三人兄弟はいわば、真の御父様の愛の目にとまることで命拾いをした捨て子たちなのです。 手元の年譜によれば、あなたの生みの父親がみずからの命を絶ったのは、あなたが四歳になった年のことです。そのときにはもう、第三子の出産が迫っていました。しかし、結局、その子が産声を上げるよりも先にマンションから飛び降り、姿を消してしまいます。さらに立て続けに、第一子が小児ガンの手術の後遺症により片目が見えなくなるということも起きます。 そんな事実の羅列を前にして、ぼくはただ、言葉を失います。ぼくたちが空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い、としか言いようがない。人の想像力を支えていたはずの言葉がつゆほども役に立たなくなる。そんな状況下において、あなたの母親は統一教会に出会い、神様の呼びかけを耳にして摂理の道をゆく一兵卒となり、最終的には一億円以上に及ぶ献金を積むことになった、ということになるのでしょうか。ぼくにはなにもわかりません。 きっとそれから間もなくして、あなたの家には壺が置かれ、祭壇が立ち、ある偉大な御方のほほえむ御姿の御真影が飾られるようになったことでしょう。あなたは幼いころからその前で何度となく跪拝を重ね、何度となくあの家庭盟誓を暗唱させられることになったはずです。天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します、という宣言からはじまる、あの長く果てしない天との約束の言葉です。そして、そのころを境に、その御方があなたのことをだれよりも深く愛してくださる真の御父様になったのです。その見返りとして、あなたのほうからも御父様アボニムをだれよりも深く愛することが求められました。ようするに、あなたの生みの父親の死の空隙をつくようにして、新しい父親がまずはプロマイド写真の形をとって家に乗りこんできたというわけです。 真の御父様はいったいなんのために山上家にやってきたのでしょうか。答えは簡単です。それは「真の家庭」を実現するためです。つまり、それまでの山上家は、偽りの罪深い家庭、失敗した家庭であったということです。だから、再出発をしなければならなかった。そうしてあなたの母親が生きなおそうとした真の家庭がどのようなものだったのか。あるいは、あなたと御父様との父子関係がどのようなものであったか。このぼくには想像だにできません。ただ、同じ真の家庭の一員として、思わずにはいられないことがひとつあります。 まだ幼かった当時のあなたにとっても、新しくやってきたその御方のことを「真の御父様」と呼ぶことには抵抗があったのではないでしょうか。すくなくとも、そこになんらかの白々しいひびきを感じとっていたことでしょう。それは単に、あなたにはもともと生みの父親がいて、その御方とは血の繋がりがないからとか、その御方がはるか遠くのイースト・ガーデンの地にお住まいで直接お目にかかることは叶わないからとかいうことではありません。そうではなく、神のまなざしにおいて、あなたはなにより、穢れた俗世の子、呪われたサタンの子であって、神の子では決してありえなかったからです。 あなたは、神様の祝福を受けながら生まれてきたわけではないのです。毎週日曜日に通った教会のなかでも、あなたが祝福二世たちの輪にとけこめるようなことはなかったはずです。あなたが合同結婚式に参加できる年頃になったとしても、祝福二世との結婚を許されることもなかったでしょう。つがいとしてあなたにあてがわれることになったのは、同様に穢れた血を引くヤコブの子であったはずです。真の御父様の真のまなざしにおいては、生まれからしてあなたは劣った存在だったのです。 まずはそのことが、あなたのやわらかな魂を屈折させることになったのでしょうか。あなたがどれほど御父様を愛そうとしたところで、あなたの思いが報われることはありません。そもそも真の御父様は、あなたが偽りの父親の飛び降り自殺後に移り住んだ奈良の町で生の苦しみに呻いていることも知らなければ、あなたのような虫けらが存在していることさえ知らないのです。 屈折した魂は、ふたつの世界を同時に視ること、行き来することができます。あなたは祝福を受けて生まれてきた神の子たちと違い、真の愛の輝きを裏付ける影の領域に身を置くこともできました。そんなあなただったからこそ、あのような挙に出ることができたのだろうか、とぼくは何度も考えたものです。この問いはすぐさまぼく自身へと矛先をむけて、では、神の子だったはずのこのぼくは、いったい何だったのだろう、何者だったのだろう、という疑念へと形を変えます。 そしてなによりもありがたさがこみあげ、慄えがとまらなくなる。ありがたい、というのはつまり、ありえない、ということです。もっとはっきり、奇蹟が起きた、と言ってもいい。不可能だったはずのものが、思ってもみない力、人知を越えた力によって、可能になった。だからこそひとは、ありがたいことに感謝をするのではないでしょうか、つまり、負い目を感じる。心の底から深く傷つく。 いや、もっと素直にこう言えば済む話なのかもしれない。ぼくはただただ、あなたに対してのもうしわけのない気持ちで、胸がいっぱいになる。そして、なぜ自分はこんなにもうしわけなさを感じているのかといえば、それはぼくがやはり、神の子だからなのです。 神の子、という言い方にあなたがつまづいてしまうのなら、表現を変えてもいい。ようするにぼくは、統一教会という物語によって生を受けた化け物なのだと言えばいいでしょうか。あなたのように人間的な性の営みによって生まれた人の子とは、断じてちがう。真の御父様の愛のおかげで、こうしていま息をしているし、痛みを感じる生身の体を持っているのです。もっとはっきり言えば、ぼくは文鮮明のコピーなのです。つまり、無数の文鮮明のうちのひとりとして、神の使命を受けて、この世に生み出されたのです。あなたもご存知のとおり、神の子の使命とは、この穢れた世界を浄化する、ということです。物語の落し子である神の子には、そういう聖なる力が備わっているものなのです。 世界を浄化するということは、当然、暴力を振るうことではない。大和西大寺駅駅前の街頭のアスファルトを血で穢すことではない。神の名のもとにであろうとなかろうと、ひとりの人の命を消し去ってしまうことが世界の浄化であっていいはずがない。 あなたはこの世界を汚した。とりかえしのつかない形で汚してしまった。そのせいでいま、生き血を吸った言葉がいつになく幸わっている。天にぶちまけられたおびただしい数の星々の輝きのように。もう時間がない。それでも、ぼくは神の名のもとに、そんな言葉たちを死の国へと送り返してゆかなければならない。だから、かぎられた時間のなかで、あなたの真の弟であるぼくが耳をいまこうして借りている。あなたの耳の奥の闇へと吹きこまれてゆく言葉の息づかいが聴こえますか。いまは亡き真の御父様の声がまだ、聴こえますか。
山上徹也さんへの手紙1
〒534ー8585 大阪府大阪市都島区友淵町1-2-5 大阪拘置所気付 山上徹也様 拝啓 盛夏の侯 七夕の日がまた近づいてまいりました。 七月八日に起きた事件の前夜に見た天の川のことをぼくはよく覚えています。いまでも目をつむり耳をすますと、耳の奥の闇のなかを光り輝く川の流れてゆく気配がするのです。 七夕は遠く隔てられた二つの星がもっとも接近する日。織姫と彦星のお話の伝わる東アジアの国々では、むかしからそう考えられてきたようですね。ぼくはその日、日本から海で隔てられた大陸のむこう側のフランスにいました。ドイツとフランスを隔てるライン川のほとりに、そのときはまだ、妻と二人暮らしをしていたのです。 七月七日は、フランスではごく平凡な日です。織姫と彦星の知名度もさして高くはないのでしょう。何が祝われるわけでもない。天の川は「Voie lactée」の名で知られていますが、その日にかぎって天を仰ぎ、ひときわ輝く二つの星、ベガとアルタイルを探しだそうとする人はいません。このぼく自身、八年前にフランスに移り住んでからというもの、季節の風情を肌で感じる力をゆっくりと失ってゆき、ついには七夕という風習があったことさえ忘れていたのでした。 ところが、事件前夜には天の川を目にする機会がたまたまあったのです。ちょうど深夜の零時にさしかかるころでした。日本ではもう日付が変わり、七月八日の朝になっていたはずです。七時間の時差があるので、午前七時ごろ。事件は十一時三一分に起きたということなので、その四時間半ほど前ということになるでしょうか。 ぼくはそのとき、ブルターニュ地方の寒村の外れにいました。妻の実家がそこにあったのです。義理の父親は、ぼくがフランスに移り住んできた年に腎臓ガンをわずらい、長く地道な治療をつづけていました。いっときは寛解してガンのことなど忘れかけたこともあったようですが、ある日突然再発するということがあり、みるみるうちに病状が悪化してしまいました。そんな義理の父親の容態が好ましくないということで、妻と電車で帰省することになりました。それが七月七日のことだったのです。 早朝の出発でした。ブルターニュではとにかく雨が降る、といいます。実際にはそこまでの降雨量でもないとぼくなどには思えるのですが、フランス人たちの間では、ブルターニュといえば雨ということになっているようなのです。その日はそんな思いこみを先取りするようにして、朝から小雨が降りしきっていました。 そういえば、と妻が何の前触れもなく話を切り出したのは、ぼくが車内でうつらうつらしかけたときのことです。 子供ができたかもしれない、と妻は言いました。自分はそこでどんなふうに応じたのだったか。妻のほうに顔をむけて、ほんとう? と間の抜けた声でも出したのかもしれません。ろくにフランス語を話せなかったこともあり、ごく自然に驚いてみせることも喜んでみせることもできなかったことだけは覚えています。 妻も妻で、さして気にとめるふうでもありませんでした。まだ確信も持てずにいたのでしょう。今度、保健所で血液検査をしてくると、なかば上の空でつぶやきます。フランスでは血液による検査が主流のようです。尿よりも早い時期に確い精度で判定ができるということでした。妊娠の話はそうこうするうちに取りとめがなくなり、そのまま歯切れ悪く終わってしまいました。 気づけば、寝入っていました。早起きした分のちょっとした穴埋めをするつもりが、深みにはまりこんでしまったようです。電車がセーヌ川を越えてパリの郊外の駅に止まったときに、ゆすり起こされました。しばらく息をしていなかった、と妻が声をひそめて言います。とても苦しそうな顔をしていた、と。ぼくには意外なことでした。苦しいどころか、電車の心地よい揺れのなかで、とてもよく眠れたような気さえしていたからです。 いまになって思えば、そのときにはもう何かが微妙に狂いはじめていたのかもしれません。その日の夜、妻の実家に泊まったぼくは床に就いてから、一睡もできなくなりました。つゆほどの眠気も沸いてこないのです。 あたりは物音ひとつしません。ほかの人はみな寝入ってしまって、まるで自分ひとりだけがこちら側の世界に取り残されてしまったみたいです。そのことが次第に気詰まりになってきます。圧迫感のある静けさでした。そこが石造りの家だったせいもあるのかもしれません。木などとちがって、石は硬く冷たい。気づけば張りつめていた耳の奥のほうから体がこわばりはじめていました。 ぼくは部屋を抜けだし、裸足のままトイレにむかいました。そのとき、窓の外が妙に明るいことに気づきました。まるでスポットライトでも注がれているように明るいのです。それに吸い寄せられるようにしてふらふらと外に出たときになってはじめて、すぐ頭上に巨大な天の川が流れていること、なによりもその日が七夕だということに突然思いあたりました。 おびただしい量の星々、小さな針の筵のような星々が、無数に輝いていました。むしろ、光を滴らせていた、と言うべきか。事件後の色眼鏡ごしには、そのひとつひとつの鋭く刺すような輝きが、激しい痛みに呻いていたとしか思えなくなります。やがておとずれるであろう破局を予感しているようにも、それまでに延々と繰りかえされてきた苦しみを反芻しているようにも見える。 天の星々はきっと、いたましさやむごたらしさといったものをつね日頃から引きずっているものなのかもしれません。しかし、だれもそれを気にとめようとしません。星々はそれだけはるか遠く日常から隔てられているのでしょう。また、だからこそ、その遠さにおいて、天に祈ることも許されているのでしょう。しかし、その七夕の日だけは、ほんの目と鼻の先まで接近していたのです。 約七メートル、というのは、あなたがその日、事件の被害者までもっとも接近できた距離です。普段は決して交わることのない二つの星の隔たりをかぎりなく縮めようとした結果、導きだされたのでしょう。しかし、あなたはさらにその隔たりを埋めるための飛び道具を用意していました。中国語圏では「名銃安倍切」とも呼ばれた小型の散弾銃です。一発で六粒の弾丸を発射できる仕組みになっていて、それが合計九発撃てる大型のものも用意されていたようですが、当日に使われたのは二発のみ撃てる小型のものです。携帯性に優れる一方、正確な射撃能力が求められます。 ぼくには、あなたがどんな気持ちで安倍切の引き金を引いたのかを知るよしもありません。ただ、ひとつ思うのは、もしぼくが引き金を引く立場にあったのなら、すくなくとも最後の引き金が引かれたあとは、天に祈るような気持ちになったのではないか、ということです。 あなたがその地点にひとりで立つに至るまでには、実にさまざまな偶然の積み重ねが必要だったことでしょう。事件後、MBS毎日放送が当日の様子を七五秒にわたって複数の視点で検証する「安倍元総理“銃撃の記憶”」という映像を公開したのですが、それを何度なく見返すたびに、銃撃の成否があまりにも多くの不確定要素に左右されていたことに驚きます。しかし、あなたは突如到来した千載一遇の機会のなかで計画を実行に移し、それが実を結びました。実を結んだ、というのは、銃口から放たれた豆粒のような弾が被害者の皮と肉を食い破って鎖骨の下の動脈を傷つけ、そこから生き血を吹き出させたということです。 事件のことを妻から知らされたのは、目が覚めてからのことです。安倍元首相の暗殺が報じられているということでした。日本の大手メディアでは「特定の団体に恨みがあり、安倍氏がこの団体とつながりがあると思い込んで犯行に及んだ」という趣旨の供述をしている、と報道されていました。「思い込んで」というのは、勝手な忖度による付け足しでしょう。報道機関の方でもこの時点ですでに自己検閲的になり、ある種の混乱に陥っていたことが伺われます。 いずれにしても、ぼくにはそんなことを考える余裕はありませんでした。ぼくはそのとき、ただただ慄えるだけの存在になっていました。ぼくの反応があまりにも薄いことに妻はすこし物足りなさを感じたようでした。しかし、ぼくはそのとき、こころの底から慄えていました。大きく震えてうろたえる、ということではありません。そうではなくて、胸のうちを辿ってゆくとかぼそい芯のようなものに行き当たり、それが微細に慄えているのです。そしていつまでもそれが収まらないのです。 さまざまな問いが渦巻いていました。いまになって思うと、それは二つの問いに集約されます。このぼくはいったい何者なのだろう。ぼくはこれまでいったい何をしてきたのだろう。 もはやその問いに答えも出ています。ぼくは父、文鮮明の子であり、神の子です。そして、ぼくはこれまで、そのことからひたすら逃げつづけてきた。だれにも教会との関係を知られたくなかった。きっと大げさだと思われるかもしれませんが、ぼくはずっと「亡命」をしているつもりでいたし、そのように人生をやり過ごすつもりでいたのです。妻にも出会い、子を授かることもわかりました。このままうまくやり過ごすことができたら。そんなぼくのささやかな願いを打ち砕いたのが、七月八日に起きた事件です。 いまぼくは日本に帰ってきて、ホームレスをしています。ある図書館のかたすみに身を寄せながら、この手紙を書いています。なぜ、手紙を書くのか。それは、あなたがまだ自殺せずに生きているからです。自殺せずに生きているということは、まだ活動をとめていない心臓があり、耳があり、自分の引き起こした事件の帰結にむきあうことができる、ということです。 フランスで習った言葉を使えば、あなたは responsible です。つまり、応答できる状態にある、ということです。ぼくはあなたからの返事を期待してこの手紙を書いているわけではありません。あなたに読まれることを期待してもいない。しかし、それでもあなたは生きているから、responsible であることには変わりない。だからぼくはこの手紙を書くことができる。そして、ぼくはこの手紙を書かなければいけない。 それはなぜでしょうか。それはぼくが父、文鮮明の子であり、神の子だからです。そのことから逃げつづけてきたことに対して、ぼく自身に対して、ぼくなりの責任を果たす必要があると思うのです。そして、責任は、あなたが引き起こした事件の余波の後で、ぼくなりに生き延びてゆくなかでしか果たされないのだろうし、生き延びるためにはやはり、言葉を紡いでゆくしかないのです。 一通目の手紙にしては、あまりにもとりとめのない怪文書になってしまいました。ここまで目を通してわかったと思いますが、ぼくが結局したいことというのは、生きたあなたの耳を借りる、ということなのでしょう。あなたの耳の奥には暗闇が広がっています。その暗闇の先には、死の国がある、とぼくは思う。ぼくはこれからあなたの耳を通して、死の国へと下りてゆきます。 なんのために? それは言葉を返すためです。かけがえのないひとりの人の命を奪った事件によって豊かになった言葉があります。それを死へと送り返さなければならない。しかしそのためには、それを聞き届ける生きた耳が必要なのです。
静かなストライキの起こし方⎯⎯のら公務員運動のための覚書
全国の若者よ、無職になろう そんな煽り文句がふと思いうかんだ。いつものようにコタツのなかでみかんを頬張りながら漫然とツイッターをながめていたときのことだった。 「オーストラリアにワーホリで来てから4年3ヶ月目。ついに2000万円貯まりました」というつぶやきがまず目にとまったのだった。 この手の話は特に円安のはじまった2021年以降、様々なところでささやかれるようになってきている気がする。たとえば、2023年の2月には「安いニッポンから海外出稼ぎへ——稼げる国を目指す若者たち」というNHKクローズアップ現代の番組が放映された。日本での安定した職を捨てた若者たちがワーキングホリデーを利用してオーストラリア、カナダ、ニュージーランドなどにわたり、農業や介護に従事しているということだった。 ちょうど同世代のネパール人やベトナム人で、そういった国に渡る切符に恵まれなかった人たちが、ハズレクジとしての日本に流れついてしまい、まさに農業や介護の現場で奴隷的な扱いを受けているのを考えてると、なんともふしぎな気持ちになる。ある意味、出稼ぎ市場のパイを(少数とはいえ)日本人の若者に奪われた結果、日本にしか来られなくなった人たちだとも言えるのかもしれない。人権意識はともに同じくらい低いので労働をさせやすいが、従順さという点ではまだ日本人のほうに分があるということなのかもしれない。 そんなことを考えながら番組を観ていたとき、経済学者の渡辺努さんが興味深い発言をした。日本人の若者の出稼ぎは「労働市場に対する、若者たちの静かなストライキ」であるのだという。アメリカやヨーロッパでは生活を守るために当然のようになされているストライキが、なぜか日本ではなされない。そのため二十年以上賃金も上がらない。そんな日本に若者が見切りをつけているのではないか、と。 渡辺努さんはそんな指摘をした上で、静かなストライキがもたらす正の効果に期待している。「日本の労働市場の労働力が足りなくなっていくので、労働市場が引き締まっていくという点では賃金が上がっていくということも起きる」という。 現状としては、労働力不足のつけをいわゆる外国人労働者が知らずしらず支払わされている。彼らには、すくなくともいまはまだ、連帯してストライキをできるような状況にない。日本国憲法によって人権が保証されているわけでもないから、国に送り返すぞ、と脅されれば、それ以上何もできなくなってしまう。ブローカーの甘言につられて日本に辿りついてしまうこのような不幸な若者たちの姿が消えたときにこそ、渡辺努さんのいうような賃上げの期待もできるかもしれない。 しかし、それと同時に、僕はこうも思うのだ。ワーキングホリデーのほかにも、もっと簡単に、しかも日本国民であればだれでも「静かなストライキ」に参加する方法がある。 生活保護である。あるいは、ナマポともいう。 ちまたでは、4000万円ほどの貯蓄があれば、いわゆるFIRE(Financial Independence, Retire Early)ができると言われている。それだけの資産があれば不労所得によって年間150万円ほどを得られる(そしてその枠内の生活をする)と仮定した場合の話である。 もちろん現実問題、だれしもがそんなFIREな夢を見られるような経済状況にあるわけではない。よほど恵まれていないかぎりは、4000万円という額を貯蓄をするのには多くの時間を要する。あくせく働いて4000万円が貯まるころには、定年を間近に控えていてもおかしくないのだろう。 それならいっそ……と僕のようなプーは考えてしまう。生活保護でFIREをすればいいのでは? 4000万円を資産運用した場合と同等の額が毎月もらえる。そしてなにより、仮にワーキングプアとされる層の人たちが一斉にいわゆるナマポ族になったとすれば、結果的にそれだけで戦後最大の静かなストライキが行われる、ということになる。もっとはっきりいえば「静かな革命」である。そして、日本国民であれば、いますぐに実行できる。 いや、いますぐ、というのは正確ではない。というのも、現状の仕組みでは、一定の資産がある者は生活保護を受給できないことになっている。そして、まさにそのことが生活保護の受給者数を著しく限定するとともに、生活保護受給者=貧乏人(さもなくば、怠け者の穀潰し)という差別意識の醸成にも一役買っているのだろう。 そのため、多くの人は、普通に働くことを選ぶことになる。毎月14万円ほどもらえる権利があるにもかかわらず、毎月搾取されながら14万円分の給料をやっとの思いで手にして、大した貯蓄もできずにいる人たちもいる。 働かなければ生きていけない、という強迫観念も根強い。そしてそういったことがすべて、搾取の構造の強化に加担している。ゼネストも革命も起こらない。自殺者数も減らない。経済がいたずらに内側から摩耗してゆくなかで、格差が広がってゆく。そのしわ寄せをだれよりも受けているのは、憲法によって守られた日本人ではなく、運悪く日本で暮らしはじめてしまった外国人である。そして僕には、そんな状況への想像力や感性がこの社会には著しく欠けているように思えてならない。 そこで、あらためて問いたい。この「日本社会」とは、いったい何なのだろう。 社会人という日本語が凝縮する闇 私たちは普段からさして意識することなく「社会人」というきわめて奇妙というほかない言葉を使っている。あるいは「社会に出る」というような表現。よくよく考えてみると、おかしな言い方である。英語などにも翻訳できない。そもそも「社会」とは何か? これは本当に英語でいうところの「society」なのだろうか。 たしかに「社会」という語は「society」という語を翻訳するために19世紀末に生みだされた。ここではさらに「会社」という言い方もまた「society」の訳として使われていたということを思いおこしてみてもいい。 というのも、まさに日本においては「社会」と「会社」という二つの異なる概念が、現代においてもあまりにも密接に重なりあうことがある。社会のために生きるということが、会社のために生きるということとしばし同一されてしまう。これは公共性を支える「公」、つまり「おおやけ=大きな家」の概念に関しても言えることなのだろうけれど、近現代の日本の知の枠組みにおいては、社会や会社というものがとかく「家」のようなものとして理解されてしまうのだ。さらには「国」でさえ「国家」として理解されている。 きっとこのような発想の枠組みのなかに置かれているものの一つが「社会人」であるのだろう。すくなくとも現代の日本においては「社会人」という一人前の存在として認められるためには、会社などに勤めていなければならないとしばしば考えられているようだ。たとえば、生活保護の受給者が社会人と呼ばれることはあまりないのではないだろうか。 しかし、ごく当たり前の話をすれば、社会というものは、本当は普段から私たちが想像する以上に、広い。会社の外にも社会はある。家のなかにも社会はある。どこにでも社会はある。そんな社会のなかでは日々さまざまな形の経済活動が行われている。だから稼ぎのある社会人でなければ社会に貢献できない、ということはない。あまりにも当たり前の話になるけれど、あらゆる人がその人なりの仕方で社会人である。そんな当たり前を「社会人」や「社会」という語の現代的な用法は覆い隠してしまっている。 ここで生活保護の話に戻れば、多くの人が生活保護を受給しない理由として、経済的な自由が制限されることのほかに、社会的な居場所がなくなることへのおそれも挙げられるのかもしれない。無職では何者でもなくなってしまう。社会的に孤立してしまう。そんな不安もよぎる。けれども、やはり、社会は思っているよりもずっと広いのではないか、と僕は思う。 生活保護を受ければ、さまざまな欠乏から自由でいられる。これは行動経済学者のダニエル・カーネマンという人が言っていることなのだけれど、金銭的、時間的な欠乏は、人を近視眼的にする。働かなければ生きていけないという強迫観念を抱えながら生きていると、それだけで生活に負荷がかかり、広い視野を持つことができなくなり、自分がはまりこんでいる穴から抜け出せなくなる。それが負のスパイラルを引き起こして悪化の一途をたどる。 いわゆるアテンション・エコノミーの全面化した現代において人は暇というものを持つことが難しくなった。「暇」という語が死後になりつつある気さえする。時間が経済的に最適化された世界はカーネマンのいう「余裕 slack」というものをどこまでも縮小させてしまう。そんななか、生活保護によっては必要以上の金銭を得ることはできないが、そのかわり「暇」を得ることができる。 その「暇」こそが本当はもっと広いはずの「社会」を発見する一助になるのではないだろうか。たとえば、時間的なゆとりができた分、地域の子供食堂で働いてみたり、移民の子供たちに日本語を教えてみたりすることができる。ある意味では、格差を拡大させつづける搾取の構造の歯車になって、終わりのない金稼ぎのゲームにあくせくするよりも、こちらのほうがずっと「社会的」であると言えるかもしれない。 ただ、生活保護を受給することで経済的な自由が制限されることは、多くの人の望むところではないだろう。また、一度生活保護を受けてしまうと、そこからなかなか抜け出しにくくなることも問題である。僕は今年の夏に現在のフランスでの仕事に区切りがつき、さしあたりは日本で路上生活者をすることになったので、そのことについて、いろいろなことを考えたり試したいと思っている。この記事はその覚書ということになります。 物騒な革命、静かな革命 万国の労働者よ、団結せよ、という有名な煽り文句がある。マルクスの『共産党宣言』(1848)によって知られるようなった言葉だ。Wikipediaによれば、初出はフローラ・トリスタンという女性フェミニストの『労働者連合』(1843)だという。気になったので、英語版に目を通してみた。しかし、それらしき煽り文句は見つからなかった。そのかわりに、エピグラフには「Workers, unite-unity gives strength」とあった。「労働者よ、団結せよ。団結は力なり」とでも訳せるだろうか。しかし、引用元が記されていない。そこでさらに仏語原文にあたってみると、問題のエピグラフのところに次の記載があった。 Ouvriers, vous êtes faibles et malheureux, parce que vous êtes divisés. - Unissez-vous. - L’UNION fait la force. (Proverbe) 労働者よ。きみたちはか弱くふしあわせである。それはたがいに分け隔てられているためだ。団結せよ。団結は力なり。(ことわざ) ことわざ、とある。まぎらわしい書き方がされているけれど、ことわざであるのは「団結は力なり」の部分だけだろう。残りの部分は、著者がシャルル・フーリエのような先人から学んだ考え方であると思われる。団結が力になるという考え方自体は、ちょうど「分断して統治せよ divide et impera」という裏返しの考え方が古代ローマからあったように、はるか昔かあったはずだ。ただ、労働者(プロレタリアート)という団結の単位が生まれたのはさまざまな革命の起こった18世紀後半ということになるのだろう。 しかし、そんな労働者という言葉も、現代の日本ではさして使われなくなってしまった。もしいま仮にマルクスが「労働者の諸君!」と路上で呼びかけたとしても、きっとだれも足をとめて耳を傾けることはない。「そこの社畜!」とか「お前、ワーキングプアだろ」というような煽り文句のほうがまだ振りむく人が多いかもしれない。しかし、そこでさらに「団結しろ」と言われても困ってしまうだけであるのは目に見えている。いまから革命を起こすから、協力しろ? 陰謀論にでもかぶれているのか? ということになる。 現代では、人を扇動することが困難になった時代なのかもしれない。すくなくとも、目に見える形での革命、つまり「物騒な革命」を夢見ることは難しい。そういうものを真面目に信じているのは、カルトの信者くらいである。米国の福音派でも統一教会でもいいけれど、彼らはいつかどこかで世界が様変わりするところを夢想している。そして結果的にはそれが保守の思想につながるというねじれ現象も起きている。 日本にも55体制というものが現在進行形である。CIAのフロント組織である自民党の独裁体制である。何世紀にも渡る植民地主義の経験から帝国が学んだことは、武力による支配はかならず反発を招くというものだった。そして、現地の人間が団結をしてゼネストを起こすだけで、支配体制は崩壊する。1945年以降に日本を統治することになる米国もそのことが[よくわかっていた](https://www.javadc.org/java/docs/1942-09-14 Memo on Policy Towards Japan by Edwin O....
Christmas Eve By Eduardo H. Galeano
毎年、クリスマスが差し迫ると、エドゥアルド・ガレアーノというジャーナリストによって語られた短い話のことを思い出す。彼がフェルナンド・シルバというニカラグア人の医師から直接聞いた話であるようだ。それが「クリスマス・イブ」という題で文章化され、英語に訳されたものが『The book of embraces』(1991)という本に収められている。現在ではInternet Archiveで閲覧可能になっている(p.72)。とても短い話なので、ここに和訳しておく。 マンガグアという町にフェルナンド・シルバという男がいた。彼は町のこどもたちのための病院を営んでいた。 あるクリスマスイブの日のことだった。彼は夜遅くまで働き詰めていた。外から爆竹の鳴るのが聞こえ、花火の夜空を照らすのが見えたときになってようやく、彼は仕事の収めどきだと思った。家に帰ってお祝いをしなければならなかった。 万事が平常であるよう、彼は最後の巡回をした。そのときのことだった。 背後から足音がした。消えいるようにやわらかい足音だった。ふりかえると、病気のこどもがひとり、あとをつけてきた。ほのぐらい灯りのなかにくっきり浮かびあがったその顔には、死相が刻まれていた。もう死から逃れられない。ゆるしを請うような目をしていた フェルナンドが歩みよると、男の子は手をさしのべて、口をひらいた。 ——だれかに知らせほしい。 声は、ささやくように口走った。 ——ぼくはここにいるんだって。だれかに知らせてほしい。 クリスマスまで残すところわずかになった。けれども、今年だけはクリスマスがやってくる気がしない。やってきたとしても、それがもはやクリスマスだという気がしない。クリスマスというのは、暗闇や寒さのなかで人のぬくもりが際立つ日である、と思う。クリスマスには、小さく寄り集まる人のぬくもりを世界そのもののぬくもりのように錯覚させるような魔力がある、はずだった。世界が闇に包まれたとしても、求めればぬくもりは与えられる。どこかに必ずぬくもりはある、と思わせるような。 しかし、今年はただ、身も蓋もないほど暗く寒い。もはや人のぬくもりが人のぬくもりではない。たしかに、人がいまこうして悲痛な形で大量死をしていることは、それ自体としてはそれほど驚くべきことではないのかもしれない。普段は見えてこないだけで、本当はこの世界にありふれていることなのだ。けれども、それが重大な国際問題として世界中の目に晒される形となり、それでいてそれをだれも止めることができないのは、いったいなぜなのだろうか。
シェヘラザードのたくらみ⎯⎯中上健次のための千夜一夜物語考
千夜一夜物語という説話集がある。一般にはイスラム世界のものだと考えられているけれど、千夜一夜の物語が揃ったのは西洋でのことだった。というのも、東洋学者オリエンタリストのアントワーヌ・ガランがはじめてフランスに紹介する際に依拠した写本には、三百夜にも満たない数の物語しか収められていなかった。それが文字通りの千一夜にまで膨れあがったのは、植民地主義のまなざしのなかで物語が蒐集され、ときに創作された結果である。とはいえ「文字通りの千一夜」という言い方には、語弊がある。千夜一夜物語はいまでこそアラビア語で「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」として知られているけれど、もとはただの「アルフ・ライラ」、つまり「千の夜」に過ぎなかったからだ。そして、この「千の」は「多くの」という意味で使われていたのだった。「八重桜」の「八」のように。ところが、何かの悪い冗談だったのか、オリエンタリストたちの手に渡るころには千一夜の物語として知られるようになっており、そのいかにも厳密な言い方を真に受ける者がいたのだった。 千夜一夜物語は文字通りの意味でのお伽話である。お伽とは夜の相手となって無聊を慰めることである。話し相手にも性交の相手にもなる。古くは「物語」という語にもこのような二重の意味があった。千夜一夜物語はまさにそれ自体が一つの長い前戯でもあるような千一夜の寝物語ピロートークとして展開する。とはいえ、対等なかたちの交わりではない。つまり対話的ではない。というのも、性の遊戯のなかで積極性を発揮するのが男の方であるのだとしたら、女の方は物語において積極性を発揮するからだ。女の方は夜ごと男の耳の穴を犯すように物語を吹きこみつづける。 事の発端はこうだった。むかしむかし、シャフリヤールという王がいて、自身の后がひそかに数多の奴隷たちと淫蕩のかぎりを尽くしているところを目撃してしまう。王は怒り狂い、后の首を刎ねた。自身が王という権力者であってなお裏切られてしまう、ということに衝撃を受けたのだった。王は王として女を独占しなければならない。王は力によって支配できないものの存在が不安だった。そこで思いついたのが、国の処女を夜ごとに寝床に呼びつけ処女を奪った後に殺してしまう、という計画だった。殺してしまえば、その後不貞を働かれることもない。このように、王は王としての力を発揮することによって、自身の不安を取りのぞこうとした。そこで、王は三年にわたって──つまり約千一夜にわたって──処女に夜伽をさせ、そのたびに命を奪っていった。ところが、処女を集める使命を担っていた現場の大臣は、ある日もう王国に処女が残されていないことに気づく。残されていたのは、長女のシェヘラザードと次女のドニアザードだけだった。 悲嘆にくれた父にシェヘラザードが言う。自分が行く。自分には秘策があるので安心してほしいと。その策とは次のようなものだった。シェヘラザードは王の夜の相手をした後、最愛の妹であるドニアザードに言い残しておきたいことがあるという。妹には物語を一つ聞かせるという約束を前日にしていた。死の間際とはいえ、その約束だけは守らなければならない、と。王はそれを許した。そこでシェヘラザードが物語をはじめると、王は物語の虜になってしまう。ところが夜明けが近づき、佳境にさしかかったところで、シェヘラザードは口をつぐむ。そのタイミングで、明日続きをきかせてほしい、と妹がせがむ。こうして新たな口約束が結ばれ、物語の「おあずけ」が千夜にわたって続くことになり、そのあかつきには思いもよらない衝撃的な結末を迎えることになる。 物語は、千夜にわたって果てない。オルガスムに達しない、という意味において。こういってよければ、つねに前戯の延長線上にとどまり「本番」が始まることはない。王が主導する夜伽=性交においては、王の射精とそれに続く処刑という力の行使によって幕が引かれる。しかし、シェヘラザードの夜伽=物語は、性の遊戯を生への遊戯へと転嫁させるための千のクライマックスがある。『千のプラトー』に引かれたグレゴリー・ベイトソンの言葉をかりれば「一種の連続した強度のプラトーがオルガスムにとって代わっている」。ドゥルーズ=ガタリは続けて言う。「一冊の本は章から構成されるかぎり、それなりの頂点、それなりの終着点をそなえている。逆に、もろもろのプラトーからなる本、脳におけるように、いくつもの微細な亀裂によってたがいに通じ合うプラトーからなる本の場合は、どのようなことが起こるであろうか? 一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ」。 このような物語のあり方は、千夜一夜物語においては枠物語の仕組みによって実現されている。千夜一夜物語は、千夜一夜にわたる長い一つの物語なのではない。シェヘラザードがそうであるように、物語の中の登場人物もまた語り手に転じることによって、物語は多次元的に深まってゆく。そしてこの仕組みこそが王を物語の深みへとはめこむシェヘラザードの企みなのだった。西尾哲夫によれば、アラブ世界には女性の弄する悪知恵を意味するカイドという言葉があるらしい。日本語で用いられる「奸よこしま」の漢字にも「女」が含まれているけれど、イメージとしてはそれに近いかもしれない。力のない者の発揮する奸計。 シェヘラザードは力によらず、言葉のたくらみによって自身の命を救い、千人の処女の命を救った。物語は三年に及ぶ処女殺しという一本の歴史の線を打ち消すように深まってゆく。シェヘラザードはふしぎな生き延び方をした。フランス語では「生き延びること」を「survie」という。サバイバルである。しかし、この語は同時に「死後の生」や「魂の不死」をも意味する。もし仮にシェヘラザードが彼女自身の物語のなか、つまり彼女自身が主人公として登場する第一夜の物語にとどまっていたのなら、彼女は殺されていただろう。それが彼女の運命さだめだった。時間がまっすぐに流れる先には、必ず死が待ち受けている。どれほど力がある者でも、死を避けることはできない。一人のひとの運命はつねに一つである。けれども、また、人の数だけあるのが運命である。そしてシェヘラザードは別の運命=物語を語ることで、自身に待ちうける死を逃れた。このとき、シェヘラザードは単に残された生の猶予を延長したという点、変えられない運命を引きのばしたという点で生き延びたのではない。同時に、別の運命を開示してみせること、千一夜にわたって明けない夜に幽閉された自身の物語ではなく、その彼方にある昼の物語を開示してみせること、自身もまた千にあるうちの物語の登場人物の一人にすぎないことを示すことで死後の生を得た。これは同時に、一つの物語の登場人物として死を運命づけられていても、それでいてなお未知の物語の語り手にもなりえることの開示でもある。物語は生き延びるため、圧倒的な死の力に抵抗するためにある。
固有名と親族呼称についての覚書
ソール・クリプキが2022年9月15日に亡くなった。『名指しと必然性』(1972) の著者である。クリプキのことは柄谷行人の著作を通して知った。日本ではおそらく1980年代ごろ、特に柄谷が『探求』(1986)を発表したころから、固有名をめぐるクリプキの議論が注目を集めるようになった。 この固有名という概念は、固有名詞 proper nounという言い方とは微妙に違うことからも示唆されるように、文法的なものでない。個別の言語の文脈から切り離された哲学的概念だった。ここではそんな固有名をめぐる問題を言語学的な観点から掘りさげたい。具体的には、日本語の親族呼称システムにおいて、固有名がどのような位置づけを持ち、そこにどのような意義があるのかを考察する。ここでいう固有名とはいわゆる名前のことである。英語でいえばnameだ。フランス語では、name(名)にもnoun(名詞)にもなるnomという語が用いられる。それゆえにnom propre (proper noun) と明示しなければならない。その日本語訳が「固有名」とも「固有名詞」ともなるのだけれど、ここでは前者の訳語を名前(name)の意味で用いることにする。 日本語にはさまざまな親族呼称がある。親族呼称とは「お父さん」や「お母さん」、「お兄さん」や「お姉さん」といった呼び名のことだ。日本語には人称代名詞(英語でいうIやYou)の概念がないため、親族間の会話においては、しばしば自称(一人称)や対称(二人称)、他称(三人称)のために用いられる。例を挙げておこう。 1.お父さんは悲しいよ。 I am sad.(自称) 2.お父さんは悲しいの? Are you sad?(対称) 3.お父さんは悲しがっている。He is sad.(他称) これらの「お父さん」はすべて呼称である。ただひとりの人を名指ざす呼び名、いかなる形でも定義できない名として、独異性を持っていると言える。ただし「太郎」のような固有名とはすこし違う。というのも、親族呼称はなにより関係性をあらわす語であり、さらには一般名詞としての意味作用も持つからだ。たとえば「全国のお父さんが悲しがっている」というような文においては「お父さん」は父親一般を意味しており、「母親」や「子供」のような概念との対立関係のなかに置かれている。さらに、具体的な親族コミュニケーションの場においては、上述の例文のように、ただひとりの「お父さん」という呼び名で名指される者としてその妻子との対比のなかにある。このように他の語との相関性を持つ親族呼称は、固有名とは区別されなければならない。というのも、固有名は基本的にいかなる語とも対立関係を持たないからだ(たとえば「ポチ」という固有名の対義語を考えても無益である)。このように完全な固有名であるとは言えないものの、親族呼称は「名」としての独異性と「名詞」としての一般性を同時に兼ね備えている。では、この二重性は何に由来しているのだろうか。この問いに答えるためには、日本語の親族呼称システムの働きを見てみなければならない。 日本語の親族呼称は一つの非対称性を生みだすような原則のもとで用いられている。その原則とは、序列が上の者の呼び名としては親族呼称を使い、序列が下の者の呼び名としては固有名を使うというものだ。この序列は基本的に世代や年齢の違いよって決まる。一例として次のような家族構成を考えてみたい。 [母]ユミコ [長女]ミカ [次女]ユキ 仮にこのうちの長女が私であるとして、原則的な話をしよう。私は母を「お母さん」などと呼ぶ一方で、母は私を「ミカ」と呼ぶ。その反対に私が母を「ユミコ」と名指すことはない。また、私は次女を「ユキ」と呼ぶ一方で、次女は私を「お姉ちゃん」などと呼ぶ。私が次女を「妹ちゃん」のように呼ぶことはない。つまり、序列が下の者は固有名で名指される一方で、序列が上の者は匿名者の立場にとどまる。非対称性を生みだすこのような規則によって親族コミュニケーション・システムという名の秩序が成りたっている。こういった規則がない場合、たとえば親族のあらゆる成員が固有名のみで名指しあった場合、言語使用のレベルにおいて親族の序列は失われる。親族呼称の使用規則は一つの秩序の創出のために不可欠なものなのだ。 ここで素朴な疑問が湧く。なぜ、いったい何のために、親族コミュニケーションの秩序は親族呼称と固有名の非対称性に支えられているのだろう。たとえばなぜ母は長女である私を「ミカ」と呼ぶかわりに「娘ちゃん」と呼ぶことができないのか。なぜ私は次女を「ユキ」と呼ぶかわりに「妹ちゃん」と呼ぶことができないのか。このような問いには無数の答えが考えられる。社会言語学的には、もっともらしい答えの一つとして次のようなことも言える。父と母が基本的にはそれぞれ一人きりであるのに対して子供は複数人になる可能性があり、その場合は固有名が各人を区別するのに有用である、というものだ。しかし、家族の状況が変われば、言語使用の形も変わる。たとえば、父や母が複数人になるような家族、たとえばホモセクシュアルの両親が子供を持つような家族の場合、「パパ」や「ママ」のような語が両親の識別の役に立たなくなってしまい、子供が両親を固有名で名指すこともあるかもしれない。このように様々な想定ができるけれども、ここではいずれにしても、固有名というものについての関心のなかで、もうすこし別の角度から日本語の親族コミュニケーションにおける非対称性の意義を考えたい。 そこでまず、親子の言語コミュニケーションの発生の典型的な現場を想定してみよう。幼児は六ヶ月ごろから人にむけて喃語を話しはじめるようになり、一歳ごろから「パパ」や「ママ」らしき言葉を発しはじめる。パパは子音に「p」を含み、ママは「m」を含んでいる。音声学的には両唇破裂音と呼ばれるこれらの子音は、幼児がはじめに発声することのできる単純な音である。幼児は父や母を意味しようとして「pa」や「ma」の音を出しはじめるわけではない。しかし、それらの音を両親は「父」や「母」としていわば身勝手に受けとる。その仮定で「パパ」や「ママ」という親族呼称ができあがり、それらが父と母とを識別する。その一方で、父母は幼児のことをたとえば「ミカ」と呼ぶ。このとき「パパ / ミカ」や「ママ / ミカ」といった対立軸ができる。これらはすべて呼び名であり、幼児にとってはいかなる一般性も持たない。 ところが、幼児はやがて世界には複数のパパとママがいることを知る。パパやママが単なる呼び名だと信じていた幼児にとっては、他人の両親はパパでもママでもない。にもかかわらず、パパやママと呼ばれているのを目の当たりにする。そのとき、パパやママという語が一般名詞でもあること、自身の両親はなにより「ミカのパパ」や「ミカのママ」であることに気づく。その一方で「ミカ」は「ミカ」のままである。こうした一般性への気づきを契機として、親族呼称であるパパ・ママと固有名であるミカとのあいだに非対称性が生じる。この非対称性は、成長した幼児が自身のことを「私」という一般性を伴った語で指示できるようになり、さらに「お父さん」や「お母さん」のような語を使うようになってからも維持されたままでいる。両親は子を「ミカ」という固有名で呼びつづける一方で、子が両親をその名で呼ぶことはない。このような規則によって親子の序列が支えられる。 固有名は子にとって所与=偶然のものである。他者によって与えられたものであり、自身が自身に与えたものではない。名にはいかなる必然性もない。「ミカ」ではない別の名前でもよかったはずだ。その一方で、親子関係は言語のレベルで必然を装う。気づいたときには、mamaのような音が、母親を意味するママという語にすり替えられることで、所与=必然のものとしてある。しかし、実際のところ「ママ」は肩書にすぎない。母親は匿名者でいる。やがて子が「ミカ」に代わって「私」と自称することを覚えても、母親はあくまで「ママ」や「お母さん」という語で自称をつづける。このような非対称性の維持のなか、必然性の装いのなかで、母親はひとつの不自由を強いられることになる。それは、自身の匿名性ゆえに、子の前では母親以外の何者でもあることはできないというものだ。それとは対照的に、自身に与えられた固有名がいかなる関係も含意しないことによって、名が偶然の産物であることによって、子は親族関係から半ば自由でいられる。それでもその自由が限定的であるのは、親族呼称システムにおいて固有名はつねに序列が上の者の親族呼称との対立関係のなかでのみその場所を持つからだ。こうして固有名は、二重の意味での独異性を持つ。第一に自身の親にとってはただひときりの「ミカ」を名指すための呼び名であること。第二に「ミカ」はほかの語といかなる関連性も持たずに存在できるということ。この二重性は、親族呼称が呼び名であるとともに一般性や匿名性を兼ね備えていることによって裏付けられている。というのもそのような一般性や匿名性との対比のなかでのみ、そして「ミカ」が「ミカ」であることの偶有性のなかでのみ、固有名の「ミカ」は独異であることができるからだ。一般性や偶有性のない世界には独異性もない。 日本語の親族呼称システムは、序列が上の者の名を隠して肩書のみを名乗るという規則によって、操作的に閉じられた秩序を作る。それと同時に、序列が下の者に名を与えるということによって、外部に開かれる(たとえば、ホームステイにきた留学生をその名で呼ぶことができる。それに対して、学生は親族呼称で応じることができる)。このような二重性は、父母が二通りの仕方でたがいを呼びあえるという事実のなかに結実している。父母はたがいの固有名で呼びあうことができる一方で「お父さん」や「お母さん」とも呼びあうことができる。親族コミュニケーションの秩序は父母が子の前で自身の固有名を伏せることによって強化されるが、その一方で当人は自身が父母以外の者でありえることも知っている。それと同様に、子の「ミカ」は家族の一員であると同時にその外の者であることも知っている。 以上のことは次のようにまとめられる。固有名は、日本語の親族間コミュケーションという具体的な言語使用の場においては、子にその名の与えられた瞬間から一つの力学のなかに置かれ、父母のような一般性を持った匿名者の存在によって裏打ちされる。固有名は親子関係の装われた必然性との対比のなかで自身の偶有性を見出す。このような力学において、独異性は一つの文法的な効果としてあらわれる。言語使用のダイナミズムを捨象することでのみ論じられることもあれば、そうではないこともある。